・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

合う理屈と合わない理屈

2013年12月31日 | つぶやきの壺焼

感動を受ける絵や彫刻からは、理屈を感じることがありません。
無理やり作ったものは、どこかに理屈が籠もっています。

美術の解説は、絵や彫刻への後付けの理屈で、そういう理屈を考えながら作ったのでは、マネモノしかできません。
マネモノは真似て作ったもの、モノマネは真似て演じる所作、前後入れ替わると具象抽象が入れ替わります。


理屈の親戚に、論理というやや高級臭のする言葉があります。
これには、一般論理と職業論理という見分け方があるようで、一般論理は、ものの道理や生活常識に近い、ごくあたり前の理屈に相当します。
職業論理は、ちょっと酷いではないかと思いながらも、仕事ならしょうがないと、首を横に振りにくい理屈です。
弁護士や探偵が、真実真相よりも依頼人の利益優先という、あの理屈です。

一方だけ認めると、偏狭、偏向ということに、一般論理上なりそうなので、合う理屈も合わない理屈も、その領域を否定されることはありません。
困るのは見る側ではなく、見られる真実さんのほうです。
どちらを落ち着き場所にしようかとうろうろ、とうとうホームレス状態で年の瀬を越すことになるお気の毒な真実さんは、中国やロシアで爆死させられた人の数より、はるかに多いでしょう。

どうぞみなさん、よいお年をお迎えください。

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役員とはどういう人たちか

2013年12月30日 | つぶやきの壺焼

S電子には501人の役員がいると聞きました。
その人たちは何をしているのだろう、というより先に、必ず開かれるはずの役員会議を想像して、XX大会と呼べるほどの人を集めたとき、どういう雰囲気になるのだろうかと、どうでもよいことが気になり始めます。
あるいは、会議用の役員というのが決まっていて、そうでない人は役員会議に出ないのでしょうか。

役員とよく似た名前に役人という分類がありますが、この役人がむやみに多い国もあります。
エジプトでは公務員が700万人、人口8000万人の11人に1人がお役人さまという勘定になります。

ここで変なことに気付きました。役人には「お」をつけても、役員に「お」をつけた呼び方は、さすがに聞いたことがありません。企業や団体の役員は、日本語の中では役人より軽く見られているのでしょうか。
役所から検査の立会人が来ると、「あの木っ端役人が」などと言っておきながら、検査当日には至極丁寧に応対しているさまは、「お」のつく方々の建前上の扱い方をよく表しています。
役人をうっかり分類名と書きましたが、役人とそうでない人は、ごく大雑把に言ってしまえば、見張り番と見張られ番ということになりますから、やはり仕事柄の分類なのでしょう。話が乱暴なので、この辺でムカッときていらっしゃる方はあってあたり前ではありますが。

役人は仕事の分類、では役員はどうなのでしょう。
役員と名がついても、毎朝駐車場の掃除をしておられた社長さんもいます。これをみれば仕事上の分類とは言えません。
会社の場合、報酬を受け取るか給与を受け取るかの分類のような気がします。
給与の場合には、その内訳をはっきりさせなければなりませんから、その中でべらぼうな差を設けるわけにはいかないでしょう。
役員報酬であれば、社員の給与とはまったく違った次元の数値にできますから、報酬と給与を比べて金額の違いを責める論理は成り立ちません。

500人を超える役員は、そのときにはボロもうけができていたということなのでしょう。
売れていた時が過ぎ、違う色のボロが出始めたとき、役員数が多ければ、減らしていく余地も多いということになります。
あたま数の多い役員は、うかうかしているとスライドスケールの伸縮機構でしかなかったということになるかもしれません。

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技術的決着とはどういうことか

2013年12月29日 | つぶやきの壺焼

廃棄物も、大きな塊になれば、もう廃棄物ではなく堆積物になります。
堆積物には、目に見える堆積と見えない堆積があります。

目に見えない堆積で最も始末の悪いのは、言わずと知れた放射性廃棄物の放射能です。
目に見えないものは、言葉の使い方次第で、始末の悪さを酷くも甘くも表現できます。

こんな説明がありました。
「使用済み核燃料や、それを処理した際に出る放射性廃棄物の処分法は技術的に決着している。専門家は地盤の安定した地層に埋めれば、安全に処分できると説明している」
「放射能は、時間を経ると減り、1000年で99.95%が消滅する。有害性が消えない水銀など重金属の廃棄物とは事情が違う」

原発から2012年末までに出た使用済み燃料は、NUMO:原子力発電環境整備機構の資料によれば、ガラス固化体にして24,800本に相当するそうです。
前の説明の、1000年で99.95%消滅は、1000年経っても5%は残るということですから、24,800本の5%1,240本分の放射能は、それでもなお消えてなくならないのでしょう。
その程度の放射能はないに等しいとするのが技術的決着ということであれば、話はどんどん進められます。

しかし、1,240本どころか、そのまた1%に満たない10本でさえ、自分の屋敷の庭の片隅なら埋めてよろしいと言う鷹揚な人がどこかにいるでしょうか。

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違いがわかるには

2013年12月28日 | つぶやきの壺焼

つむじ風を竜巻だと騒ぎ立てれば、それは誤報です。
しかし、作物を根こそぎやられた農家にとっては、つむじ風か竜巻かの区別など無関係な、大変なことです。
ただ、50年に1回の竜巻は防げなくても、4年に1回つむじ風が起きるとしたら、畠のまわりに樹を植えてみるなど、何か手を打つでしょう。
何ごとも、対策にはできる限り正確な現象の把握が必要です。
報せるという仕事が、報せる行為だけに集中されたとき、そこに誤報、虚報のもとが生まれます。
報道の仕事は、違いの見分けが受け取る側の自己責任というわけにはいきません。


GoHoo四季報という、誤報を収集、検証するウェブサイトがあります。
 ⇒ http://gohoo.org/

そのサイトは、こんな宣言をしています。
1.報道対象の当事者、関係者等から、事実関係に関する反論があれば、これを周知するしくみを設ける。
2.マスコミからこのサイトの内容に異論、反論があれば、これを周知するスペースを設ける。
3.特定の立場・思想にもくみすることなく、もっぱら報道が事実に基づいているかどうかを検証する。

その宣言が確かなものかどうか、実際の記事を見ていけば想像できるでしょう。
誤報は、確かめないから走り回る、つむじ風に似ている気がします。

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逆流を考えておこう

2013年12月27日 | つぶやきの壺焼

川の水は、川上から海に向かって流れます。
あたり前のことですが、あたり前でない流れ方には、あまり目が向けられていないようです。
洪水をうまく流す設計になっている河川堤防が、津波に対して弱い構造であったために、被害が大きくなったところもあると聞きます。

逆流は、障碍として顕れることが多いようです。

河の流れも、人の動きも、物の運ばれ方も、カネの流れも、情報の流れも、すべていったんは双方向で捉えて見ると、安全性を高める上で、だいじな何かが見えてくるかもしれません。

めがねを裏表にかけて見ても、頭がくらくらするだけで、効用はなさそうですが。

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聞こえる球速こそ速さのあかし

2013年12月26日 | つぶやきの壺焼

投げた球も、打った球も、プロ級の速さになるとシュルシュルと音を立てます。
奪三振259の尾崎行雄が投げた160キロの球の音は、バッターに聞こえたそうです。

球速を数字で見るのはリアルタイムというわけにいきませんが、耳で聞く球速は実感ですから、聞く人に驚異か脅威を与え、たじろがせます。

TVのゴルフ中継では、打球の擬似音をおおげさに聞かせますが、あれも飛び出すボールの音が聞こえるようになると、もっと楽しいものになりそうなのですが、どうでしょうか。

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痛みの計測法を開発して欲しい

2013年12月25日 | つぶやきの壺焼

痛みはひとにはわかりません。
「痛かったら痛いと言ってください」検査前の、そんなお医者さんの言葉を真に受けて、感覚どおり正直に「痛い」を連発したら、終わってから看護士のおばさんに「我慢強くない」と酷評を受けました。

「痛い」は言わせるしか知る方法がなく、言われても聞き流すしか方法がありません。
「ひとの痛いのは3年でも我慢する」と、祖母がよく言っておりました。
忍耐の化身のようなその祖母も、50代の頃からときどき「水落ちがいたい」と、それだけは訴えることがありましたが、90過ぎまで生き抜きました。

「痛い」と言われても、この人がこのくらい言うなら、この程度かぐらいの想像しかできません。
そんな「痛み」を計測できる機械、病院に置いて欲しいものの一つです。

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判定することと見習うこと

2013年12月24日 | つぶやきの壺焼

言葉に関するFAQに多く見かける質問に「XXという言葉は正しいですか」というのがあります。
話したり書いたりしてみれば、通じるかどうかがわかるのに、正しいかどうかの心配が先に立つのか、それとも言葉は話したり書いたりすること以外に、骨董のように本物をだいじに持っているところに価値があると思っているのか、そのあたりのことがわかりません。
話したり書いたりして、それが通じるためには、聞き覚え見習うことがいちばんであるのに、正誤の判定をしておかないと不安なのかもしれません。そういう人たちは、生育の過程で、「見習う」ということを身につけてこなかったのでしょうか。家族のしていること、話していること、世間の人々がしていること、話していることには目もくれず、耳も貸さず、俺が我がの勢いだけでやってきたのかもしれません。
しかし、異文化のなかに身を投じてみると、「見習う」すべを知らなければ不安が先に立ちます。そこでまず「正誤」の判定を、誰かにしてもらいたい、「正しい」と言ってもらって安心したいということなのでしょうか。

「正誤判定」か「見習う」か、どちらか一方の機能だけでは、人間らしい生き方はできません。ところが、泳ぎを知らずに正誤の棒杭にかじりついたり、泳ぐことしか知らずにただ流れに身を寄せる、そのどちらかでしかないという民族も広い世界にはあるようです。

見習えば揃うという動物の習性があります。
鳥や魚の群れにリーダーはいません。お互いに見習うだけで群れはできあがります。
見習う目標が、形ではなく動きや流れである場合は、同種同類のものでなくてもことは足ります。

いわゆる先進国が、「見習う」だけで「判定」能力をもたない人たちを見つけると、開発途上国などと命名して、見習い機能を存分に活用することもできます。
そこで教え込むのは、まず勝ち負けの判定です。スポーツは、瞬間の悦びを味わいながら勝ち負けの判定を覚えられます。日々の暮らしには必要のなかった数値勘定を、勝つ喜び、上を目指す楽しみとあわせて教え込みます。
神様は、これらの行為をどう判定なさるでしょうか。

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珍重される赤と黒

2013年12月23日 | つぶやきの壺焼

赤と黒には人をひきつける力があります。
色の名を聞いただけで高品質と思わせられる魅力です。

黒毛、黒豚、黒酢、黒ビール、赤身、あか、食べるものか飲むものばかりです。
皆それぞれに持っている血の色と、何かかかわりがあるのでしょうか。

赤心、嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ。
では、黒は、やめておきましょう。

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投げるという悦び方

2013年12月22日 | つぶやきの壺焼

ゴリラが何かを投げつけてくる。これは動物園来園者の重要留意事項の一つでしょう。
ものを投げる生物は、人類に近い形をしているように思います。
投げるのでなく、飛びつく、喰らいつく、突付く、すり寄る、何もせずに見せる、人類とのかかわりの動作はいろいろで、動物性からだんだん遠のくに従い、それ自身の悦びは人類から遠さかりますが、つつましさを見せるだけの「花」などは、人々に安らぎを与えてくれます。


人間にも、投げて悦ぶ習性があるようです。
投げるもの、悦びの度合い、投げて悦ぶか見て悦ぶか、投げるときに集団になっているかいないか、投げる距離、見る距離などさまざまであっても、投げる瞬間は一人ずつです。いや、違いました。胴上げがありました。ここには書けないもっと酷いこともあります。


ブロッコリートスという愚行が、結婚式の後に祝いのしるしとして行われる地方があると聞きました。
人間の食べものになるつつましい生物を投げて悦ぶ、無様な姿としか言いようがありません。
食べものを探して歩くような人は、食べものを投げて悦ぶことはしません。
大量収穫で富を手にする方法の効果が余って、ある季節に作りすぎて売れなくなったとき、ブロッコリートスというその場の遊びを考えついたのでしょう。そこで投げ手の集団になった人は、作物を作らされていた人たちだったかもしれません。
一度味わった楽しさは、次の同じような場面にも引き摺られます。バカげたことでも「祭り」の名がついてしまうと、もうやめられません。

遊び道具にされた生物たちは、人間たちの勝手気ままさをどう感じているでしょうか。
植物には感覚がないと嘯く人は、からだのなかで植物が着々と進めているあだ討ちの作用に多分気付いていないのでしょう。

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目を奪われるスマホは仕事の邪魔

2013年12月21日 | つぶやきの壺焼

電車の中で見かける一斉お祈りの姿勢が、ちかごろ悪くなってきました。
ガラケーで見ていたときは、持つ位置と見る画面の位置関係から真直ぐ伸びていた背が、スマホになって、皆うつむくようになってしまったからです。
あの小さな画面を抱え込むようにして見入れば、どうしても背中が丸くなります。
背筋を伸ばしても、顔だけは下に向くよう首が折れ曲がります。
帽子のつばからスマホがぶら下がって、首を真直ぐにしてみる「スマホキーパー」のようなものはまだ売られていません。
ぶら下げるには、まだまだ重過ぎるからです。

スマートホンと名づけはしたものの、手はふさがれる、目は奪われる、のめり込めば仕事に差し支える、なかなかスマートな暮らしは難しいものです。

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付き合いのきっかけ

2013年12月20日 | つぶやきの壺焼

ストーカー被害に遭う人には、共通の特性がありそうです。
1.人付き合いの下手な人
2.話しのできない人
3.具合の悪いことはひとのせいにする人

ストーカー行為に陥り、仕掛ける側の人にも、似たようなところがあるでしょう。
人付き合いが上手なら、ストーカーになどならなくてもすみます。
自分から上手に話しかけることができれば、ストーカーになどならなくてもすみます。
どちらも、ぐずぐずうじうじ考える性格、どぐさい同士が出会うと困った結果になります。

ストーカーにならない、遭わない、それには普通の会話ができればよいのです。
よいお付き合いのきっかけは、普通の会話から生まれます。
気取らず、飾らず、もっともらしい話をしようと思わなければ、普通の会話ができるようになるでしょう。

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いずれは いつかは というお楽しみ

2013年12月19日 | つぶやきの壺焼

「いつかはクラウン」というキャッチコピー、むかしクルマのCMでよく聞かれました。
いずれはXXX、いつかはYYY、お楽しみの持ち方は、目標と呼ばなくてもよいのです。

「目標を立てなさい、自分のできることより、ちょっと上に」あの激励の言葉、聞いたときにはほんの少しだけ血が騒ぎます。
もっともらしく聞こえますが、言う人の都合八割で、言われる人にあまり効き目はありません。
目標を立てさせ、それを達成させるという仕事もあるのです。

実力の120%を目標に、そう言われても、確かめるすべさえない自分の実力の、何を100%にするのでしょう。
計算ができたとして、ちょっと上ぐらいは当たりまえのこと、そこにすれすれで這い上がったのでは後が続きません。
目標は、達成できたらその後がだいじなのです。

「いつかはクラウン」「とにかくクラウン」まあ、お楽しみぐらいでよいではありませんか。

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法の整備が人間の能力水準を表面化させる

2013年12月18日 | つぶやきの壺焼

秘密保護法が施行されたとき、最初に現れる効果は、大臣失言の報道が減ることではないかと思います。
大臣がむやみに失言することは、国家の弱点です。国家の弱点は国家機密でなければなりません。
何かジョークのつもりで言っても、話の部分、言葉の端くれしか捉えることのできない単語脳の記者たちは、ジョークであることに気付きません。
記者は書くのが仕事ですから、捉えた言葉に仕事上の都合にあわせた意味を持たせて書き上げます。
「事実を伝える」という仕事には懸命です。しかし、何を書かなければならないかの判断の根底が、給与計算と昇進作戦だとすれば、聞いた言葉を使って売れる記事に仕上げることが優先されます。
その記事が国家の弱点報道にならないかどうかなどという考えは、頭の隅にも浮かばないでしょう。

しかし、秘密保護法が施行されれば、これは国家機密であるぞと釘を刺されておいて聞いたことは、法を破ってまで書く行儀の悪い記事では売れ行きが落ちますから、よほど変わり者の記者以外は書きません。
大臣失言の報道が減ったとき、失言をしなくなったのか、報道が制限されたのか、そのときにはもうわからなくなっています。
その後、記事にされても差し支えのないジョークが報じられ、大臣さんの能力向上がわかることもあれば、変なところでまたポロッと何かが出てきて、記者たちの理解表現能力低下がわかることもあります。

法の力は、ただ何かを縛ったり罪を裁いたりするだけではなさそうです。

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罪の軽いうちに

2013年12月17日 | つぶやきの壺焼

むやみに楽をしたがると、ろくなことはありません。
鉄道の保線区員がゲージ測定記録を改ざんしていたと報じられました。
もし改ざんでなく、はじめからウソだったら、これは重罪です。
もっと酷い想像をすれば、測定に行かずに記録だけ出来上がっていたという、まさか話にまで展がってしまいます。

「なんだおい、測りにも行かずによう、前と同じか」「はい、風邪を引いてたもんで」「ちゃんとやれよ」「すみません」軽いやり取りで頭を掻いておけば、そこで終わりです。
班長さんにどうしてばれてしまったか、のんきな区員さんも、じっと考えて気付きました。測定記録の数字は書き入れたのに、作業日誌に書き入れてなかったのでした。
一度楽に済めばまた楽をしたがります。次は作業日誌も日時を間違いなく合わせて仕上げればカンペキ、作業手当てまでついてきます。


軽い気持のごまかしが、それが遠因になった結果次第では重罪になります。
そもそもの始めのその罪を、仮に一次犯罪と呼んでみます。
それを見逃した罪は二次犯罪、次は三次、そのくらいではまだ惨事に至るところに気づきません。
何次かはわかりませんが、だんだん重なって、別の要因との間にひょっと引っかかりができたとき、大惨事が起きます。

一般の管理システムは、高次のほうから監察機能が下に向かって働くようですが、そんなことでは一次犯罪に目が届くわけがありません。
低次のうちにくい止めるには、どうしたらよいのでしょうか。

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