小さな間違いはすぐ見つかるが、大きな間違いは見つけにくい。
言い間違えたとか、書き間違えたとか、そんなどうでもよさそうなことには皆が気づくが、全社ぐるみで始めてしまった○○運動などということになると、それが大きな間違いであっても気づかない。
たとえ気づいた人がいても、白眼視、昇進機会の逸失などに耐え抜いてでも間違いを指摘する者はほとんどいない。
○○運動というのは、気運の盛り上げだけが狙いだから、それで実践した結果が、将来ことあるときに、どういう影響をもたらすかということは論じられることがない。
○○運動の発表会を行って、巧みな作文が功を奏して入賞してしまったことがらは、現場で実用化しないわけにはいかないから、実際の設備設計にとりいれられる。
ところが、そのときには思いもよらなかった、というより、思いをよせなかった異常事態が起きた場合には、まったく処置なしというような不幸を招くこともある。
全社をあげて褒めたたえてしまったことだけに、責めを負える者はいない。
間違いのもとは、○○運動そのものの企画にあるのだが、後にそれを指摘する見識は、多分どこにも見当たらないだろう。
グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答 | |
Ulrich Beck,木前 利秋,中村 健吾 | |
国文社 |