猫のヒゲはどんな形をしているか。
1本1本ではなく、総体の形がどうなのかということ。
猫のヒゲを切ってはいけないという話は聞いたが、どんな形なのか考えたこともなかったのに、あの写真を見てから、猫のヒゲの形が気になり始めた。
いい気持ちで昼寝していたのに、変な気配がして眼を開けたら、目の前にカメラがあって、不機嫌になった猫の顔。
↓
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yamato_onoko/52670224
ヒゲの下端は、立ち上がったとき水平になるように揃っている。
この猫の飼い主は、猫によって違うというが、さてどうなのか。
当分は猫を見かけると、ヒゲの形はどうかということになるだろう。
うちのはこうだと知らせてくださるとありがたい。
昔むかし生まれた170歳のおじいちゃんが、戸籍ではまだ生きている。
紙と筆だけのときはよくあることだったっかも知れないが、電子時代ではこれは怪奇現象だ。
県内のある郡に、町が一つ村はゼロというところがある。
こういうところにも郡役所はあるのだろうか、郡長さんはおられるのだろうかとたずねてみると、郡とは名前だけで役所もなし、郡長もいないとのこと。
隣の市に入りにくい、市に属さない町に、○○県□□町という行政区域上の位置づけはできないので、△△郡を名前だけ残してあるらしい。
当たりまえといえばそうなのだが、これも怪奇現象だ。
実体がなくても、帳面から取り去ることはどんな場合にも難しいのだ。
難しさにはちゃんと理由がある。
1.さしさわりのある決め事を改めなければならない。
2.手続きを慎重かつ確実にしなければならない。
こういうことをさっさと片付け、すっきりさせていくのが有能な官吏ではなかったのかなあ。
紙と筆だけのときはよくあることだったっかも知れないが、電子時代ではこれは怪奇現象だ。
県内のある郡に、町が一つ村はゼロというところがある。
こういうところにも郡役所はあるのだろうか、郡長さんはおられるのだろうかとたずねてみると、郡とは名前だけで役所もなし、郡長もいないとのこと。
隣の市に入りにくい、市に属さない町に、○○県□□町という行政区域上の位置づけはできないので、△△郡を名前だけ残してあるらしい。
当たりまえといえばそうなのだが、これも怪奇現象だ。
実体がなくても、帳面から取り去ることはどんな場合にも難しいのだ。
難しさにはちゃんと理由がある。
1.さしさわりのある決め事を改めなければならない。
2.手続きを慎重かつ確実にしなければならない。
こういうことをさっさと片付け、すっきりさせていくのが有能な官吏ではなかったのかなあ。
フィクションとは、読んだり見たりしている間だけ本当だと思っていて、終わった途端にうそに変わる物語だという。
それでは、終わりきらないうちに、うそに変わるのをなんというのか。
もっとひどいので、終わりの気配の見えないうちに、うそに変わるのをなんというのか。
フィの前はファ、ファクションか。
いまN町で繰り広げられているのもフィクション以前のファクション、つまり派閥だ。
いや、「繰り広げられて」は描写不全、浮かんでは消え、見えたかと思えば何もない。「ン」でも入ればファンクションだが、それもなさそう。
それでは、終わりきらないうちに、うそに変わるのをなんというのか。
もっとひどいので、終わりの気配の見えないうちに、うそに変わるのをなんというのか。
フィの前はファ、ファクションか。
いまN町で繰り広げられているのもフィクション以前のファクション、つまり派閥だ。
いや、「繰り広げられて」は描写不全、浮かんでは消え、見えたかと思えば何もない。「ン」でも入ればファンクションだが、それもなさそう。
うっかりきいていると栄養入学って何だ、と思ってしまう。
アドミッションズオフィス、名前は入学を認めるかどうかの決め手を整える事務局だが、実際には学生の募集から手をつけるらしい。
検定専門のお役所仕事ではなく、質のよい受験生を集めなければ、オフィスの業績にかかわるのだろう。
AO制度は、大学の入学選考だけでなく、別のところにも適用できるのではないか。
たとえば入閣資格、入党資格など。
票の数だけ集めれば得られるような安っぽい資格では、億を超える人びとの命を預けるには心細いから。
アドミッションズオフィス、名前は入学を認めるかどうかの決め手を整える事務局だが、実際には学生の募集から手をつけるらしい。
検定専門のお役所仕事ではなく、質のよい受験生を集めなければ、オフィスの業績にかかわるのだろう。
AO制度は、大学の入学選考だけでなく、別のところにも適用できるのではないか。
たとえば入閣資格、入党資格など。
票の数だけ集めれば得られるような安っぽい資格では、億を超える人びとの命を預けるには心細いから。
火をつけない、煙が出ないだけで、ニコチンを吸うことにかわりはなかった。
それが電子タバコの正体らしい。
全部がそうではないが、45製品中15からニコチンが検出されたという。
3分の1がニコチン含有、それなら3分の2は安全無害か。
煙が出ていれば急激な吸い方はしないだろう。だが、何も吸い込まずに味と香りだけを吸えるはずはないので、それを運び込む何かがあって、精一杯吸い込んでいるのではないか。
ニコチンが検出されたかどうかの調査結果は公表されても、その他のガスの成分は何ものなのかわからない。
危ないなあ。
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20100818_1.html
それが電子タバコの正体らしい。
全部がそうではないが、45製品中15からニコチンが検出されたという。
3分の1がニコチン含有、それなら3分の2は安全無害か。
煙が出ていれば急激な吸い方はしないだろう。だが、何も吸い込まずに味と香りだけを吸えるはずはないので、それを運び込む何かがあって、精一杯吸い込んでいるのではないか。
ニコチンが検出されたかどうかの調査結果は公表されても、その他のガスの成分は何ものなのかわからない。
危ないなあ。
http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20100818_1.html
9月20日敬老の日が近づいてくる。
そのひと月前の8月20日を警老の日として、暑さに負けず警戒を怠らないように気を付けようと思っていた。
どうやらその日も無事に過ぎた。
だが油断は禁物、とかくほっとしたときに危機危険がやってくるものだから。
そのひと月前の8月20日を警老の日として、暑さに負けず警戒を怠らないように気を付けようと思っていた。
どうやらその日も無事に過ぎた。
だが油断は禁物、とかくほっとしたときに危機危険がやってくるものだから。
景気の分析をそれぞれの立場で報告せよ?
どこかの大学の夏休みの宿題かと思ったら、これが驚き、内閣総理大臣から閣僚への指示だった。
景気の状況など、毎日、せめて毎週報告を受けるようにはしてなかったのか。
それぞれの立場でとは何だろう。それぞれの大臣が自分の立場でもの申すのは言われなくてもそうなってしまうではないか。
それではいかん、自分の立場は二の次に、百年めの危機に国家百年の計を考えよと総理が言わなくてどうする。
首相の仕事はニュース種だけで、何かを指示したと言っておけばその日は終わりなのか。
夏休みに、いにしえの二大政党の動きを勉強したなどと、本を見ている姿をわざわざTVで放送させる。
そんなカッコつけでこの国を救えると、クミンたちが思うわけがなかろうに。
どこかの大学の夏休みの宿題かと思ったら、これが驚き、内閣総理大臣から閣僚への指示だった。
景気の状況など、毎日、せめて毎週報告を受けるようにはしてなかったのか。
それぞれの立場でとは何だろう。それぞれの大臣が自分の立場でもの申すのは言われなくてもそうなってしまうではないか。
それではいかん、自分の立場は二の次に、百年めの危機に国家百年の計を考えよと総理が言わなくてどうする。
首相の仕事はニュース種だけで、何かを指示したと言っておけばその日は終わりなのか。
夏休みに、いにしえの二大政党の動きを勉強したなどと、本を見ている姿をわざわざTVで放送させる。
そんなカッコつけでこの国を救えると、クミンたちが思うわけがなかろうに。
あるきっかけから、高校教科書に最も多く採用されているという漱石の「こころ」を読み直してみた。
読み直しと言っても、記憶にあったのは書名だけなので、始めて読んだのと変わりない。
買って読む元気もないので、図書館から3冊借りてきた。なぜ3冊も、という理由から始めることにする。
転居前、私は図書館から本を借りる場合、ネットで検索し予約しておき、メールで通知が来たら借りに行く、という方法をとっていた。
漱石の「こころ」を検索すると、ぞろぞろ出てきた。文字の小さい文庫本を避け、全集ならよかろうと、平凡社の「世界名作全集」から選んで予約した。
通知が来てとりに行くとき、受け取るだけならと眼鏡を持たずに行った。
「これでよろしいですか」と言われて背文字を見たが、はっきり見えない。
「目が悪いので」と言いながら眉をひそめて見ていると、「ここにもあったのですが」と係の人のことば、他の図書館からも運んでくれてあったのだ。
借りて帰ってよく見ると、「ここにもあったのですが」と遠慮がちだったことばの意味に気付いた。
全集といっても、字は7Pと8Pの間の6号ぐらい、版の大きさは文庫並み、昭和34年の版で紙もだいぶ焼けている。
これはだめだと、別の日に図書館まで出かけて行ってまた探した。
あるある、4~5種類もあったか、しかし、文字が大きくいちばん読みやすい、ほるぷ出版の全集には「こころ」がない。
仕方なく角川の「日本近代文学大系」から借り出した。
これは、字は10Pぐらいでまあまあだが、全部の漢字にふりがながついている。「私が愈立とう」に「わたくし いよいよた」とおまけがつく。そういうところは字間をわざわざ広げなければおさまらない。その一方では行間に余裕がないなど、目がちらちらしてまことに読みにくいものなのである。
これもだめだと、もう一度ネットで書名と出版社を条件にして検索、ようよう、ほるぷの「日本の文学」に入っているのを借りることができた。
10Pより大きい5号活字で、行送りも8ミリ以上、これは読みやすい。
新刊でその版しかないもの以外は、やはり現物を確かめてから買ったり借りたりした方がよい、とあらためて思った。
さて、この本は、シールを見ると、なんと児童図書館の蔵書になっている。
三角関係の果てに自殺で終わる本が、なぜ児童図書なのか、また国語の教科書に載るのか、理解に苦しむところだ。
蔵書の場や掲載を決めるときに、書名と著者しか気にしなかったのだろう。
それはともかく、中身の感想をひとこと言わなければ話にならないので、本題に入る。
暮らしの中で、余計なことは知りたがらない、余分なことは話さない、これが普通の人間のこころのように思っていた。
知って欲しくないことを打ち明けてしまうには、命と引き換えの覚悟がいることさえある。一方、知ってどうするというようなことを、無闇に知りたがる人もあちこちにいる。そんなことが書かれている。
たしかに、それが世の常であったように思う。
しかし、前世紀の終わりごろには、情報化という化け物のお陰で、知りたい、聞きたいという身勝手な欲望のままに、キリやノミで相手のことを考えずに突っつき散らす人が増えてきた。そして、自分の欲望がある程度満たされると、コミュニケーションがはかれたなどと得意顔になる。
こころのうちを解かるまでに至らず、知ったつもりになるだけでも、発掘研究者のような執念がなければできないことだ。
また、こころのうちの最もだいじなところを知らしめ理解させようとするには、ヌーディストに宗旨替えするような勇気がいるだろう。
心の病をもっていて気の毒な状態にある、あるいは人に危害を加える心配がある、そんな人のことでないならば、お互いにもう少しさらっと、しかも広く付き合うようにすれば、世の中もっと住みやすくなるだろうと、あらためて感じた。
読み直しと言っても、記憶にあったのは書名だけなので、始めて読んだのと変わりない。
買って読む元気もないので、図書館から3冊借りてきた。なぜ3冊も、という理由から始めることにする。
転居前、私は図書館から本を借りる場合、ネットで検索し予約しておき、メールで通知が来たら借りに行く、という方法をとっていた。
漱石の「こころ」を検索すると、ぞろぞろ出てきた。文字の小さい文庫本を避け、全集ならよかろうと、平凡社の「世界名作全集」から選んで予約した。
通知が来てとりに行くとき、受け取るだけならと眼鏡を持たずに行った。
「これでよろしいですか」と言われて背文字を見たが、はっきり見えない。
「目が悪いので」と言いながら眉をひそめて見ていると、「ここにもあったのですが」と係の人のことば、他の図書館からも運んでくれてあったのだ。
借りて帰ってよく見ると、「ここにもあったのですが」と遠慮がちだったことばの意味に気付いた。
全集といっても、字は7Pと8Pの間の6号ぐらい、版の大きさは文庫並み、昭和34年の版で紙もだいぶ焼けている。
これはだめだと、別の日に図書館まで出かけて行ってまた探した。
あるある、4~5種類もあったか、しかし、文字が大きくいちばん読みやすい、ほるぷ出版の全集には「こころ」がない。
仕方なく角川の「日本近代文学大系」から借り出した。
これは、字は10Pぐらいでまあまあだが、全部の漢字にふりがながついている。「私が愈立とう」に「わたくし いよいよた」とおまけがつく。そういうところは字間をわざわざ広げなければおさまらない。その一方では行間に余裕がないなど、目がちらちらしてまことに読みにくいものなのである。
これもだめだと、もう一度ネットで書名と出版社を条件にして検索、ようよう、ほるぷの「日本の文学」に入っているのを借りることができた。
10Pより大きい5号活字で、行送りも8ミリ以上、これは読みやすい。
新刊でその版しかないもの以外は、やはり現物を確かめてから買ったり借りたりした方がよい、とあらためて思った。
さて、この本は、シールを見ると、なんと児童図書館の蔵書になっている。
三角関係の果てに自殺で終わる本が、なぜ児童図書なのか、また国語の教科書に載るのか、理解に苦しむところだ。
蔵書の場や掲載を決めるときに、書名と著者しか気にしなかったのだろう。
それはともかく、中身の感想をひとこと言わなければ話にならないので、本題に入る。
暮らしの中で、余計なことは知りたがらない、余分なことは話さない、これが普通の人間のこころのように思っていた。
知って欲しくないことを打ち明けてしまうには、命と引き換えの覚悟がいることさえある。一方、知ってどうするというようなことを、無闇に知りたがる人もあちこちにいる。そんなことが書かれている。
たしかに、それが世の常であったように思う。
しかし、前世紀の終わりごろには、情報化という化け物のお陰で、知りたい、聞きたいという身勝手な欲望のままに、キリやノミで相手のことを考えずに突っつき散らす人が増えてきた。そして、自分の欲望がある程度満たされると、コミュニケーションがはかれたなどと得意顔になる。
こころのうちを解かるまでに至らず、知ったつもりになるだけでも、発掘研究者のような執念がなければできないことだ。
また、こころのうちの最もだいじなところを知らしめ理解させようとするには、ヌーディストに宗旨替えするような勇気がいるだろう。
心の病をもっていて気の毒な状態にある、あるいは人に危害を加える心配がある、そんな人のことでないならば、お互いにもう少しさらっと、しかも広く付き合うようにすれば、世の中もっと住みやすくなるだろうと、あらためて感じた。
二言めには・・・とは、口癖をけなすときの言い回しだが、一言しかしゃべらない人よりも、二言めの出てくる人の方が、話し相手にはよい。
いつだったか、アグネス・チャンがラジオでこんなことを言っていた。
「男は職種で金を取り、女は時間で金を稼ぐ」
「東大卒の学歴は、男には有利に働き、女には不利に働く」
どういうわけか、一方のことだけでなく、両方言うと、なるほどと思わせられてしまう。
二言めの出てくる人は、それだけいろいろなことに目を向けているとも言える。
相手にも、自分にもこころよい二言めが出せる、そんな話のつぼは、何十枚も入るばら撒き用の名刺入れよりも役に立つかも知れない。
いつだったか、アグネス・チャンがラジオでこんなことを言っていた。
「男は職種で金を取り、女は時間で金を稼ぐ」
「東大卒の学歴は、男には有利に働き、女には不利に働く」
どういうわけか、一方のことだけでなく、両方言うと、なるほどと思わせられてしまう。
二言めの出てくる人は、それだけいろいろなことに目を向けているとも言える。
相手にも、自分にもこころよい二言めが出せる、そんな話のつぼは、何十枚も入るばら撒き用の名刺入れよりも役に立つかも知れない。
7年前のこと、スペースシャトル・コロンビアが着陸15分前に空中分解した。命を散らした7人の方にあらためて黙祷。
打ち上げのときに傷めたところを、多忙なスケジュールに追われて点検するいとまもなかったらしい。
時間を切り詰めるのはなぜか、予算が足りないから。
「これでやれる筈」と、「そうか」の間に、もう一つ詰めが足りないのだろう。
「筈」を唱えるときは、半ば苦し紛れのことが多いから、余裕を見込むことはまずない。
「そうか」は一番楽な返事だ。こうした「そうか」に犠牲がついて回る。
行き届いた点検をすることさえ許されない、気にかかりながら放置しなければならない、それ程の切り詰めよって得られる結果に、どういう価値を求めようとしたのか。
それを飛ぶものの事故の原因は性急にある。
打ち上げのときに傷めたところを、多忙なスケジュールに追われて点検するいとまもなかったらしい。
時間を切り詰めるのはなぜか、予算が足りないから。
「これでやれる筈」と、「そうか」の間に、もう一つ詰めが足りないのだろう。
「筈」を唱えるときは、半ば苦し紛れのことが多いから、余裕を見込むことはまずない。
「そうか」は一番楽な返事だ。こうした「そうか」に犠牲がついて回る。
行き届いた点検をすることさえ許されない、気にかかりながら放置しなければならない、それ程の切り詰めよって得られる結果に、どういう価値を求めようとしたのか。
それを飛ぶものの事故の原因は性急にある。
「具体的に」という注文語を、私は好かない。
その前に、「具体的」という言葉がおよそ嫌いなのだ。
この言葉は半分うその要素も持っていて、それを、ところ構わず得意顔で使われると、何か嫌な感じがするからである。
人にものをたずねるとき「具体的に話してください」と注文をつけているのを、TVのインタビューなどでよく見かける。実に嫌な注文のし方だ。
こういうTPOをわきまえない注文のし方は聞いていて気分が悪い。
(注)ここでのTPOは、Think, Position, and Occasion 特にPに注目
考えなく使っている人は、そう聞くのがなぜ悪い、私はディレクターに具体的に聞き出して欲しいと要求されているのだ、と言うかも知れない。
しかし、その要求は、ディレクターからキャスターに対しての要求で、キャスターからコメンテイターにそれをそのまま持っていったのでは、学生の宿題丸投げと同類ではないか。
なぜ丸投げかというと、「具体的に」と要求する言葉は、そこですでに抽象的要求になってしまっているからだ。
自分から具体的行動をせずに、ひとにだけそれを要求するというのは、いかにも手前勝手なのだ。具体的なことを聞き出したければ、具体的な質問をしなければならないだろう。
それには、聞き出そうとすることについて、前もっていろいろ調べ、聞くことを用意して置かなければならない。
ディレクターは、本当はそのことを望んでいて、視聴者もそういうインタビューを期待しているのだと思う。
その期待にこたえる努力をせず、形だけ取り繕うことを考える。それが「具体的に話してください」という丸投げ質問になって現れる。
努力なしに良さそうに見える結果だけ出そうとする、お手軽インタビューがなさけないのだ。
具体的な表し方というと、まず数値表現に走る。
数値やグラフを出されると、つい本当かと思ってしまう。わかったような気にさせられる。そこが怪しいのだ。
わかるためには、具体性があった方が便利だ。
だが、便利だというだけのことで、良いか悪いかは別のこと。そのあたりを取り違えると、具体性は善、抽象性は悪、非具体性は悪、わかりにくいことは何でも悪と思い込む「具体性希求症候群」に罹ってしまう。
もし、わかりにくいことが悪であるとしたら、政治、経済という仕事はみな悪で、またそれに携わっている人はみな悪人になってしまうではないか。
政治、経済は本来わかりにくいものなのに。
数値やグラフの代表用途はアンケートである。
アンケートは、ある傾向の答えが欲しいと思えば、誘導によって希望どおりのデータが仕上がる、便利重宝なシステムだ。
数値のうそなどと、もっともらしい説を見かけることもあるが、うそではない、数値は正常に集計すれば常に本当なのだ。冒頭に半分うそと言ったのは、本当の顔をしたうそが紛れ込んでいるからだ。
集計上のごまかしなどは論外のことで、そんなものはデータとはいえないから、勘定のうちに入らない。
データが、取られた条件に対しては、すべて本当であるから始末が悪い。
ものごとをわからなくする術は、設問の段階で使われる。問いかけのときそれは既に過去完了なのである。
眼鏡はいつも拭いていないと、はっきり見えない。ワンデイアキュビューどころかランタイムアキュビューでなければ、ものごとはしっかり見えないのだ。
その前に、「具体的」という言葉がおよそ嫌いなのだ。
この言葉は半分うその要素も持っていて、それを、ところ構わず得意顔で使われると、何か嫌な感じがするからである。
人にものをたずねるとき「具体的に話してください」と注文をつけているのを、TVのインタビューなどでよく見かける。実に嫌な注文のし方だ。
こういうTPOをわきまえない注文のし方は聞いていて気分が悪い。
(注)ここでのTPOは、Think, Position, and Occasion 特にPに注目
考えなく使っている人は、そう聞くのがなぜ悪い、私はディレクターに具体的に聞き出して欲しいと要求されているのだ、と言うかも知れない。
しかし、その要求は、ディレクターからキャスターに対しての要求で、キャスターからコメンテイターにそれをそのまま持っていったのでは、学生の宿題丸投げと同類ではないか。
なぜ丸投げかというと、「具体的に」と要求する言葉は、そこですでに抽象的要求になってしまっているからだ。
自分から具体的行動をせずに、ひとにだけそれを要求するというのは、いかにも手前勝手なのだ。具体的なことを聞き出したければ、具体的な質問をしなければならないだろう。
それには、聞き出そうとすることについて、前もっていろいろ調べ、聞くことを用意して置かなければならない。
ディレクターは、本当はそのことを望んでいて、視聴者もそういうインタビューを期待しているのだと思う。
その期待にこたえる努力をせず、形だけ取り繕うことを考える。それが「具体的に話してください」という丸投げ質問になって現れる。
努力なしに良さそうに見える結果だけ出そうとする、お手軽インタビューがなさけないのだ。
具体的な表し方というと、まず数値表現に走る。
数値やグラフを出されると、つい本当かと思ってしまう。わかったような気にさせられる。そこが怪しいのだ。
わかるためには、具体性があった方が便利だ。
だが、便利だというだけのことで、良いか悪いかは別のこと。そのあたりを取り違えると、具体性は善、抽象性は悪、非具体性は悪、わかりにくいことは何でも悪と思い込む「具体性希求症候群」に罹ってしまう。
もし、わかりにくいことが悪であるとしたら、政治、経済という仕事はみな悪で、またそれに携わっている人はみな悪人になってしまうではないか。
政治、経済は本来わかりにくいものなのに。
数値やグラフの代表用途はアンケートである。
アンケートは、ある傾向の答えが欲しいと思えば、誘導によって希望どおりのデータが仕上がる、便利重宝なシステムだ。
数値のうそなどと、もっともらしい説を見かけることもあるが、うそではない、数値は正常に集計すれば常に本当なのだ。冒頭に半分うそと言ったのは、本当の顔をしたうそが紛れ込んでいるからだ。
集計上のごまかしなどは論外のことで、そんなものはデータとはいえないから、勘定のうちに入らない。
データが、取られた条件に対しては、すべて本当であるから始末が悪い。
ものごとをわからなくする術は、設問の段階で使われる。問いかけのときそれは既に過去完了なのである。
眼鏡はいつも拭いていないと、はっきり見えない。ワンデイアキュビューどころかランタイムアキュビューでなければ、ものごとはしっかり見えないのだ。
自己管理とは、個人の行動に対する戒めの言葉としてのみ有効である。
この言葉は、無管理の言い換えに使われることが多い。
それが行われることに期待を寄せる振りをした放任を擁護する便利な用語である。
管理システムの根幹思想が自己管理中心というのでは、実際にはシステムの態をなさない。
不祥事がばれた途端に、対策を検討していますなどと、しゃあしゃあと言ってのける。
それをまたマスメディアを通じて得意げに発表する。この手の放送には、放っておいたのが失敗だったという反省の色は全く表れることがない。
自己管理の意義は自ら律することにあって、他人が使う便法用語ではないのだ。
この言葉は、無管理の言い換えに使われることが多い。
それが行われることに期待を寄せる振りをした放任を擁護する便利な用語である。
管理システムの根幹思想が自己管理中心というのでは、実際にはシステムの態をなさない。
不祥事がばれた途端に、対策を検討していますなどと、しゃあしゃあと言ってのける。
それをまたマスメディアを通じて得意げに発表する。この手の放送には、放っておいたのが失敗だったという反省の色は全く表れることがない。
自己管理の意義は自ら律することにあって、他人が使う便法用語ではないのだ。
「むしし」という仕事があるという。(Wikipedia)
虫士でも虫師でもなく蟲師と書かれる。
精霊や幽霊や妖怪は「蟲」の生命の営みから起こる現象で、それを研究し害があれば退治する仕事であるという。
することがわかってみれば、たしかに、虫のしらせよりも蟲のしらせのほうが適当字だと思う。
永田町、霞ヶ関にも蟲師を駐在させるとよいのではないか。
虫士でも虫師でもなく蟲師と書かれる。
精霊や幽霊や妖怪は「蟲」の生命の営みから起こる現象で、それを研究し害があれば退治する仕事であるという。
することがわかってみれば、たしかに、虫のしらせよりも蟲のしらせのほうが適当字だと思う。
永田町、霞ヶ関にも蟲師を駐在させるとよいのではないか。