日本語を覚えたら、絵が違って見えてきたという外国人がいたという話を、どこかで読みました。
どう違って見えたかはそこには載っていませんでしたが、前後の話の具合では、好い意味の違いであったと推察できます。
見えてなかったところが見えてきたのでしょう。
静けさの描かれた絵の奥にある日本人の心の静けさ、たくましさの表された絵の底にある魂のたくましさ、そういうものを見てとれるようになったということなのでしょう。
方言から土地柄が感じ取れることとも、合い通じるものがあると思います。
外国人が、日本語を聞いたとき、それが何やらうろうろしたはっきりしないものであったり、むやみに言い縮めたせっかちなものであったり、やたらに騒がしいだけのものであったりすれば、日本人の心は彷徨癖の出やすい短気なものかと感じ取られるでしょう。
普段いい加減なもの言いをしておいて、外国人だけに上等な言葉を聞かせるような器用なまねは、だれにもできることではありません。
議会や役所の言葉も、町や村の言葉も、みな日本語として聞かれるのです。
N町の大きな建物の中で張り上げる声が、しどろもどろなものや、読み上げ調でしかなければ、それが日本人なのだと、いまの時代には即刻世界中に伝わります。
国の代表ならば、代表にふさわしい事と言葉が、そこになければなりません。
いつ誰が聞いても日本語が敬意を持って聞かれるように、先生方にもお気づかいをお願いしたいものです。