・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

細さで勝負

2013年01月31日 | つぶやきの壺焼

ミクロの世界という言葉は、もう古めかしくなった。
新しい技術は細さに向かっている。
太さとは言い難い、細さには、幅を利かすという言葉も当てはまらなくなったが、ナンといえばよいのだろうか。

これから当分はナノの時代、今後10年間で最も急成長を遂げるのは、ナノファイバーを用いた材料の市場で、成長率は30%を超えると予想されている。

ナノファイバーの、細くて強いその特性、機械的強度、反応性、電気的および光学的品質、層の透過性を利用して、エネルギー変換・貯蔵、液体・気体のろ過、食品包装、健康、環境保全などいろいろな使い道がある。

直径数十~数百ナノメートルの繊維と言っても、目に見えないような細さだから、人間が直感ではつかみきれない。
1グラムほどのナノファイバーをのばすと、地球の赤道を一回りするほどの長さになるという気の遠くなるような細さだと言われても、とにかく細いぐらいの見当しかつかない。

東レが、世界で最も細い直径150nm のナノファイバを開発したと2013年1月29日に発表した。
nm と書いたのでは mm と見間違いそう、ナノメートル、細い細いミクロンμm のまた1000分の1、10億分の1メートルである。
これまで最も細かったのは直径300nm といわれるから、半分の細さになった。
こういうところに出された数字は、話半分ではないだろう。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20130129/262953/


街頭の奇景

2013年01月30日 | つぶやきの壺焼

中国では、いま有害物質を含んだ濃霧が日本の国土の3倍以上に当たる約130万平方キロを包み込んでいるそうである。
半世紀前の、青空は正月の三が日だけだった東京の街を思い出し、ぞっとする。
北京の病院は、大気汚染を原因とする患者に関する取材を、上部機関からの指示によって拒否しているという。

それでも、街には太極拳を日課にしている人が、汚染を恐れずに現れる。
呼吸によって、空気の清浄化に貢献できると言われているのか。

マスクをかけて太極拳に打ち込む人がずらっと並んだら、誰も歩かなくなった街よりもっと不気味だろう。
車中のマスク行列を笑ってはいられなくなった。


車中の奇景

2013年01月29日 | つぶやきの壺焼

電車の向こう側座席に、ケータイの行列ができるのにはもう慣れたが、今の季節には、もうひとつ奇景の要素が加わる。

マスクの着用がそれ、この間数えたら8分の5だった。

防御一方では、対抗力が減退する。
それでも自分だけは難を逃れたいのが人情。

マスクに出会って鼻腔に入りそこなうと、ウイルスはほかに移動するのだろうか。
いや、マスクにじっととどまって、機会を狙っているに違いない。
それをだいじに、職場に、あるいは家に、それからどうなるのだろうか。


ものと心

2013年01月28日 | つぶやきの壺焼

大相撲で日馬富士が全勝優勝、今の日本人の力士に求めることが難しくなった集中力の成果だと思う。

表彰式を待つ賞品の類が、国技館の通路に並んでいるところが、何度もTV画面に映る。
人が歩き回る廊下の床、地べた同様のところに、物置小屋を平らにしたような形でべたべたと並べてある。
大切ないただきもの、預かりものでもあり、栄誉をたたえるものでもあるのに。
力士には心がだいじと教えても、ものにはどこか無頓着なのがおかしい。

重いものだから、高い台に並べると危険だということはわかるが、それなら低い台を作ればよい。
台は保管に場所と手間がかかるというなら、せめて白い布でも敷いたらどうなのか。

そんなことまでとそっぽを向けば、いくら力士に心のだいじさを教えても、口だけ説教と同じで、胸にしみこむ真心を伝えることはできないだろう。
協会の基本姿勢にかかわることなのだから。


学力試験とは

2013年01月27日 | つぶやきの壺焼

過日、大学共通第1次学力試験、略称共通一次が終わって、問題が新聞に出た。
今どんな問題が出されているのだろうかと、国語の第一問を見る。
次の文章を読んで後の問いに答えよという問題文の字数が、第1問で約7900字、問題文の後についている箇条書きの注を除いてもこれほどの長文である。

言っては悪いが、あの中身が濃すぎて読みにくい小林秀雄の著作から取り出してきた問題文、それも通常一読して概要をつかめる1000文字文の、およそ8倍の量である。

我慢して読み進み、問題1にたどり着く。
第1問は、問題文中に引かれた傍線の部分にある言葉の漢字がどういう文字であるか、カナ書きにすると同じになる5個の熟語から、あてはまる漢字のものを選び出せ、という問題である。
これが5問組み合わさって第1問になっている。
8000文字の長文をまったく読まなくても正解が得られそうな問いが4問、1問だけは問題文の該当箇所2~3行を読んで確かめればよい程度の、TVのクイズ番組に似たような出題である。

8000文字に辟易しながら問題にたどり着いたとたんにがっかりする仕組みになっている。

第2問は、文中の30文字弱の部分が、どういうことを言い表しているのか、5個の文の中から最適な説明を選び出せという問題である。
ここにきてようやく、長文のうちの一部分にかかわりが出てくる。

テストに慣れた人、あるいは要領を飲み込んでいる人は、「次の文章を読んで」という書き出しの言葉には目を向けずに、はじめから問1と番号のついたところに飛んでいってさっさと片付けてしまうのかもしれない。

第1問でがっかりしたのでその後は読む気力も失せたが、国語の試験といっても、これは難文を読み進む忍耐力と、回答要領を心得た素早さのテストではないかという気がしている。
不合格への慰め言葉である「試験は水もの」とは、まったく嫌な言葉である。


正誤病

2013年01月24日 | つぶやきの壺焼

言葉は病を連れて来て、しばしば人を惑わせる。
意思どおりでないことを口走るのも、度数が増えるにしたがって癖となり、やがて病にもなる。

口走り症は、症状が外に現れて見分けやすいから、ああまた出たかと思っていれば済むのだが、相手を友連れにする病もある。

正誤病がそれである。
正誤病は、質問という形になって発症するから、素直に相手をつとめていると同じ病に引き込まれる。
カウンセラーが神経症に侵されるのと似ている。

正誤病の人は、何か言葉を聞いたり読んだりすると、「この言葉は正しいですか」とすぐに質問する。
言葉には、適否、巧拙はあっても正誤のないのが日常茶飯なのだが、とにかく正誤を判定させたがる。
正誤を判定することにまったく意味のない場合でも、判定を迫る。
そして、自分では考えない。

そういう人には、訳知り顔に「それは正しいです」などと答えてはならないので、「正誤はありません」が正解なのだが、正しいですかと質問した人は、その正解をもらっても、さぞいらいらしていることだろうと想像がつく。
しかし、正誤病には「正誤はない」と答えない限り治ることはない。
誤って「ある」と思い込んでしまった人には「ない」という返事を繰り返すしかないのだから。


口走る

2013年01月23日 | つぶやきの壺焼

口走るとは、深く考えてないことが言葉に出てしまう一種の出来事と言えそうである。
意思に逆らうほどではなくても、思っていることとは違った意味に取られる別の言葉が出てしまう。
発言責任はあっても、その人にとっては意思どおりのことではなく、いわば出来事に近い。
「なんちゃって」と追いかける手もあるが、万事そう巧くはいかない。

「学者とは、不用意に無意味なことを口走らないもの」とどこかで読んだ。
思いつきで何でも言いたければ、学者の群れから抜けなければならないということだろう。
無意味なことを口走ってはならないとされても、本人がその都度意味を持った発言と思っていたらどうなるのか。
ある説を述べ、少し経って状況が変わればそれに合わせた説を堂々と説く。
ニワトリアタマといって、三歩歩けば記憶が飛んでしまうたとえがあるが、記憶が残っていても、有為転変は世の常と居直られては、時の声として聞き流すしかない。

政治家の場合はどうか。
口で仕事をしているだけに、走っているようにはなかなか見せない人もいる。
なかには、口走るどころか、走る口しか持ち合わせのない、味わえる口を持たない人もいる。そういう人の口は、走る以外には貪りのための部位でしかなさそうに見える。
口は災いのもとではなく、口は我輩のためにあるとは、その人は口走らないだろう。


愚者の学び方

2013年01月22日 | つぶやきの壺焼

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という文句があります。

ひとくちに経験と言っても、それには理屈の上での経験と、体験的経験があります。
理屈の上での経験は、合理的には聞こえても、その経験は知ったというだけのことにしかなりません。
愚者は経験に学ぶというのは、この頼りがいのない理屈の上の経験を指しているのでしょう。

体験的経験は、学ぼうとしないほうがむしろ愚者で、ここで賢愚は逆転します。

本の読み方にすればこうなるでしょう。
「賢者は素読に学び、愚者は文法に学ぶ」


情報公開の姿

2013年01月21日 | つぶやきの壺焼

情報公開というある種の狂気の現れが、世の中にあると言ったら、なんだこいつ、とにらまれるだろう。

狂気といったのは、情報公開には、「出せ、見せろ、聞かせろ」という群集心理的要素が付きまとい、それが煮えたぎり沸き上がると、何もかも洗いざらいという行き過ぎも、当然であるかのように扱われるおそれがあるので、心しなければならないという意味である。

公開は、秘匿、隠蔽より気持がプラス側に向く言葉なので、何でも明るみに出すのがよいことだと思われがちである。

情報の公開を求める人にもいろいろあって、何かわけがあって知りたい人と、わけもないのに知りたい人とに大別できる。
本当に知りたい理由をもつ人はごくわずかで、とにかく知りたいという人のほうが圧倒的に多いのではないかと思う。

たとえ知りたい理由があったとしても、それがわかって次はどうするとなったときに、何かが改まるとか、世の大勢の人のためになるとか、そういうことはごくわずかの部分でしかないだろう。

公開という行為の裏側には、未公開、非公開の部分が必ずある。
情報のいちばんだいじなヘソのようなものは、未公開、非公開の部分にあるので、それを賢しらにちびちび漏らすことで、人の心を引きつけようとするのが、情報公開にかかわることがらでは最もたちの悪いやり口なのだが、それがまた一種のビジネス様式に化しては公開のプラスの相がマイナスに反転してしまう。

公開というからには、知らないほうがよかったでは意味を成さず、その効果が未来によい影響を与えるものでなければならないであろう。


困った錠剤

2013年01月20日 | つぶやきの壺焼

「書ヲ読ンデ、理ヲ講ズル」道は学問の邪道である、と徂徠の言葉を引いて話を進めている小林秀雄の著書がある。
理は人を酔わせる、とも書いてあったように記憶している。

本を読んで理屈を言うな、それは学問の正道ではない、理を唱えるなら自分でよく考えよということだろうと思うが、書かれてからの長い歳月、引かれてからの時の移り代わりで、どこかにざらつきを感じる。
するっとのどを通らないのは、何がそうさせているのだろうか。


ITは、情報錠剤とも読める。
情報と名をつければどんどん飲み込まれる。
いま、理で人は酔わなくなったような気もする。
際限なく供給される錠剤で、無選別に飲み込んでいるのは、理ではなく I か。
I は愛であるなどと、ばかげたことを言うつもりはないが、理の成分がほとんど失せてしまった情報錠剤で、頭も心もただれていくのを、人はみな楽しみと感じている。

この惑星の人々は・・・おや、これも錠剤の効能書きにあった文句ではないか。


野次馬とは

2013年01月19日 | つぶやきの壺焼

海外で事件が起きたとき、安否を知ることにはみな関心を持つ。
関心の持ち方はいろいろで、一般メディアの情報が、自分の知りたい水準に達しないと、
情報収集能力が足りないと利いた風なことをすぐに言う人もいる。

知ってどうする、何をするというのでもない。
ただ知れば満足というだけのことである。
日本人が、日本人のことを心配するのは当たり前だろうと、普段考えてもいない同胞意識が首をもたげて、知りたがりの尻を押す。

情報収集能力は、極秘情報の選別能力および隠蔽能力と巧みに平衡して行使されなければならないのに、何でもかでも知りたがって、必要な平衡維持の邪魔になることにはそっぽを向く。

相手がテロの場合、生存情報の発信が命取りになることもある。
じっと潜んでいて、適機の来るのを待たなければならないこともある。
火災現場の安否との見境いを忘れて、知らせよ知らせろと急かせてはならない。

野次馬の定義が見つかった。
それは、埒外のことを知りたがり、馬の群れにさえ見えてしまう人々のことだった。


何を考えているのか

2013年01月18日 | つぶやきの壺焼

「尖閣諸島は係争地」などと、その場で相手に気に入られそうなことを、旅先で言い歩いて、暇をつぶしている元要人がいる。

その人は、要人であったときにも「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」とのたまったそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130118/plc13011803220005-n1.htm

自らの立場の認識がないどころか、考えるてみることさえないのだろう。

こういうことが許されるのは、思想信条の自由という、ありがたい法のおかげであるとするならば、「国益損害防止法」のようなものをつくらないとならないのではないか。


そっと静かに

2013年01月17日 | つぶやきの壺焼

新年早々靖国神社の門に火炎瓶を投げつけた中国人がいるという。
その事件は、聞きそこなったか見損なったか、Webサイトで初めて知った。

テロリストは日本国外に逃亡、次いでソウルの日本大使館にも火炎瓶を投げつけ逮捕されたが、韓国の裁判所は微刑を言い渡しすぐに釈放。
中国では、期せずしてまた「反日の英雄」の帰国を迎えることになった。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130117/plc13011708070003-n1.htm

静かに頭をなでているだけでは、芯を曲げられた人間の狂態を治めることはできないだろう。


新鋭機の故障

2013年01月16日 | つぶやきの壺焼

最新鋭機と言われるボーイング787でトラブル続出。
米連邦航空局が787の基幹システムに関する包括的な調査に乗り出す見通しと報道されている。

あちらこちらにさまざまな故障が出るのは、基幹システムのどこかがおかしいと見てのことだろうと思うが、包括的調査で、細かい製作工程上の欠陥を発見できるのだろうか。

包括的調査の意味を訳文から想像するのは難しいが、設計から製作工程の末端まで、目の大きさの違うふるいを何段階かに使い分けて調べ上げていくのであれば効果はあるだろう。

こういう調査が、報告書やさらに強い規制条文など紙に書いたものを作るために、会議室やコンピューター画面中心に行われるのではないとは思うのだが実際はどうなのだろうか。
作ってほしいのは人間の乗る飛行機で、紙ヒコーキではない。

いちばんの原因は、製作に当たる人間の現場行動に気合いが入っていないところにありそうな気がする。
時間内だけ製作マニュアルに沿った作業をしていれば終わりというような工程進行では、また同じような散発トラブルが必ず出ることだろう。


すり替え置き換え

2013年01月15日 | つぶやきの壺焼

「かえ」で変換すると、買え、変え、代え、換え、替え、飼え、と六変化の「かえ」が現れる。
音だけ聞いていると「買え、買え・・・」と言われているようでもあり、うるさい。

ものごとを言い表すのに「言い換え」がときどき使われる。
言葉を「置き換え」てわかりやすくしようということなのだが、それが時に「すり替え」になり、主要な意味がかえってわからなくなることもある。

「換え」と「替え」の字は、これまでなんとはなしの感じだけで使い分けていたが、IME の変換第一候補をそのまま使ってみて気がついた。
「換え」は正味・中身が変わらない場合、「替え」は変わってしまう場合なのである。

「替」の文字に夫が並んでいるのが、また面白い。
日替わりという言葉が、なにか鮮烈かつ隠微な意味を持っているようにもとれる。


さて本題は、すり替えではないかと思ったニュースの記事にある。
Webニュースに次のような記事があった。
~~(1)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
見出し:「非常に重要なシグナル」北方領土問題でロ大統領が安倍氏発言を「評価」

第1段落:ロシアのプーチン大統領は20日、5月の大統領復帰後初めて、国内外の報道陣を集めた大規模な記者会見を行った。この中でプーチン氏は日本との北方領土問題に触れ、次期政権との「建設的な対話を期待している」などと語った。

第2段落:プーチン氏は、衆院選で圧勝した自民党の安倍晋三総裁が日露平和条約締結に意欲を示していることについて、「たいへん重要なシグナルで高く評価する」と指摘した。ただ、極東地域の長期的発展プログラムでは、「クリール諸島(千島列島と北方四島)にも必要な注意を払う」と述べ、現地のインフラ整備を引き続き進める考えも示した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この安倍氏発言というのは次のことらしい。
~~(2)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
北方領土、交渉進展に意欲=安倍首相
安倍晋三首相は13日放送の読売テレビ番組で、北方領土問題について「ロシアのプーチン大統領は相当強く権力を掌握しており、そういう人物でないと思い切ったことはできない。こちらもしっかりとした政権基盤をつくっていく」と述べ、プーチン政権との間での交渉進展に意欲を示した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(1)の見出しをひと目見ると、雪がいくらかとけそうかと思ってしまいそうなのである。
ロ大統領が安倍氏発言を「評価」したのは、「ロシアのプーチン大統領は相当強く権力を掌握しており、そういう人物でないと思い切ったことはできない」という部分だろう。
しかし、その前に「北方領土問題で」とつけると意図の強弱はともかく、すり替えになっているではないかと、斜視覗きの眼が信号を送ってきたのである。

願望も、希望的観測も、プラス思考には違いないのだが。