・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

人道はとりあえず一方通行

2015年01月31日 | つぶやきの壺焼

横浜駅の東端に、何本もの線路をまたいだ東西連絡橋がありました。
東端としたのは、その方向の隣に東神奈川駅があり、反対側に西横浜駅があって、そう呼びやすいからです。
その東西と、座標軸で言えば直角方向の橋に、東西連絡橋という名もおかしいのですが、これは横浜駅に地下道がなかったとき、東口から西口に渡れる橋だったので、わかりやすそうな勝手な呼び名をつけてみたものです。
こういう説明を始めると、話はだんだんわかりにくくなります。
わかりにくい話をわざわざ持ち出したのは、そのことでいまさらながらの発見をしたからです。
横浜駅の出入り口は、東口/西口と呼ばれていますが、海側を南口、山側を北口となぜ呼ばないのか、地図をあらためてしげしげ眺め、それで気付いたのです。
両方の口を結ぶ線が、南北方向よりも5度だけ東西の勝ちということでした。

言葉というものは、それだけでものごとをわからせようとしても、なかなか通じません。
くだくだ説明するよりも絵図を示せばすぐわかることがたくさんあります。
そかし、人間は、絵や態度だけではなく、言葉で何とかしたいと思う生きものです。

話に乗せた東西連絡橋は、人道橋と呼ばれていました。
この人道橋は、もちろんどちらからでも自由に行き来できました。
人間と、連れ歩く犬には、通行制限はなかったでしょう。

「人道」こう呼ばれることには、どこでもいつでも通行制限がないものと思いがちですが、実はそうでもなさそうです。
人道支援は、提供者側の言葉であって、受けるほうは人道とは考えないからです。
受けて当たり前、あるいは何かあるのか下心、そんなところでしょう。
人道を授ければ人道が帰ってくるというのは、能天気な思いでしかありません。
支援と組み合わされる人道は、いまのところ一方通行なのです。
いまのところとは言ってみても、一方通行でなくなる日は万年先かもしれません。
何千年かけてもだめなことは、歴史が証明しています。

「相身互い」というのは、「武士は」が前について成り立つ言葉です。
同じ民族、同じ倫理感のもとでなければ通じません。
それでも「恩をあだで返す」という言葉があるくらいです。
人道という言葉を自分たちと同じように解釈する人々が、地球の裏側にもいるだろうと思い、そう願うのは崇高なことではあっても、それを崇高と思うかどうかにも、民族の違いが現れ、厳然としているそれを動かすことはできません。

人道は、ほかの道がないときに役立っても、便利な別の道ができてしまえば、パフォーマンスの場にしかなりません。
人道橋に立って、大声でそこから呼び掛けたとき、下のホームにいてそれに気づいたわずかのの人は何と思うでしょうか。

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救急隊装備に 改革を

2015年01月30日 | つぶやきの壺焼

大地震での救急隊の活躍を主題にしたTVドラマがありました。

建物の下に閉じ込められて、全く怪我がないのに、そのまま時間が経って火災で焼死した人、火災現場から脱出できず、呼吸のできなくなった被災者に、自分のマスクを付けさせ、落命寸前になった救急隊員、どれも悲しい話です。

見ていて思ったのは、必ず予想されるそれらの場面に、無機材で立ち向かわなければならない隊員のご苦労に、装備の改革が考えられていないのだろうかということです。

いまの時代、作ろうと思って作れないものは、ほとんどなくなりました。
救急隊は、救助対象者用の酸素供給マスク、小型電鋸、小型ジャッキぐらいは持って出たほうがよいのではないでしょうか。
マスクは短時間有効であればよいでしょう。
工具も、手ではできないことを何とかする程度のものでもよいでしょう。
完璧を狙えばきりがありません。
用具の能力不足を責められるのを怖れていては、何も持つことはできません。

できないことを検討し続けても、ものごとはよい状態にはなっていきません。
できる限り精いっぱいのことを、いますぐに準備しておく、それも救急活動のうちでしょう。
綱渡りよりも、もっと実際的な訓練項目もあるのではないかと思います。
いかがでしょうか。

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日本語の理解を妨げるもの:2~違い探し

2015年01月29日 | つぶやきの壺焼

分解が理解を遠ざける話は昨日書きました。
分解に行き詰まると、方法が比較にずれていくことも書きました。
そこで、違うものは違うだけのことと言いましたが、違いを見つけるのは、はっきりした区別が必要な場合で、何でもかまわず比べておいて、どこが違うと言ってみたところで、それが何だでおしまいということです。

私はこう思います。
理解が目的なら、違いは自然にわかるだけで十分、と。

ひとから聞いた違いなど、理解の助けにはなりません。
ああそうなんだ、と思ったところで、それだけの話です。
そのとき自分の頭は、入り口の扉があいているだけですから。

違い探しよりも、共通点を見出しましょう。
お断りするまでもありませんが、見いだすというのは、聞いてみることではありません。

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日本語の理解を妨げるもの:1~二つのブン

2015年01月28日 | つぶやきの壺焼

日本語で書かれた小説を、分解して読む人がいます。
そういう人は、小説を組み立てている文章の一つひとつを取り出して、まず分解を始めます。

文章の分解には、文法という道具も役立ちます。
ここで文法の効能を知ってしまうと、それを使うことが面白くなって、使われている言葉の分類に凝りだします。
分類するだけではおさまらず、そのうちに文章の正誤審判にも役立てようとします。
書かれていることの理解に、文法上の正誤など役に立たないことには気づきません。
そうなると、読者が小説を読んでいるのか、文法が小説を読んでいるのか、区別がつかなくなります。

分解は文章だけではおさまりません。
熟語の分解が始まります。
熟語は分解してしまうと意味を持たなくなることに、そこで気付いた人は、別の熟語との比較を始めます。
別の熟語は、文字が示すように違いを持っています。
違うものは違うだけのことなのですが、そこでわざわざ違いは何かと整理整頓をしなければ気分がおさまらなくなります。

これでは、いつになったら全貌を理解できるのか、前途は遼遠の域の、さらに彼方に遠のくでしょう。
分解に比較が加わり、さらに時の次元が気になり始めれば、その作業範囲には終わるときがなくなります。
理解を超えて、その小説の叫びを聞きとることなど、永久に手の届かないところに行ってしまいます。

分解と文法、この二つのブンは、小説に限らず、文章の読み手にとって大きな障害要素ということになりそうです。

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言葉の由来 珍混寛:1~間抜けはどこから

2015年01月27日 | つぶやきの壺焼

間抜けという、あまり上品でない言葉があります。
間抜けと呼ばれると、バカと言われるよりも腹が立つかもしれません。
バカにはそのまま言い返しがききますが、間抜けをそのまま返したのでは、それがまた間抜けに聞こえます。

間抜けは、間が抜けている、所作に抜かりがあるさまなのですが、これを真受けの変化形と見ると、「ま」がまた広がっていって、なかなか面白そうです。

いたずらを真に受けるにも、そのふりをするにも、面白さを損なわないためには技巧が要ります。
漫才の面白さはその技巧次第で、題材の品位や密度にはほぼ無関係です。

大仕掛けないたずらになると、真の受け方にも骨が折れます。
間抜けぶりを演じながら、巧く交わさなければ、受けたほうが真の間抜けになってしまいます。
大昔の大ボラを信じてしまい、それが間抜けの源泉になっていると、世の中から間抜けを一掃することはできません。
根強い間抜けには、グローバリズムも歯が立たないでしょう。

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辛口にも 内緒話があるのか

2015年01月26日 | つぶやきの壺焼

ラジオに「XXの辛口YY」とういう番組があります。
辛口といってもそう酷い辛さではなく、中身は面白いのですが、ときどき内緒話のように聞こえなくなってしまうことがあります。
音声モニターが、これは聞かれたくないと、まさか放送音量を下げることはないと思いますが、ボソボソと小さくなるのです。
そのときに、アナウンサーの相槌が普通の声なら、話すほうも気がつくと思うのですが、いっしょにボソボソ、モゴモゴと付き合い始めると、ああまたかと、受信音量を上げなければ聞こえません。
こうなっては、ラジオ放送なのか、喫茶店での内緒話なのか、区別がつかなくなります。

辛口の番組名に釣り合いのとれた、はっきりした口調でしっかり聞かせてほしいと、そのたびに思います。

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イッキ相撲には 味もなければ未来もない

2015年01月25日 | つぶやきの壺焼

久しぶりの水入り相撲、若い大型力士の対戦は、まだ技を持たない同士にしても、記憶に残る一番でした。
一番どころか、何番分もの力と気力と時間を使った勝負でした。

相撲の味はさしみにあって、それが楽しみでもありますが、さしみなどという小手先の技ではなく、はじめからがっぷり組んだ四つ相撲にも、噛みしめる味があります。
大きなサバを、弟と二人で一匹ずつ丸ごと食べた昔を思い出し、懐かしさを覚えました。

行司の声より先に勝負が決まってしまうようなイッキ相撲には、やはり味がありません。
ビデオがなければ記憶にも残らないでしょう。
人々の記憶に残らない取り口は、その日の星の色分けだけで、未来さえもありません。

突っ込んではパタン、寄りかかってはパタン、セコさどドンクサさの競争のような、こんなイッキ相撲が減っていけば、お面だけに集まっている観客も、相撲を観に集まるようになっていくでしょう。

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気が抜けたかどうかは 味わってみなければ

2015年01月24日 | つぶやきの壺焼

33度の優勝で、44年ぶりに記録を塗り替えた横綱白鵬、その日のうちに2度勝ったのですから、これは確かな優勝です。

場所の星具合によっては、負けた日に優勝が決まるということもありえます。
しかし、負けて優勝では、まず気分が出ないでしょう。
優勝決定は、勝つ日までお預けにしたらどうかと考えたこともあります。

人気力士はもう負け越して、おかげであと2日は、気が抜けたような土俵にならないかと思ってもみましたが、まだカド番でドキドキの人もいますから、何とかもつでしょう。

そうそう、横綱もカド番あり、にしたらどうでしょう。
白星が1桁になったらカド番、まさか綱を返上させるわけにはいきませんから、クンロク結びの細い綱に換えさせて、毎日の土俵入りの都度気持を引き締めさせたら、という算段ですが、いかがでしょうか。

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食べず嫌いには パインも異物

2015年01月23日 | つぶやきの壺焼

焼きそばに載った刻み紅ショウガが嫌だという子がいます。
たこ焼きの上でゆらゆら動く削り節が嫌だという子もいます。

スーパーで酢豚を買った人が、パイナップルが入っているのを見つけて店に文句を言ったら、その店では棚の酢豚を全部回収したという話がニュースになっていました。
その店では、回収した酢豚をどうしたか、従業員は、店の夕食に酢豚食べ放題で、思わぬごちそうに喜んだらしいです。

パインの入った酢豚を食べたことがない人は、それを異物と思うのでしょう。
見るだけのものはゴチャゴチャしたものを好み、食べものは単純で混ざりものがないのを好むという、奇妙な嗜好のバランスのとり方もあるようです。
菓子の袋は、頭がおかしくなるほど激烈な図柄なのに、中身は至ってシンプル、単一色、単一味、混ざりもののないものが好まれます。
しかし、中身が単一に見えて、実は素材にも味付けにも、名前も知らないような、数えきれない多種多様の材料が使われていて、異物のかたまりのようなものであることには関心は届きません。

酢豚の中のパイナップルを怖がった人は、顔見知りの人以外には、声をかけられても素知らぬ顔でいなさいという習慣が、食べ物の選び方にも滲みこんでいるのでしょうか。

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大変だ タイヘンだまでが 大騒ぎ

2015年01月22日 | つぶやきの壺焼

兵庫県 三田(さんだ)市 木器(こうづき) に、屋根に半鐘を置いた立派なお屋敷があります。

なぜ「半」の鐘と呼ぶのか、知りたい気もしますが、呼び名は慣習で落ち着くものですから、由来などといってもだいたいこじつけが多いので、それを深追いするつもりはありません。
太い棒で突くのが梵鐘、それより小さく槌で叩くのが半鐘、大ものはつつかれ、半端ものは叩かれるということでもないと思いますが。

警鐘に使われるのは半鐘のほうです。
急ぎの報せに、ぶら下げた棒に反動をつけてからついていたのでは間に合いません。

危急のときでもないのに、半鐘をむやみに鳴らすのは犯罪です。
国の名まで付けた組織が、石油価格急変のおかげである資金枯渇を怖れて、半鐘を鳴らした事件がありました。
自分の都合でタイヘンを告げられても、告げられたほうは大迷惑です。
あれは、普通の目でみれば、明らかに下手に作った造画とわかる絵を使って、200億もの身代金を吹っ掛けるという、子供じみた鐘の鳴らし方でした。

鳴らされた日には同じ絵をずっと出しっぱなしにして、同じことを何度も繰り返し繰り返し放送していたTVも、二日目以降はそのことについて知らぬ顔のはんべいを決め込んでいるかのようです。

半鐘には、一点と二点の交打一回という、鎮火信号の鳴らし方もあるようですが、今度の半鐘には、一点と二点の交打信号が鳴らされるときがくるのでしょうか。
一回では聞きそこなうかもしれません。

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失敗にも手段があった

2015年01月21日 | つぶやきの壺焼

失敗の結末も、つけかたがあります。
結末の失敗は、しくじりの上塗りになります。

自殺にせよ、他殺にせよ、それを手段に選ぶことは、結末にもなりません。
人命を失い、失わせれば、そこで事も話も決して終わりません。
必ず何かが後に引きずられるからです。

9.11でビルを壊したのは、やり過ぎという失敗の大見本でした。
パイロットは、目の前に迫る巨大ビルに、目がくらんだか酔ってしまったか、あれは操縦ミスでしょう。
ビルの端っこを少し壊すぐらいで十分だったのです。
計画通りだったとしたら、失敗計画でした。

人命を奪う方法は、どう考えても知恵のなさすぎです。
落着のない結末は、巧みなつもりで描いた絵柄も、全く値打ちのないものにしてしまいます。

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比較反原則

2015年01月20日 | つぶやきの壺焼

対比という方法は、何かにつけて判断の幇助をしてくれます。
比べてみると違いがわかるという、ごく当たり前の考えなのですが、これが原則だと思ってしまうと、ときどき悪さに見舞われます。
判断の妨げになる悪さです。

どういうときにそれが起きるか、それは比べても、違いがわかっても、それには何も意味のない場合です。
近所のおうちと、自分のうちの収入を比べてみても、くやしさが募るだけです。
12番と10番の子を比べて、追い越せと言ってみたところで、成長の助けにはなりません。

いちばんばからしいのは、食べ比べです。
同じ種類の食べものは、比べればどちらかの味が必ず悪くなります。
違うものなら、比べても意味がありません。

いちばんつまらないのは、スイーツの食べ比べバイキングでしょう。
舌の感覚が鈍って、おなかが出っ張るだけです。
酒の飲み比べ、それはちょっと違いますな、ニヤ。

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常識は蠕動する~不思議であるような ないような:2

2015年01月19日 | つぶやきの壺焼

生きものは、ずるずると、形を変えてうごめくことがあります。
ぜんどうというその動き方です。
やわらかい虫を表した蠕には「じゅ」という漢音もあって、普段何気なく使っている需要の「需」が、求めることと、やわらかさとの、両方の意味を持っていることに思いをあらたにさせられます。

千五百年ほど前、アジア大陸には、蠕蠕「ぜんぜん」あるいは「じゅじゅ」と呼ばれた遊牧民族があったそうです。
少しずつ必要なものを求めて移動を続け、ときには乱暴があったにしても、どこかのその上をゆく乱暴ものに追い散らされたか皆殺しにあったか、いまはもういろいろな呼び名を残すだけになりました。


蠕動するのは生物だけではなく、人びとの日常の考えもじわじわと変わっていきます。
常識の蠕動です。

主要国の首脳が手を取り合った力の集合体が、元来力を持たない人々が行っていた街角の示威運動に似たデモを始めるなど、世界の常識は大蠕動をしています。

半世紀以上も前に裁きの済んでいることを、言いがかりの材料にして責め立てられたときにも、ひたすら謝り続ければ許してもらえるだろうというような、優しい大和ごころは、すでに世界の常識から置き去りにされています。

蠕動は、内にもった力によるもので、その力がなくなれば、固化して粉々になるか、大地に埋もれて化石になるかしかないでしょう。
そのことに気付かなければ、大きな組織のつもりのそのまた上には、1億人を超える人々の命運のかかった、さらに大きな組織があることを、迂闊にも忘れてしまうのではないかと、これは昨夕の空虚な叫び声を聞かされたときの感想であります。

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システムのストップ機能は ユーザーの低能力を招く~そんなばかな:8

2015年01月18日 | つぶやきの壺焼

普通の人間が作るシステムには、ストップ機能が付いています。
止まることが売りもののシステムもあります。
それが生まれたのは、いま以上の走り方に売りどころが見つからなくなって、ならば止めることにしてみてはとの思いつきからではないかと思います。

止まることは安全側という、単純な、しかしどこか怪しい原理も手伝って、しばらくは好評が続くことでしょう。
怪しいと言ったのは、安全性が高まると考えたそのことが、運転者の意識を覆う油断の薄皮を、次第に厚くしていく懸念があるからです。
障害物があれば自動で止まる、それなら居眠っていても大丈夫、手にとるものを確かめながら何か食べても大丈夫、CDの束から好きな曲を探しながらでも大丈夫と、まさかの仕草を普通のことにしてしまう日が、いつか必ず訪れます。

システムに組み入れられるストップ機能も、それを使う自分がそのシステムに組み入れられ埋没してしまうと、それが見えなくなります。
戦での失敗はほとんどがそれでしょう。
味方の多勢に油断、敵の動きに目が向かない、戦場の孤立が最大の危険であることを忘れる、ないものをあると見る、そこにはもういない相手に狙いをつけたつもりになる、みな外から見つめる感覚の鈍化が敗戦を招いてきました。

多分いまどこかで研究が続けられているであろう、考えてくれるロボットなどは、人間の低能力化の最強の味方になることはほぼ間違いないでしょう。

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コンプレックス・マインドを育てよう

2015年01月17日 | つぶやきの壺焼

いったい何を言い出すのか、標題を見ればそうお思いでしょう。

コンプレックスという言葉は、人の心の弱さや、いじけ病の症状のように使われる機会が多いので、悪もの扱いされ勝ちです。
もともと善悪のどちらでもないことを、どちらかに引き寄せれば、意味がわかりやすくなるだろうという、無意識の収斂解釈法には、ときどき出合います。

コンプレックスとは、一緒に折りたたむという意味をもっていて、複合状態、あるいは複合体のことだったのです。
それを、心理学の大先生方が学説にこの言葉を使ったので、弱い心の代名詞になってしまったようです。
しっかりした強い心には縁の薄い、弱者の味方のような心理学で使われれば、弱さのほうに解釈が偏っていくのは自然の成り行きでしょう。

何でも単純化単一化に肩を入れ過ぎた私たちは、自分で考え、それを表現するという人類最大の能力の前半部分、つまり考えることを避けるようになってしまいました。
ありのままにがなぜよいのかとは無関係に、あの歌が好まれるのもその顕れなのでしょう。

考えるという頭の働きは、複合の作業を余儀なくされます。
あらゆるものごとを、表皮の部分だけでも簡単に知ることができるようになったいま、複合体の創生に向けた自然な頭のはたらき、心の動き、これをコンプレックス・マインドと呼んで、若ボケ防止、若バカ退治のキャッチフレーズにすることを提唱したいと思っています。
いかがでしょうか。

コンプレックス・マインドとは、聞く前にまず考える気になろう、ということです。
そして、教えてもらわなければ知らなくてよいのではない、ということです。

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