・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

海から真水がとれる聞き違い

2015年03月31日 | つぶやきの壺焼

「これは、深い海の底から取り出した真水です」と聞かされると、海の底にも真水が溜まっているところがあるのかと、早ばやとトチる人も出てきます。
説明する人が、冗談で「そうなんです」と言おうものなら、奇を好む人びとの多い社会では、それがたちまちほんとのこととして伝わり広がります。

海の水が塩辛くないはずはありません。
なぜ真水があると思うのか、それは、深いところは普通とは違う、と思いたい人が多いからでしょう。
塩分を抜きとる工程の説明を、聞きそこなっただけのことなのですが。

「深い」という言葉には、どこか魅力や魔力があります。
言いようのない感情を「深い」とだけ言う人もいます。
そのときは、何が深いのか言葉が見つからないのです。
「深いですね」と、うっかりすると「不快ですね」「付会ですね」のモジリかと思うような褒め言葉も使われます。

「深みにはまる」というのも、深いところに引き込まれてみたい心情からの失敗なのでしょう。
深いことへの憧れは、思慮の浅いこと、浅ましさに対抗して、人びとの心の底のどこかに渦を巻いているのかもしれません。

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安心材料にもならない数字

2015年03月30日 | つぶやきの壺焼

PM2.5 の濃度を 10% 減らしたと発表があったことを何日か前に聞きました。
おお、1 割も減らしたか、お見事などと思っていては大間違い、こんな数字は安心材料にはなりません。
発表する側の得意材料、あるいは自己欺瞞材料でしかありません。

大気中の有害物質濃度を % 表示で比較することが、すでにまやかしなのです。

簡単な計算です。
あるとき、PM2.5 の濃度が限界値の 20 倍になったとします。
それが 10% 減っても 20 倍というとんでもない値が 18 倍になるだけのことで、超有害であることに変わりはありません。

こんな政府から、アジアインフラ投資銀行に加入のお誘いがあったとして、仲間外れのデマを怖れて、言いなりにカネを出す気になれるでしょうか。
投資したカネは PM2.5 に姿を変えて、減ってしまった 10% を、元気に再生復活させることになるかもしれないのです。

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先手は後悔のタネになりにくい

2015年03月29日 | つぶやきの壺焼

凶悪な事件のあと、被害に遭った人は警察に何度も相談に通っていたという話がときどき伝えられます。
そのニュースには、被害が形に現れなければ、警察は対処できないことになっているというセツメイがつきます。

被害届が出されなければ動けない、被害が起きる前には被害届が出せない、被害が出てからではもう遅い、これほど対策の簡単にわかることはありません。
被害届でないもので、警察が動けるようにすればよいのです。
被害にならないうちに出せる予防対策依頼制度をつくりましょう。

そんなことをしたら、警察が忙しくなって手が回らない、それなら「回る手」を増やせばよいのです。
柔道部卒業の元気のよい若者を集めて、準警察官にさせればよいではありませんか。
怪しいところにお勤めするより、ずっとよいでしょう。

準警察官には、まず予防対策依頼のあった地区をパトロールしてもらいます。
いつ回ってくるかわからないランダムタイム・パトロールで、時間を決めてはいけません。
準警察官がストーカーに化けないかとご心配でしょうか、どこかのお国とは違います。

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接着剤が強くなった

2015年03月28日 | つぶやきの壺焼

茶色のタマが落ちていました。

チョコレートにも見えました。

拾い上げてみると、これが急須の蓋のつまみでした。
丈夫にできていて何度落としても割れない蓋にも、弱点はやはりありました。
焼く前に継ぎ合わせたところが、いちばん弱かったのです。

100円ショップの接着剤でも、ずいぶん強くなったので、塗って5分、ギュッとはさんで押さえて24時間、もう割れたことも忘れています。

接着面をきれいにしておいて、必要な時間はじっと待つ、それが接着のコツのようです。
まだかまだかが失敗のもと、途中で見たくなってうっかり手を出せば、次には巧く付きません。

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合理に徹する 破綻への近道

2015年03月27日 | つぶやきの壺焼

人間は、ものごとを合理的に考えられる生物です。
合理的な考えは、ムダとハズレをどんどんなくしていきます。

ところが、ギリギリまでそれを突き詰めていくと、身動きが取れなくなります。
頭の働きも、こころのもちかたも、動きがとれなくなったとき、そこでかたまってしまえば、エネルギーが行き場を失いますから、あとは破れかぶれしかなくなります。

あまりに合理的で、あまりにお行儀よく、どこにもだれにも隙を見せない生活を続けていると、たった独りになったあるとき、とんでもないことをしでかします。

好い具合にいい加減、そんなところがない人は、独りにすると危険です。
危険な状態になったとき、何百人何千人何万人という、命を預けていることを忘れた人たちがいた場合、不運というだけではすまされません。

ある危険への合理的対策を突き詰めれば、ほかのある危険には、まったく不合理な状態になることもあります。
こういう状態は、合理性に徹した結果と言えるのか、あるいは中途半端だったのか、さて、どちらなのでしょう。

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夜道は怖がらないと危ない

2015年03月26日 | つぶやきの壺焼

交通手段の危なさは、怖がる感覚を失ったとき増えるようです。
交通機関でも、徒歩でも、怖がっているうちは自然に構えができています。
怖さをまったく忘れ去ったとき、事故や襲撃に遭う機会が増えそうに思います。

運賃の高低はあまり関係ありません。
有数な会社の航路でも、あと何十年も生き続けてほしかったと思う作家や歌手が命を落としています。

怖がる感覚を薄めてならないのは、乗る人歩く人よりも、それにかかわっている人びとです。
どこかで誰かが「まあいいや」と何かを緩めたとき、不幸が訪れます。


夜の買い物に出るには、逃げ足を鍛えておきましょう。
逃げ足は外の遊びで訓練されます。
指先だけ動かして、暗い部屋にこもり続けていては、危機のとき足はすくみ、動けなくなります。

外出は縛らず、しかし帰宅管理を厳重に、これが自律の訓練にもなります。

子どもが外にいるとき、親はそばについているのではなく、家で怖がっていなければならないのです。

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嘘をまじめに聞いてはならない

2015年03月25日 | つぶやきの壺焼

ひとの嘘に腹が立つのは、まじめに聞いているからです。

話は聞かれているあいだはずっと続きます。
レシーブの態勢を見せるからサーブが打てるのです。

嘘で始まった話が、途中でまじめに変わることはほとんどありません。
途中から「これはまじめな話だけれど」と断りが入っても、それが嘘かもしれません。

まじめな顔をして言う嘘は、そうと思っていれば面白く聞こえます。
「嘘だろう」「ウッソー」と、どうでもよさそうに入れるあいの手は、ときに愛の手にもなりますが、まじめに聞き返したのでは、あいの手効果は出ません。

あの人があのときこんな嘘を言っていたと、知らせて歩くバカげたことが、ニュースの形になっても、多くの人はまたかと思って聞き過ごします。
しかし、それをまじめに聞いている人も中にはいます。

ニュース型の報道のまねごとが、報道被害を生むこともあります。
こういう被害は、風評被害という名に入れ替えられて、しばらくのあいだは仕事をしているふりを続けるタネにできます。
こんなことが積もり積もれば、マスゴミと言われることも苦にならなくなるでしょう。

政治とその報道を、どの程度まじめに聞けるか、それが文化水準の目盛りになると思うのですが、いかがでしょうか。

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高速出口を無渋滞にするには

2015年03月24日 | つぶやきの壺焼

高速道路の渋滞は、トンネルと出口、いつも同じところで起きます。

トンネルは走り方が巧くなれば緩和できますが、出口では走り方ではなく止まり方が問題です。
出口が一つの一般道につながるだけでは、二方向にしか別れませんから、渋滞を起こすのは当たりまえです。

つなぎ目を結び直すのも、国土強靭化の方法のひとつです。

1.走ろうとする車を止めておける場所をつくること
ショップ・モールのように、走ることをいったん忘れさせるところでなければ、休憩所ではだめなのです。

2.走り出す方向を別れさせること
結局同じところに行き着いても、速度の違いを均してしまえるようにすれば、いらいらはなくなります。

広大な土地に作る I Cの形をまねてみても、うまくいきません。
日本型の日本製の I Cへの改造を考えましょう。
狭いからと真っ先に思っているうちは、渋滞はなくなりません。

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強過ぎる横綱を負かす方法

2015年03月23日 | つぶやきの壺焼

強過ぎる横綱を負かすには方法があります。
1.強過ぎると思わず、へこへこせずに、普通に付き合うこと
2.今以上を望んだ特別扱いをせず、土俵の外で攻めないこと
3.対戦力士が自分を鍛え、作戦を練り実践できる力をつけること

ねたみ、そねみと、神さま扱いが、強過ぎの層を厚くさせます。
強過ぎを、またさらに強くしているのは、取り巻いている人々です。

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メディアは 負け惜しみを手伝うな

2015年03月22日 | つぶやきの壺焼

まるで目の悪い人が石につまづいたように、ヨロヨロ、パタンと倒れる姿は、負けが込んでいるとはいえ、とても大関の相撲とは見えません。

それでも相手の横綱を、逃げた変わったとなじるのは、谷町父さんのやけ酒言葉なら仕方ないとしても、新聞で負け惜しみ記事はいけません。

了見の狭さを自分で書きたてていたのでは、相手にしてくれないのは当たり前です。
この気風では、弱体大関陣の励みにもなりません。

もしこれが逆の現象だったら、多分こんな見出しになるでしょう。
「厳しい 勝負の世界」

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国会は 国のことを論議するために:2

2015年03月21日 | つぶやきの壺焼

国会でむやみに人の罪を責めるのは、そこを告解の場と間違えているのかもしれません。

議員候補者には、選挙前に質問力検定試験をと、昨日書きました。
しかし、質問の場の区別もつかないような擬会人が増えるのは、その先生がたを選んだ結果ですから、やはり選び方も改めなければ片手落ちでしょう。

そこで一つの思いつき、選挙権は常識検定をしてから与えるようにすることです。
ただ権利があるから、いや権利ではなく義務だから、そんな動機だけで投票をしに行く制度では、ろくな人選びはできません。
選挙権付与年齢を2年下げて、18歳にしようなどというのは、とんでもない間違いで、むしろ逆ではないかとさえ思います。

ここでまたしかし、ということになります。
検定ということが、本当に実在の人間の能力と心情を確かめる決め手になるのでしょうか。
3~4歳から演技を仕込まれれば、質問力は記憶と演技でなんとでもなります。
演技の仕込み中に世間を知れば、常識も人並みになるでしょう。
もしそれらの検定制度ができたとしても、こんどは、お受験産業と並行して、お稽古産業が増えるだけのケーザイコーカしか得られないとすれば、何をしているのかわからなくなります。

やはり検定では所定範囲内での能力はわかっても、心情、こころねまではつかめないのです。
こころねは、文化のなかで、とろとろと育んでいくしかなさそうです。

春の海 ひねもす のたりのたりかな

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国会は 国のことを論議するために

2015年03月20日 | つぶやきの壺焼

この立派な建物の中の豪華な会議場では、国の大事はそっちのけで、ゴシップをタネに時間つぶしの質疑応答が繰り返されているようです。
それをNHKという国営放送局が中継で放映すれば、世界中の人が見たければ見えます。
しかし、見たい人しか見ないだろうというのは、大いなる気の緩みです。
そこでわいわいやっている人は、見られたあとの、世界の人々の日本への心の向け方に気付かないふりをしています。

つまらない質問や、何を聞きたいのかわからない質問が続くのは、いつまでも相手になっているからです。

こういうことにこそ、改革を断行しなければなりません。
方法はいくらでもあります。
▼時間を食いつぶすだけの質問者は、次期国会まで発言禁止にしましょう。
▼議員候補者には、選挙前に質問力検定試験を行うことにしましょう。

法律がないという逃げ言葉は、ここでは使えません。
法律を作る仕事は、だれのものなのでしょうか。

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相撲にもチャレンジ制を

2015年03月19日 | つぶやきの壺焼

選手が判定に不服の場合、ビデオ判定を求めることができるチャレンジ制、相撲でもこれを試してみたらいかがでしょう。

時代に合った方法にチャレンジしてみることで、いま一つ気合が入っていない、けが人多発の相撲に、新風を吹き込むことができるかもしれません。

相撲には、物言いという、行司軍配を確かめる方法がありますが、結論が知らされるのは審判長の放送です。
その放送に、むやみに「が」が多く、次の発言が、「が」の意味と逆の場合になることもときどきあって、聞いたほうはあまりスカッとしません。

観に来た人が、勝敗の瞬間を目で見て確かめ納得できるチャレンジ、行司にも要求権限をもたせれば、軍配の顔も立つというものでしょう。

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何でも写せば では 報道にならない

2015年03月18日 | つぶやきの壺焼

TVに映される相撲の所作で、いくつか嫌なことがあります。
その一つは、口をすすいだ水をしゃがんだ足もとに吐き出すところです。
吐き出した水の行く先には、さすがにカメラを向けません。
ところが、吐き出すところを紙で隠しているのを、わざわざ横に回って吐き出す瞬間をとらえようとするカメラマンもいます。
これでは、洗面所でうがいをするところを動画にされて、TVでわざわざ映されるのと変わりません。
写すことに集中し過ぎると、そのときに何を伝えるのが最上なのかを忘れたカメラワークになります。

ひと場所に一度ぐらいなら、そういうこともするのかぐらいで見過ごしますが、同じような場面を日に何度も見せられたのでは、国技といわれる相撲の品格が下がっていきます。

裏のことを見せるときは、ちらっと、それで十分なのです。

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張り手の連発は禁じ手に

2015年03月17日 | つぶやきの壺焼

張り手は、いつだれが使っても、上等の手に見えません。
あれは暴力で、技とは言えません。

認められた手ではあっても、どこか汚らしいのです。
闘志の顕れとは、どうしても見えません。

強いと思っている力士の仕草に、それが見られると、やはり大○○にはまだまだと、がっかりします。
それでも、伸びしろのあることがわかって、期待の余地を確かめられるだけが、わずかな救いにはなります。

ただし、気の狂ったように見える、あの連発はいただけません。
張り手の連発は禁じ手に、勢い余ってのもう一発ぐらいはまあまあとしても、三発目は反則としたらいかがでしょうか。

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