数字で時刻を示すデジタル時計には針がありません。
アナログ型らしくしたものにも、針も文字もない時計があります。
秒の仕事をしている人は、こういう時計で心を休める時が作れるかもしれません。
そう、時は訪れを待つだけでなく、作ることもできるのでした。
たくさんあるからあげると言われて、昔もらったホッチキスの針が、紙を綴じることが少なくなったこともあって、まだ手元に残っています。
綴じたものをまた重ねるには針が邪魔になるので、紙で綴じるホッチキスを伊東屋までわざわざ買いに行って使ったこともありましたが、特殊な紙のタマがなくなるのと一緒に本体も姿を消しています。
いまは針のありなしどちらが主流だろうかと検索を試みました。
目についたのが「針なしホッチキス 80枚」というキーワード案内です。
これはすごいとそこに行ってみると、針なしホッチキスと80枚綴じられるホッチキスで、80枚のほうは針を使うものでした。
80枚の厚みを針なしでは、やはり無理のようです。
ニッパーは、摘み取る道具でもあり挟む道具にもなります。
刃の面をハンドルと直角方向にしたエンドニッパーと呼ばれるものがあります。
大工道具の喰い切りと同じ構造で、切断物の軸線と切り口が直角な、平面に近いものになります。
木工で、釘の頭を目立たないようにする切り取り作業にも使えます。
この使い方から、これまで当たり前すぎて気に留めてなかったことがわかりました。
釘の頭は、叩かれるためについているので、打ち終わって釘本体が両方の材をしっかり結びついた後は、その場ではもう用がないのだということです。
また、叩かれる位置は釘本体の最後尾で、頭のほうが先では打ち込むことはできません。
柔らかい材なら頭のほうからでも打ち込めますが、打ち込んだ後はゆるゆるで釘の役目はしないでしょう。
国どうしの結びつきがうまくいかないのも、頭を先にした逆さ釘で何とかしようという、無理な使い方が禍になっているような気がしてきました。
普通のろうそくは、芯が一本で、上から下に向かってだんだん燃えていきます。
珍種には、芯が網の目のようになっていて、どっちに向かって燃えていくのかわからないろうそくもあります。
灯のともるところは一か所に限らない、下から上に燃えるかもしれない、そのときどうなるか予想もつかない、現代を象徴しているかのようです。
おお、まだあったか、そんなデパート屋上の遊園地がなくなるというニュースがあります。
人間の考えることが、楽しいことを何とか続けるよりも、心配事を減らすほうに傾くと、幸せ気分はだんだん遠のきます。
この屋上ガラパ遊園地の廃止理由は、耐震工事の資材置き場にするためとされています。
デパートの経営者にとっては、建物の地震への心配と、遊具が故障してけが人が出る心配の両方が減るので、一石二鳥とも言えます。
街の人々は、諦めの一方で、工事の資材置き場という一時的なことが理由であることに、知恵の廻らせ方への不満が消えるまで時間がかかることでしょう。
ものごとの説明は、しばしば曲げて解釈され、曲がった形で伝えられます。
説明に、紳士気取りの婉曲表現が使われると、解釈の曲げ方はほぼ自由自在になります。
まっすぐなものは、どちらから見てもまっすぐにしか見えませんが、曲がったものは見る方向を変えればどんな形にも変えてみることができるからです。
説明を同じ言語で解釈しているうちは、曲げ方の習性がわかっていれば、はじめの説明を想像することもできますが、途中に異言語との翻訳が入ると、曲げどころではなく、全く逆の意味にとられることさえあります。
記者会見でのひねった表現は、国外に伝わったときには、わけのわからないものになるので、わからせようとするには、まっすぐな表現を貫かなければなりません。
こう言っておけばわかってもらえるだろうというような、言い逃れ半分の方法では、後に抜き差しならない大きな禍根を残すもとになります。
大人の対応というもっともらしい言い回しがあります。
おおよそは、言うことをきいてやるだけで何もしない場合に使われます。
何もしないのも対応のかたちだと、都合よく手段に仲間入りさせているのです。
これが大人の対応だと唱えるとき、相手は子供のように見られています。
相手を普通の大人と見ていれば、こちらがわざわざ大人ぶる必要もないからです。
何かのことで大人の対応をしてくれたと安心したり、また次に同じような扱いを期待しているようでは、いつまでも、相手側は駄々っ子でいなければならないということになります。
戦後復興に忙しいとき、普通列車が鈍行と呼ばれていました。
乗降客の少ない駅にも止まる走り方が、気の急いた人にはウスノロく感じられたからです。
普通であることを、普通と言うには、人々の感情が普通の状態でなければなりません。
隣国首脳の狂態の極端さから、国交の普通化へ向けた取り組みという言葉さえも生まれています。
普通であることは、人権、平和、環境などと騒ぎたてることよりも、はるかに身近なだいじなことと思うのですが。
頭の悪い人は、バカになれなません。
バカと呼ばれる人は、相手より上位に見られていることが多いようです。
バカ呼ばわりは、理屈で、少し上品にいえば論理で、攻めかたに窮したとき発せられます。
もう少し言いようはないのか、と思われても、それしかないからつい出てしまうのでしょう。
ニュースの見出しは13文字程度がよいという説があります。
「塾代60万円の衝撃 大卒型人生モデルは継承もいばら道」
この見出しは、うしろ3分の2で誤読のタネをつくっています。
あわてもののひと目流しで、入社後にまた塾に行かされて60万円も取られるのかと読んでしまいましたが、これが大違いで、60万円は小学校6年生の塾代だったのです。
「小学生の塾代60万円の衝撃」とでもすれば、読み違いはなくなるでしょう。
なぜそうしないのか、この記事は時間をかけてよく読んでほしいという、作家気取りの下心が見えるような気もします。