・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

わかるかどうかが先ではない

2013年04月30日 | つぶやきの壺焼

Y知恵袋にときどきこういう質問が出されます。
「○○という言葉は、小学校低学年の子に理解させることができますか」
やってみればわかることに、なぜ結果を先に聞きたがるのでしょうか。
人間のすることには、正しいか間違いか、あるいは成功か失敗か、判定できることしかないと思っているのでしょうか。

子供に言ったことが理解されなければ、そこで教えようとしたのが間違っていた、あるいは失敗だったと思ってしまうのかもしれません。
間違っていた、失敗したと思うと、それが続くのを嫌がって、子供にわかりそうなことしか教えようとしなくなり、子供と話すのがだんだんおっくうになります。

なんでも間違わない、失敗しない、立派な母親でいたい、そうでなければ子供に恥ずかしいと、子供相手にまで見栄を張っていたいのでしょうか。

赤ちゃんのときに話しかけてやらないと、言葉をしっかり覚えません。
話を聞き取れない、普通に喋れない、それは、わかるかどうかばかりを気にしていたお母さんの責任です。

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総合とはかき集めではなかった

2013年04月29日 | つぶやきの壺焼

熊手も飾りの度が過ぎると熊手の態をなさなくなります。
お酉さまの熊手は、その機能が、散らばったものを集めることから、縁起物という実質的役割を放棄して意味だけが残っているものに、見事に転換しています。


総合経営という名のもとに、あれもこれもと始めた企業が、たねをかき集めるだけで、植え付けも育成も人任せにしたおかげで、収穫を得られなくなった例が目立ってきました。
P社も、S社もと挙げていくと、ラテンアルファベットの数だけ出てくるかもしれません。

言葉も性格も違う人たちが、生活環境が変わっても、ずっと同じように仕事を続けてくれるものと思い込んでいた間違いもあるでしょう。

しかし、半農半漁などという器用なことを、誰もが何でもできる、できるようであって欲しいという見当違いの願望が、失敗のもとであったかもしれません。

飾り熊手を仕立ててはみたが、肝心の縁起がついて来ず、そのときにはかき集めの機能もなくなっているので、残ったのは見栄えだけということなのでしょう。

見栄えの利くのは、最初の年だけでしかなかったようです。

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回転窮業

2013年04月28日 | つぶやきの壺焼

震災に遭った農地に加工工場を建設しようという復興案を農水省に申請したら、工場は経済産業省の管轄だからと受理されずに持ち帰され、頓挫してしまったという話を聞きました。
高台に復興事業を考えれば、そこは持ち主不明の山林で、土地取得の方法も見つからないという話もあります。
せいぜい100日ぐらいで何とかなりそうないろいろなことが、700日を超えてなお放置されるのは、回転式行政方式のおかげのようです。
たらい回しでうまくいっているのは、たらいの親戚である洗濯機だけでしょう。


行政のたらい回しは、なぜ起きやすいのか、それは組織の縦割りせいだという答が簡単に出てきます。

何か困った問題に、簡単に出る答には共通の性格があります。
それは「答を出す人が、自身は何もしないですむこと」です。
これこそたらい回しの本質なので、「たらい回しは、組織の縦割りのせい」という答に、もうたらい回しが始まっています。

たらい回しは、そうしたがる動物の習性ですから、それが悪いと言ってみても、なくすことはできません。
たらい回すをやめてもらうには、回っているたらいを抑えて止めるしかないのです。
「ではどうやって」「それだけ言うなら簡単」という声が聞こえてくれば、それもたらいの回転音で、そこでもたらいが回り始めているのです。 

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漢字を知りたがる理由

2013年04月27日 | つぶやきの壺焼

Y知恵袋に、どんな言葉もむやみに漢字にしたがる質問が目立ちます。
かな書きしかない言葉でも、漢字ではどう書くのかと尋ねています。
外国人向けの日本語学校でそんな宿題を出すのだろうか、おかしなことをするものだと、はじめは思っていました。
しかし、それは見当違いだったことに、ようやく気づきました。

カンケンがそうさせていたのです。
漢検:漢字検定:日本漢字能力検定です。
小学校1年生修了程度の10級から、「大学・一般程度」と称する1級まで、10段階かと思うとそうではなく、あたまに「準」のつく級もあって、階段が小刻みになっています。
足腰の弱い人でも少しずつ登っていけるように、1段ごとの高さを極力縮めてあるのだと、聞かなくても説明は想像できます。
階段を少しずつ登れば、歩数は増えます。
検定の階段を登る歩数とは、つまり受験回数です。
受験回数が増えれば、検定実施者には受験料収入が増えるという、説明には使われない事情もすぐわかります。

それはさておき、漢字にしたがる理由が漢検にあったというのはこういうことです。
出題傾向を伝えるサイトの1級のところに、こう書かれていました。
「一般的には用いない難解な漢字や読みが多く出題される。
・国字をを理解していること(怺える、毟る など)
・複数の漢字表記について理解していること(鹽―塩、颱風―台風 など)」

これでは一生使わない漢字でも覚えないわけにいきません。
そんな検定なら、受けなくてもよいではないかと、生活の常識はささやきます。
しかし、多数の人の能力判定を、瞬く間に効率よくやってしまうには、級という数字のついた検定証がいちばん便利なのです。
人事界の常識は、私たちの日常生活常識とは背中合わせなのでした。

ところで、漢字検定はこんなものだとわかりましたが、文法検定というのはあるのでしょうか。

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日本語の役割

2013年04月26日 | つぶやきの壺焼

日本でも英語を公用語にしたらどうかなどと、ばかなことをまじめぶって提言する人もいるが、日本語の役割をあらためて考えてみた。

日常生活のこととまぜこぜにしたのでは、話がはじまらないことを、ここで断っておく必要はまさかないだろう。

英語には英検というのがあるが、日本語にはそういう検定はあるのだろうかという疑問がことの起こりなのだが、それが二つもすぐに見つかった。
日本語能力試験と、日本語教育語能力検定試験である。

日本語能力試験は、日本語を母語としない人を対象に日本語能力を認定する検定試験である。
外国人に仕事をしてもらう場合に、日本語をどの程度使えるかは、3分も面接すればわかるのにと思うのだが、選定には検定という裏づけの欲しい人に、この検定試験は大いに役立つのだろう。

もう一つの日本語教育語能力検定試験は、「日本語教員となるために学習している者、日本語教員として教育に携わっている者を対象として、日本語教育の実践につながる体系的な知識が基礎的な水準に達しているかどうか、状況に応じてそれらの知識を関連づけ多様な現場に対応する能力が基礎的な水準に達しているかどうかを検定することを目的とする」試験とされている。

この「日本語教育の実践につながる体系的な知識」が、日本語にとっていちばんだいじなところなのだ。
実践につながることと、体系的であること、これを条件に立てれば、必要な知識はきわめて広範囲に広げられる。
それぞれに10とおりや20とおりのことがらはすぐに用意できるから、それだけで二つの条件を組み合わせれば100から400の必要な知識を並べることができる。
検定試験に必要な問題群は、ごくわずかな設備投資で大量生産可能である。

日本語という言語形式は、決して粗末に扱ってはならないだいじなものなのである。

ここに来て妙なことに気づかされた。
普段読んで書いて話すときは、日本語という呼び方も形式も、何も必要なかったのだ。
おやおや。

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コーヒーにもおふくろの味

2013年04月25日 | つぶやきの壺焼

知人宅で、奥様ご自慢の“HAITIAN BLUE BLEND”という名のコーヒのご馳走に預かった。
ストレートは苦味が強いので、ブレンドになさったというお話。

カナ書きの名はハイシャンブルーだそうだが、日本語のローマ字読みにしてハイチャンブルーのほうが可愛い名前になるではないかとも思った。
しかし、味との釣り合いを考えると、それでは名前が軽くなってしまいそうである。

ブルーマウンテンの母ともいわれるそうだが、子供より若い母親がいないこともないから、どちらだどうなのかはわからない。

ハイチのコーヒーはほとんどヨーロッパ向けで、日本には直接入ってこないという説もありながら、袋には日本語の能書きが印刷されている。

コーヒーは味わいも深いが謎も深い、不思議な飲み物である。

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論理的発散を楽しむ

2013年04月24日 | つぶやきの壺焼

論理というと、どこか難しく聞こえます。
「論理 とは - コトバンク」というサイトの書き出しには、こう書いてあります。

1 考えや議論などを進めていく筋道。
  思考や論証の組み立て。
  思考の妥当性が保証される法則や形式。
2 事物の間にある法則的な連関。

すうっと読めば、だいたいうなずけるのですが、いちばんはじめの説明には、引っかかるところがあって、興味が出てきました。
こういうことは、なぜか引っかかるものがないと、素通りになって興味も何も湧いてこないものです。

「考えや議論などを進めていく筋道」のどこに引っ掛かりができたかといいますと、「進めていく」というところなのです。
考えや議論には、進めていかずに、止まってみたり、後戻りしたりすることがあります。
人が集まったときなど、誰かが出した話題の扱いには、むしろそのほうが多いようにも思います。

わき道にそれて、また枝道に入り込んで、はじめの話がいつのまにかどこかに消えてしまうこともしばしばあります。
都合の悪い話や苦手な話を、わき道枝道に誘い込んで、むにゃむにゃにしてしまう手を使う人もいます。
一度あきらめたふりをしておいて、しばらく経つとまたそれを持ち出してがんばることも、外交上の問題では常套手段になっています。

議論がこうして進まない場合のはどういうことなのか。
答は簡単でした。
「考えや議論などを進めていく筋道」が論理であるならば、「筋道に沿って進めないのは論理ではない」としてしまえばよかったのです。

「発散的あるいは消滅的な論理らしいものは、もはや論理とは別のものである」
こうしておけば、「もっと論理的に話をしませんか」などと持ちかけることもできそうです。
しかし「なんだおまえは論理的発散を楽しんでいるだけではないか」と逆襲にあうかもしれません。

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ラッパの吹きかた

2013年04月23日 | つぶやきの壺焼

尖閣のいざこざは、その地底に何がありそうかを喧伝しすぎたのがもとではないかと思う。
1968年に ECAFE が行った海底調査の報告は「東シナ海海底の地質構造と海水に見られるある種の特徴に就いて」という意味ありげな標題のものだった。

そこで吹いたラッパの集団に、日本がどうかかわっていたか、その後どういう吹き方をしたのか、吹くのではなく聞いていただけなのか、聞いたあとどうしたのか、そんなことは、知るすべも持たず、探る気もないが、それから半世紀近くも実効のある手を打たなかったツケがだんだん嵩んできているのだろう。


ラッパを聞いたあとのこともだいじだが、吹く側に回ったときの吹き方は、その前にもっとだいじだった。

ラッパは、相手に聴かせるように、力を込めて、心を込めて吹かなければならない。
天に向かって吹いても、音はどこかに飛んでいってしまうだけなのだ。

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路面電車ふたたび

2013年04月22日 | つぶやきの壺焼

都電荒川線にも、いまはない横浜や甲府の市電にも、路面電車にはいろいろ思い出がある。
乗った時間の割合からすれば、ごくわずかなのに、どういうわけか思い出の刻まれ方は路面電車のほうがはっきりしている。
ただの移動手段としてではなく、移動の目的に何かがあった、そちらの記憶のほうに濃いものがあるからだろうか。


大阪でも天王寺~難波間にLRTが計画されているという。
LRTは、Light Rail Tram の略だろうか。
軽便路面電車、むかしあった軽便鉄道の現代型である。
「次世代型」と呼びたい人もいるらしいが、外観が今様になっただけで、さほど変わりはないだろう。

自動車だけを走らせておくと、むやみに速く走りたがって危ないので、ときには多少の邪魔ものに出会って、注意力を集中しなければならないような仕掛けには役立つと思う。
もう一つ、目的地に向かって、ナビの案内どおりに、ただ街を通り過ぎるのではなく、街のたたずまいとともに時を過ごす余裕を取り戻したいという、願望の所産のような気がするのである。

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安もの知恵

2013年04月21日 | つぶやきの壺焼

味が同じなら、日常の食べ物は安いほうがよいが、ちょっとレジに持って行きにくいものも、なかにはある。

知恵だけは、安もので間に合わせるとろくなことにならない。
宇宙に人を飛ばし、地球の裏側に届くようなタマを打ち上げたりそれを打ち落としたりすることには、最高級の知恵が使われても、働く人間、住む人間の命を護る知恵には、いまだに安ものが使われている。

肥料工場で大勢の死者の出るような、大爆発がときどき起きる。
福島の惨状を招いたのも、肝心なところに安もの知恵しか使われてなかったからである。


「卒論を書こうと思うので、書き方を教えてほしい」と知恵袋に質問した学生がいる。
卒論を書くのも無料無努力、肩書きを買うだけだから安ものでよいという、浅ましい根性がそうさせる。
大学もコストパフォーマンスにしか目が行かないから、安ものであれ、それらしいものが提出されれば、卒業証書という紙片を引き換えに渡す。

世に放り出された安もの知恵の持ち主が、安もの知恵しかもたない管理者がうようよしている会社で、周りの顔色を伺うことしか考えず、どう見られるかしか気にしない毎日を送っていれば、そこでどんなものが作られていくかは予想に難くない。

こうして、地球はずるずると安もの知恵の産物で埋まっていく。
サミットも、検索で先に出てくるのはスーパーの名前になり、G8という暗号めいた略称ですまされるようになった。
持ち出されるのは安もの知恵のみとなり、儀礼会合に堕してしまっては、地球の価値を支える知恵の値下がりをどう防ぐかということなど、当分話題にのぼりそうにもない。

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引き立て役は立て方が難しい

2013年04月19日 | つぶやきの壺焼

引き立て役を立てたつもりが、互いにがんばり過ぎてどちらも引き立たないこともある。
香りや味の場合にそれが多い。
五目なんとかというメニューで、これは美味いというのに出会ったことがない。

写真の場合、引き立て役にピントを合わせて、その場の主役をあえてアウトフォーカスで見せるすごい技術にお目にかかった。
こういう写真は、撮影者の意図など想像したり聞いたりするのは野暮な話だから、あれこれ言うものではないが、とにかくこれを見て、さすがと思った。
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yamato_onoko/53044246

どこが、などと言い出せば、その方はたちまち引き立て役になること請け合いである。

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引き立て役は撮り方が難しい

2013年04月18日 | つぶやきの壺焼

主役級と引き立て役のベテラン俳優が相次いで亡くなった。
顔はすぐ覚えられても、没後に名前を知られる人が引き立て役に多い。
名前を知られ過ぎると、引き立て役でなくなってしまうから。

CMにも2B+1Bというのがある。
美人2人にブス1人、それが一緒に出てきてパッと消える。
みな同じに見える3Bより、効果があると見てのことなのだろう。

しかし、CMの場合は、演技でカバーできないから、カメラが難しい。
下手に作れば、すぐに寿命が尽きる。

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メモのとり方

2013年04月17日 | つぶやきの壺焼

メモ用の筆記具は何がよいか、と昨日は書き出して、鉛筆のことで終わりましたが、筆記具とは書く側の道具だけを指していうのでしょうか。

筆記とは手で書くことですから、その道具ならば、書かれる側の道具も仲間に入れてやらなければ片手落ちになります。

メモを書かれる紙には、一枚ものと綴じたものの、二つの型があります。
ここでは、手のひらメモや消しゴムメモなど少数派はのぞいて、「紙」に話を限っておきます。

一枚ものは、整理がすめば「ミックスペーパー」という部類に入って再生対象品になります。
綴じたものは、整理がすんで消去線を字の上に引かれても、空きページがなくなるまで当分は手元に残ります。

書いた中身の活用率を見ると、一枚もののほうが余分なことを書いていません。
綴じたものには、時間が経てばどうでもよくなることが半分以上書かれています。
綴じたものは、空いている面積、まだ書けるところが多いからでしょうか。
多分、一枚ものには、書かなければならないことだけを書くというつもりになっているからでしょう。

「だいじなメモは一枚の紙に」
これが何十年もかかって気づいた自分流の一行でした。

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芯の強さはやはり鉛筆

2013年04月16日 | つぶやきの壺焼

 

メモ用の筆記具は何がよいか、いろいろ試していて、やはり芯が丈夫な鉛筆に行き着きました。

鉛筆の芯は、黒のみで硬軟22種類もあって、用途に合ったものを選べるように、いつの間にかなっていました。

10H・9H・8H・7H・6H・5H・4H・3H・2H・H・F・
HB・B・2B・3B・4B・5B・6B・7B・8B・9B・10B

鉛筆は周りの木の部分が必ず削りかすになりますから、どこかむだに思えますが、そうでもなさそうです。

まるごと芯という鉛筆もあります。
一見よさそうですが、減ってくると鉛筆全体の太さまでまるくなってちょっと細かいしるしをつけようという場合には削らなければなりません。

いま試しているのは 9B と 6B で、これにも選んだ理由があります。
柔らかいほうの 9B は、そのとき店に 10B がなかったからで、次が 8B では近すぎて違いがわからないだろう、次回は 3B ぐらいでと思ったので、選んだのが 6B というわけです。

これを使うと、白い紙でなくても、色が薄かったり細かい字であったりすれば、紙を選ばずにメモ用紙になります。

9B と 6B は、続いて書き比べれば違いがわかりますが、別々に試したのではほとんど差がありません。
なぜ違わないかというと、走り書きのメモには、あとから自分でも読めないのがあって、それなら少々の濃い薄いは関係がないからです。

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無宣伝風の巧宣伝

2013年04月15日 | つぶやきの壺焼

ケンジーズドーナツ(Canezees Doughnut) という名を、あるお方の Facebook で知りました。
http://www.canezees-doughnut.com/

ドーナツを作って、店があって、食べたり買ったりしてくれる人がいれば、謂われも由来も腕自慢も、宣伝の必要なしとする、何も書かないホームページが気に入りました。


「何も足さない、何も引かない」

開高健の、あの名コピーは、ときどき頭をかすめます。

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