・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

大晦日

2010年12月31日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
民という字は、目を針で突いて見えなくした奴隷をあらわしているという。
針で突いたどころか、ばっさりやられたようにも見える。


目が見えなくても、心の眼でしっかりものを見ている方もおられるが、目をあいていていながら、ものごとを視てない人もいる。

「民意を問う」ということばも、政治の行き詰まりの投げやり口上に使われがちである。
問われて「こうだ」と答えるには、テレビやゲーム機のハチャメチャ画面から、いい加減に目をそらせておかなければならない。

窓ガラスだけでなく、かすんだ眼にも手入れが必要である。

********

本年中ずいぶんお目を穢しました。
来年もまたよろしくお願いします。
みなさま、佳いお年をお迎えください。
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なぎさ

2010年12月30日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
重い足、重いカートを引きずって、とにかく歩いた。
もう、ここから先には行けない。


波は静かでも、船がなければ、清澄のあのお山にたどり着くことはできない。
南の空の明るさだけが、いくらかこころを休ませてくれる。
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廃車

2010年12月29日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
置き去ったのは持ち主なのか、別の者か。
番号を見てその地の警察に通報すれば、あるいは早く片付けられるかもしれない。
置き場所を知らされた持ち主も、こう無残な姿になったと知ればかえって迷惑か。


すぐ隣にもタイヤのつぶれた車が置かれている。
だんだん増えて、ここが廃車の集積場にならなければよいが。
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絡む

2010年12月28日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

蔦には絡むという言葉が似合うが、この蔦はへばりついている。

春にはきっと芽を出して緑を楽しませ、そして秋には紅い化粧をしてみせる。

それが私の役目と。

冬の見苦しさは、気にしないで欲しい。

四季を通じて美しい姿を保とうなどと、むりはしない。

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ヨコ向き

2010年12月27日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ことが成就せず情報の足りなかったことが後からわかるのは、ことの前に調べつくす手を打てなかったからである。
お手並み拝見の空気のもとでは、集まる情報も集まってこない。

反対はしない、励ましの掛け声はかけるという協力姿勢も見せる。
しかし、それはことによるとマイナスの協力であるかもしれない。
励ます人が目立ち、黙って横を向いている多数の人に気付きにくくなるから。



道を歩く小鳥の姿は、横向きのときにとらえないと画面に映り込まない。
画面であらためて見ると、動物の横顔には、種の違いを超えた共通のところがあるように思える。
花札の鹿を思い出す。シカト、横向き、無視を装いながら気だけは断ち切っていない。
この鳥も、こちらが激しい動きを見せればすぐ飛び去る用意はしているに違いない。

黙って横を向いている人にこちらを向かせ、こんなこともあるぞと知らせて寄越させるには、こわがらせたり、かかわりを面倒がらせたりしてはだめなのだ。
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足跡

2010年12月26日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
足跡、そくせきと読めば、残したものになり、あしあとと読めば、残ったもの、ついたものとなる。
残そうという意識の強かったものと、残す気がないのに残ってしまったものの違いである。


砂浜にあしあとが続いている。
人間のものではもちろんない。
つき方が複雑だから4脚の動物のもの、大きさからいって馬のあしあとである。
このあたりに牛も豚も見かけないが、馬は歩いている。

昭和初期の道には、あしあとだけでなく、饅頭大のものがところどころに積み上がっていた。
近ごろの馬は行儀がよくなったのか、それを見かけない。

それにしても、この不規則な足の運び、どう歩いたのか想像しにくい。
背にいる人の気持ちが歩調にあらわれてこうなるのだろうか。
足元のおぼつかないのは、馬のせいではなさそうである。
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臨場日記

2010年12月25日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「ポイントおつくり、いかがでしょうか」
どういう場面で聞かれたのか、それを知らされずにこの言葉の意味をピタッと当てた人は高度の想像力保有者と見てよいだろう。

はじめに出ている画面を見て、その場に臨んだかのような思いで読み進むと、想像もできないような話に展開する。
奇ではなく、稀あるいは機、それが面白い。

今日何をしましたというだけの日記も、1年3年10年と経てば回顧の情に浸れるから、書き手にとっては意味があるが、場を想像するだけの人にとっては、書いてあるというものでしかない。
場の想像が、そこにいる人の素振りや顔つきにまで及ぶと、次は何を書いてくれるかと楽しみになる。

このおつくり、正解を見ない楽しみ方もあるが、正解はこのブログをご覧になるとわかる。 ↓
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秘密

2010年12月24日 | 政治の70不思議
職務上知りえた秘密を垂れ流すと罪になる。
秘密の垂れ流しは確かに良くない。
だが、秘密性とは次元の異なる、秘密の価値のないものは垂れ流しになりようがない。


砂浜に、捨てられた朽木が転がっている。
誰でも見えるところに置かれている。
はじめは何かの役に立つと思われていた。
そのときはまだ朽木ではなかった。
置けば腐るだけで、使いみちはどんどん遠ざかる。

世はさまざま、これを秘密だと言う、変わった人が出てくる。
じっと見ているとワニの顔に見えないこともない。
そんなことだけでは秘密の理由にはならないが。

ここにこんなものがある、蹴つまずかないように、と立て札を立てた人がいた。
そっと置いたものを目立たせたのはけしからん、余計なことをしてくれたとそしられる。
公の秩序を乱したと、自らの秩序を失いかけている公さまが権威を見せるために、立て札を立てた人の職も住まいも奪ってみせる。見せしめである。
公さまにとって、されて気に入らないこと、それを秘密と呼ぶのだった。

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奇菓

2010年12月23日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
変なものが売れる。売れるから作る。
変なものにはすぐ厭きるから、すぐ消えていく。
また変なものを考え出す。

悪がきが悪菓子を持ってやってきた。
「食べてみる?」「いやだよ」「食べてみる?」「いやだよ」「食べてみる?」
疑問形は執拗作戦に有効である。
きりがないから一つ口に入れる。

吐き出さない習慣のついた口は、噛めないものでなければ吐き出さない。
食べる喜び、味わう楽しさはもちろんない。
残るのは、変なものに出会ったかすかな記憶だけ。

奇菓は良俗を侵略するが、融合はしない。
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残骸

2010年12月22日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
砂浜に残された大根。
周りが広いから、衰えてきた嗅覚のせいもあってか、臭いは感じない。


なぜこんなふうに残しておくのか。
まとめて置いてあるところを見ると、不精が因ではなさそう。
そうか、乾かせば軽くなるのだった。
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芝目

2010年12月21日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
キャディが芝目を教えてくれるコースはあまり上等ではない。そのわけは、優良コースなら芝目がないぐらいにグリーンの手入れが行き届いているから。
生駒佳代子がラジオでそう言っていた。


芝目を教える必要のないコース、芝目を教えてくれるコース、芝目があっても教えてくれないコース、これで上中下の区別がつくかな。
キャディの個人差はどう見ればよいのか。

コースの格付けよりプレーヤーの格付けのほうが問題だと思うのだが。フォァー。
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切り方

2010年12月20日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
干した大根の切り採り方もいろいろ。
半分残したのではないかと思うほど、本根の残っているのもある。
本音を残しておく洒落か。


切り採ったとき、その人の心中はあまり穏やかでなかったようだ。
いや違う、収穫部分の長さを揃えているのだというかも知れない。
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干し加減

2010年12月19日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
海風干し沢庵と名づけたものもあるぐらいだから、海の風に当てた大根は漬けると旨いと思う。
干し加減を見計らい、切り取っては漬ける。


架に残された葉はどうなるのか。まさか、ちりちりになって風に飛ばされるまでそのままということはないだろう。
大根本体と葉の部分とでは、ちょうど良い干し方が違うのか。
それならばよいが。
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海風大根

2010年12月18日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
三浦の砂浜に架が立てられ、大根が干されている。
潮風に吹かれると格別な味のする沢庵ができるのか。
冷たい夜風が味を引き締めるのか。
この近所に、沢庵屋の看板があった。
春に行ってみたら、冬に来いと言われた。
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高水

2010年12月17日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
八ッ場ダムはおかしな具合になってしまった。
ときどきメディアで取り上げられるとき、質問の中で「たかみず」という言葉が記者から発せられる。
変な言葉だなと思って調べてみると、高水と書くのをたかみずと読むこともあるらしい。

治水計画で、河川の水量が増したとき、もっとも高く水位が上がった場合はここまでという、計画上の水位を表すのに「計画高水位」(けいかくこうすいい)という言葉を使っている。
そこから高水という部分を抜き出して専門用語めいた言葉にしてしまったのではないかと思う。

川の水かさが増してあふれ出れば洪水になるが、増えただけでは洪水ではない。
川の水は多かろうと少なかろうと川の水であって、増えたとき、減ったとき、普段のときそれぞれに名前はついていない。
はなはだしく増えたときの水をとくに「こうすい」と言うのも変だが、それを「たかみず」とわざわざ読み替えるのも奇異な言葉遣いである。
水位の高いのは状態だから、水かさが増したと言ったほうがずっとわかりやすい。
水利や河川工学には素人の記者が、専門分野に首を突っ込んでいる振りをして気取ってものを言おうとするから言葉がちぐはぐになるのである。

言語再生専門学校のようなものを設けて、ことばを主にした仕事をする人たちを再教育したらどうだろうか。
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