名古屋で刺身につけた液体に出会ったときは、若い頃のことなので、ないはずのない底の味がつかみきれなかった。
ものの味、辛い甘い苦いすっぱいと言っても、それは度合いの表現で、味そのものを直接言い表せてはいない。
味が言い表せなければ、XXの味、クルマの味、タラバの味などと、品種名で「これが」と言うしかない。
言い表した言葉がなければ、「これ」は通人の言に頼るしかない。
「これ」と体感をつなぎ合わせて納得しておくしか、味を知る方法はないのである。
いや、もう一つあった。店の人が出してくれるモノである。それは通人が隣にいなくても、味を教えてくれた。
通人が口を閉ざし、通人ぶる人が増えれば、味の情報は不確かなものになっていく。
それでも、看板やメニュを頼りに味を確かめる方法は残っていた。
ところが、売りたいだけ売り、同業を蹴落とせば勝組に入れるという商いがはやりだし、看板やメニュにはそのように、売るもの出すものはそれらしく、というムニャムニャ商法を、仲間同士が認め合い、行き渡らせてしまった。
テラピアがマグロと呼ばれてあらわれ、ゼラチン膜がイクラの薄皮になり、ナマズが鯛に化ける。
これでは、味の標本がなくなったどころの話ではない。
15年前には問題にしなかったのに、今になってなぜ騒ぐか、という先生がいらっしゃる。
その先生の言によれば、メニュはそれ風と思えばよい、メニュ表示は大体ウソと思っていればよい、挙句の果てに、正直メニュは香ばしくないのだそうである。
ウソメニュに目くじらを立てるのは、CC、クレージークレーマーに近いと言いたげな様子をも見せた。
ウソに怒る人をクレージークレーマーと小ばかにする人には、クレージーコンプリメンターという造名を進呈したくなる。
その先生は、食品表示は詳しく書けないことなのだから、正直に書けなくてもよいという珍論法まで展開なさっていた。
詳しすぎるから見てもわからない無効表示になるので、肝心なことだけを簡潔に示せばよい。それならば、正直でなければ通用しなくなる。
ウソメニュは本ものの生産者が迷惑するからよくない、産地が被害者になるからよくないと、トークの相方は言っていたが、被害よりも利益の得方が問題なのだと思う。
それそれよりも、損得勘定以前の、食文化の面汚しの横行が困ったことなのだ。
もとはと言えば、売り方よりも名前で買いたがることにつけいられる、締めたつもりの甘い懐が問題なのだが。
ウソメニュが嫌なら「うち」で食べればよい、これには半ば賛成だが、さて、うちで食べる食材は、何を信じて手に入れるのか。
個々の消費者が、産地に信頼の置ける人を探して、そこから直接買い求めればよいというのでは、何百年か前に逆戻り、しかもごく恵まれた殿様生活をしなければならない。
ウソメニュ事件は、日本の文化の底に溜まったものが、奇妙な発酵を始めて、そのガスが浮き上がってきたおしるしではないかと思っている。
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