・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

手身近

2012年02月29日 | つぶやきの壺焼

手っ取り早くカネを手に入れようと人の持ち物をふんだくる、防御が弱そうに見えれば押し入る、梁山泊式の古代収活戦法が横行している。
知恵も力も働く意思もなくなったのは世の中の悪さがもとなどと、人のせいにする心の動きさえ持たない、頭もハートもすっからかんの奴らの仕業なのだが、やられたほうは大迷惑。

いまわしい強盗事件からもう半月以上も経った。
何を保存しておきたいのかわからない。
再び開店する意思があるのかどうかもわからない。
後を引き受ける人がいないのか、それもわからない。

損失は時間の関数、そういうことを考えていはずはないが、関係する方々の頭の中はわからない。
跨いだり潜ったりしにくいテープが風に揺れている。

"てみぢか"と打てば手身近、"てみじか"と打てば手短になる。
コンビニなら手身近のほうが合いそうな気がするが、ことがことだけに手短に片付けるわけにいかないのだろう。


待つ

2012年02月27日 | つぶやきの壺焼

開花を待ちながらの「さくら祭り」が開かれている。

去年逝った友が若いころに持ち歩いていた、藤村の「春を待ちつつ」を思い出す。

撮影姿勢の不安定なときには、右上がりに傾いた写真が出来上がる。
デフレから脱却してほしいという願望が、こんなところにも出るのだろうか。


代表か

2012年02月24日 | つぶやきの壺焼

この場所の境界標示の代表格の柱、風格はまだ顕れてないが、動かしがたい何かがある。
動かしがたいからここに残ったともいえる。

上端の縁には切り取った後がうかがわれる。
そこから上のほうがどうなっていたかはどうでもよい。
しかし、この柱の前身が、何物であったかには多少の興味を惹かれる。

この柱は、境界標示という役目を、いくらかはもっているように見える。
しかもこれほど威張った顔をしたものが他にないから、代表格にも見える。
代表格でありながら、実質の働きはさほどでもない。

世界中にどれほどいるのか、数え切れない社長さんにも、実質の働きがない社長さんもいれば、その人だけしか働いてない社長さんもいる。

そこにあるだけで、まったく実用上の役に立っていないものを、赤瀬川原平はトマソンと名づけた。
トマソンになる一歩手前のものは何と呼んでやろうか。
それには、呼び名の前か後に何か文字を加えるのと、文字数を増やさずになるほどと思わせるよう入れ替えるのと、ふたとおりの方法がある。
いま考えてもよし、次に同じようは一歩前のトマソンを見つけたときでもよし。
これは宿題。
そうだ、退屈しのぎには、宿題の出題を考えるというのがあった。
宿題をたくさん出す先生は退屈なのだろうか。


境界

2012年02月21日 | つぶやきの壺焼

畑の隅に大きな石が転がしてある。
次の耕作には邪魔なはずなのだが、あえて邪魔ものを置く。
多分これは横着除けだろう。

畑道と接するところは、隅切りどころかできれば道に乗り出してでも耕作面積を広げたいと、畑を持っている人は思うだろう。
作物のないときに、畑の隅に何も置いてなければ、車も歩く人も、少しでも通過距離の短縮行動に出る。
そうして踏み固められれば、次に耕すときの面倒は、石を寄せる手間どころではなくなる。
そんなことまで考えなくても、畑をあけて置くときはこうしておくものだと、代々伝えられてきた方法なのかもしれない。

境界には誰にもそれとわかる目印が必要なのだ。
であるのに、国の境界にあたる島に、何も置かずにしゃらっとしていられるのは、いったいどういう神経なのだろうか。


はみだし

2012年02月20日 | つぶやきの壺焼

はみだし刑事○○派というTVドラマがあった。
使われていた曲「フレンズ」もよかった。

駐輪場の囲いから自転車がはみ出している。
ときどきしか乗らないのだろう。
もっと大きなのに買い換えてもらえず、わざわざ外に蹴り出したのでもないと思うが。

気に入らないこと、都合の悪いことを、埒外に追いやってなくなったことにしてしまう。子供の時分からそんな手は覚えさせたくない。


マーク

2012年02月19日 | つぶやきの壺焼

畦(あぜ)か、畔(くろ)か、このあたりでは畑の外周や区切りの罫線のような部分を何と呼ぶのだろうか。
合わせて畦畔(けいはん)とするのは文書用語だろう。
そのことだけでは、畑仕事の手を止めさせては悪いから声をかけにくい。

大根の葉だけが残った収穫の後。
実が一本乗っている。

忘れたのでなければ、何かのマークなのか。
マークには、つけた側でしか意味をもたないものと、つけられた側にも意義なり効用なりが生まれるものがある。

国民一人一人に番号を付けて、各種の情報を政府が一元的に管理する共通番号制度もマーク付けの一種である。
この制度が、逆進性対策とか給付付き税額控除とか意味のわからない珍味言料を加えてかき混ぜられた増税案と一緒くたに閣議にかけられた。

社会保障の負担と給付の公平性を保つため、正確な情報を把握するのが狙いだというが、何がどうなるのかさっぱりわからないから、公平・正確これが狙いと言われても、どこか別のところをマークしなければいけないのではないかと、つい勘ぐりたくなる。

国民に番号はすでに付いてしまっていて、総合適用が認められていないだけのことだから、プライバシーがどいうこうなどという理屈は、あまり効き目のない反対運動用だけのものでしかなくなっている。
マークの利用法をよく考えてはっきり示せば、ああそうかということになるだろう。

畑のくろに置かれた大根のように、付けておいたぞというだけのマークでは、しるし付けへの宗教的ともいえる嫌悪感をもった人々は、さぞ納得し難いだろう。


見せる生気

2012年02月18日 | つぶやきの壺焼

新緑のころとは違い、冬の植物はどこかみじめな感じがする。
それでも、枯れてしまったような葉と、いつもの深い緑色の葉と、浅い緑色の若い葉の、三様の葉が並んだどこかに、何ヵ月後かに見せる生気の蓄えが伺われる。

植物や動物の生気をまとめて見られるのは、植物園、動物園、水族館だ。
「アクアマリンふくしま」という水族館が、20万匹の展示生物を失ったのに、昨年夏には再び開館したと報ぜられた。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111129/224593/?mlt
その記事の中に、「動物園と水族館の垣根が無くなる日」という見出しがあった。
動物園、水族館、それと植物園が一緒になると困ることがあるのだろうか。
動物園に魚がいても花が咲き乱れていてもかまわないではないか。
従来の施設の関係もあるから、主要と付随ができることはあっても、垣根と呼ばれるような区別をせず融通無碍にいかないのか。
まさか主務官庁が違うことはないだろうと思ったがそれはなさそうだ。

訪れる人は気ままだから、入園してから私はサル、僕はイルカ、母さんはバラ、そして昼食は一緒、それでもいいではないか。


絵と字

2012年02月17日 | つぶやきの壺焼

子供が成長して何か考えられるようになることを、ものごころがつくと言う。
深く考えずに使っていたこの言葉、新潮・久松・国語辞典では、「物心」を「人情・世態などを弁別する心」としている。
この解釈からすると、ものごころの「もの」は物理的なモノではないようだ。

人情・世態の弁別は、およそ大人のすることだと思うが、幼少期にはモノの弁別とこころの弁別のどちらが先にできるようになるのだろうか。
後先どうでもよさそうなことが気になりだすのは、先のなくなってきた証しか。
証しと言ってしまうとがっかりするから、兆しぐらいにしておこう。

こんなことをなぜ言い出したかというと、「もの」と「こころ」を言い表す場合に、絵と字と、それぞれどちらがわかりやすいだろうかと、ふと考えたからである。
さらっと考えると、「もの」は絵のほうがわかりやすく、「こころ」は字のほうがわかりやすい気がする。
「こころ」を絵で表すには、観てとる側にもそれなりの「こころ」が必要になってくるから、こちらはおよそのところ字の領分だと思う。

「もの」の表現が字では難しいものだという例がある。
昨2011年暮に行われた東京モーターショーで、ドイツの自動車部品メーカー MAHLE マーレが、新しい油ポンプを展示した。
日経Automotive Technology の記者は、そのポンプの構造をこう書いていた。
「ベーンでなくリンクを使う油ポンプ:内側、外側の両ロータをリンクで結び、両方のロータを回すことによって、両ロータ、リンクに挟まれた空間の体積が変わることを利用して油を送り出すポンプ "ペンデュラム・スライダ・セル・オイル・ポンプ(PSオイルポンプ)"」
この記事を見て、構造を想像してみたが、なかなかの難事で、遂に写真を見るまでそれをつかめなかった。
機械に詳しい人ならこの記事を見ればわかるのかもしれないのだが。

この写真を見ているうちに、「もの」を語るには絵の力がものを言いそうだと、あらためて感じたのである。


XD

2012年02月16日 | つぶやきの壺焼

「ディズニーXD」というTV番組がある。
同じ漫画を何度も何度も放送している。
「新感覚、最新のエキサイティングなコンテンツをとことんお届け」というふれ込みを何かで見たが、どこがそうなのかよくわからない。

XD=スマイル、(≧▽≦) という意味もあるそうだから、無意味でいいから笑顔でいてくれというつもりなのか。

XDは、エクスペリエンスデザインの略でもある。
モノのデザインを、これまでより広い視点から見つめて、使う人にとっていちばん目的にかなうよう、「使える、使いやすい、使いたい」ことを目指そうとするデザインだという。

機能が十分ならよし、合理的にできていればよしとせずに、満足感、達成感が得られるようにというところが、経験から割り出した、あるいは体験をだいじにするデザインのみそなのだろう。

靴底の模様が左右非対称、「瞬足」という名のランニング・シューズがある。
トラックのカーブでこけないようなデザインになっていて、よく売れたという。
意地悪先生が走る方向を逆にしてやろうかなどと考えなければ、理にかなったデザインと言えそうである。
この靴、直線走路だけの場合はどうなのか。
そうなるともうエックス・デザインの分野で、吾人の知ったことではない。


お馬が通る:2

2012年02月15日 | つぶやきの壺焼

畑道で遠くにお馬さんを見つけた。
乗っている人は違っても、あの馬たちに違いない。
ほほをなでたこともないのに、不思議に懐かしい気がする。

逆光で、どんな人が乗っているのか、絞りのきかなくなった裸眼ではまったく見えない。
話し声の様子では子供のようだったが、写真でみると、やはりそうだった。
馬上の少年の相手をしながら、ついて歩いていたのは、元気なお母さんのようだ。