・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

研究という名の大欲醸成

2012年11月29日 | つぶやきの壺焼

会社の仕事で行っていた研究が実って、すばらしい製品ができた。
得られた利益はたかだか1千万円程度だったとう話もある。
研究の従事者は一躍有名になり、博士号も取得、国内でも種々の賞を授与された。
その後会社を退き、アメリカで大学教授に就任。

研究の成果は自分のものだからと、もと所属していた会社を相手に、200億円よこせと裁判を起こした。
はじめの裁判所命令は200億円だったが、会社が控訴して8.4億円で和解。

この発明はノーベル賞級のもので、独占利益の半額604億円が発明への対価という勘定書きをこしらえて、残り404億円の追加請求という欲ぼけ話も出ていた。

下司のかんぐりになるが、弁護士の数がむやみに多い国に行って翌年のことだから、成功報酬をがっぽり稼ごうという、お商売のネタにされたのではないかとも思う。

研究者の地位向上という大義名分らしいことを言ってみせたが、実際は逆効果で、入社する研究者は、発明権利を会社帰属にする個別契約を迫られ、褒賞もゼロでよいことにさせられてしまうところもあるそうだ。
そのうえ、昇進、賞与もなしというおまけまで付くとあっては、研究者の意欲も減退するは当然で、すべてあの裁判沙汰は、社会にはマイナスの効果しかもたらさなかったことになる。

発明研究もよいが、人間としてのほどほどの研究も、少しは心がけておいたほうがよさそうである。


世界を変えた発明と特許 (ちくま新書)
石井 正
筑摩書房

だだもれとはどういうことか

2012年11月28日 | つぶやきの壺焼

言葉のもつ意味は、使い方によってだんだんずれてくる。

髪の毛の荒れを治す化粧品のCMに「だだもれ」という言葉が使われている。
髪の毛の表皮が崩れて、中の髄質や皮質の構成物質が漏れ出すことをだだもれと表現したのだろう。
しかし、人が目にするのは髪全体のささくれた状態で、髪の毛一本一本にどういうことが起きているかは、その知識がなければ見てすぐにわかるものではない。
全体のささくれた状態の表現を、細部に起きている現象の理由に言い換えて表現すると、言葉を知らない人は、髪の毛の「ささくれ」た状態を「だだもれ」と言うものと思ってしまうこともないとは言いきれない。

「あら、きょうは髪の毛、どうしたの」「そう、だだもれよ」
言う人が増えれば、しゃれのつもりが日常語になっていく。

こうして「だだもれ」とはどういう意味かという問いに、「髪の毛がぼさぼさになっていること」という珍答がいつしか定着する。
何年か後に発刊されるふざけた国語辞典には、そのまま載るかもしれない。

ものごとの状態あるいは現象の表現を先にするか、理由あるいは原因の表現を先にするかは、本質を言い当て得るかどうかにかかわってくる。
直接表現でわかりやすくするか、迂遠な言葉でわかりにくくするかは、どう伝えたいかにかかってくる。

いきなり理由や原因を説明しても、目の前にない現象は伝わらない。

こんなこともある。
ある人が会に遅れてきた場合のように、その場の皆にわかり、現象が説明不要のことなら、電車が遅れて、という理由から入るのも有効だろう。
「電車、遅れちゃって」ですむかもしれない。

ただ、それで遅刻への謝罪をまぬかれたつもりでいると、なんだこいつという見方をされることは間違いなく、行き先、だだもれ人生が待っているということになるおそれもあるのでご注意を。


統計数字を疑う なぜ実感とズレるのか? (光文社新書)
門倉 貴史
光文社

分類しても役に立たないことがある

2012年11月27日 | つぶやきの壺焼

科学には分類という手法が好んで用いられる。
どんな対象であれ分類してみると、考える道筋がついたような気分になる。
むかし「何かを考えるには、まず分類から始めなさい」と先輩から聞かされたこともあった。

しかし、分類が考察の手助けにならないこともままある。
たとえば、人工と自然、この分類などは人間の手前勝手な見方に過ぎない。

くもの巣、蜂の巣、花の形など、自然の中で生物が規則的なものをそれぞれに作ることもある。
これこそ真の自由な営みではないかと思う。
これらが不規則な自然現象とはまったく別のことであっても、人工の仲間入りはできない。
人間がいくらずうずうしくても、作った、作らせたとは言えない。

植林や河川改修など、人間による保護の手が加われば、それはもう自然ではないなどと考え出すと、人工と自然を分類することはたちまち難題となる。

分類が難しいと思われるときは、分類技法の問題ではなく、分類の必要性、あるいは分類区分のたて方、区別の仕方が、もともとおかしい場合が多い。

何年か前にあった、○○党に対して非○○という区別に似た、いい加減さも感じられる。
あることが安全か危険かという区別の仕方にも、どこか似たようなところがある。

考えを進めるためのつもりの分類が、考えを分裂させてしまうようでは、くもや蜂に笑われることになっても仕方がないかもしれない。

分類、区分の目的が、対立の理由付けのためでしかない場合には、植物にさえハナで笑われることになりそうだ。


分類思考の世界 (講談社現代新書)
三中 信宏
講談社

人間の知らない生きもの

2012年11月26日 | つぶやきの壺焼

宇宙のどこかには、人間の考えとはまったく違ったものごとによってくらしている生きものがいるかもしれない。
「考え」とか「くらし」などという言葉では説明のつかない、いま人間が使っている言葉では言い表せない何かをしているかもしれない。

そうなれば、英語を小学校で教えるとか、公用語にどうかなどという話は、井戸蛙問答のようなことに過ぎないではないか。

その生きものから見れば、何千年もかけて、まだ「わかり合える」とか「し返し」などと言い続けている人間という生きものは、よほど間抜けに見えることだろう。


宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)
村山 斉
幻冬舎

ドラマはプロにかなわない

2012年11月25日 | つぶやきの壺焼

ドラマには、「行われる」ドラマと「演じられる」ドラマがある。
演じられるドラマには、演じる場が必要で、その演じる場は、あくまで仮の世界のものである。

ドラマを演じるには、演出する人がいなければならない。
自作自演であっても、そこには演出家になった自分がいる。

「行われる」ドラマは、実世界にときどきあらわれるドラマの真似事、と言って悪ければ、演出家のいないドラマに似たこと、つまり「のような」ことでしかない。

演じられるドラマでは、その場の人々がいっせいに感動の渦に巻き込まれることもあるが、行われるドラマからは、ほとんどしらけた空気しか生まれない。

演じられるのがドラマであり、ドラマの演出はプロにかなわないからだ。
「行われる」ドラマを、ドラマドラマと騒ぎ立てても、それはカラ騒ぎに終わる。
感動に似た思いを味わうのは、騒いでいる人だけということになる。


演技と演出 (講談社現代新書)
平田 オリザ
講談社

自慢できる叔父がいた

2012年11月24日 | つぶやきの壺焼

「父親の死んだ年に、ものごとを深く考えた」という人がいる。

それなら父親は、せめてそういう時期が来るまで生きてやらなければならないということになる。

「良い思い出を残すのは面白い父親だ」とも言っていた。
私の場合は、写真でしか父親を知らず、自分もとうとう面白い父親になりそこなった。
娘には気の毒だが、いまさらどうにもならない。

面白い父親はいなかったが、面白い叔父はいた。母の2番目の弟だった。
クルマの名を覚えること、鉛筆画、メンコ遊び、レコード鑑賞、ハーモニカ、薪の割り方、サイホンの実験、尻をドスンとついてはいけないなど、雑事万端、みなその叔父から教わった。

いちばんの思い出は蓄音器の修理である。
ゼンマイ式の手巻きの蓄音器だったが、首を傾けた犬のマークが、立派な木箱のふたの裏に描かれていた。
あるとき急に回らなくなってしまったその蓄音器を、四畳半の部屋に新聞紙を敷いた臨時工場で、切れたゼンマイを取替えて直してしまった。

レコードは、数は少なかったが、バイオリン、琴、長唄、流行歌、浪花節、漫才と、多彩なものだった。

趣味は多彩、仕事は一筋だった。
晩年は耳が不自由になり、面白い話もすらすらとは出てこなくなっていた。
やはりインプットとアウトプットのバランスがそうさせていたのだろうか。


叔父
豊島 与志雄
 

手抜き工事とはどういうことか

2012年11月23日 | つぶやきの壺焼

余分な手間をかけても、余計なことはしない。

自分の仕事が少し遠回りになっても、決められた仕事の範囲外には手を一切出さない。
写真のように、その結果を見ると、ほほえましくさえなることもある。
施工範囲から言えば手抜きでもなく、こういうのを何と呼ぶのだろうか。

計画や設計はすべて主観的な行為であると言われる。

手抜きは主観の欠落で起こる。
では、主観の欠落はどうして起こるのだろうか。

それは、計画、設計、施工の標準化基準化徹底のおかげのような気がしている。
標準化基準化は、決められたとおりのことにしか頭脳を働かせない。
そうなれば、頭脳は惰性で動く。
惰性で動いている範囲にしか頭が回らなければ、少し変わったことが目の前に現れても、その実態にうまく対応できない。

この歩道境界線の施工仕様書の文面を想像してみた。
「道路面に突出物があった場合には、車道側にそれを避けるかたちで迂回して線を引くこと」
まっすぐ行ってぶつかるものは、すべて突出物にしか見えなかったか。


世界市場を制覇する国際標準化戦略―二十一世紀のビジネススタンダード
原田 節雄
東京電機大学出版局

古いもの:2

2012年11月22日 | つぶやきの壺焼

電話機のACアダプター出力側電圧が、2回路ともゼロというのはおかしい。
どちらか一方の回路が故障ならわかるが、一度に両方やられることは、不運の重なりすぎで、そんなことは滅多にない。

むかし、設備の故障対策論議で、ダブル・コンティンジェンシーを考えるべきかどうかと、何度も何度も繰り返していた I さんを思い出した。

一つの器具で、偶発故障が同時に別々に起きたことを想定するよりも、ほかの現象をつきとめるのが順序なので、もう一度出力電圧がゼロというのが本当かどうかを調べることにした。

ACアダプターの出力端子はモジュラージャック型で、接触部分が狭い溝の中にある。
電圧ゼロというのは、テスターのリードの尖った先端が、モジュラージャックの接触片に触れそこなっていたのではないかと疑いを持った。

そこで、リード線に極細のドライバーをつないでもう一度電圧を測定。
予想的中で、定格より少し高めの電圧が出ていることがわかった。

それなら電話機本体の故障だと、底蓋をあけてみようと思ったが、この止めねじが、小さな穴が花形に並んだ特殊なもので、専用のドライバーでなければあけられなくなっている。

仕方なしに電話機を交換して、ひとまず点検はお預けとなった。
特殊ドライバーに出会う機会がなければ、そのまま忘れられる。
こうして古いものが故障の原因をつき止められずに、問題未解決のまま世を去っていくのだ。

 

モノの寿命がわかる本
雑学活脳研究会
株式会社アントレックス

古いもの

2012年11月21日 | つぶやきの壺焼

変圧器取替工事で停電があった。
2時間の予定が、手際よく進んだらしく20分ぐらい早く点いた。

そのあと相撲放送を見ていたら電話が鳴った。
いつもとは違う音、スピーカーから出る電子音でなく、もっと高い周波数のカリカリいうような音。
電話機を見ると、ディスプレイに表示が出ていない。
やられた、と思った。

整流器を内蔵してないACアダプターつきの電話機なので、まずACアダプターから直流が出ているかどうかが第一の関門、その前に、一度アダプターをコンセントに抜き差ししてみる。変化なし。

ACアダプターの出力側で電圧を測ってみる。
DCは13Vと20Vの2回路になっている。
どちらもゼロ。おかしい。
アダプター内の変圧器がやられたか。
停電再加圧のショックぐらいで変圧器故障はまずないと思う。
電圧ゼロが変だ。
もっとよく調べよう。


電話はなぜつながるのか 知っておきたいNTT電話、IP電話、携帯電話の基礎知識
米田 正明
日経BP社

古い言葉

2012年11月20日 | つぶやきの壺焼

「さぼす」という言葉は標準語か、という質問がFAQに出ていた。
浅才の恥耳、まだ聞いたことがなかった。
Kさんと同じ考えで、サボるの若者語ではないかと思っていたが、昔の言葉にあったそうである。

Fさんによると、岩波古語辞典に「さぼし」で出ているとのこと。

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  さ乾し・曝し  四段活用 《サは接頭語。一説、曝(さ)り乾す意》
  干してよく風を通す。
  「卯の花の盛りなるべし山里の衣さぼせる折と見ゆるは」<道綱母集>
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「曝(さ)り」 これも知らなかった。
しいたけなどを干すのを、さぼし、さり、とは言わないのだろうか。

卯の花の例歌は、湿気の多い花の盛りに衣を干すところを想像すると、時節はずれのようで、いまひとつわからないという見方もある。
卯の花には、花の名以外に「卯の花点前」というお茶の点て方があった。
そこで、茶会の催しにそなえ、晴れ間をみて、そろそろ衣を干しておかねばという気持を歌ったものということにしておいたらどうだろうか。

文字どおりに読んでいけばわかる歌は、これからどこに行きます、行ってきましたというだけのツイッターの書き込みに似て、それがどうしたとしか言いようがない。
読み解こうとすれば、あるときには迷い、あるときには惑う、迷惑な歌こそ面白みがあると思っている。


若者が勝手に作る新しい言葉には、ちょっと言い方を変えただけの軽薄なものが多いが、古い言葉は、使われた歌や文をたどっていくと、散歩の道すがらの発見のような楽しみを味わうことができるものである。


成語や古歌散策
畑 良次郎
東京図書出版会

エコとは

2012年11月19日 | つぶやきの壺焼

カナ文字を上等な言葉と思う習癖が、だいぶ根付いてしまったようだ。
エコなども、その一つだが、どういうことをエコと言うのかは、さほどはっきり認識されていない。


この世の環境を、人間の意図がかかわってつくってしまったからには、人間の責任がかかっており、人間はそれから逃れるわけにはいかない。
エコロジーとはそういうことと思っている。

人間の生活環境上、あるいは経済発展上、さしあたりの都合をよくして便利さを追求するだけのことではないのに、TVのCMに出てくるエコには、たいがいその部類のものが多い。

生活環境をよくして何が悪いか、経済を発展させて何が悪いかと、反論はすぐ起きそうだが、反射的にそれを思い浮かべる人は、エコノミーというカナ文字崇拝教に、すでに折伏されているのではないかと思う。


偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)
武田 邦彦
幻冬舎

相撲に新ルールを

2012年11月18日 | つぶやきの壺焼

パタンパタンと楽に負けてしまう相撲が多すぎる。

相撲のルールに、ポイント制を取り入れたらどうか。
勝敗数の星だけでなく、勝ち方負け方にも減点加算をする方式である。

立ち上がって10秒以内に前に落ちたときは、黒星を0.5ポイント加算。
そのときはたいたり引いたりしたほうは白星を0.5ポイント減点。

はじめからはたきに出る相撲が少なくなると思うが、どうだろうか。


勝敗
渡辺 温
 

かくし味

2012年11月17日 | つぶやきの壺焼

「仕込み立法」と呼びたい現代式立法法があります。

数ある法律には、その仲間がたくさんありそうです。
立法の意図の本質はあからさまにせず、法文の第一条は定型文で間に合わせておく方法で、バレバレでもそんなことを立法者は気にしません。

かえって意図を読み取ってくれたかとニヤッとします。

かくし味を当てさせて、得意顔をするヘボ調理人の手口と似ています。

  

立法過程 (現代政治学叢書 12)
岩井 奉信
東京大学出版会

紛失という名の隠蔽

2012年11月16日 | つぶやきの壺焼

原発付近の活断層調査の写真が紛失したという話を聞きました。

「なぜ規制委は大飯の活断層を認定しないのか」
http://www.videonews.com/

調査結果を公開したくないときには紛失宣言という手が使われます。
「なくしました」は、いかにもだらしなさを表明しているようで、恥ずかしいのではないかと思いますが、そのことよりも、「ごめんなさい」で事が片付くという利点のほうを重くみるのでしょう。

「見せたくありません」と言ったのでは、「ごめんなさい」と付け加えても勘弁してもらえません。
3人ぐらい並んでお辞儀をさせておくほうが、事の運びはずっと楽です。


紛失のほかにも、隠蔽手段はまだありました。
「ただいま故障中」
これならもう一度探せとも言われません。


悪知恵は、人間が使いたがる便利で醜いバレバレ用具のひとつです。


日本の活断層地図―北海道・東北・新潟活断層地図
中田 高,今泉 俊文
人文社

くじら尺

2012年11月15日 | つぶやきの壺焼

くじら尺という便利な計測単位がある。

換算の必要などないのだが、参考に測ってみると1尺が約38センチ、1寸が約38ミリ、ものさしは1分刻みなので1目盛り約3.8ミリの荒い目盛りになっている。

呉服の仕立てに使ったものだが、ほかの用途にもこれが便利なのである。
何が便利かというと、まず視力の衰えた老人にもよく見えること。
見やすいから、ものさしに数字は不要、目盛り面がすっきりしている。

それに、荒い目盛りで計測値の桁数が小さいから覚えやすい。
ちょっと何かを入れる隙間の寸法だとか、手作りの小箱などは、ミリ目盛りの測り方よりはるかにわかりやすい。

機械加工でないものの寸法の精度は、この程度で十分なのだ。
しかし、「適正な計量の実施を確保し、もって経済の発展及び文化の向上に寄与することを目的」とする「計量法」という法律ができて、「法定計量単位」以外の計量単位は、取引又は証明に用いてはならないとされ、違反内容によっては一年以下の懲役若しくは百万円以下の罰金を科せられることになった。

「法定計量単位」とはいうまでもないがメートル単位である。
取引にかかわることなので「経済の発展」はわかるが、実生活に便利なものを排除して「文化の向上」のどういうところに寄与するのかは理解できない。
懲役、罰金の脅し文句も、くじらの面に何とかと言いたくなる。

くじら尺などがいくら便利でも、取引にも証明にも使えないから、その目盛りのものさしは一般市場から消え、いつの間にかそんな計測単位があることすら忘れ去られてしまった。

ただ1本我が家に残っている便利なものさしを見るたびに、何が何でもの精神で進められたあの単位統一は、世紀の愚策であったように思うのだがどうだろうか。

ここまで書いて、本当にないかと調べたら、巻尺の形で売られている。
「伝統の積み重ねられたところに文化が残る」(伊藤貫)のだった。

___もうないと思ったくじらが生き残り___