王としんにょうで「ゆく」「あざむく」という字になります。
この「ゆく」は、並の行き方ではなく、むやみに、遠くへ行くというはげしいものです。
ドライブでも、やたらに遠くへ行きたがる人がいます。
ハンドルを手にしているときは、たぶん王様になった気分になるのでしょう。
王と呼ばれるようになると、とかく問題を起こしがちです。
カードに半K半Jのものがもしあったら、これは大変、スペードのエースよりさらに強力、何をしでかすかわかりません。
王としんにょうで「ゆく」「あざむく」という字になります。
この「ゆく」は、並の行き方ではなく、むやみに、遠くへ行くというはげしいものです。
ドライブでも、やたらに遠くへ行きたがる人がいます。
ハンドルを手にしているときは、たぶん王様になった気分になるのでしょう。
王と呼ばれるようになると、とかく問題を起こしがちです。
カードに半K半Jのものがもしあったら、これは大変、スペードのエースよりさらに強力、何をしでかすかわかりません。
しんにょうに乗る部位には呼び名がないと5月26日に書きましたが、国語研究会の識者の説明によれば、しんにょうの上側にあっても、これは乗っているのではなく、しんにょうと組み合わさって一つの漢字を形成している部位と考えるものなのだそうです。
大統領が他国を訪問する際、飛行機に乗っていると考えると、乗るのは1機だから予備のもう1機はむだではないかと考えてしまいますが、飛行機に乗るのではなく、移動する手段として万全な状態で飛行機を使うということであれば、重要な任務のための移動に、予備機が付随するのは当然と考えることができます。
土がしんにょうと組み合わさると、徒の異体字になります。
徒は、陸地を一歩一歩あゆむ意味で、それならば土としんにょうもうなずけると思ったら、徒という字の土の部分は、トの音符としての役割を持っているのだと聞いては、歩いて行く道のどこかを外されたような、妙な気分になってしまいます。
徒の字をじっと眺めていると、しんにょうのもとの字と土が撚り合わさったように見えてきます。
徒然という言葉は、徒撚から手をもぎとられたようにも見え、なんでもカタカナにしてしまうのは、文字の面白さをわざわざ避けて通る残念行ではないかとも思っているところです。
大の字がしんにょうに乗ると達の異体字になります。
達は、途中のさしさわりがなく、つかえずにすらすらと通って行きつく意味をもっています。
大をしんにょうに乗せれば、大ぶねに乗った気で、大じょうぶだから、そんな感じでしょうか。
ところで、しんにょうに限らず、繞(にょう)の上に乗る漢字の構成要素には、偏や旁のような総括した呼び名が見つかりません。
これまでまとめて呼ぶ必要がなかったので、名付けをされなかったのでしょう。
かんむりではないかという方もいらっしゃいますが、それ以外の部位にそっくりかぶさった形でなければ、かんむりとは呼びにくいでしょう。
中身がないことがらには名前をつけにくいものですが、この場合は多様な中身があり過ぎて、名前のつけようがないのだという気がします。
漢字を制限してしまった今になっては、スーパーストアのような、中身を言い表さないうまい名前は、もうつけられないのでしょう。
千をしんにょうに乗せると遷都の遷の異体字になります。
首都移転が話題になっては消えたことが何度かありました。
お金の使い場所に困ってそんなことを考えついたのでしょうか、新しいところに行って気分を変えて仕事をしたいという人がそのときに増えたのでしょうか、とかくムダごとは面白さと仲がよいものです。
この異体字は、こう書けば「せん」と読むだろうという、意味よりも音のほうからできた字のような気がします。
同じ名前がたびたび出てくる何かの表で、加藤さんが加トと書かれていたのを思い出しました。
めったに使わない遷の字でも、画数を減らしたくなる、少しでも手を省きたい、そう読めれば意味はあとまわし、漢字にはそんなところもあるようです。
寸がしんにょうに乗ると過の異体字になります。
定年のあいさつによくある、小過はありましたが大過なくという言葉は、何もしてこなかったことへの自分への言い訳のようにも聞こえます。
自分では小過と思っておきたくても、それが積み重なれば、その職を穢す大過にもなり得ます。
はじめは、バレバレの非常識を、寸がしんにょうに乗っている程度の、ほんの少しのあやまちと思いこみます。
それが度重なって度を過ぎれば、油断しているうちにとんでもない結果を招く大過になり、国辱にもなりかねません。ちかごろ、そんな事例が、毎日のように伝えられています。
大過の傷跡は、改心がなければ拭い去ることはできません。
黙ってやり過ごせば過の字が次には何に化けるのか、空恐ろしいことです。
汚のつくりに似ているけれども、上が二の字で間がつながっていない「う」という字があって、それがしんにょうに乗ってもやはり「う」であるという、なにか息苦しそうな漢字があります。
これは、干の下端をはねた、やはり「う」という字がしんにょうに乗った「う」の異体字であると、書いているうちに頭がおかしくなってきそうな文字たちです。
この「う」は、回りくどい、目的にまっすぐ向かわずに回り道をするという意味で、迂遠、迂回、迂闊の「う」です。
MS-IMEでは「う」で登録されていますが、常用漢字には入っていません。
常用漢字には、音で「う」と読む字は、右折の右、宇宙の宇、有無の有、羽毛の羽、雨量の雨、この5文字しかありません。
迂闊の迂は、正字はしんにょうの点が二つであるのに、IMEでは点一つで間に合わせています。
辿る、辻、遥か、などもこの仲間です。
常用漢字を決めたときに、点の数を減らして合理的だと思っていたら、あとになって実用上の不合理が出てきた事例のように思います。
自動車は屋外で走るものだから性能測定は屋外でなければならないと法で定めてしまい、測定のばらつきの制御に困惑するという、あまり賢くないやり方が、違反をやり玉にあげて手柄顔をする醜い人間をつくりだしているのも、お粗末な合理性追求から生まれた珍現象でしょうか。
とかく「決めごと」は「もめごと」のたねになるようです。
也をしんにょうに乗せた「い」という字があります。
施の旁をしんにょうに乗せた字の異体字で、曲がりくねっていく、ななめにずれていくという意味をもっているそうです。
也だけで蛇のあゆみのような感じが出ているのに、それに冠をかぶせた字が本字というのは、漢字を作り上げた人たちに、かぶりもので形を整えたり権威をもたせたりする、形式ばった心情があったからではないかと、勝手な想像をしています。
池に逃げ込む蛇を思わせるこの漢字のかたちには、どこかに連想を誘うい力がかくれているようにも思います。
へびもいろいろ、ぬらりくらりと逃げ回るのもいれば、どこに現れても格好をつけたがるのもいます。
九をしんにょうに乗せた字がありました。
軌の異体字、わだちです。
数字に使われる九は、つかえて曲がる意味を示す字と言われます。
しんにょうに乗せてみると、どこかで曲がって方向が変わる行き先を暗示するような文字に見えます。
車に限らないところが、軌よりも、意味が広そうにも思います。
わだちも、どこかで曲がるか行きどまるかして、永遠にまっすぐということはあり得ません。
軌の字には、踏み外してはならない筋道と、かばいあって悪事を隠す行いの両方の意味があるそうで、オヤそうだったのかと、何とはなしにうなずかされます。
無軌道という言葉がありました。
あれは、軌道から外れた行いというより、軌道もなく、そもそも常軌という概念をもたない人の行いを指すもののようで、ときどき立派そうな顔をしながらそういう行為に及ぶ人も現れます。
軌道の集まっている中心都市に無軌道な行いが多いというのも、これまた奇妙なことではあります。