つい先ごろ、無茶苦茶な方法で無理やり可決した「性的指向及び性同一性の多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」というあの長たらしい法律の名で、いちばん気になるのは「国民の理解の増進に関する」という部分だ。
性の問題の多様性は、ごく少数の人の個人のことで、生まれながらの自分では気分が収まらないのは、個人個人の勝手な思いだろう。
そこには、国民が生活の基礎知識として持たなければならない特別な知識は何もない。
身近にそういう人がいれば、「そうなのか」と思えばよいだけのことだ。
生物には男女の別がある、それ以上により深く理解していくことを、なぜ増進しろというのだろうか。
世の中のことは、生活の必要に応じて知識を得、理解していけばよいので、法律で決めたから進んで理解しろというのは、いかにも押しつけがましい専制政治ではないのか。
儀式は見ていて面白いものではない。
議会や総会の類は、儀式でなくてもよいのに儀式として行われることが多い。
TVに国会の中継が映っても、見る気がしないのは面白くないからで、面白くないのは儀式として執行しているからである。
なぜ儀式になるのか。
執り行ったという事実が残ればよいという運営上の都合だけで、ほかに理由はない。
国会法には、制定当初第78条に「各議院は、国政に携わる議員に自由討議の機会を与えるため、少なくとも2週間に1回その会議を開くことを要する」という規定があった。
しかし、先生方は自由討議がお嫌いらしく、規定上の開催機会を3週間に1回に減らし、さらに 1955年の改正でこの条項はなくなってしまった。
鳩山一郎が総理のときである。
「自由討議の機会を与えるため、会議を開くことを要する」という規定がなくなると、それを「決して開かない」と読むのが専門家の読み方らしい。
自由討議がなくなれば、こういう質問をしますという文書が渡され、役人が大急ぎで答弁文を作りそれを読み上げ、それを討議と呼んで時間が来れば終わり、儀式でしかなくなる。
その上、大臣にも少しは勉強させようと、実務に疎い人たちに無理やり答弁をさせるから、素頓狂な発言も出てくる。
議会が儀会に姿を変え、形は儀式でありながら実態は三流の芝居よりもっとひどくなることもある。
政治の中枢の有様を見せられると、秋風がいっそう身に沁みるのである。
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選挙の前に大騒ぎをして宣伝これ勤めたマニフェストが、目録だけで何がどうなったのか中間報告もない。
マニフェストとは、実にうまい名前をつけたものだと思う。
もともとは積荷目録の呼び名で、何をどれだけ積んだ、下ろすときにこれを見ながらチェックしてくれという、伝票なのだ。
伝票に契約書のような効力はもともとない。
伝票どおり積まれたかは積み込んだものの責任、運ぶ過程では運送するものの責任、下ろすときは荷下ろしするものの責任と、うまい具合に責任が分散されている。
下ろしたときに伝票どおりでも、それがしっかり受取人のところに届くかどうかには、総括責任を負った誰かがいなければならないので、誓約したつもりなどさらさらない者に、選挙のときの伝票をねたに揺さぶりをかけてみたところで空振りにしかならない。
カナ文字の名前についだまされて、誰が書いたかわからないような伝票の記載事項が、国の将来を左右するようなことに役立つなどと思ったのが、えらいうかつなことだったと言わなければならないだろう。
西洋伝来の言葉をカナ文字に置き換えたものは、それがどういうものであるかを、じっくり見てかからなければ、うっかり信用できるものではない。
マニフェストの効果は、それに気づいたことであったと思うことにしよう。
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選挙、またあのしらじらしい行事に、今年中に参加することになりそうな気配になってきた。
選挙区という何の都合でそうしたのかわからない区分けのおかげで、あてがわれた何人かの中から投票対象者を選び出さなければならない。
われわれには、投票の権利はあっても、その前に候補者を選ぶ権利はない。
この人ならば三流以下に成り下がったこの国を何とかしてくれそうだと思える人が、いてもいなくても、それでも1票をあの箱の溝に挿し込まなければならない。
採用の決定が1人1票の投票結果によるということの違いだけで、ほとんど片や就職活動、此方人気投票と差のないのが悲しい。
これが政策ですと並べたてられるのは、やってみようと思いはしたがだめでしたというような、中学生の社会活動実験に似たことでしかない。
選ぶ人がいない、何をされるかもわからない、では選挙投票とは何なのか。
権利という名目のもとに、小さな紙切れを交換しに行くだけの空虚な行為なのか。
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党行動と軍行動は、意味のわかり難い組織行動の双璧だと言った人がいる。
そのいずれにも、普通の頭で考えられるような合理性はない。
それぞれ敵のあることで、常識程度の頭で考えてわかってしまったのでは、敵対行動の意味を成さないから、あたりまえと言えばそのとおり。
それをつかまえて「よくわからない」などと、評論のつもりでしたり顔で言うのは、何行動というのだろうか。
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マルが並んでいる。それが目に付いた。
写真になってからよく見ると、ふたつのマルは両方ともフタだった。
マルマル・フタフタ、繰り返しているとゴスペルソングになりそうだ。
マルマルお世話、フタフタ隠せ。
大勢の人間が、自分では何もしない。
自分でしてはならないと、世の中が望んでいることにして、マルマルお世話になる。
福祉社会バンザイ。
社会保障ヤレヤレ。
ただなんとなくいい気持ちにさせる工夫につとめる政治や行政。
負担させるといえば税金を絞り上げることにしか知恵が回らない。
フタフタ政治が、くにをクタクタにする。
マルマル・フタフタ、フタクタ・くにクタ。
近頃の駅の階段は様子が変わってきた。
単純に段々が続いているのではない。
途中に柵があったり、斜交いに狭くなっていたり、この駅の付近には大きな会社がないからよいが、降りて行く先が狭くなっているこの階段に、降車客が大勢一度に押し寄せたら大変だと思う。
日本人はおとなしいからよいが、となりのCだったら、混雑、競争、喧嘩の3K騒動が毎朝のように起きるのではないか。
万里の長城の昇降階段口の混乱ぶりが、民度の象徴としていつまでも頭に残っている。
オバサンたちも他の国へ行ってあんな様を見せてこなければよいのだが。
「新規雇用が最終的には史上最低とならないようにがんばります」
何をするかが言えずに、それでも談を発しないわけにいかず、「最」を並べて巧いこと言い抜けたことにする。
愚答は愚問から出ると言われるから、訊くほうにも責任が半分ある。
企業の社会的責任ということがときどき言われるが、企業のみでなく、企業単位でもなく、機能を共有する集団ごとに、国の地位向上を目指して、「有言実行」をほざいた半無能者たちに、何を言わせ何をさせていくか、真剣に考えなければならないときがきている。
いま史上最低の現況の中にあって、世の集団の要人たちよ、ヒッチワークから早々に脱却せよ。
秘密とは、ひそかに何かを持っていて、ひとに知られないようにしておくことだろう。
秘密と言うからには、その存在すら明らかにしない、それが真の秘密ではないか。
こんなものがあるぞ、確かにあるんだぞ、などと広言しておいていつまでも握っている。
そのうちに見せる時期を失って始末に困ると、垂れ流し同然の状態にする。
みんなで開けて見ようとか、開ける役目は誰にしようなどと言っているうちに、だれかが開けてみれば全然秘密にしておく価値がなかったということもあるだろう。
それならまだよいが、まるでガセだったという話もいつかあった。
こんなぶざまなところをたびたび見せられると、国家の要職に就いている人間が、そういう軽率な性格であるという事実こそ、重大な秘密にしておかなければならないことではないかと思い始めるのである。
白鵬の連勝も、ヤンチャ力士稀勢の里の、稀に見る勢いで止まってしまった。
力士は、いったん自分の型を身につけると途端に強くなる。
外交も、型がしっかりしていれば強くなるのだと思う。
価値観外交という型を唱えた人もいた。
・自由、民主主義
・基本的人権
・法の支配
これを価値として共有する国家との関係を強化しようという外交方針である。
しかし、自由、民主主義と基本的人権は価値でありうると思うが、法の支配は価値として肯定しにくいものがある。
支配と言われると、無理やり従わせられている感じが強くなって、背中のあたりがむずむずしてくるのだ。
それはともかく、しっかりした価値観をもったうえの外交でなければ、危なくて仕方がなかろう。
価値観が常にぐらぐらしている人は、当然定見などというものの持ち合わせもない。そういう人が外交を始めれば無定見外交になってしまう。
これでは相手国の要人も、あきれ返る以外に態度を示すことはできないないだろう。
「政治職と執行職では(責任の)レベル、次元が違う」
こんなことをソフィストの言として、何十年か前には謗っていたと想像がつく人の言。
責任のあり方でもとり方でもなく、レベル、次元と報道されるように発言し、それが(責任の)とカッコ書きで出てくる。
そのカッコ書きをいつ誰が入れたのかもわからない。
唄声が聴こえてくる Smoke Gets In Your Eyes.
言葉遣いが気に入らないから撤回しろとしつこく迫る。
まるで酒席の肴話のような、そんなやりとりが国立劇場で演じられている。
ネクタイが気に入らないから取り替えろというのと、たいして変わらない話だ。
言いがかりの理由を外交上の問題とこじつけているが、こんなことを論議しているぶざまなところを世界中にTVで見られてしまうほうが、外交上よほど問題が大きいではないか。
本当にしっかりしてくれなければ困るんだよ。
会うという予告を1週間前にしたが、相手もさるもの、音沙汰がない。
しかたなく実際には電話で済ませる。
ちょっと挨拶にでも来いと言いたかったのか、会って話をするのがいやだと断って欲しかったのか。
中身は意味不明でも、会談が行われたように取り繕う電話怪談。
そんなことでも、政治やさんは仕事をしたつもりになるらしい。
幸せな人たちがまだいる。
それが政治だと言いたげなことも顔に出ている。
根が小心なのか、カメラのほうをにらみつけることはせず、いつも眼がそれている。
こういう人が一国の運命を背負っているのかと思うと、背中が寒くなる。
今は、もう秋・・・知らん顔・・・もしていられない。