・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

説明の難しいミギということ

2014年04月30日 | つぶやきの壺焼

上下は、重力があるので実感で定義できます。
左右は、これが右という実感定義ができません。
左の反対方向が右とか、普通の人が箸を持つほうが右では話になりません。
太陽の沈むほうに向いて立っていて、そのまま北極星が現れるまで待てばその方向が右というのも、いつでもその場でというわけにいきません。
北極星を待たなくても、磁針で北は指せますが、西の向け方に困ります。
聖徳太子が決めたのだと頑張られても、それは定義の話にはなりません。

絶対音感があるように、絶対方向感覚というものがあるようですが、それも「あっち、こっち」しか示せないので左右の定義にはなりません。

 

いきものの社会的な位置関係や思想でも、「上から目線」という近ごろはやりの嫌らしい言葉があるように、上下はわかりやすくても、左右は何となくという程度の感じしかつかめません。
左右は傾きを言い表すのがせいぜいで、すっきりした説明を聞いたことがないのです。

むかしから、旦那さまは右にも左にもいたのでした。
定義できないということは、定義の必要がないということなのかもしれません。

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悠々とは強さの形容だった

2014年04月29日 | つぶやきの壺焼

「悠々自適ですか」と聞かれて「そうだ」と答えられる人は、ずいぶん幸せなお方でしょう。
悠々自適には、二つの判定条件が盛り込まれています。
すべてのことにゆとりを持っていられる悠々、自分の思うままにものごとが適う自適、文明の恩恵だぶだぶの今の世で一呼吸した人には、そのときすでに悠々自適の条件は整わなくなっています。


もともと悠々自適とか左団扇などという言葉は、そうであるかないかなど判別対象として話に乗せることではなく、大衆小説や小話で、暮らしのゆとりを表現するときの定型句であったはずです。
ごく親しい仲間同士の茶話ならともかく、深い付き合いもない人に「悠々自適ですか」と問いかけるのは、失礼千万とまではいかなくても、どこかで馬鹿にしているようにしか聞こえません。


悠々としていられるには強さが必要です。
強さの裏づけのない態度に、悠々は感じられません。


ツー・ビート復活が報じられました。
タケシが昔のコンビを組もうと、相方に持ちかけたという話です。
助けられたと言わせない強さ、話だけでなくやってみせる自信、それらしい悠々自適をここに見た思いがして、この忘れていた言葉がキーから滑り出ました。

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心地よさはどんなことでもリズムから

2014年04月28日 | つぶやきの壺焼

守備のしやすいピッチャーは、投球のリズムがよいと言われます。
ノリが揃う共振現象がゲーム全体の雰囲気をよくするのでしょう。

ノリは揃わなければ意味がありません。
一人だけノッた状態をウクと言います。
浮き沈みとはよく言ったもので、一人が浮くと、場の空気は沈みます。
下手なバンドがうるさく聞こえるのは、一人ひとりが気ままにノッて、盛り上げができているつもりになっているからでしょう。
オーケストラの演奏がつまらなく聞こえるのは、指揮者だけが勝手にノッて、リズムに微妙なずれができているときでしょう。

考えただけでは整わないリズムの体感会得は、その気になっても難しいものですが、全く意に介しなければ難しささえも感じません。
考えずに感じるリズム、それは生まれ育った土地がもっていて、生活の中で体にしみこんでくるようなものなのかもしれません。

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いつかは壊す建築方法は古くなった

2014年04月27日 | つぶやきの壺焼

次世代に引き継がれないうちに、もう建て替えなければならないような建物は、住宅であっても家ではありません。
なぜそんな建物がたくさんできたのか、それは建築主の都合で建てられていたからです。
建築主というと、建物の所有権をもつ人と思うでしょう。
早く自分の住宅を持ちたいという願望にあわせて、安価に短期に建てられたものが多かった時代がありました。
そういう願望を何とか満たすことに協力したもう一人の建築主がいたのです。
建てる工事をするほうの建築主です。
それは建築主とは言わないと思われるでしょう。しかし、その住宅が建設されるときに、建てることについて智恵や権限がどのくらい注ぎ込まれたかを考えると、出来上がってから住む人の分はごくわずかなものです。
多くの住宅は、建てる工事をするほうの意思にしたがって出来上がっていきます。出来上がるまではそちらが建築主ではありませんか。
出来上がってしまえば建築主という言葉も用がなくなります。ですから、住む人が建築主である割合はほとんどゼロに近いのです。

建てる工事をするほうの建築主の都合は、次にまたそこで仕事ができるようにということでしょう。
自分の代のうちにもう一度建てる工事をする、つまり建て替えをすることができれば最も好都合なのです。
そうなれば、住む人が次の代を待たずに一生に二度も住宅を建てなければならないということになるのは自然の成り行きです。そんなばからしいことが、当たりまえのように思われていました。
実際には不満足の解消法でしかないことに、リホームという気分のよさそうな呼び名をつけて、何十年か前にばたばたと建てられた住宅団地の建物が、またばたばたと建て替えられました。

「もう古い」と言われると、それを聞き流すことができなくなった人たちは、目の前からその古いものをなくしたいという欲望に駆られ壊しにかかります。
壊す前提で建てられてきた住宅が、もう古いのではなく、その建築方法が古かったのではないでしょうか。

いつかは壊す建築方法ではなく、改造が自由にできて壊さないで済む建築方法こそ新しいものだと思うのですが、いかがでしょうか。
再開発は、「100年寿命建築工法」の開発からやって欲しいと思っています。

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欲の大きさは伸縮自在

2014年04月26日 | つぶやきの壺焼

2.5億円の損害賠償請求が、さほど強欲に感じない人もいれば、掠め損ねてばれた5千万円で、欲深と思われる人もいます。
人間の欲は伸び縮みするのでしょうか。
この伸び縮みは、欲のほうだけではなさそうです。
カネの値打ちも、話の具合で伸び縮みしているようで、それがまた、引っ張られて伸びるのか、どこかにガスが入って膨らむのか、さっぱりわかりません。

欲に尺度は要りませんが、カネには尺度があってよいとも思います。
しかし、カネにも尺度はありません。いや、ないのではなく、それぞれ勝手気ままに尺度を作っているようです。
随意に出来上がる尺度を作るときに、大小の決め手となるのが「欲」ときては、考えもまとまりかねます。
こんなふうに、つかみどころのないのが、人間の欲らしいことだけはわかります。

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乗り物事故はミステリアス

2014年04月24日 | つぶやきの壺焼

海に墜落した飛行機の衛星画像はすぐわかるはずなのに、その存在がニュースになったのは幾日も経ってからでした。
すぐに報じては具合の悪い何かがそうさせたのでしょうか。

大型船急旋回転覆のそもそもの原因も、報じられては具合の悪い何かが航路をいきなり横切ったのではないかと、勘ぐっていました。
それが見当違いで、基礎構造にお構いなしに上層を積み上げたビルのような整形改造を、船にもやってしまい、おまけに積荷が制限重量の3.6倍だったとは、お気の毒という気持もつい薄れてしまいます。

電子家電では一流抜群を自負していた一方で、その前の世紀の物理常識が、もうどこかに行ってしまっていることこそ、ミステリアスと言わなければならないでしょう。
おおこわ!

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思い出すことはできない百年前

2014年04月23日 | つぶやきの壺焼

4月17日に亡くなったガルシア・マルケスの著作名「百年の孤独」が、長期熟成焼酎の銘柄にも使われています。
 ⇒ http://jump.cx/100y

味わい深い言葉です。

百年前の1914年、大正3年は、小学校の受け持ちだったT先生の誕生年でした。
前任の怖いH先生が東京へ転任になり、その後を引き継がれたとき、静かな低音の自己紹介で告げられたこの年号を、今でも覚えています。

この年には第一次世界大戦が勃発したり、パナマ運河が開通したり、大きなできごとがありました。
ドイツのシーメンスからの軍艦発注にまつわる贈賄が、内閣総辞職にまで及んだシーメンス事件が起きた年でもあります。
桜島が大噴火を起こし、そのときに大隈半島とつながったという地形の大変化も起きています。

あれもこれも聞いた話で、その年のことを思い出すことはできません。
今の世に、百年後への記念となれるような何かがあるでしょうか。

「此処で逢ったが百年目」というせりふがありますが、あと3分の2残されたこの年が、運のつきにならないようにありたいものです。

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ゲームが人をひきつけるわけ~言葉遊び

2014年04月22日 | つぶやきの壺焼

TVドラマの再放送も、四回五度めには、もうたくさんという気になります。
ドラマもゲームも、巧く出来ていると、三度めぐらいまでは見どころを変え遊び方を変えて、もう一度と誘われます。

三度で懲りずにはまり込むのは、出来不出来より、繰り返しの魔力に引き込まれることがあるからでしょう。
これが繰り返し病までいくと、始めたら呼びかけても聞こえないという状態に陥ることがあります。

ここでふと思いついた「サイクル・シンドローム」という呼び方が、もうどこかにありはしないかと検索してみたら、ありました。
岐阜の高山の、SELECT SHOP ``Charlie`` というお店で出しているTシャツです。
 ⇒ http://jump.cx/char
こちらのサイクルは自転車で転がるほう、病とは無関係、健康の象徴のような商標でした。


サイクルという名は、サイコにも通ずるのではないかなどと考えていると、危なくなってきますので、早々に切り上げ。

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スジとウロコの共通点~言葉遊び

2014年04月21日 | つぶやきの壺焼

「スジだコンニャクだと、グズグズ言うな」と、ときどき声を大きくする先輩がいました。
この言葉を思い出すと、スジと別ものとの間に、おでんのタネのように選び分けることとは逆の、共通点をもつ何かがありそうな気もしてきます。

相手がスジですから、共通点を持つものを見つけるには相当なこじつけも必要なのですが、奮闘努力も要らずに見つかりました。

スジとウロコです。
肉と魚の系統違いは、共通点探しをむしろ楽にしてくれます。気性の違う人のほうが共感を求めやすいこともあるのに似ています。


「琴線に触れる」のと「逆鱗に触れる」のと、「触れる」という所作も、対象によって結果は大違いだと、ふと思ったことが、実はこの話のはじまりなので、見つけた「共通点」と言っても、「触れる」のひと言がそれであるというだけのことなのです。
「歴史認識」というもっともらしい言葉を、全く違う意味で持ちながら、「共通点」にして隣の旦那を責めたてるどこかのおばさんと似たところもあり、これも共通点なのかなあと思わせます。

逆鱗はウロコの逆なでだけれども、琴線とは何だろうと考えたとき、弦楽器の線にはスジを使ったものがありそうな気がし、しかも一本の線をサインペンで描いてみれば、これはスジだと思ったまでのことです。
細々ながら共通点が見つかると、こんどはすぐには見えない相違点が、どこかに隠れているようにも思えてきます。
スジとウロコで何が違うのか、「琴線に触れる」のは自分の意識のこと、「逆鱗に触れる」のは他人の意識をもてあそぶ、あるいはないがしろにすることで、自分と他人という違いが一つ見つかりました。

まだありそうです。スジは細く、ウロコは広がっている、形の違いです。
「琴線に触れる」はどこか細々とした感覚のうごきですが、「逆鱗に触れる」となると、まかり間違えば国家間の争いごとにもなりかねません。
またもや逆を思えば、外交の場で相手国の宰相の琴線に触れれば、永遠と思われていた難題も、解決の道が開けるかもしれません。
そうかといって、琴線に触れるのは取引とは別のことですから、金銭では何ともならないでしょう。

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呑みやすい錠剤の形

2014年04月20日 | つぶやきの壺焼

錠剤にもいろいろな形のものがあります。
作りやすさが先で、呑むときのことを考えてないものはあまり見かけなくなりました。
見かけないといっても、自分がそれにめぐり合う機会が減っただけで、実際にはあるのでしょう。

丸薬と錠剤は、球状か球状でないかで呼び方が違うようですが、丸薬でも呑みやすい大きさがあるでしょう。
球が小さければ呑みやすいとも限りません。口に入れる前にどこかに行ってしまいそうなのもあります。

錠剤には、面と面の接合にせずに、角の部分を目で見てわかるほど丸めたのもあります。
平らにつぶした丸薬のように見えて、縁の部分がごくわずかの幅で平面になっています。
角が立っていなければ呑みやすいだろうと、この形にしたのでしょう。
しかし、この親切が、かえって錠剤を呑みにくくしているのがお気の毒です。

呑み下すときに、のどにわずかな抵抗感をあたえると、それがかえって安心感になるような気がします。
ツルツルのものは、うっかり呑み込むと大変なことになりそうな感覚が身についてしまっているのかもしれません。

この感覚は、人によって違いますから、錠剤にも3種類ぐらい型があって、それを選べるようになるともっと呑みやすくなるでしょう。
九層倍がどのくらいになるのかは、私には計算できませんが。

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思いっきりに興味が向くのは:続

2014年04月19日 | つぶやきの壺焼

「どのくらい呑めるか試してみたくなってきた」と、これまで酒を呑まなかった人が、物騒なこと言い出します。
若いうちなら一度はそれもよいでしょう。しかし、高年齢者の冒険予告は危険です。
こういう話なら、相手が危険に気付いて「やめたほうがよい」と止めることもできますが、山登りなどは、話し相手がすぐ同調しそうです。
急性アル中なら、社会にかける迷惑は救急車出動ぐらいですみますが、高い山で滑り落ちたのでは大変です。

若いうちから鍛えてきた人と、歳をとってから急に誘われた人では、まったく条件が違います。
あの人ができるなら自分もという誤判断の材料が、年齢の数字を比べてというだけでは、いい年こいてとそしられても仕方がないでしょう。

思いっきりにもいろいろあって、やむにやまれぬものを自分で感じてというのと、人に背中を押されてという場合があります。
背中を押されなければ興味の湧きたたない人もいれば、むやみに背中を押したがる人、自分では押さずに押し屋の役を人に押し付ける人もいます。

まだありました。言ってみたいだけの思いっきりです。考えてみれば、これがいちばん多そうでした。

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思いっきりに興味が向くのは

2014年04月18日 | つぶやきの壺焼

シニア演劇に人気が集まっているそうです。
演ずることへの興味は、思いっきり何かができる魅力にあるようです。
主役とか端役とか、そんなことはどうでもよく、ライトを浴びたい、ちょっとでも人の心を動かしたいという欲望の端っこでも、かなえられた気になればよいのでしょう。

もちろんプロの役者とは、できることが違い、やることが違います。
自分を見せるか見せないかの違いではないかと思います。
職業は俳優と言いながら、自分を見せたがる人もいて、見せるにはどうしたらよいか、いろいろ考えます。
ところが、困ったことに考える頭が先にたつうちは大根役者なのです。大根の保存には頭を上にして置くのがよいと聞きました。

アマチュア演劇は見せたがってよいのです。
歓ぶのは観客でなく、演者自身なのですから。
演者の愉しみは、自分を見せるのではなく壊すことにあると気づくと、ますます乗ってきます。
自壊か、それとも自戒か、そんな面倒なことは考えません。

喜怒哀楽を巧く表現できるようになるには、自分が邪魔になります。
ふと思ったのは、自分がどうにもならなくなるほどの、本当の喜怒哀楽の経験があったかどうかということです。
考えてみると、私の場合、あったのはおなかが痛くなって転げまわるほどの笑いだけでした。
あのときの笑いは喜怒哀楽のどの感情だったのか、まず怒や哀ではないので、喜か楽か、そのどちらかなのですが、これがどちらとも言いようがないのです。
喜怒哀楽の経験がなくては演ずることはできません。やはり自分は演劇には向かないらしいことがわかりました。

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民意が変身するとき

2014年04月17日 | つぶやきの壺焼

夏が近づいてくると、はじめに鳴き出す蝉の声が、頭のどこかでなり始めます。
ことによると、耳鳴りかもしれませんが。
ニイニイと鳴くあの声を、はじめの声として久しく聞いてないような気もします。
昔は夏の蝉にも順序がありました。
近ごろはいきなりミンミンがやってくることもあって、もうでたらめです。


蝉の声と一緒に思い浮かぶのは、何かといえば「民意に問う」という、どこか蝉の鳴き声に似たあの決まり文句です。
民意とはどういうものでしょうか。

「民意に問う」という言葉があるからには、「問われる」対象らしいのですが、ゆるゆると生き続けてきて、まともに問われた覚えが一度もないのはどういうわけなのか、それも不思議の一つです。
何年に一度か、町内会館や小学校の体育館に行って誰かの名前を書いて箱に入れることはあります。
あの投票の結果が民意のあらわれだなどと思っている人がいるのでしょうか。
何を問われているかもわからず、国民の義務と教えられて、小さな紙切れと引き換えにするあの行為と、民意の構成部位とは、どうにも結びつき難いのです。

どこかにからくりが隠されていそうな、議員選挙というあの仕組みを、何かを問われて答えるものと考えるからわからないのかもしれません。
「問う」というときには何を問うのかは明らかにされません。
幾日かの間、名前とウケのよさそうな乱言と対立党の悪口と、お願いお願いの叫びだけは聞こえてきます。
一夜明けたとき、投票の集計結果が議席への着座権に変わっています。
「問う」と言われていた民意は、何も問われないうちにどこかで変身しているのです。

着座権を多く勝ち取れば、どんな矢が飛んできても、また民意を引っ張り出して盾にすれば、国の存亡も未来もそっちのけで、とにかく人気が上がるようタタカイツヅケルことができます。

民意の正体は、人気だったようです。

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恩返しは宣伝するものではない

2014年04月16日 | つぶやきの壺焼

何かがちょっとうまくいくと「恩返しができました」と、謙遜ぶった自慢話をする人をときどき見かけます。
その人は、「おかげさまで」と同じぐらいの感じで言っているので、もちろん高慢の表れではないのです。

この定型句が、人により場合によって可笑しく聞こえるのは、恩着せがましい恩返しは恩返しのうちに入らないからでしょう。

有言実行という裏駄洒落が表通りで使われると珍妙に聞こえるように、することであって言うことではない「恩返し」も、ことあげの高座にまつり上げられると、居座って悪い気持がしないのかもしれません。

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報道のわざとらしさは格を下げる

2014年04月15日 | つぶやきの壺焼

なんでもないことをわざとらしく騒ぎまわる報道が目立ちます。
目立つのが目的の報道とみなが思っているので、それはあたり前なのですが。

報道は知らないことを教えてくれるありがたいものと、子どもの頃は思っていました。
そのありがたいものが、いつしか迷惑なものに変わり、わざとらしさだけが残ってしまって、片目で見る程度のものに格が下がりました。

わざとらしいうちはまだ片目で見られるからよいのですが、変わりようによっては、見ない人のほうが多くなるでしょう。
つぎにはどんな「らしさ」になるのでしょうか。

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