・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

酔言池:6 法文と経文 

2020年01月31日 | つぶやきの壺焼

法文は、法律の文、経典の文、法学と文学という意味を持ちます。
読みは「ほうぶん」で、「ほうもん」とは読みません。
「ほうもん」と読むのは法門で、その意味は法文と無関係です。

経文は、正しい読みは「きょうもん」ですが、MS-IMEでは、もとは誤読の「きょうぶん」も変換候補に出てきます。
意味は経典の文で、法文よりぐっと範囲が縮まります。

法文と経文は、どちらも読解しにくい文章でできているという共通点があります。

経文は暗誦か読経ができればよいので、初見から意味がわからなくても構いませんが、法文は意味がわからなくては役に立ちません。
ところが、実在する法文は読解困難意味不明という文章が多すぎます。
なぜでしょうか。
だれにも簡単にわかってしまうと、何か差し支えがあるのでしょう。

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酔言池:5 義理人情

2020年01月30日 | つぶやきの壺焼

昔の武士はを尊びました。
たとえ他藩との間でも、国内問題であれば信義は立派な習慣で、武士としての基本条件でさえあったでしょう。

優れた習慣であれば、世界のどこにも通用すると信じて、見極めが足りずに手を出してしまった大失敗が、四分の三世紀前にありました。
その経験が生かされず、相手の本性には目をつぶって、性懲りもなく今だけの義理立てを第一としている人たちがいます。

義理という言葉をGoogle翻訳で中国語にすると公婆(ゴンフォア)と返ってきますが、これは夫の両親との家族関係の当て訳でしょう。
義理という言葉を持たない人であれば、国外の人との間では、義理の理解も忖度も感情の埒外にある、無関心なこととみなければならないでしょう。
関りを見つけるとなれば、その場その時だけの損得勘定以外には考えられません。

隣国の無辜の民をひとところに押し込めて、教育という看板を立てながら奴隷暮らしをさせるような、非情な独裁者に、義理人情など通ずるはずはありません。

一人を客人として招き入れてしまえば、それより多少まし程度の人でも、むげに断る理由が立ちません。
閣僚も党幹部も、自分が外国に向ける顔は、日本の国の顔の一部であることを認識してもらわなければならないのです。

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酔言池:4 未達と損失

2020年01月29日 | つぶやきの壺焼

掲げた目標が達成に至ってない状態を未達と言います。
未達には最初の目標があるので、あるいはあったので、残りの期間、あるいは次の機会に改めることができます。

何かを失う一方の損失には、もともと目標がありません。
損失の起きることを目標にすることは通常ありません。
よからぬ企みをもって損失を目標に置くことはあっても、それを公然と掲げることはできません。
損失の多くは、予想されてなかったことで、思ってもいなかった状態になった結果です。

繰り返す機会を得られる短期の損失は、次に取り返すこともできます。
一度限りのことで損失を生ずれば、回復不能になります。

自分の命を捨てるという、この上なく大きな損失を覚悟で事にのぞむこともあるでしょう。
それが許されるのは、個人あるいは集団のことであって、国民の大多数、あるいは国そのものの命運をかけるようなことは、国民の総意に基づかなければなりません。
そんな大事なことを、隣のおじさんとの立ち話のようなことで約束できるはずがありません。
それに身内の義理立てのようなことが絡んでいたのでは論外です。
その結果の現れが、自分の生きている間に起こりそうもないことを計算に入れていたのでは、その時になって次世代次々世代の人が許してくれても、神様は決して許してくれないでしょう。

この春、決して起こしてはならない損失に目をつぶって義理を果たそうという、全くばかげたことを平然と行う準備をしている人たちがいます。
皆さんは、そんなことを許しておけますか。

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酔言池:3 願いごと

2020年01月28日 | つぶやきの壺焼

人間は、あいまいな依頼でも、依頼者の希望を忖度して対応します。
これがアナログ脳によるものと、昨日書きました。

アナログ脳、デジタル脳は、脳の働きで、脳の生物学的分類ではありません。
こういうことをわざわざ書き加えるのは、脳がデジタルの働きをしているときです。
こういうつもりという話を、ああいうつもりと違う理解をしてもらっては困る場合に、しちくどい表現になります。
誤解を避けるため、つまり忖度違いをしてもらいたくないため、デジタル性の濃度を増しているとも言えそうです。

一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ

陣中から妻に送った戦国武士の手紙のこの言葉には、誤忖度の余地のないデジタル性と、家に残された妻への愛情のアナログ性が、ちゃんと盛り込まれています。

手紙ではなくeメールになると、なるべく少ない字数で読みやすくと気を配るあまり、依頼事項の肝心なところが欠け落ちるおそれがあります。
eメールは、その場で聞き直しができないことが誤忖度のもとにもなります。

書いていることのいちばん肝心な部分は何か、例えば、金を払ってほしいとか、モノを手渡してほしいとか、それが抜け落ちると誤忖度が起き、依頼したつもりのことが達成されません。

愚態的とも聞こえてあまり好きでない言葉ですが、eメールは具体的にまっすぐ書かれないと、アナログ性誤忖度が、第三者に迷惑を及ぼすことにもなるので、気を付けたいところです。

気持を読み取ってほしいというアナログ文面は、eメールには向きません。

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酔言池:2 A脳D脳

2020年01月27日 | つぶやきの壺焼

コンピューターは、あいまいな依頼には応答しません。

人間は、あいまいな依頼でも、依頼者の希望を忖度して対応します。

コンピューターに脳のような働きがあるとすれば、それはデジタル脳を持っていることになります。
人間の忖度は、アナログ脳による、たいそう便利な働きです。
デジタル脳の多少とげとげしい几帳面な働きよりも、アナログ脳のときには緩く見られる融通無碍な働きは、人の心を和らげます。

脳の働きは、人種、個性によって異なるもので、アナログかデジタルか一方のみということはありえません。
どちらの傾向が優れているとも言えません。

脳の働きは、優劣よりも適否、その適否も固定的なものではなく、時と場合に合わせられるかどうかで値打ちが変わります。
面従腹背が座右の銘だとうそぶいた人もいますが、その人は時と場合を強調したかったのでしょうか。

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酔言池:1 もてなし

2020年01月26日 | つぶやきの壺焼

もてなし」という言葉に一文字の漢字はありません。
一つの漢字では表しにくいことだからでしょう。

新しい複合漢字を作る遊びもときどき見られますが、これまでなかった文字を作り出したところで、それを公用文にも使えるまでにはならないでしょう。

「もてなし」と、もう一つの「しつらい」という言葉は、ともに茶のこころ、日本人の心の根にあるものの代表であるといわれます。

どちらもその場で互いの心を感じ取ることがだいじで、その場を設けられた機会に恵まれたからといって、以後どんなことも聞き入れてくれるなどと思うのは大間違いです。
招かれたことを強固な友好の実績のように掲げて、商談や国交に利用しようなどと考えるのは、ただ「さもしい」の一語に尽きます。
「さもしい」にも一文字の漢字はありません。

もし、国家が正式に客として外国の元首を招待するのであれば、日本人の心を受け入れられる「さもしい」心根を持たない相手でなければなりません。
たとえ百年の計を持った実力者であっても、ことあるごとに他国の国政に口をはさんだり、脅威を示したりするような輩には、日本人の心を受け入れることは望むべくもないのです。

国賓は、国民の大多数が心から喜んで迎え入れる人でなければ、招き入れることは差し控えなければなりません。

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駝蛇例遊:31 こくひん

2020年01月25日 | つぶやきの壺焼

国賓とは、国家が正式に客として招待する外国の国王、大統領等の元首を言います。
私的な約束で呼ぶ客は、国賓とは言いません。
国賓を招くには、その相手が国家の賓客としてふさわしいかどうかが審議されなければなりません。
その審議は当然閣議で行われるでしょう。
国賓の招待は、「一度お出かけください」「はい、ありがとう」ぐらいの茶飲み話で決められることではないのです。

以上は、何々法というようなもので決まっていることではなく、国の運営の一般常識と言えるでしょう。
もし、国賓にふさわしくない人を、国賓の名目で呼んだとしたら、常識破りの行為ということになります。
国家運営の常識を破壊する権限は、内閣のだれにもありません。

もし話の行きがかり上、常識はずれの約束を、相手が取り付けたと誤解しているなら、早く解いてあげるほうが親切です。

そんな誤解がありうるのでしょうか。
これがありそうなのです。
こくひん待遇でお迎えしましょう」と言ってあったとします。
手紙なら間違わないかもしれませんが、通訳を介した会話では、間違いの機会は何度もあります。
酷貧待遇というギャグを通訳が理解せず、国賓待遇と訳してしまった。
・こちらの通訳は誤りをそこで指摘できないから、そのまま聞き流していた。
・同じ間違いを、慌て者の先方の記者が国賓と書いて報道してしまった。
・間違いではないかと確かもめせずに、ぼんやり者のこちらの記者が国賓と報道してしまった。
・報道をされてしまっては、いまさらギャグでしたと言えずに、なんとかその場だけを取り繕おうと思案中。

困ることはありません。
あれは酷貧待遇と言ったのでお間違いのないようにと知らせてあげればよいのです。
そんな時こそ、親中一路の議員さんの活躍が役立つのではありませんか。

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駝蛇例遊:30 せいぶん 

2020年01月24日 | つぶやきの壺焼

せいぶん」という言葉が、なぜかちょっと頭に引っかかり、変換対象の多いのにあらためて興味を覚えました。
日本人は「せいぶん」という言葉が好きなのでしょうか。
名前も、読みを変えたこの文字の方がおられます。

「ぶん」にはが七例、が二例あります。
一つひとつ意味をたどっていくと、少しずつずれながらどこかでつながっているようにも見えます。

例えば、お願いごとの靖文は、まことの心を表した誠文でなければなりません。
全体の正文が確かなものであるためには、そのものごとの成分が、細かい精分まで十分把握できるような精文によって表現され、成文化されたものでなければならず、読み取る人に邪心を感じさせない清文であることが望ましいでしょう。
その願いごとがかなって、多くの人々に幸せをもたらすことになれば、後世にはそれが聖文のように尊厳の対象になるかもしれません。

さて、70年もの間、ある人には神のお告げのように思われ、ある人には常道も遮られるほどの邪魔ものになっている日本の憲法は、触れることの許されない聖文と言えるのでしょうか。

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駝蛇例遊:29 しんとう

2020年01月23日 | つぶやきの壺焼

しんとうという言葉の中で、一つだけ発音音程の違う「浸透」は、静かにゆっくり、だんだん効果が強まっていく作用なので、それが起きていることになかなか気づきません。
狙う効果は次々世代あたりにあらわれるもくろみなので、目につかず希薄な、回りくどく階層的な、相互関係に当人も気づかない、知られてはならない間接的手法を織り交て使われます。

島を乗っ取りたければ、まずその近海に魚を捕りに行き、漁船の数を徐々に増やしていきます。
漁船が増えたら、見せるための武器を載せた警備の船を差し向けます。
海難事故を装って、相手の船に軽微な損傷を与える接触を試み、そこで乗組員が捕まっても裏から手を回して帰らせます。
遭難にあったふりをして島に上陸し、そこで穏やかな生活をはじめます。
ごくわずかな土地を、他人名義で買わせ、何段階かの売買を経てまとまった土地を使えるようにしていきます。
ある程度の広さにまとまった土地で、農業を始め水源も確保します。
生活の実態が備われば住民ということになるので、いろいろな権利を得ることができるようになります。
浸透住民がまとまれば、街を占領し、広げていけば島も占領、元々の住民は浸透住民に使われて生活しなければならなくなります。

こうした裾野の作戦がうまくいけば、頂上にいる人は会う時だけのにこにこ顔で、国賓として招かれる約束を、鍛えられた口車を使って取り付けます。

そんな人を、放っておけばよいのにわざわざ相手にして気持をなびかせようと、大人ぶりをして見せる人も出てくれば、浸透工作大成功というわけです。

神道の国では、神のご加護でどんな悪者も心を改めないまでも開かせるぐらいはできるだろうと、錯覚願望が心頭を奇妙な滅却状態に陥らせます。
カネの亡者になり下がったバラバラ野党は、名前だけでもと新党への乗り換え作戦に夢中になっています。

この国は次々世代にはいったいどうなるのでしょうか。

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駝蛇例遊:28 ぎてい

2020年01月22日 | つぶやきの壺焼

血の繋がってない義弟、それが物語になるのは大抵が厄介ごとです。
人の興味を引く話は、問題を抱えているからで、何もかも順調である話は、ああそうぐらいにしか聞かれません。

もう一つのぎていに、「議定」という行為があります。
ものごとを合議によって定めることで、京都議定書という聞き慣れた固有名詞まであります。
京都議定書は、温暖化に対する国際的な取り組みのための国際条約が書かれた文書です。
この条約は、とくに今の時季では暖かいほうが好いではないかと思うような奇妙な条約です。

中心部に大きな熱源を持っている地球の表皮の部分の温度が短い期間ではいくらかずつ上昇している今の現象をとらえて、対策を産業化しようというもくろみで作られた議定書でしょう。
ガスの発生権を売買するという、バカげたことまで始まったのを覚えています。

人間生活の中で、何か筋書きが必要になると、ぎてい呼ばれるものが持ち出される、同じ発音のことばどうしには、無関係なりの共通点があって、それがどこか嘘っぽいものであるという、駝蛇例らしいものがここにもありました。

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駝蛇例遊:27 だろう

2020年01月21日 | つぶやきの壺焼

あてにならない予想、ただの願望をだろう話と呼んだ法学の先生がおられました。
憲法が法律の最高位にあるという説明と、このだろう話という言葉だけが、何十年か前からの記憶に残っています。

いま憲法を改めて読むと、なんとそこには、だろう話が書かれています。
法律の最高位にだろう話、これはいったいどういうことだろうと、不思議な感じがしています。

だろう話を信じて努力を重ねるのは、駄労と言ってもよいでしょう。
街を歩くと、今日は何だろうと思うほど、体格の立派なおじさんやお兄さんがスマホを覗き込んだまま同じところに立ち続けています。
何か運がつかめるだろうと、みな駄労のとりこになっているようです。

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駝蛇例遊:26 やね

2020年01月20日 | つぶやきの壺焼

雨上がりの陽光に光る屋根を眺めるのは心地よいものです。
上から見下ろしたとき、美しいのはやはり瓦屋根です。
夜店の金魚すくいの水槽に似た平べったい四角な箱を、数多く隙間なく並べて載せた屋根は、どこか殺伐とした感じがします。

むかしの屋根の材料には、雨に流されないかと心配な草と土、風で飛んでしまいそうな鮭の皮、足の踏み場に困るのではないかと思う牡蠣殻など、いろいろなものが使われていたそうです。

屋根職人という特殊技能をもった人も少なくなり、台風で屋根を飛ばされてもなかなか直りません。
ふだん仕事が極端に少なく、一度にドカッと仕事を頼まれても手に負えない、そんなことを専業にはできないからです。

高いところが好きな人は、ルーファー(Roofer)と呼ばれるそうですが、そのルーファーが、屋根を作ったり直したりするのでなく、屋根を渡り歩く曲芸を動画にして人に見せる仕事ができています。
屋根が元来の目的以外に別の役割を持ち、その役割を演ずる人たちもルーファーと呼ばれるようになりました。

その生業の価値は何なのでしょう。
生産性がはゼロに近くても、命がけですることに見入る人が覚える、なにがしかの感動が価値なのでしょうか。
ひやひやを好まない人は「命がけ? ヤーネ」と言うでしょう。

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駝蛇例遊:25 どうぎょう 

2020年01月19日 | つぶやきの壺焼

どうぎょうという言葉には三つの使いみちがあります。

ひとりで歩いても同行二人、いつもお大師さまと二人連れ、巡礼の傘に書かれているのはそういう意味と聞きました。

同業は、結束と競争が時により場合により繰り返され、力の方向が逆転することもある、生業の相互関係です。

童形は、むかし元服前の人をそう呼んだと言われます。
成人式を、二十歳のこれまでどおりが良いか十八歳ではどうかと論が交わされているようですが、式をいつ行うかよりも、童形から成人にどう変わるかが大事な問題でしょう。
N町に集まって、童形のままで、はないちもんめのような遊びごとを繰り返している人たちに、早く前髪を落としてもらわなければなりません。
税は童形のゲーム代ではないのです。

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駝蛇例遊:24 はな

2020年01月18日 | つぶやきの壺焼

のある人、ひと咲かせたい、人は花を愛し、はなに憧れます。

のほうは、鼻が高い、鼻の穴が広がると、自慢のたとえに使われます。

はなは人格を表すのではないかと、各国首脳の鼻を比べてみたら、妙なことに気づきました。
何を思ったかは、書かぬがはなのようです。

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蛇蛇例遊:23 けいき

2020年01月17日 | つぶやきの壺焼

景気は人間の感情変化のあらわれです。
1億人の人のうち100万人が渋い顔をしていても、9900万人の人が元気な顔をしていれば、景気が悪くなるはずはありません。

9900万人にどういう顔をさせるか、それが政治家の仕事です。

成り行き上なってしまったことは、後で悔やんでも仕方がありません。
9900万人を元気にさせるには、何かの契機をつかまえる必要があります。
都合の良い契機は、待っていてもやってきません。
知恵を絞るほどでなくても、ちょっと働かせればよいのです。

例えば、もう決めてしまって変えられない予定なら、それを契機に使えばよいのです。
春にのこのこやってくるありがたくもなんともない外国からのお客さんには、日本人の心をよく味わって貰いましょう。
機動隊の誘導で空港からの最初の経路を九段経由に、鳥居の前で停車、折角なので神殿にご案内、これこそ日本の心を知ってもらう最高のお・も・て・な・しです。

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