・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

変化球の投げ方

2013年11月30日 | つぶやきの壺焼

インターネットは雑学の宝庫です。

ボールを握ったことのない人にも、変化球の投げ方がわかります。
 ⇒ http://p.tl/9ogG

わかったからできるというものではなくても、それが何かのヒントになるかもしれません。


変化球、外交にも役立つのはあたり前、むしろ、変化球を投げない外交などありえません。
投球にはピッチャーの肝の据わり方が如実に現れます。
国の代表がうろたえると、変化球のつもりがワイルドピッチとなって、とんでもないところに飛んできます。
バッターも、キャッチャーも、アンパイヤーも、みなボヤボヤしてはいられません。
いちばん迷惑するのは、かわすだけですまない、味方のキャッチャーです。


商売に変化球はどうなのでしょう。
そこでは、あまりひどい球を投げると、ゲームが成立しなくなります。
美しいフォームから投げ出される見事な変化球、大勢の人を魅了するそのボール、わかっただけでは投げられません。
そこまではわかっても、なぁ。

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教える側の論理が覚えるに邪魔

2013年11月29日 | つぶやきの壺焼

あるFAQに日本語という名のカテゴリーがあって、そこには、種々雑多な質問が寄せられます。
なかには、日本語の熟語を示して、他国語に訳すとどういう言葉になるかという、見当違いの質問も出されます。結果を知りたいのなら他国語のカテゴリーで、とは思いつかないようなのです。
他国語のカテゴリーでは、該当する他国語で質問しなければと思っているのでもないとは思いますが。

目立つのは、何か言葉を持ち出しての「これは文法上正しいですか」という問いかけです。
助詞の使い方や動詞の活用なら、文法上の正誤判定や説明も成り立ちますが、文法にはまったく無関係の言葉の断片を指して「文法」を確かめたいというのです。

おそらく、質問者は日本語の学習が少し進んだ外国人の方で、言葉の勉強はまず文法からなどと講師から聞いた言葉が耳にこびりついているのでしょう。


言葉を教える場合、文法の話をすれば、さも論理的な優れた教育であるかのように受け取られやすいので、先生は文法、文法を繰り返すのかもしれません。

文法は教える側に都合のよい論理で、日本語の文章の良否を判定するための規則ではないなどと、考えてはならないとされているのかもしれません。

教えられるほうにとって、いい迷惑であることにはあえて気付かない、それが言葉教育の要領としていきわたっているのでしょうか。

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甘いものと甘いこと

2013年11月28日 | つぶやきの壺焼

どら焼きの味は店ごとに違います。
違いどころが皮と餡のそれぞれにある、それが単純明快な羊羹よりも親しみの持てる菓子の要素になっています。
ものの考え方、感じ方にも、羊羹型とどら焼き型がありそうです。

菓子でもほしいときには、「甘いものを食べたい」と言います。
この欲求表現だけは、「甘い」ことへの望みを口にしても恥ずかしくありません。
しかし、ほかのことに「甘」がつくと、どこかに嫌らしさを感じます。「甘い考え」「甘えていたい」「甘いことがしたい」「甘い思いにひたりたい」「甘えがある」「甘えがそうさせる」


ベテランのキャビンアテンダントの話がどこかで伝えられていました。
1stクラスの日本人客は、できないこと、難しいことを、口に出さずに要求するというのです。
一般より高い料金への甘えの表れなのでしょう。


提供にこそ価値のあるボランティアも、受益側が要求するとなれば、それは甘えでしかありません。
アンパンマンの図柄を、作者のやなせ氏に、自治体が無報酬で利用させてほしいと頼み込んでいたという話もあります。
公共のためという理由で、平気で無償提供を求めるのも、ボランティアという言葉への甘えからです。
毎日の仕事が公共のためであるところでは、公共という空気感に甘えを誘う何かがあるのかもしれません。

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地球上はみな同じではなかった

2013年11月27日 | つぶやきの壺焼

ボジョレヌーボー、さすがに行列のニュースは流れなくなりました。
今は値下げ運動、作ったらすぐ売りたい、正直販売です。

ワインは、古いことにも新しいことにも値打がつきます。
売れ残ったワインの未体験の味に値打がついたのは、ワインが幸運を呼ぶ飲み物であったからでしょう。
古いものは少ないから高く、新しいのものはどっさりあるから安く、ごく自然なお値段ということになります。
価値のあり方の違うものは、姿かたちは似ていても、全く違うものになっているのですが、呼び名はワインです。


同名異実、これは飲み物だけではありません。
民主主義とひと口に言っても、ヨーロッパ大陸の民主主義と、アメリカ大陸の民主主義には、大きな違いがあると聞きました。
ヨーロッパの民主主義はコミュニティが主、アメリカの民主主義は個人が主、同じ名の主義でも、主人が違えば考えも違うでしょう。

宇宙の彼方から見たのでは違いはわかりませんが、そのつもりでぐるっとひと回りしてみれば、違いを見届けることはできるでしょう。
いいえ、人間はみな同じなのです、と言いたい人が見れば、それは当然のこと、同じように見えます。

ワインはワインだよ、と言いたければ、必ずそう見えるのです。

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放置田畑を早く復活させよ

2013年11月26日 | つぶやきの壺焼

秋は、米の味がいっせいによくなる、ような気がします。
水田に金色の波を見られるところにお住まいの方は、とくにその感が強いでしょう。

「冬水田んぼ」という言葉を聞きました。冬に水をはっておくと、生き物が集まってきて、津波の後の田んぼも復活したという話です。

こうして米を作ろうと工夫努力を重ねているところもあれば、いまだに休耕田などと奇妙な名前をつけたまま放置されている田地があります。

一時の処置としてはやむをえなかったにしても、何十年も放置を続けているのは、怠慢と言うしかありません。
田地の放置は国土の無効放置、国賊的行為です。

何にかじりついていなければならないのか、関係者の猛省を望んでいます。

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旅の値打ちは帰り道に決まる

2013年11月25日 | つぶやきの壺焼

旅もたびたび出て習慣のようになってしまうと、面白さもだんだん減ってくるのではないだろうか。
ほとんどお任せの、付いて歩くだけの旅では、その機会に何かを発見することもないだろう。置き去りにされないよう、そんな心配の連続で終わるかもしれない。
ガイドブック頼りならまだよいが、行った先がガイドブックどおりでもつまらない。

 

XXそうでXXでない旅、どんなと言われても、XXを想定しておくことさえできないような、そういう旅ならきっと面白いだろう。
わからないこと、知らなかったことにめぐり会える、そでれこ旅に値打ちが出てくる。
旅の値打ちは帰り道にそれに気付き、そこで決まる。


訪れる人たちに、旅の値打ちを感じさせるには、みやげ物を並べて売る町並みだけでは足りない。
客寄せの奇策を一つ考えた。
入町料を取る町をつくってみたらどうだろうか。
駅の改札口で町の切符を売る。道路には関所を設けて入町料を徴収。
そのかわり、訪れる客には至れり尽くせりのおもてなしが待っている。
そうなると、一軒だけ頑張ってもだめだから、競争で、また共同で、おもてなしの方法を何か考えるようになるだろう。
企画は共同、実行は競争、座って待っていたときとは大違いの、旅の値打ちを提供できることになると思う。

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安全第一便利はその次

2013年11月24日 | つぶやきの壺焼

電車のホームには、無防備な人が大勢立つ。

東急つきみ野駅では、線路沿いに張ったワイヤで、乗客の転落を防止する新型のホーム柵を設置した。

こういうのを、ホーム柵と考えるかホームドアと考えるかによって、呼び名だけでなく、構造がどこか違いそうな気もする。

ホームに10メートル間隔で立てた支柱の間に、1.36メートルの高さまで張ったワイヤを、電車が到着するときにせり上げて乗降させる。
何か半端なこの高さに、どういう意味があるのかはわからない。
日本人の体のどこかの平均高さだろうか、というのは勝手な想像である。

電車が近づくと、柵から離れるよう放送が流れて、停車直前に電子音が鳴り、3.5秒でワイヤが上がる。
寸法も時間も、きざむのが設計者のお好みらしい。

「扉型のホームドアと比べて列車の停止時間が短く、運行に影響せずに最大限の安全を確保できた」とご自慢のようである。
扇型のホームドア、そんなものがあるのだろうか。いくら何でも、電車が来ますドアを開けますからどいてくださいバタン、はないだろうと思っていて、小刻みに折りたたむのも扇型であることにここで気付く。
扇形ではなく扇型なのだ。こういうのは文字をよく見ないとわからない。

出勤時刻をずらせることなど思いも及ばなかった時代には、線路に飛び降りて隣のホームにすばやく這い上がる人はいても、ゲームや交信に気をとられて落ちるボケはいなかった。

人間がだんだん世話が焼けるようになってくると、安全第一のハードルもせり上がってくる。
智恵の偏った人間たちは、一方でむやみに便利なものを作り出し、別のことでは、ばかばかしいような不便を作り出している。

安全の神様もご苦労様なことである。

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手があいていれば安全運転できますか

2013年11月23日 | つぶやきの壺焼

近頃のクルマは、歯をむき出したような顔つきのものが多い。
あの面つきは、運転中のイライラを募らせるのではないかという気がする。

外面だけでなく、中の装置も、運転以外のことをさせて運転者の平常心を乱すようなものが増えてきている。

電話はその代表格で、手を使わなくても通話できるような道具立てもできるようになった。

さて、運転中の電話は、手を使わなければ安全だといえるだろうか。
ラジオや音声プレーヤーならよいが、電話には、返事に気をとられることがある。
電話の中身が、運転者自身に無関係のことがらはありえず、ことが身近になってくれば、それに気をとられるに違いない。アタマにくる機会にも、いつかめぐり合う。
私は楽しい電話しかしませんからと言ってみたところで、相手があっての電話ではそうはいかない。

電話の相手は、横顔も見えないだけに、隣に座るうるさい同乗者よりも、もっと始末が悪い。
運転中の電話は止めましょう。

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お相撲さんの力量

2013年11月22日 | つぶやきの壺焼

横綱が頑張っています。
全勝が一人、14勝一敗が一人、千秋楽の結末は、これがのぞましいかたちです。

のぞましいかたちは、もちろん星取表だけではありません。
力士の力量にもそれがあります。
体の大きさ、かたちは、無理やり変えれば土俵の上で自分が無理をしなければなりません。
無理な相撲に力量はついてきません。

力士の力量は、一人ひとりのものでもありますが、幕内全体、十両全体という見方もできます。
総体の力量が上がっていくとき、お客さんの目は輝き、拍手も増えます。
満員御礼の垂れ幕を出せる日も増え、相撲界全体の力量も上がっていくことでしょう。

細かい宣伝や商売も結構ですが、親方さんたちがそちらに夢中になりすぎて、力士の総体力量が下がったのでは、国技館は大型土産店に成り下がります。
それでは、パタパタと前に落ちる相撲も増えていってしまいそうです。

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噛ませる場所が決まっている

2013年11月21日 | つぶやきの壺焼

議会の論議をみていると、警察犬訓練を思い浮かべます。

提出法案には、誰でも気付きそうなところに欠陥が設けてあります。
ここはだめだ、こう直せ、そうだそうだ、それならよし、シャンシャン、痛い目に見えてもだれも痛くも痒くもありません。

記者会見も、取材で食いつかせるところが用意されていて、要人を取り囲んだ記者たちも食いつく場所を心得ていますから、上手に噛んで巧く離します。

もちろん、真剣な警察犬訓練と同じではありません。
一方は常に本番、一方は訓練です。
訓練では、だいじなことは見えないところで徐々に仕込まれていきます。
そんなことを部外者が知る必要はありません。

議会の論議にも、見せ場よりもだいじなことがあるのです。
しかも、そのだいじなところは、決してわからないようになっています。
秘密は取り立てて保護される法がなくても秘密になっているのです。

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使って見せてこそプロの技

2013年11月20日 | つぶやきの壺焼

今場所はもう一人の横綱も心体が復調して、早技も見られるようになりました。

剣の道では、名のついた技の話がよく書かれます。
体操でも、新しい技に、それを使った選手の名がつけられることもあります。
シンシンコーホー4回ヒネリなどと、見てもわからないような新しい技が披露されることがありますが、相撲にはそれがありません。


相撲には、一番ごとに極まり手を発表するしきたりがあるので、見たこともないような手で勝っても、前から決まっている技名に当てはめなければなりません。
技に名をつけなければ秘技も生まれないでしょう。

数ある極まり手の中には、滅多に使われない秘技めいたものもあるかもしれません。
「呼び戻し」という、手前でなく向こうに引くという、真似のしにくい力わざは、何年かに一度しか見られません。

秘技のようなものを引っ張り出して、やって見せてこそ名人級と言えそうな気がします。

審判部の親方たちが、名前を忘れているような手を、ひと場所に一度ずつでも、横綱、大関がこぞって見せてくれたら、大入り満員の日が増えると思うのですが、早く「前に前に」を卒業させて、技を見せられる工夫を、親方さん方に望みたいところです。

負けないだけの相撲は面白くありません。

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富士さんが見えなくなったわけ

2013年11月19日 | つぶやきの壺焼

富士見という地名があちこちにあります。
都会の富士見から、富士山はほとんど見えません。

古い好い町の名を、味も素っ気のない名前に換えても、富士見だけは残っています。
見えないけれど見たいのです。見えなくなっても、見えていたことが何か心を動かしてくれるのです。

なかには、大きな建物が建ってしまったから見えなくなったのではなく、富士山が遠くに行ってしまったところもあるようです。
そこでも、人々の目がよい時分には、きっと見えていたのでしょう。

アフリカの人を呼んでくれば、よく見えると言ってくれるかもれません。

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電池はチーズによく似ていた

2013年11月18日 | つぶやきの壺焼

100円ショップでボタン電池を買った。
同じものが2品あったので、使用推奨期限が早く来ないほうにした。

小型パネル型の時計に入れてみると、どうも収まりが悪い。
前に入っていた電池と寸法を比べてみる。

前の電池は______直径11.5mm_厚さ3   mm
買ってきたものは___直径11.4mm_厚さ2.9mm

直径も厚さも0.1mmずつ縮んでいる。
買ってきたものをよく見ると中国製、買うときに使用推奨期限に気をとられて、どこで作られたのかを確かめなかったのが失敗だった。


規格寸法があるはずだと調べ始めたが、こういう情報はなかなか検索に引っかからない。
Panasonic 製品情報__直径11.6mm_厚さ3.05mm
やっとこれが見つかった。
なんと、直径では0.2mm、厚さが0.15mmも小さくなっているではないか。

買う側が黙って使っていれば、どんどん縮んでくるのか。
切れているチーズと同じなのだ。

チーズは、縮んだなと思いながら食べてしまえばそれで済むが、電池は、収まりが悪ければケースにテープを貼り付けるなど厄介な手当てが要る。

こんなことをしてまで製造コストを下げるのか。
気がつかないだろうも度が過ぎたとき、必ず破綻が現れ、天罰が下る。
変な製造指令を出さないよう、また、検査方法も見直さなければならない。
それよりも、社長さんとかCEOと呼ばれる人の、心の寸法を修正しなければならないだろう。

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文化の底に溜まったもの

2013年11月17日 | つぶやきの壺焼

名古屋で刺身につけた液体に出会ったときは、若い頃のことなので、ないはずのない底の味がつかみきれなかった。

ものの味、辛い甘い苦いすっぱいと言っても、それは度合いの表現で、味そのものを直接言い表せてはいない。
味が言い表せなければ、XXの味、クルマの味、タラバの味などと、品種名で「これが」と言うしかない。

言い表した言葉がなければ、「これ」は通人の言に頼るしかない。
「これ」と体感をつなぎ合わせて納得しておくしか、味を知る方法はないのである。
いや、もう一つあった。店の人が出してくれるモノである。それは通人が隣にいなくても、味を教えてくれた。

通人が口を閉ざし、通人ぶる人が増えれば、味の情報は不確かなものになっていく。
それでも、看板やメニュを頼りに味を確かめる方法は残っていた。

ところが、売りたいだけ売り、同業を蹴落とせば勝組に入れるという商いがはやりだし、看板やメニュにはそのように、売るもの出すものはそれらしく、というムニャムニャ商法を、仲間同士が認め合い、行き渡らせてしまった。

テラピアがマグロと呼ばれてあらわれ、ゼラチン膜がイクラの薄皮になり、ナマズが鯛に化ける。
これでは、味の標本がなくなったどころの話ではない。


15年前には問題にしなかったのに、今になってなぜ騒ぐか、という先生がいらっしゃる。
その先生の言によれば、メニュはそれ風と思えばよい、メニュ表示は大体ウソと思っていればよい、挙句の果てに、正直メニュは香ばしくないのだそうである。

ウソメニュに目くじらを立てるのは、CC、クレージークレーマーに近いと言いたげな様子をも見せた。
ウソに怒る人をクレージークレーマーと小ばかにする人には、クレージーコンプリメンターという造名を進呈したくなる。

その先生は、食品表示は詳しく書けないことなのだから、正直に書けなくてもよいという珍論法まで展開なさっていた。
詳しすぎるから見てもわからない無効表示になるので、肝心なことだけを簡潔に示せばよい。それならば、正直でなければ通用しなくなる。

ウソメニュは本ものの生産者が迷惑するからよくない、産地が被害者になるからよくないと、トークの相方は言っていたが、被害よりも利益の得方が問題なのだと思う。
それそれよりも、損得勘定以前の、食文化の面汚しの横行が困ったことなのだ。

もとはと言えば、売り方よりも名前で買いたがることにつけいられる、締めたつもりの甘い懐が問題なのだが。

ウソメニュが嫌なら「うち」で食べればよい、これには半ば賛成だが、さて、うちで食べる食材は、何を信じて手に入れるのか。
個々の消費者が、産地に信頼の置ける人を探して、そこから直接買い求めればよいというのでは、何百年か前に逆戻り、しかもごく恵まれた殿様生活をしなければならない。

ウソメニュ事件は、日本の文化の底に溜まったものが、奇妙な発酵を始めて、そのガスが浮き上がってきたおしるしではないかと思っている。

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日本人よ常軌に帰還せよ

2013年11月16日 | つぶやきの壺焼

ウソメニュ、天皇に直訴、アイドルをモルタル漬けなど、外れた行為は、頭を使わずになんでも楽に間に合わせようとした結果の現象です。

とんでもないことが創造であるかのような思い込みと、チェック機能の働かない脳みそがそうさせるのです。
その脳みそは、出力を見る眼の神経が途切れて、結果を意識できなくなっています。

そこには、とにかくモノか自分かを、売りたい買ってもらいたいというだけの思いしかありません。

人間の頭には、何がしかの異常部分がありますが、ほとんどの人はその働きを抑制できています。常軌を逸する行為は、頭脳の働きの異常部分の割合が増えると頻発します。

直訴、モルタル事件は、個別の突発現象ですが、ウソメニュは、同じような仕事をしている人がひとしく脱線していて、やや性格が異なります。
これはもう、脱線とはいえません。
街を走っていた電車の軌道が取り払われたように、軌道がなくなってしまっているのです。

このままでは、無軌道暴走がいつどこで起きるかわかりません。
日本人は、かけられている集団催眠から脱し、軌道を作り直して、常軌に戻らなければなりません。

軌道修復の第一歩は、カイシャと名のつく団体が何を目指し、どう動いているかを、正社員と認められている人が、よく確かめるところから踏み出すことになります。
カイシャにいるうちは上の目だけを気にして動き回り、そのあとは居酒屋で上の悪口を言い合って帰って寝る、その繰り返しでは軌道修復などできません。

花園のイメージより先に、自分が乗らなければならない軌道のイメージを、まず頭に描いてみましょう。

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