静かにしていてもらいたい人はとかく元気である。
O氏、S氏に、またS氏。
うちの孫にも静かにしていてもらいたいのがいる。
対話より、見えない相手に向かって何か言うのが面白いらしい。
回転寿司でインターホンに向かって注文を出させるには便利だ。
「○○、□□、以上で」 などと得意顔。
要求や命令、人を動かすことが好みらしい。
静かにしていてもらいたい人はとかく元気である。
O氏、S氏に、またS氏。
うちの孫にも静かにしていてもらいたいのがいる。
対話より、見えない相手に向かって何か言うのが面白いらしい。
回転寿司でインターホンに向かって注文を出させるには便利だ。
「○○、□□、以上で」 などと得意顔。
要求や命令、人を動かすことが好みらしい。
物やサツの厚みは見てわかりやすいが、人の厚みはつかみにくい。
何かの拍子に耳にした言葉から、あれ、この人はこれぐらいの厚みしかなかったのかと落胆することがある。
人の厚みは言動に現れるが、言動そのものの厚みではない。
人の厚みの要素はいろいろで、時の見方もその一つである。
その時どきの身の処し方しか考えてなさそうな、時の厚みを持たない人が組織の中心にいたのでは、その組織に属する人は、ことあるたびに右往左往、場合によっては足が縮んで右往左往もままならないという惨めなことになりかねない。
その組織が大きなもので、たとえば国家のような大組織の場合は、安心、安全のお題目も、冬支度に入った虫の声ぐらいにしか聞こえない。
きりぎりす 鳴くやこの世の暗闇に
ころもからげて ひとりかもねん
裁判員裁判で死刑の判決。
こういう重罪重刑の審理を裁判員に求めるのことの是非がそもそも疑問ではあるが、それに参加させられた人の顔写真を公開するというのはどういう神経なのかよくわからない。
重罪裁判員はわざわざこしらえられた三番目の悲嘆者である。
第三者から当事者に引きずり込まれてしまった三番目の悲嘆者を、さらしものにすることはないだろう。
公表は本人の意思のもとに行いましたと言わなくてもわかっているが、その意思がどういう手管で作り上げられるのかは公表されないから、それを知る者は少ない。
悲嘆の報道が人道に通ずるなどと、きわめて短絡的な誘導論理をもってなされているのではないかと思う。
ニュージャージーでは、2007年に死刑廃止の法案が成立したという。
その決め手が収監コストの計算によるというに至っては、さすが、と感心するほかない。
終身刑なら年間1人4万ドルですむが、死刑囚だと7万2千ドル、1.8倍の出費になるとのことである。
この差は、再審請求が出たときに備えて、優れた刑務官をつけ、完璧な記録を保持しておかなければならないからだそうである。
囚人の扱いにも格差時代の風が吹いているのだった。
ドラゴンフルーツの輸入が去年から解禁になったというニュースを2ヶ月ほど前に聞いた。
去年のことでは龍に笑われるではないかと、妙なことがあたまに引っかかっていたが、さて、輸入が禁止されているフルーツにはどんなものがあるのだろうと思い、植物の検疫について(社)日本植物防疫協会にたずねてみた。
農林水産省に植物防疫所という機関があって、そのWebサイトを見れば輸入禁止作物リストが載っているという。
http://www.maff.go.jp/pps/j/introduction/import/index.html
早速覗いてみて驚いた、というよりも両手を挙げた。
植物防疫法施行規則という法令があって、17種の検疫対象とする有害動植物ごとに、地域、植物名が示されている。
どこから何を輸入しようとするのかによって、検疫の仕方が違っていて、しかもその「何を」という植物名分類が、○○属という形で決まっているから、これはこれは植物検疫というのは大変な仕事だと恐れ入るほかない。
コッコロバ属、クラタエゴメスピルス属などと言われて、その場でそれが観葉植物なのか実のなるものなのか、あの葉の形をしたものかなどとイメージの湧くお方は相当の博識かあるいはその道の専門家だろう。
台湾だったか、夜店でチラッとお目にかかっていたから輸入解禁と聞いて興味も湧いたが、この眼で見ていなければそんなニュースもきっと聞き流していたに違いなかろう。
そう思ってあらためて写真を見ると、あのとき見たのはまた違うフルーツではないか。おやおや。
ウルトラシリーズに登場するダダという怪獣がいる。
三面怪人とも呼ばれ、その顔を使い分ける。
壁を通り抜ける、瞬間移動する、姿を消す、人間に乗り移るなど、持っている超能力の種類は多いけれども、戦う力はサッパリという近代型怪獣である。
100年前の芸術思想にダダイズムというのがあった。
秩序、常識を否定し、やりたい放題の攻撃、破壊がよいのだという感覚で作れば、自分好みの芸術活動ができるだろうと見込んでいたらしい。いや、それがよいとか見込みをたてるとかいうことを考える以前に、感情をあらわに表現するだけであったのかもしれない。
駄々っ子という手に負えない子供の形容がある。
ダダという呼び方には何か共通点があるような気がする。
同じ民族でありながら別の国にされてしまい、繁栄を見せ付けられるが自国は貧乏、いまさら先代の名声を返上もできない。やけになって隣国の島に向かって弾丸を撃ち込む行為なども、行為と名づけにくいほどの駄々っ子ぶりである。
駄々っ子を黙らせるには、驚くほどの迫力で張り倒すのがいちばんである。
眼を覚まさせるための衝撃力印加は、加療のためであって暴力には当たらない。
躊躇ではなく沈着冷静にと言っても、タダ時機を失うというマイナスの効果しか得られない。
世の中には、身近な周囲に向かって、いつも上位に立っていたい欲望を絶やさない人がいる。
差配、賞賛、推薦、先駆、尊大と、行為や態度にサ行への執着が現れる。
無意識の言動に尊大さは表れるが、はじめから具わっていない尊厳は失う気遣いもいらない。
執着心が強い人は、おおむね変格活用を苦手とするから、他者の心情にはおかまいなしに直球を投げつける。
投げられたほうにしてみれば、直球は慣れてしまえば打ち返すのは簡単だが、面白味の失せるときも早く来るから、バットも出なくなる。
壁に向かっての投球は、大海に向かっての投石に似ている。
この空虚感から抜け出るには、上下優劣の感情をうまくコントロールすればよいのだが、さて。
縁結び神社があり、縁切り寺がある。
逆はあまり聞かないから、それぞれ分業かと思ったら、見事に間違っていた。
双方それぞれ存在するのだった。
はじめは「見事に違っていた」と書いてみたが、それでは「分業か」が当たっていたようにも読み取れる。
そうか、人の集まるところで、わかったようなわからないようなことを言ってのけるのはこの手だったのか。
読み違いのないようにと、間に間の字を入れて「見事に間違っていた」と修正する。
これなら「思ったら」が間違いだったと素直に読んでもらえるだろう。
何事も「そう」であるためには、まず自分から「そう」思わなければならない。
その次に、どのくらいの人が「そう」思ってくれるか、ということになる。
自分が思っていることと違うことを、ひとに「そう」思えと言い立てる人が増えると、世の中で「聴く耳」の数は幾何級数的に減っていく。
(都都逸) そうと思ってさすった仏 それがほんとのさすり仏
(都都逸)のカッコ書きも、26音が都都逸とわかる人には目障りだが、これがなければ都都逸を知らない人には通じない。
おっと、都都逸に縁のない人にはこれを書いてもわからないことを忘れていた。
マラソンの中継解説は独走のときが難しい、と名解説者の増田暁美が言っている。
競争でありながら、競争の相手がはるか彼方にいて、競争が自分との戦いのようになってくると、走者の心のうちを何か伝えなければならないと思うようになる。
中継放送とはやっかいなもので、言葉が流れていないと、何をしているのかとディレクターからお小言が来るのだろう。
ラジオでは黙っていられると空気のつかみようもない。TVは画面に走者が映ってさえいれば、下手なおしゃべりはかえってうるさい。
すきまを埋める仕事を続けていると、言葉が途切れればそれがすきまだ、埋めなければならないと思ってしまう。
書画には余白の美しさがある。
放送も余時限の美しさを出せるようになれば一流と言えると思うのだが、どうだろうか。
また火事の季節がやってきた。
毎年のことだからそれを気に病んでも仕方がない。
昔ほど裸の火は使わなくなったのに、火事は起きる。
わざわざ火をつけて気を紛らわせる者がどこかに出てくるからである。
電気を使う装置も機械も、滅多に発火しなくなって、火事の原因が漏電と片付けるのはいかにも古い手に見られるようになった。
何の読み物だったか、うっかり出所を控え損ねたのではっきりしないが、「火浣布(かかんぷ)」という布の存在を知った。
火を浣う(あらう)布というのだから、火消し布、現代なら消防用防火服の素材になる布だろうか。
火浣布に相当する布は、古代エジプトではミイラを包む布に、また古代ローマではランプの芯として使われていたという。腐浣布でもあるようだ。
火浣布という名は、中国でつけられたもののようである。
平賀源内が、秩父山中で発見した石綿を布にし、中国流に火浣布と名付けて幕府に献上したといわれている。明和元年(1764年)のこととされている。
江戸時代にはこれを輸出していたそうで、盛んに製造されていたのだろう。
いまでは、石綿の布を身にまとうなどとんでもないこととだが、石綿はその害が明らかになるまでは、建物にも機械器具の部品にも、いろいろなところで使われていた。
防火服でふと検索を試みたら、妙なことを発見した。
防火服の仕様などは、日本のどこに行ってもまったく同じでよいだろうと思うのに、JISにはこの規格がない。
(財)日本防炎協会というところが防炎製品の認定を行っていて、その認定を得たものが用いられているらしい。
メーカーのページを見て、消防用/消防団用と違うものがあることにも気付いた。
この認定制度に適合するモノには共通仕様がなく、県単位どころか町の消防本部もそれぞれに仕様書を作っている。
しかも、素材はメタ型アラミド90%、あるいは95%などと、わずかな差を持たせ個別に仕様が決められているのである。
こういうことが地方自治と称するものなのだろうか。
平城京は中国人、朝鮮人、印度人、安南人もいる国際色豊かな都市だったといわれる。
異国の人が大勢で道を歩く都市には活気がついてくる。
活気が生まれると言うより持ってきてくれるのだからついてくると言うほうがあたっているだろう。
電車に乗る、知らない言葉が飛び交う。
東京の入り口のような駅を降りて外に出る、そこでも知らない言葉が飛び交っている。
この元気な人々の母国と想像できるところに、何年か前に行ったことがある。
そのときに感じたあの屈託感を、この人たちはどこに置いてきたのだろう。
旅行は、屈託を留守番にして活気を連れて歩くものだったか。
時速230キロの豪速球を投げるマシンを備えたバッティングセンターが、北九州にあるという。
http://www.nikkei.com/video/?bclid=67379759001&bctid=679279883001
これでもバンバン打つ人はいるそうである。
直球ではいくら速さを増しても、回を重ねればついていけるようになる。
200キロの速球を投げる投手はいないから、速さ競争よりも変化球の出し方を競ったほうが実用になるのではないか。
球種を絞った設定もでき、また、考えられる球種をランダムに織り交ぜて投げてくる設定も、打つ側で練習方法に応じてできるようにすれば、予約制にするほど利用者が集まるかもしれない。
「新規雇用が最終的には史上最低とならないようにがんばります」
何をするかが言えずに、それでも談を発しないわけにいかず、「最」を並べて巧いこと言い抜けたことにする。
愚答は愚問から出ると言われるから、訊くほうにも責任が半分ある。
企業の社会的責任ということがときどき言われるが、企業のみでなく、企業単位でもなく、機能を共有する集団ごとに、国の地位向上を目指して、「有言実行」をほざいた半無能者たちに、何を言わせ何をさせていくか、真剣に考えなければならないときがきている。
いま史上最低の現況の中にあって、世の集団の要人たちよ、ヒッチワークから早々に脱却せよ。
何か事件が起きると、当事者グループの要人たちがまず考えることは、起きたことを事件ではなく不祥事にすることである。
次に考えるのが原因と対策ということになる。
原因と対策を考えたと聞けば、ああしっかり管理されているなと多くの人は錯覚する。
そこで発表される原因は、文面を考案され推敲されたもので、証左とは程遠い。
対策は二度と同じことが起こらないよう管理に万全を期すという決まり文句で、そこから何をどうするのかは理解不能で終わる。
準備が整うと記者会見で要人のトップが謝罪する。それで不祥事はひとまず落着する。
不祥事は片付いても、事件は未解決だが、そちらは司法当局にお任せということになる。
司法が問題を握っている間は、それを盾にとれば真相を明らかにする義務は遠ざかる。時が民意の緩和剤となる。
管理タイセイはモノ自体より時系列変化が容易だから、とにかく応用自在である。
インドで建物崩壊事件があった。
建物の所有者がビルの管理を怠った疑いがあると報じられている。
建設当初から所有者が変わっていないのであれば、設計管理ということにもかかわりが出てくるから、管理の問題とも言えそうだが、もともと壊れやすい設計で作られたビルが、経年老化でグズグズっといってしまったのなら、保全管理を責めるのは気の毒ではないかと思う。
遠いお国のことで壊れて間もないから、もちろん決め付けはできないが、管理不十分は、何かにつけてシステムの弱点のしわを寄せていくのに便利な領域なので、あれまたか、どこでも同じことを考えるものだ、と思ってしまうのである。
秘密とは、ひそかに何かを持っていて、ひとに知られないようにしておくことだろう。
秘密と言うからには、その存在すら明らかにしない、それが真の秘密ではないか。
こんなものがあるぞ、確かにあるんだぞ、などと広言しておいていつまでも握っている。
そのうちに見せる時期を失って始末に困ると、垂れ流し同然の状態にする。
みんなで開けて見ようとか、開ける役目は誰にしようなどと言っているうちに、だれかが開けてみれば全然秘密にしておく価値がなかったということもあるだろう。
それならまだよいが、まるでガセだったという話もいつかあった。
こんなぶざまなところをたびたび見せられると、国家の要職に就いている人間が、そういう軽率な性格であるという事実こそ、重大な秘密にしておかなければならないことではないかと思い始めるのである。
白鵬の連勝も、ヤンチャ力士稀勢の里の、稀に見る勢いで止まってしまった。
力士は、いったん自分の型を身につけると途端に強くなる。
外交も、型がしっかりしていれば強くなるのだと思う。
価値観外交という型を唱えた人もいた。
・自由、民主主義
・基本的人権
・法の支配
これを価値として共有する国家との関係を強化しようという外交方針である。
しかし、自由、民主主義と基本的人権は価値でありうると思うが、法の支配は価値として肯定しにくいものがある。
支配と言われると、無理やり従わせられている感じが強くなって、背中のあたりがむずむずしてくるのだ。
それはともかく、しっかりした価値観をもったうえの外交でなければ、危なくて仕方がなかろう。
価値観が常にぐらぐらしている人は、当然定見などというものの持ち合わせもない。そういう人が外交を始めれば無定見外交になってしまう。
これでは相手国の要人も、あきれ返る以外に態度を示すことはできないないだろう。