・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

赤い旗

2011年02月28日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

赤い旗が見える。

「しんぶん赤旗」という日刊の政党機関紙があるが、いまの通称「赤旗」はもとは本名だったらしい。

その赤旗とはまったく関係のない赤い旗である。

赤い旗さしものは目に付きやすい。

山下又右衛門という旗本は、真っ赤な旗を立てていたそうである。
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http://homepage1.nifty.com/akazonae/second/naomasa/sasimono/sasimono.html

冬の陽、それと反対方向の風に、赤い旗はなびいていた。     

 


赤い自転車

2011年02月27日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

海岸に沿った遊歩道に、赤い自転車が置いてある。

乗り捨てではないと思う。

どんな人が乗ってきたのだろうか。


白いブルゾン、白いパギンス、真っ黒な長めのストレートヘア、赤いフレームのサングラス。

自転車の姿態に釣り合った、すらっとした人を想像していた。


現れたのは、ジャンパー姿のおじさん、いや、おじいさん。

そして紙袋を荷箱に投げ込んだおばあさん。

これで二人乗りか。違うだろう、じいさんが先に帰って茶でも沸かして待つのか。


苔むす

2011年02月25日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

道を歩いていてひょっと足元を見ると、排水枡のわきに苔が生えている。

撮ったときは気づかなかったが、苔と、歩車道両側の枡のふたの模様の組み合わせが、錆びかけた弱めのガードレールも手伝って、何か奇妙に見える。

苔、二つの枡、ガードレール、そのどれがなくてもこの奇妙な画面にはならない。

ものには、それぞれの役割をもったものも、役割をもたないものもあって、それらが一緒になると、おのおのの役割とはまったく無関係で無用なのだが、役でない何かが生まれてくる。

人の集まりもそうなのだろう。役立たずとか、邪魔者だとか、そこにいる人を役目や価値勘定だけで見てはいけないのだ。


幻惑視点

2011年02月24日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ものごとは見方によって受け取り方が変わる。

日本の道路は多いのか少ないのかを、他国と比べた論議がある。
多いか少ないかは日本の国の中の問題なのだから、よその国と比べてどうこう言うのは視点のすり替えなのだが。
外国人によく思われたい、観光客を増やしたいというのであれば、観光招致の価値のあるところだけ取り上げて比べてみればよい。

可住地面積あたりの道路密度が、日本は他国に比べて大きいなどという、滑稽千万な論にもならないことを、道路予算削減の理屈に持ち出す人もいるらしい。

自動車保有台数と比べたデータもある。
まあ可住地面積を引きずり出すよりはましだが、これも論争用の効果しかない。

道路新設の要否は、その地域、周辺地域、さらに広範な地域、国全体、空港・港湾との接続、道路混雑の出現度、渋滞による生産流通の阻害度など、多元解析のもとに論じられなければならない。
ただ1面だけの見方で仕分けを論ずるなどは、芝居面で人を判断するのと変わりはない。

こういうことがらを検討するには、利害感情を持ち込みやすい人を参加させてはならないのである。


風化

2011年02月23日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
金属には疲労破壊という現象がある。
試作品は、穴あけにレーザーを使い、構成材を傷めずに仕上げても、本番では、プレスでドンドコ穴をあけるので、穴の周りに目に見えないひびが入り、そこからだんだん壊れてくる。
そんなことはあちこちにあるだろう。



石材には風化という傷みが起こる。
永い年月風雨にさらされると表面からボロボロ崩れ落ちてくる。
石の壁も、海に面したほうから、しかも水の溜まりやすいところから崩壊が始まるように見える。

構造物は、[1]加工のときに無理をしないこと [2]使う場所で水はけ水切れをよくしておくこと、この注意だけで寿命がずいぶん違ってくるのではないか。

誘導

2011年02月22日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
駅のホームから転落した経験を、目の不自由な方の半数がもっておられるとラジオで言っていた。
ひとりで電車に乗って出かけられるぐらいだから、目が普通に見えてボヤっとした人よりは余程神経が研ぎ澄まされておられると思うのに、半数とはいかにも多すぎる。


ホームにはここから前に出ないでくださいという警告用点状ブロックが埋め込まれている。
しかし、ここをお通りなさいという線上ブロックは見当たらない。
目の不自由な方が標識に頼るとなると、ホームの端に近い点状ブロックしかない。
これでは、危険ですという境界線を通路に見立てて、方向を察知するしかないではないか。
おまけにホームの最先端には、溝が刻み込まれたコンクリートブロックがずっと続いている。これが線状誘導ブロックと勘違いされることはないのだろうか。

ホームの構造について、目の不自由な方に現場で実際に歩いてもらって意見を聞いてみたのだろうか。
目の普通に見える者が集まっていくら想像をめぐらせても、目の不自由な方の感覚を体験することはできない。
目隠しをしたぐらいでわかることではないのだ。

リサイクル

2011年02月20日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ものを作るとき、これでよいという作り方もあれば、これならよいというのもある。
もう少し程度が下がって、これぐらいでよいのいうのもある。

リコール騒ぎになるのは、これぐらいでよいとしておいたものに多いのだろう。
家電や車にはこれぐらいでよいが多い。

洗濯機の脱水の力が弱くなったと、家の者がこぼす。
糸くずフィルターというのが槽の中に2箇所ついていて、網の袋に毛くずが溜まるようになっている。糸くずフィルターという名だが、洗濯中に繊維からはずれていくのは、糸より細かい毛状の繊維くずが多い。

脱水力低下は溜まった毛くずのせいだった。
この糸くずフィルターが「これぐらい製品」で、掃除するために引き出そうと思ってもなかなか出てこない。
どういう力の入れ方をしたのか、こじ開けたのかわからないが、フィルター・カバーをはずそうとしたら、上端でカチッととまる部分が壊れてしまったという。

Webで手に入るから補給は簡単だが、そうたびたび壊されてはたまらない。
実際にやってみると、確かにばね部分を下に押し下げながら手前に引き出さなければならないので、指の力がなくなってきた老女にはこれは難儀なことなのである。

力不足の指先を助ける道具を作ろうかと思い立ち、出来上がったのが写真のものである。
カーテンつり金具のあまっていたものの先を、フィルター・カバーの把手に合うように削って、古歯ブラシの柄を切って取り付けた。

捨てようかと思っていたものがまた息を吹き返した。
こんなのはエコでもなんでもない、ただのリサイクルの実践である。

つなぎめ

2011年02月18日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ものは、つなぎめがしっかりしていればなかなか壊れない。
全外の形が大きなものほど、つなぎめは難しい。



駅のホームの改造工事が片付いた。
なるほど、だいじなつなぎめには、ずいぶん上等の材料を使い綿密に組み上げた苦心の跡が見られる。
最近あちこちに地震や噴火が多いが、少々のことではずっこけないようにできているのだろう。

四分割

2011年02月17日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

 

道を歩いていると、街のどこかに四分割が見つかる。

実際は2軒、ことによると1軒かもしれないこの家が4軒にも見える。

別々のものは一つにはまとまって見えにくいが、まとまったものは分割されているように見誤りやすい。

元来別々のものを、まとめたときの数の都合だけで一つだといってしまうと、どこかに無理が出る。

入り口が一つなら上下はまとめやすいが、左右のまとめは難しいのが世の常である。

 


充電

2011年02月16日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
かみそりの充電にはタイマーを使っている。
相当の旧型でゼンマイ巻上げ式のアナログ・タイマーである。
見てすぐわかるから使い方を覚えなくてよい。差し込んでつないで回す。それだけである。
いろいろな設定を一つの画面でかわるがわる行うのが、いま様のデジタル方式らしいが、進んでいるような顔をしながらわかりにくい点で遅れている。
考えながら使わなければならないような、あるいは使い方に練習の要るような道具は、進んだ道具とはいえない。

充電が終わった。さて回してみようかとかみそりを取り上げると、ありゃりゃ、かみそりのスイッチをONにしたまま充電していた。
完全放電してから充電という手順にけじめがついていなかったのだ。
安いかみそりには、スイッチが入っていると充電できないインターロック・システムはない。

ちかごろ情報はときどき垂れ流されるが、これは電気の垂れ流しだった。

かたち

2011年02月15日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
習いごとはかたちから入れとよく言われる。

かたちには、自分がそうなるかたちと、自分の外側をそうさせるかたちがある。

自分がそうなるには、修練、カナ書きにすればトレーニングを積み重ねなければならない。かたちがわかっているだけでは思いどおりにできないのだ。

自分の外側をそうさせることには、またふたとおりあって、相手が生き物の場合とそうでない場合とに分かれる。
相手が生き物以外にはかたちを造っていくことになる。建築物などはかたちの違いが誰の目にもはっきりわかるので、造るほうも観るほうも、良い悪い、好みに合う合わないを言いやすい。

建築物は、およそ正面や側面からはよく見える。
上から見下ろす機会は少ない。


また新しい建築が始まっている。
隣の家との距離がほとんどなく、軒が競り合うのでは思うほどである。
ずっと見渡すと、こじんまりした家のわりに屋根のかたちの複雑なのが多い。

屋根屋の話によると、家を建てるとき、屋根のかたちは単純にしたほうが良いという。
複雑なかたちはしゃれた風に見えても、雨漏りの原因になりやすいそうで、確かにそのとおりだろう。
モノはつなぎ目が肝心で、故障は大体つなぎ目で起こるから、屋根もつなぎ目少ないほうが良いという説はもっともである。
中央に1本水平の棟があって、両側に対称に流れる形の屋根、これがいちばん故障が少ない。
建築を業とする人ならみなそういう単純な理屈はわかっているはずなのに、なぜこんなに苦心して切込みを入れたり段をつけたりするのだろうか。

バレンタインデー

2011年02月14日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)


漁港近くのバス停、もうまもなく日が暮れる。

大きな鉢に咲いているパンジーのまばらな様子も、夕暮れどきの景色には合っている。
昼間見ればずいぶん貧弱な、と思うかもしれないが。

パンジーの名のもとは、学者先生たちを大いに悩ませたらしい、あの「パンセ(仏: pensee 考え) 」からといわれる。
聖バレンタインが愛の言葉を鳩に託して送るときに使ったのが、後にパンジーと名づけられたこのスミレの葉だったという伝説がある。

今日はバレンタインデー、中国では街にクリスマスソングが流れ、花火の煙で目の前が見えなくなるところもあると聞いた。

世はさまざまである。