「きれいどころ」という言葉がありますが、そのことではなく「きれるところ」の話です。
俳句には「きれ」がなければならないといわれます。
「はなし替わって」とか「ところで」といった軽い飛躍をみせるところでしょうか。
「きれじ」という変な名がついた定形文字群もあるようです。
「きれじ」は、もちろんきれなければならないところに入れます。
きれを感じさせてはならないところに入れたのでは、句がはちゃめちゃになってしまいます。
日常の言葉でも、きれどころがずれるとおかしく聞こえます。
「おはようございます」はだいたい続けて言いますが、気持は「おはよう/ございます」でしょう。
前半分の「おはよう」だけでもあいさつになります。
これを「おは/ようございます」とは言わないでしょう。
「おは」の何がよいのかと返したくなります。
もっとも、無精な人が「おは」だけで済ませる場合もありますから、そこで切っても切れないというわけではありませんが。
「分け隔てなく」という言葉があります。
これも7音を続けて言うことばですが、分けることも隔てることもせずに、ということですから、気持は「分け隔て/なく」でしょう。
これを、「分け/隔てなく」と分けと隔ての間の切れ目に力を入れて言う人がいました。
それがラジオのアナウンサーなのです。
同じ人の放送にこういうのもありました。
「残暑お見舞い/申し上げます」と変なところに切れ目が入ります。
文語忌避の習慣で、「残暑(のみぎり、近況)お見舞い申し上げます」の短縮形を想像する感覚が飛んでなくなってしまったのでしょうか。
あるいは「○○見舞い」という贈る形へのこだわりの強さの顕れなのでしょうか。
スマップのお兄さんも、これを真似したのか、同じような言い方をしていて耳に障ります。
異常気象は、言葉の切れ目にも影響が及んでいるのでしょうか。
もう3週間の残暑/お見舞い申し上げます。