・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

からだは動かしたほうがよい

2013年03月31日 | つぶやきの壺焼

除染という名熟語が最近作られ超速で定着しました。
これも政治のゆるさの産物です。

手のつけようがないところにも、何かしなければいられない、自然に任せて入られない。
建物や地面だけでは気がすまない。
山の木や草を相手にそれを始めると、際限がありません。
ひと雨降ればまた測定、数値次第でまた除染。


どこか似ている『しごと』がありました。

暇さえあれば車に水をかけて洗っています、車には乾く時間がありません。

いつも箒かぞうきんをもっています、きれいになっているだけで満足、ゴミがたまらないだけで生活が豊かになると、おトメさんには褒められます。


汚染地域外でも、2年経ってまだ更地のままです。
農地に加工場をつくる復興計画を申請したら、農林水産省では経済産業省の業務は扱えませんと申請却下。

さしあたり除染しかすることがありません。
切り落とした枝など運ぶだけ無駄と川へ流したら、とんでもないことをすると大目玉。
除染というのは、つくづく厄介な、からだを動かせるというだけの、実りのないしごとです。
本当にご苦労さまです。

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方向を変えてみる

2013年03月30日 | つぶやきの壺焼

また高速道路のトンネル隔壁アンカーの話に戻ってしまいます。
アンカーの引き抜きテストを行ったら抜けてしまうものがだいぶあったと、TVで報道されているのを見たからです。

「接着系アンカーボルトの引抜き抵抗力の確認」の結果なのですが、その方法は次のように指示されていました。

『打音試験を行った試料全数を対象に、アンカーボルトの引抜き抵抗力試験を実施し、アンカーボルト材料の降伏点応力度相当まで載荷(接着剤とアンカーボルト又は接着剤と覆工コンクリート面の部分で破壊した場合は、破壊時の載荷重まで載荷)を行い、引抜き抵抗力の測定及び、載荷荷重変位曲線やアンカーボルトの変位量を記録する。
■覆工コンクリート面に対して垂直度が悪いものは無理に試験を行わない。■』

ここでボケ頭に引っかかったのは、最後の行■・・・■です。
「垂直度が悪いものは無理に試験を行わない」ということは、無理やり引っ張ることになる箇所が多そう、逆に見れば引抜き抵抗力が大きいということではないのかと思い始めました。
昨日の方向情報のことも頭に残っていて、斜めのものは強そうだと、あらためて思うのです。

「斜に構える」はちょっと意味がずれるにしても、斜めの部材を使って丈夫にしたものは至るところに見られます。

隔壁をぶら下げて垂直に力が加わるところに、垂直方向にアンカーを植えてあったのがそもそも間違いではなかったのかと考えます。
方向を変えてみることに、誰も頭を向けなかったのでしょうか。
あまりにも素直に、自然に逆らわないのがいちばんなどと嘯いていると、ときどき自然からとんだお礼をいただくことになります。

命を落とされた方には全くお気の毒ですが、アンカー抜け落ちは、無抵抗自然主義への有難くないご褒美だったようです。

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位置情報と方向情報

2013年03月29日 | つぶやきの壺焼

パンダの訓練法を報じたラジオ放送で、超ベテランアナウンサーがつかえたことがありました。

「頭上にりんごをぶら下げパンダに立ち上がりの訓練をさせている」と原稿には書いてあったようです。

「頭上・・・ぶら下げ」新米ならそのまま読み進むような記事ですが、そこでつかまってしまいました。
「上に下げる」とは何ごとか、というわけです。

「頭上」を位置情報としてとらえるか、方向情報としてとらえるかによりますが、ベテランには位置の感覚のほうが強く働いたのでしょう。

説明型の長文化傾向のラジオ記事は、区切り下手で読みにくくわかりにくいものです。
オレの記事をすらすら読んでみろとばかりに、わざと長く読みにくくしているとは思いませんが、一度聞いてスッと耳に入ってくる放送は、やはり心地よいものです。


いま 春が来て パンダも その気になった

短い春はもう終わったのではないかと思いますが、こんどは 肺炎に 罹らぬように祈っています。

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設計の感覚:3

2013年03月28日 | つぶやきの壺焼

上等な設計と言えるのは、使われる状況、据付けられる状況、運ばれる状況、組み立てられる状況、作られる状況と、だんだんさかのぼって、すべての状況を頭に描きながら進められた設計であると思います。

しかし、それでもなお足りないところがあります。
使われるところまでの考えでは、故障が起きたときの状況が、頭に入ってないからです。
もう一つ同じものを買っておいて貰えばよいという、贅沢な二重化依存は、設計者の頭のねじを緩めます。

壊れたら分解しないでください、これも中途半端な設計です。
分解されると、設計の恥部が見えますが、それを恐れてはなりません。

分解しにくいということは、組み立てにくいことなのですが、汎用工具では組み立ての逆工程をさかのぼれない意地悪設計もあります。
ねじの頭にプラスでもマイナスでもない、6弁花形に耳たぶ形の凹みを配置した形のものを、組み立ての要所に配置してある電話機がありました。
トルクスあるいはヘックスローブと呼ばれるねじで、専用のドライバーがないと回すことができません。
家庭用にそれをもっている人はごく少ないでしょう。

故障すると容易に直せない設計もあれば、面倒なことを厭わなければ直せる設計もあります。
作って売るほうか、買って使うほうか、どちらかに味方するようになっています。
そのあたりが、設計感覚の分かれ道のような気がします。


昨日の話題の、ちょっとしたことで動かなくなった時計は、寿命が尽きたととは言えません。
買ったものでも、もらったものでも、使う側としては、故障しても直れば直して使いたいと思います。

針の位置を変えようとして止まってしまったこの時計は、どこかに何かが食い込んでしまったということなのでしょう。
長針、短針、秒針の相対位置を少しずらせてやれば動き出すかもしれません。
文字盤の前の透明板を外して、秒針の軸をちょっと前に引っ張ってみました。
電池を入れたら、それまでひとところにがんばっていた秒針が動き出しました。

あとは透明板をはめ込んで、針の位置を合わせれば終わりです。
今度は方向を間違えないように、ちょっと行き過ぎたら、面倒でも同じ方向にぐるぐる回してまた止まってしまわないように気をつけました。

こんなところに動かなくなる仕掛けをしておくのは、あまり素直でない設計感覚のように思うのですが、いかがでしょうか。
仕掛けではなく、気づかなかったのであれば、もう一段階下ということになります。

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設計の感覚:2

2013年03月27日 | つぶやきの壺焼

孫の土産なのか、我が家に似つかわしくない時計が置いてある。
ある日これが文字盤を下にうつぶせになっていた。
取り上げてみると動いていない。電池切れ、LR44を探して入れ替えてみる。
動かない。電池の電圧を測る。mV単位の表示がふらふらして止まらない。
入れ替え損ねたかと、新旧両方とも電圧を測る。結果は同じ。自然放電らしい。
使い道が少なければ2個入りは無駄になるが、なぜか売っているのは2個入りが多く、その片割れが寿命の尽きたまま残っていたのだった。

新しい電池を買ってきて入れ替える。
電池ケース部分のふたは、ドライバーでは開かない。
10円玉ならちょうどよい形と寸法に溝ができている。
円盤形のふたは、開けるとどこかに飛んでいってしまいそう。
転げ落ちて机の下にでも入ってしまったらバンザイなので、植木鉢皿に入れておく。

入れ替えた後のふたが閉めにくかったが、また10円玉の助けを借り、電池が新しくなって動き出す。
針を回すレバーが、尖がった爪に合うような形になっていて、無骨な指では回しにくい。
回す向きが矢印で刻み込んであって、逆に回すと具合が悪そう。
なぜか、逆方向に回していたらしく、動かなくなった。
こうなると振っても叩いてもだめ。

使いやすさはデザイナーの頭の外側にあったらしい。
こちらの頭はしばらく冷やすことにしよう。

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設計の感覚

2013年03月26日 | つぶやきの壺焼

すぐ故障するものは、下手な設計のもとでできあがったものです。
重要施設の電源装置は、たとえ仮設であっても故障が起きては未熟設計と謗れらても仕方がありません。
もっとも、本設備の電源装置が地震や津波でやられてしまうのは、もっとお粗末ではあるのですが。

故障箇所の近くに焼け焦げがあったからと、ねずみの仕業にしてしまうのも、設計不備の棚上げです。
ねずみが入らないようにするぐらいのことが、もともとできないはずはありません。
ねずみなら死骸があったと思いますが、それがあったとの報道は聞こえていません。
入ってきた穴からまた逃げ出せるようならたいした感電ではなく、焼け焦げはできないでしょう。

しかし、そういうことにしておこうという、世の中を丸く治める余地のあることが、巧みな設計なのかもしれません。

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気づかなかった免罪符

2013年03月25日 | つぶやきの壺焼

気づかなかった、忘れた、まあ仕方がないか。
ひとが許してくれれば、自分もわが身のしくじりを大目に見る。
ゆったりと、おおらかに、お互いによい気分です。

誰も嫌な気分よりよい気分を好みますから、何かにつけてその習慣が行きわたり、土地柄になり、国柄もできあがっています。
こうしようと、議会で決めるのではありません。

ゆるいお国柄は、何も起こらないうちはまことによいのですが、することなすことだんだんゆるくなってきて、あれ、これでいいのかと気づいても、黙ってそのままにしておくのが普通のやり方になります。


高速道路のトンネル隔壁落下は、アンカーを5cmしか埋め込んでなかったのが原因と聞きました。
行為も結果も、ゆるさ十分の不誠工事だったそうです。

接着剤というものは、固形化して十分な強さになるまで時間がかかります。
速乾でも、瞬間接着でも、時間がゼロではありません。
接着の相対位置が決まって固形化するまでは、ゆるい状態ではだめなのです。
もう耳たこから遠のきましたが、あの「しっかりと」の言葉どおり、ゆるぎなく止まっていなければ接着は不完全になります。

天井に穴を開け、接着剤とアンカーを埋め込んで固定するとき、どういう方法を取ったのかは明らかにされていませんが、しばらく抑えていて動かなくなったら手を離してよい、そんなゆるい方法で施工されていたとしたら、抜け落ちるのはあたりまえです。
もしそうであれば、工事をする人は、これでいいのかなと思ったに違いありません。

埋め込みから固形化まで、いくら急いでも24時間ぐらいはアンカーがゆるい蠕動を起こさないように固定してあったのかどうか。
そこでゆるさを許さない施工設計がされていたのかどうか。

気づかなかったという言葉は、技術屋の口からはなかなか出にくい言葉です。
気づかないという心のゆるさは、能力の関数なのですから。
うっかり免罪符の枚数は、無限ではありません。
そして、その制限枚数は、自分で決めなけらばならないのです。

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プレ・ホームワーク

2013年03月23日 | つぶやきの壺焼

プレ・ホームワークという言葉が通じるかどうかは知る限りでないが、パッと見には「予習」かと思うだろう。
それが、普通考えられる先生が教室で生徒に薦める予習ではなく、入学前の「宿題」なのである。

この春、高校に行き始める孫が、もう宿題をやっていると聞いた。
入学前から宿題か。

ちかごろこれがはやっているらしい。
はやりものには仕掛け人がいる。
誰が仕掛けそうなことかは、およその見当はつく。
学校にそれを売り込めば仕事になるのは、教材出版社。

学校は、買ったものを配るだけ。
宿題を入学前からさせている、ずいぶん熱心な学校だ、入れてよかった、と無邪気な親は喜ぶ。
http://blog.livedoor.jp/veritedesu/archives/1954579.html

結果はどう役立つのか。
お勉強好きの生徒に目星をつけて、これにはあそこを受けさせようというショーライケーカク用のデータにはなる。
出題を点数計算の容易な形にしておけば、計算ソフトを使って、アルバイト委託でもそのデータはできあがる。

食品加工工場と、総合工程の原理が同じ。

落とし穴が一つあった。
その宿題をキョーイク熱心な親がやっていても、見分けはつかない。
こんなことで、人類のショーライはどうなるのだろうか。 

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理由の報道

2013年03月22日 | つぶやきの壺焼

何か事が起こると、報道陣はすぐに理由を聞きたがる。
理由が早くわかったところで何も役立たないことにでも、「理由は何ですか」と迫る。

何かの事件で理由をおさえるのがだいじであったのに、そちらがお粗末になったとき、大目玉を食らって、その後は理由を真っ先に聞くことにしているという記者もいるかもしれない。ステレオタイプの見本である。


大きな試合に勝てずに終わる。

勝てないのにも理由はある。
誰かが一つのチャンスで力を出せなかった、そんなことが勝てなかった理由にされがちだが、多分そういうのは三次原因ぐらいで、試合に臨んだとき、すでにチームの力が勝ちを引きずり込める域に達していないことが多い。

監督、コーチの顔を見ながら力を出そうとするサラ選、サラリーマンという呼び名が嫌がられるようになって久しいが、決められた賃金を貰うだけ働くというサラリーマン根性のようなものが身についてしまった選手がいる。
サラ選揃いのチームでは、結果は試合の前からわかってしまう。

コーチが練習の場や夕食会に出ないなどという不満を、わざわざ報道人に漏らす甘サラ選もいるらしい。
甘えはアマチュアリズムに通じたところがあって、アマなのかプロなのかわからなくなる。
アマプロイズムといえるかもしれないそんな空気が漂っていれば、幹部のかけたハッパが、勝ちに向けて力を出さずに、位相の逆転した内向反発にしかきかない。
勝てなかった理由は、聞かなくてもわかっていても、聞かないことには報道のタネにならず、愚問と愚答が繰り返されて総括でない総滓として残り、そして澱む。

どうなってんのという状態は、理由の宝庫とも言えるから、それが上手に報道されれば転機への引き金になる。
そうなってこそ、報道の価値が出てくるのだと思う。

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装置と名づけられた学校

2013年03月21日 | つぶやきの壺焼

校長、教頭の候補の先生方の研修で、「学校とは」という問いに誰も手を挙げて答える先生がいなかったという話を、ラジオで聞いた。

ひとこと回答の用意がだれにもなかったのか、肴にされない用心の習慣がそうさせたのか、理由を考えてもはじまらないが、せめて講師が、どっちにしようかと眼を行ったり来たりさせるぐらいの挙手の数がなければ、張り合いも何もなかったと思う。
そんなところで職員会議のうさばらしということは、いくらなんでもないとは思うが。

がっかりした講師が考えた学校の最重要機能は、「良い習慣をつける装置」ということだった。
そこに通う何年かの間に、良い習慣と悪い習慣がどうつくかによって、どういう人間に成長していくかが大きく変わるから、これは明察だと思う。
しかし、名言までにはなれなかった。
装置という呼び方がどうだったのか、それが引っかかるのである。

学校をハードウエアの名称に当てはめてしまうのはどうかと思ったからだが、同じアイコンがずらっと並んでしまった、頼りないソフトウエア群をみて、つい装置という呼び名しか思いつかなかったのかもしれない。

おっと、校長、教頭は、アプリケーションソフトではなく、OSでいてもらわなければならないのだった。

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稽古自慢はツラ自慢

2013年03月20日 | つぶやきの壺焼

「じまん焼き」という名の焼き菓子がある。
その名が知られてくると「じまん焼き風パン」というのも現れる。

世は自慢の時代、しゃれて言えばアピールの時代、と思う人が増え、自慢という行為を苦々しく思う人はだんだん減ってきている。
だがこれは、たぶんそうだろうと思っているだけで、データも確証もない。

出来もしないことの自慢や、うわツラだけのべた褒めは、鼻持ちならないと思っていても、地球の裏側からやってきて住み着いてしまった習癖には、さしあたりかなわないものと思っておくほかに打つ手はない。

ひそかに積み重ねて腕や技を磨くものとされていた稽古も、「お」の字がつくと見せるもの、宣伝するものから、それを売りものに、果てはそれしか売らないお商売も出てくる。
落語に「稽古屋」というのもあるから、今に始まったことではないのかもしれない。
揶揄の対象である落語のねたを、皮肉と見ずに血肉と見るあたりが、稽古を商品にしてしまう根性と、どこかつながりがありそうにも思う。

うわツラだけのこととわかっている稽古の宣伝が、なぜ幅を利かせるようになったのか。TVという自分では何もしないための道具の持ち主たちと、ひとに何かをさせるだけのことを仕事にする人たちの息が合ったからだろう。

今日もまた、合わせる息の外し合いを何度も見せられて、稽古稽古の空しい声を聞かされるのか。
見なければよいのに見ずにいられなくするあの四角い板は、どういう引力をもっているのだろう。

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茶の香り

2013年03月19日 | つぶやきの壺焼

「ただ茶をたてて飲む」
利休の名言を、「飲みゃぁいいんだ」と読む人、「何を言いたかったのか」と考える人、当然ながらさまざまだが、たまには考えるほうに回ってみよう。

たてるところを見せ、飲むことを習う、身だしなみという名のお茶のお稽古で覚えたことも、たしなみということが頭から去れば、それと一緒にさっさと忘れてしまう。

茶道を茶の飲み方、香道を香りのかぎ方、プラス作法などと思って、はい覚えました、卒業ですと、すいすい頭に入れた人ほど、忘れるのも早かろう。

たてるところを見せているうち、たてるところが見えているうちは、互いに「道」とは程遠いところにいるのだと思う。
見せよう、見逃すまい、そこにはわざとらしさが付きまとう。

わざとらしさが消えてはじめて作法にかなうのであり、そこには稽古などという言葉もなくなっている。

ただ飲んで、香にひたる。
ことさらに茶碗をぐるぐる回してみたり、いやらしい音を立ててみたり、手をめまぐるしく動かしてみたり、そういう余計なことは一切ない。
していても見えない、誰も気づかない、そこでこそ最高の茶が飲め、香が楽しめる。
いや、最高かどうか、そんなことは、その場の端っこのことでしかないだろう。

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香りは手でかぐもの

2013年03月18日 | つぶやきの壺焼

鉛筆を手で削ると佳い香りがする。
電動の鉛筆削りでは、この香りは味わえない。

香りはやはり手でかぐものらしい。
手でかぐと言っても、手を鼻の前にもっていくのは下品なしぐさである。

香りの源に鼻を近づけるのは、総じて下品に見える。
そうかと言って、香りの源の上で手を団扇のようにひらひらさせて匂いを呼び寄せるようなしぐさも、わざとらしくてやはり品は落ちる。
鼻のすぐ前での手団扇はもっとよくない。

目は口ほどになんとやらというのは、知性の見極め方のようだが、鼻の使い方からは品性の見極めができそうである。

目も鼻も、むやみに動かないのをよしとするが、目は相手に向け、鼻は相手に向けないのがよさそうである。
顔の前面直近に配置されているものを一方は向け、一方は向けない、そんなことができるかと理屈をこねるようでは知性を疑われる。

目はきょろきょろ、しばしばがよくなく、鼻はひくひく、くしゃくしゃがよくない。
目にも鼻にも共通なのは、開口部を広げすぎないことだろう。
なぜか、花粉も到来のPMもいっしょに侵入しやすくなるから、と言っておくのが時季に合っていそうである。

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崩れない身

2013年03月17日 | つぶやきの壺焼

「誇れる文化(2013/03/12)」以来、鰊蕎麦のほかに魚を入れた蕎麦があるのだろうかと気にかかっていた。
ヤフーの知恵袋に聞いてみようとメモは置いても、見たときにそのことをしておかなければメモは役に立たないという、当たり前のことを繰り返して何日か過ぎた。
今日こそ忘れないうちにと、知恵袋を探ってみたら、やはり同じことを考えている人はいるもので、該当QAはすぐに見つかった。

「サンマやアジだとそば汁ですぐに身がくずれるからではないでしょうか。
 ニシンなら汁につけても身はくずれません。」

ご名答を見て、ひとまずすっきりした。
しかし、サンマにも伊豆でお目にかかったような、歯が立たないほどコチコチに干したものがあり、あれならどうかとも思う。
戻せばふにゃふにゃになるのだろうか。

アジは、から揚げにすれば身は崩れない。
ことは蕎麦と味がつり合うかどうかではないかと思う。

崩れてしまわずにつり合う、乗ってしまったTPPも、これを通してもらいたい。
むやみにコチコチになっていては、つり合うどころかすっかり呑み込まれてしまう。
地位存続のためだけのパフォーマンスには、もう幕引きの時期がきている。
ニシンのもう一つの字のようにバラバラにならないよう、それぞれの持ち場で働かせてきた知恵を結集しなければならないだろう。