・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

粗忽妄信:18

2018年01月31日 | つぶやきの壺焼

間違い報道は訂正させれば消滅するという妄信があります。

社会一般の知識を取り入れるもと、いわゆる情報源は、人それぞれです。
TVや新聞で伝えられたことは、「TVで言っていた」「新聞に書いてあった」という添え言葉と一緒にパッと広がります。

誤った報道がいったんばらまかれてしまうと、あとで打ち消し報道が発せられても、完全に消滅することはありません。
間違い報道を見たり聞いたりして、その誤りにほとんどの人がはっきり気づくのは天気予報だけです。

小さな一こまを使っただけの誤報訂正は、効果がないから、新聞などでは誤報と同じ程度の紙面を使ってそれを伝えなければならないという説もあります。
しかし、訂正情報の分量を同じにしたところで、元の誤報が人びとに与えた強い印象が消え去ることはないでしょう。

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粗忽妄信:17

2018年01月30日 | つぶやきの壺焼

どんな場合にも、おとなしく話を合わせていれば相手を傷つけないという盲信があります。

どんな言いがかりをつけられても、じっとこらえ、謝れと言われればすぐにごめんなさいと言う、いじめられている子供を主題にしたドラマによく現れる場面です。
いじめているほうは、相手のその態度に、いっそういらいらを募らせるか、さらにつけあがるかで、いじめのおさまる気配は見えてきません。
いじめというよりも、その相対関係に甘えているとも言えます。

外交の場でも似たようなことがしばしば見られます。

木材に何かを固定するための「木ねじ」にも、ねじのピッチが細かく、ゆっくりねじ込んでいくものと、ごく粗いピッチで、ぐいぐいねじ込んでいくスリムビスがあります。
相手の木材によっては、ゆっくり静かにねじ込んでいくと、途中でパチっと割れてしまうことがあります。
こういう場合にも、スリムビスでぐいぐいねじれば、木材は割れずにピタッとおさまります。

粗いねじが相手を傷めないということです。
どんな相手にもゆっくり静かがよいという、これも妄信のようです。

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粗忽妄信:16

2018年01月29日 | つぶやきの壺焼

防護XXと名のつくものは、命や体を護ってくれるものという妄信があります。

放射線の強い領域に立ち入るときに着る放射線防護服というものがあります。
これを着ていれば放射線障害を受けないと思うのは大きな誤解で、着ないよりはましぐらいの安心効果しかないものも、なかにはあるでしょう。

あの服を着て期待できるのは、立ち入る人が、その施設にとって危険人物でないという証明効果なのだという話もあります。
色がいろいろあって、毎日無差別に色を選定すれば、潜入への防護効果はぐんと上がります。

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粗忽妄信:15

2018年01月28日 | つぶやきの壺焼

平和維持には、専守防衛に反することはいっさいダメという妄信があります。

憲法第九条を変えることは、専守防衛から大きく逸脱し、日本国憲法の平和主義は換骨奪胎されると唱える人がいます。
この人たちは、ガードの姿勢をずっと持ち続ければ、叩かれることも打たれることもないと信じているか、信じなければならないと思っているか、そう思わされているか、多少の違いはあっても、みな永久催眠にかけられて深度妄信症に罹っています。

専守防衛とは、戦いが始まるときはいきなり本土決戦という必然を受け入れるということです。
専守防衛を動かせない原則として守りぬくには、無抵抗状態の犠牲者がかならず出ることを覚悟していなければなりません。

専守防衛を逸脱してはならないという人は、よその国の軍隊が砂浜からのこのこ上がってきて、向こうが一発撃つまではじっと待ち構えている、それから本土決戦が始まるとでも思っているのでしょうか。
いきなりミサイルが撃ち込まれて、何万人もの命がまず奪われることから始まるという、恐ろしいことは考えてはならないと思わされています。
恐ろしいことには顔をそむけていなければならないと妄信教育をされ、心と体に沁み付いた困った人たちが、いま、国ぢゅうでだいじな仕事を受け持っています。
その人たちの目を覚ますにはどうしたらよいのでしょうか。

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粗忽妄信:14

2018年01月27日 | つぶやきの壺焼

"XXのYY方"という本は、よく売れるかどうかはわかりませんが、すぐ目につきます。
扱い方、言い方、打ち方、選び方、訪れ方など、方法を主題にした本です。

近ごろ目についたのは、本ではありませんが、「働き方改革」という総理の施政方針にある言葉です。

改革を唱えれば、それで何かが良くなっていくと思うのも妄信のようですが、それより少し気になったのは、「働き方」という「改革」の対象を指す呼び方です。

働き方を改革したいと言われると、社会のそれぞれの持ち場で仕事をする人の働き方がよくないと言われているように受け取れます。
皆が意欲を持って働くことができる、誰もがその能力を発揮できる、柔軟な労働制度への抜本的改革ならば、改革の対象は「働く人」よりも「働かせる人」であり、「働き方」よりも「働かせ方」でしょう。

もちろん働く人にも改めなければならないことはあります。
上役の言うとおり、よくわからないけれどもしきたりに沿って、働いたりサボったりするのでは、柔軟ではなく窮屈な働き方です。
「働く人」よりも「働かせる人」の心と頭が変わっていかなければ、その窮屈さはほぐれていきません。

「働かせる人」は、相対する人によって「働く人」にもなります。
そのときの「働かせる人」は、また「働く人」にもなり、階層を上り詰めていったとき、「働かせる人」の最上階にある人の心と頭次第で「働く人」みんなの働き方は変わります。

この改革の実現に向かって法律を変えることは、入り口から足を踏み入れた状態でしかありません。
法律を制定し施行すればあとは民間の問題だなどと、もしN町とK関の人が考えるとしたら、改革は絵に描く前に筆を持っただけで餅の影も見えずに終わってしまうでしょう。

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粗忽妄信:13

2018年01月26日 | つぶやきの壺焼

反体制が知識人の思考の底流になければならないものという妄信があります。
この奇妙な思い込みにはまってしまうと、それに沿った情報獲得源を選び、自らの思いと対立する考えにはいっさい目を向けないという強固な意志が、妄信を支えます。

知識人たちは、政権を握った政党と首相は、常にどこかが間違っていて、正され続けられなければならない対象であるという、動かすことのない仮説を立てます。
仮説も長くづづけば真実に衣替えします。

報道機関も、そういう人を巧みに操りながら、反体制を貫き通す偏った報道に明け暮れることで、"ブレない"という実態ない価値にしがみつきます。
TVや新聞でくりかえし言ったり書いたりすることが、大多数の考えを裏切らないものであるという、タイヤキのおもてうらのような、奇妙な、これも実態のない信頼関係がつくられます。
この信頼関係もまた妄信のうら面でしかありません。

新聞社や放送局は、自分たちが発信する"報道"と名づけたものが、"民意"を作り上げていくものという、前時代の心意気を持ち続けます。
まさに、"継続は力なり"なのです。

ある時代には、それを信じなければならなかったこともあります。
それが、時代の変遷で盲信に変わってしまっても、気付かないふりをし続ける、それも"継続は力なり"なのです。

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粗忽妄信:12

2018年01月25日 | つぶやきの壺焼

全世界の社会主義化がいつかは達成するという大妄信は、1991年のソビエト連邦崩壊で拭い去られたというのもまた妄信であるようです。

社会主義は頭のあまり強くない独裁者を作り上げるので、世界を制覇することはないのですが、夢を見る時期と時間が合致すると、集団妄信のようになって、人々を惑わします。

ソビエト連邦の終末に近いとき成年に達した人は、妄信を引きずったまま次の世代を生み出しました。
生み出され人には、その親が育ってきた年代の、醒めきれなかった夢をまた受け継ぐこともあったでしょう。

ふとしためぐり合わせで、妄信のはたらきが仕事に活性を与えてしまうと、社会の実態に逆らうことが自分の背負った使命であるかのような、またまた妄信を作ります。

仕事上ではその始末の悪い妄信を貫きながら、自分の生活では全く逆の、独り優雅で、さらに長寿を楽しむという、分裂しながらつながっている奇妙な二つの環境の間を日夜往復し、それが長々と続きます。

個人のくらしぶりであれば、関係する人の迷惑ぐらいで済みますが、その仕事が、社会の動きに大きな影響を与えるものの場合は、想像するのもおぞましいことになります。

「仕事ですから」このひと言の危うさが、今冬の寒さのように身にしみてきます。

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粗忽妄信:11

2018年01月24日 | つぶやきの壺焼

良書を読む、これはだれもが望むことでしょう。
わざわざ悪そうな本を探して読むのは、とくに目的があってのことか、あるいは悪ぶりを気取るついでに、読む本までという変わった人の場合です。

本の中でも、辞書の類はまっすぐ素直な知識を身につけるためにだいじなものです。
中学校の国語の授業で、最初の宿題は、本屋に行っていちばんよさそうな国語辞典を探してきなさいというものでした。

国語辞典で有名なのは広辞苑で、第7版が今月出版されました。

国語辞典で外国のことを記述する場合、その国自らの表明なしに国の存在が変わったかのように書くことは許されないでしょう。
ところが、新しい広辞苑では、台湾という一つの国が中国の一部であるかのように書き変えられそうになったという話を聞きました。
辞書の類は、版を重ねるごとに、新しい言葉が加わったり、説明に修正が加えられたりして、良くなっていくものと思っていましたが、そうでもなさそうです。

六法全書は有斐閣のものが有名です。
しかし、日本の主要な六法典と関係法令を収録した六法全書の「憲法」の部の冒頭に、なぜか「アメリカ独立宣言」が掲載されています。

これらの編集方針を見たとき、この本が良書といえるのかどうか、疑問がわいてきます。
有名な本が良書であるというごく素直そうなことも、残念ながら妄信の仲間入りをしているようです。

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粗忽妄信:10

2018年01月23日 | つぶやきの壺焼

TV番組の種類を、Wikipediaでは次のように分類しています。
テレビドラマ、 ニュース・報道、 情報・ワイドショー、 教養番組、 教育番組、 紀行・旅番組、 ドキュメンタリー、 バラエティ、 クイズ番組、 音楽番組、 トーク番組、 ローカル番組、 深夜番組、 ミニ番組

このなかの、ニュース・報道、 情報・ワイドショー、 教養番組、 ドキュメンタリー、 トーク番組には、著名人が番組の中心にえらそうな顔をして続けて出てきます。

この著名人にも自分がぬぐいきれない妄信をもっている人がいます。
その人が仕切っているように作られた番組が、TVの視聴者を、また妄信のとりこにしてしまう例がいくつもあります。

視聴者の多くは、自分が信じている著名人の言うことであればまるごと信用します。
疑問を持つのは、自分を曲げてしまうよくないことだと思う人もいるでしょう。

こうしてはびこる妄信は、心の支えにもされます。
枝分かれした妄信は、その人の思想の樹形をがっちりと形作ってしまいます。

たまには自分の考えていることの全体の姿を、自分の外側から眺めてみると、妄信の部分が見えてきて、樹形を正す手助けをしてくれるでしょう。

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粗忽妄信:9

2018年01月22日 | つぶやきの壺焼

いま決められていることが、万事に最上であるというのは、人々に大きくかぶさっている薄手の妄信であると思っています。
決めごとの役割は、過去を裁くこと、今を選ぶこと、未来を望むことでしょう。
この3段階は、重要性から言えば、うしろから順ということになるものと考えます。

決めごとの代表は法律ですが、今の法律の使われ方は、重要性の逆順になっている気がします。
何か事が起こると、法律に照らしてどうであったか、人としてひどい仕打ちも法に違反してなければ許されるという珍解釈がしばしば見られます。
ちょっと怪しげなことも、法に触れないからやっちまえという判断がときどき用いられます。
ところが、いちばんだいじな未来のことでも、法が邪魔をしていれば顔をそむけ、法を何とかしなければという話はなかなかしたがりません。

人間のすることは、自然の法則に従って、放っておけば悪いほうにずるずると滑り込んでいきますから、法律は絶えず監視され、必要なことを改めていかなければなりません。
法律が人を監視してくれるというのも妄信のひとつですが、法律は人がそれを監視していなければならないものであるということに、多くの人は顔をそむけます。

ここで二つ挙げた妄信のことは、早ければ今年中にも、日本中の人に問いかけのあるだいじなことがらにかかわっています。
何のことなのかは、バカ騒ぎのTVにかじりつき、大売り出しのチラシだけを毎日眺めていたのではわかりません。
まず、何のことかを考えて自分でカギを開けなければ見つからないでしょう。

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粗忽妄信:8

2018年01月21日 | つぶやきの壺焼

集まって同じことをしていると、楽しさの感じが湧いてきます。
その代表格はオリンピックという大形の集まりでしょう。
ほとんどは閏年に、そうでない年にも、4年ごとに世界中から人が集まり、競い合う楽しさを味わいます。

この、競い合うことから得られる楽しさが、ただ集まることに楽しさがあるという妄信に変わると、人が生きることに逆らうような、全く無駄な集まりになってしまうこともあります。
そちらの代表格は、何ごとによらず反対を唱え気勢だけをあげる無根拠なデモです。

集まった人々は、反対を唱えさせられるそのことの、どこにどう悪いことがあるのか考えることはしません。
集まることに意義があるという妄信に浸りきっているからです。
デモを指揮する人の何人かは、人を集めて騒ぐことを仕事にしています。
肩書きが好きな人はその人たちを活動家と呼びます。
ジャーナリストと名乗れば伝えることは何でもよいと思い込むように、活動家と名乗れば人を集めてすることは何でもよいと思い込みます。
仕事だから、という自分騙しがその思い込みを助けます。
仕事への報酬は、都合と場合に合わせて、ときには静かにだれの目にも触れない形で、書く人、動く人の手に渡ります。

このことが、一つの国に住む多くの人々の、何十年か先の生き方をすっかり変えてしまうような、相手次第では何万人もが一度に生きる場を追われ、命を奪われるようなことにつながらない保証はありません。
集まって騒げば楽しい、その妄信がもたらすものには、恐ろしーいこともあるのです。

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粗忽妄信:7

2018年01月20日 | つぶやきの壺焼

"それが妄信でなくなる日"のつもりでキーを打ち変換したら、はじめにこんな字が出てきました。
"それがもう死んでなくなる日"

いまはまだ妄信でも、それが妄信でなくなる日が来てほしいということはいろいろあります。

その一つ、身近なところに、学校が子供を預かって育ててくれる場所であるという妄信があります。
学校でだいじなのは、施設よりも先生です。
どれほど立派な校舎、近代的な教育用具、広々とした運動場、おいしい給食が揃っていても、先生が困った先生では子供は立派には育ちません。
困った先生とは、日本の心を持っていない先生です。
はじめからないのか、捨ててしまったのか、そんないきさつは、ここでは問題ではありません。

学校で国歌を歌うこと、国旗を掲げることを、悪いことのように思いこんでしまっているコチコチあたまの先生が、まだどこかにいると聞きます。

いくら教え方が上手でも、そういう先生には、学校で子供を育てる力はありません。
ほんとうは、先生でいてもらうことさえ考え直さなければならないでしょう。
そんな先生がいたのでは、学校という制度が、いずれ死んでなくなる日が来ないとも限りません。

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粗忽妄信:6

2018年01月19日 | つぶやきの壺焼

保存下手は、置き場が足りないからと思うのは、どうやら妄信のようです。

モノは置き場をなくせばいらなくなる
これは、江戸東京博物館の貧乏長屋から、江戸人の生活能力を学んだという人の言葉です。

置き場のないものは捨て去る、捨てれば置く必要がなくなる、きれいさっぱりとはこのことです。

いま、部屋の中をぐるっと見渡しても、何年も使わずにただ置いてあるだけのものが多いのにあきれます。
一日一捨、これを続ければ、来年いまごろは300個を超えるものが目の前から消え、さぞゆったりできることでしょう。

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粗忽妄信:5

2018年01月18日 | つぶやきの壺焼

優れた国会議員は、町のために何でも頼みごとに力を貸してくれます。
優れた国会議員は、国のためより町のためになることが自分のためと信じています。
優れた国会議員は、票を失うおそれのあることには一切関心を向けません。

これを妄信と呼んでも、怒る議員さんは一人もいないでしょう。
おっと、これも妄信と言われてしまいそうです。

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粗忽妄信:4

2018年01月17日 | つぶやきの壺焼

「継続は力なり」という言葉は、何でも続けていればそれが力になっていくという安直なことを言っているのではありません。

これは生涯を求道と教育に捧げた住岡夜晃の「讃嘆の詩」の一節で、「念願は人格を決定す」のあとに続く言葉です。
自分がこうありたいと願うものをもたなければ、だらだらと同じようなことを続けていても力にはなりません。
"続けてりゃあそのうち何とかなるさ"はある種の妄信です。

続けていることが国内でのことならまだよいのですが、まったく考えることの違う外国が相手の場合に、これまで続けてきたことが国益を阻害していたとすれば、継続は衰退のもとになります。
その国を訪れたときに歓待を受けるからよい関係ができていると思うのは、ぼんやりものの妄信であるかもしれないのです。

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