自国が戦った戦争を侵略戦争であったと言う、これはもう狂言ではないでしょうか。
狂言は、狂った言葉ではないと、そんな説明は今更余計なことですが、滑稽なものまねであった猿楽が洗練されて狂言ができたとすれば、過去の戦いを自ら侵略戦争と呼ぶのは、狂言を通り越した物言いでもあります。
通り越したというのは、狂言以前でもないという意味です。
そんなことをした例は、歴史では知ることができないからです。
ものまねとも違う、猿楽とも言えない、どうやら世界に一つしかなさそうです。
15世紀末から始まったヨーロッパ人の海外侵略を、すぐれた行為としてものまねを試みてはみたものの、原住民を追いたててそこに住みつく横暴を、日本人の心根がそれを許さず、植民地主義に浸ることはできませんでした。
まねてみようとしたことが、そうなりきれず、ものまねに失敗した照れ隠しに、「それなら侵略戦争だったことにしておけば。しかし、まるきり嘘では具合も悪かろう、名前も変えておけよ」という有り難くもいい加減な誘い言葉に乗って、「あれは太平洋戦争という名の侵略戦争だった」とあられもないことを言いつのり、挙句の果てにそのことを学校の教科書にまで載せてしまったのです。
照れ隠しの所作も、続けて演じているとだんだんその気になってきます。
狂言であれ何であれ、演ずることには、一方で覚めた目と、芯のこころはゆずらないしたたかさがなければなりません。
演技をほめそやすのは、演技としてでなければ、見るほうがとち狂います。
おとぎ話は文学です。
それを歴史の本に載せてはなりません。