・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

原因が気体になるとき~そんなばかな:6

2014年07月31日 | つぶやきの壺焼

事件や事故の後、必ず行われる手続きがあります。
言わずと知れた「原因探し」です。
「原因探し」は、原因追求、原因分析の前段階ですが、探して終わりということは、報道される事件や事故の数とおそらく同じくらいあるでしょう。
報道されれば原因発表は必ずあります。
発表は、追求も分析もほとんどされないうちに行われるので、「原因探し」と発生件数はほぼ同数ということになります。

事件や事故は人間が起こすので、原因はもともと目に見えない部分で占められています。
目に見えない部分を確かめるには、人の証言によるしかないのですが、それを知っている人がいなくなってしまえば、残るのは要因の想像による部分でしかありません。

証言者が行方をくらますことはしばしばあります。
思わぬ場所から遺体になって見つかることもあります。
遺体が本人であるかどうかを確かめる科学的鑑定の方法は発達しましたが、それを扱うのは人間です。
AとBを比較して、それが一致すれば本人であるという見方は、人々に信用されやすいのですが、A、Bどちらかがすり替えられれば一致条件はすぐにできあがります。
そのときには、原因の要素は蒸発してしまっていますから、そこに残るのは、これで終わりにしようという区切りの「とき」の宣言だけということになります。

蒸発した気体を、他のものと峻別することは、現世の人間の力の及ぶところではありません。
まことに、「とき」の力は偉大です。

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蝉の声が朝から3種類~いまさらながらの違い探し:11

2014年07月30日 | つぶやきの壺焼

朝、西側の窓から聞こえていたのはアブラゼミの声、東側の窓からは、ミンミンとクマの声が聞こえてきます。
昨日西側ではクマとアブラでした。

何の都合か、日によって集まって鳴く蝉の種が違うようです。
クマが昨日は西、今日は東と移動しています。

このあたりで声を聞ける蝉は、アブラ、ミンミン、クマ、ツクツクボウシです。
横浜にはたくさんいたニイニイは、声の小さいせいもあってか、あまり聞きません。
ヒグラシも、ここで聞いたか聞かなかったか、記憶が確かではありません。
武田百合子の富士日記のような、マメな記録はできていないのです。

日本在来種の蝉は32種類あるそうですが、ここではそのうち4種類、まあまあうまい具合に分布しているようです。


蝉の声を聞きながらふと思ったには、虫や鳥が、似たような群れの中から、種を違いを見事に見分けているということです。
見境いのつかないのは人間だけではないでしょうか。
人種差別は悪であると理屈をつけて、制覇のためには、ほぼ二千年の間に、種を尊ぶ意識など宇宙の彼方に飛ばしてしまったようです。

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端数探しをしてみよう~狂暑ばらいのひと工夫:4

2014年07月29日 | つぶやきの壺焼

XXX48というグループが西と南に勢力を広げています。
上海にもジャカルタにも姉妹グループができています。
なぜ48なのか、50にするよりも、魅力が隠れているような気にさせられるからでしょう。

¥9800という値段に購買者が惹かれるのは、1万円より安いからではなく、1万円札で買えるからでもなく、1万円未満の最高に近い上位の値段だからです。
1万円で買える¥9200では、何となく買う気が起きにくいようです。

東海道五十三次も、五十、六十ではだめだったのです。
4と8、5と3という数字の関係にも、端数の魅力が隠れているように思います。
シワとゴミと読んでしまうとあまりいい感じではなくなりますが。

ところで、東海道五十三次の方向や次元を変えてみるのも一興でしょう。
浜街道五十三次、陶街道五十三次というのもすでにあるようですが、「街道」にこだわらなくてもよいことにすれば、いろいろ考えられそうです。
七福神より数が多く、簡単にはできないところが、狂暑ばらいに向いていそうです。

中山道五十三次というのはどうかと思ったら、中山道六十九次というのがもうありました。

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対語づくりをしてみよう~狂暑ばらいのひと工夫:3

2014年07月28日 | つぶやきの壺焼

自慢は自分でするからそう呼ぶのですが、ひとが得意げに話すことは何と呼ぶのでしょうか。

自慢の対語に他漫、自慢話の対語には他漫話を思いつきました。
もちろん、その言葉は辞書に載っていません。

「XXという言葉はありますか」という愚問を、FAQにしばしば見かけます。
その質問者が、どこかで見たか聞いたかすれば、そこにあった言葉なのです。
質問者が思いついたのなら、使いたければ使ってみればよいので、「あった」「なかった」は無意味ではありませんか。

辞書に載っているかどうかは、この場では大いに意味を持ちます。
載っている言葉は考え出したことにも、作ったことにもなりませんから。

「自」と「他」だけでなく、「まん」の字も入れ変わらなければなりません。
自慢の「まん」は、我慢、慢心の慢、他漫の「まん」は、冗漫、散漫の「まん」です。
これ以上の説明は野暮なので止めておきますが、あるかないかの境い目を狙って何かをするのは、ポーっとしそうな頭に刺激になります。

この話も、私の自慢というほどではありませんが、他漫にはなるでしょう。
いつのまにか「たまん」で「他漫」とすぐ変換されるようにIMEも協力してくれているのに、今、気づきました。
これでもう「他漫」は「ある」ことになりました、めでたしめでたし。

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川柳を作ってみよう~狂暑ばらいのひと工夫:2

2014年07月27日 | つぶやきの壺焼

狂暑ばらいに、川柳づくりはいかがでしょう。

川柳は、俳句と違って季語や切れ字はいりません。
重なってはいけないなどという決まりごともありません。
言葉に表しにくい自然を相手にしなくても、道を行く人が蹴まづたことでも、話し言葉のままでつくれます。
リズムに乗せればよいのです。

決まりごとはなくても、うがち、かるみ、おかしみという、人の心のどこかに引っかかるような何かは必要です。
これは、川柳に限らずおしゃべりでも同じです。
自分の見たこと聞いたことしたことを、ずらずら続けて言ってみても、聞く人は面白くありません。
自慢話などなおさらです。

うがちは多少なりとも人の心を傷つけます。ガンガン責めてはいけません。
かるみはあっさり言えばよいだけのことです。
おかしみは面白おかしいとかきゃっきゃと笑えるようなことではありません。
笑わせようと、わざとらしくすればおかしくなくなる、これもおしゃべりと同じです。
一つの川柳に、怒る人と笑う人、あるいは顰蹙と嘲笑の両方が出てきて、それが一対百ぐらいの割合になればおかしみになりそうです。

夏向きの習作をひとつあげてみます。
  むりむりの谷間づくりがスジかシワ

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パロディを作ってみよう~狂暑ばらいのひと工夫

2014年07月26日 | つぶやきの壺焼

狂暑ばらいに、パロディづくりはいかがでしょう。

広く知られている作品の特徴をとらえて、あぁあれかとわかるように面白く作り変える作業です。
この面白さは作業にあるので、ひとが見て面白いかどうかは、作った後の話ということになります。
宿題の片づけを夏ごとの楽しみにしていて、とかくでき上がりのカッコよさに熱を入れたがるお母さんとは、ちょっとそりの合わない面白さです。

写生をしたり、写真を撮ったりすることと、どこか似たところもあります。
写され、撮られるものを見つけることから楽しみが始まる、最初から似ています。

元の作品の全体をパロディの対象にして、大型作業を始めるのもよいのですが、どアップの花写真のように、はじめに目につく部分からという手もあります。

「我が輩は猫である」などは、ネコの1文字ずつを入れ替えてみれば、標題だけはたちまちいくつか並べて見ることができます。
「我が輩は勢子である」「我が輩は梃子である」「我が輩はネジである」「我が輩はネギである」
ネコの子音だけを入れ替えることにすれば、また数が増えます。
「我が輩はエロである」「我が輩はテロである」

あ、ねこのしいんで出てきた変換対象は、あまり気持ちのよいものではありませんでした。

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知らせることと教えること~いまさらながらの違い探し:10

2014年07月25日 | つぶやきの壺焼

教えるというのは面倒なことです。
教師という面倒な仕事に、日夜励んでいらっしゃる方には頭が下がります。
教師が面倒なのに、学校という場でその仕事をするとなれば、面倒どころではありません。
MPと呼ばれるどうしようもない人たちを相手にしなければならないからです。

面倒な教えごとは、つい早く片付けたくなります。
教える前に知らせてしまえば、サッサと片付きます。
これは何かと聞かれたとき、それはこうだと、すぐ答えれば話は早くすみます。

ビジネスでは、相手の気の変わらないうちに、「今」という機会を逃さないためには、即答もだいじなことです。
しかし、教えることはビジネスではありません。
教えることの主人は、教える人ではなく、教えられる人です。
何かの方法を教えるにしても、教えられる人が、考えながら自分で試してみたくなるような教え方をしなければ、QとAの流れ星の交換ぐらいで終わってしまいます。

テレビにも、教えるような顔をしてカメラの前に立つ人が現れますが、身振り手振りとおしゃべりだけで、教えることはしません。
あれはもともと知らせる道具で、教える道具ではないからです。
3Dだ、8Kだなどと言っているうちはまだまだ、教える道具になったときこそ、テレビの大変革ということになるのでしょう。

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まっすぐの危険

2014年07月24日 | つぶやきの壺焼

道をまっすぐに進むのは気持のよいものです。
ただ、それが長く続けば、睡魔に襲われます。

真っすぐな球は、早くなければ打たれます。

まっすぐに突っ込むだけの相撲は、相手にかわされればそれでおわりです。

まっすぐ飛べば、燃料費が最少で済むという計算は、航路がどういうところであるかに目を向けさせません。
飛行機は戦場の近くを飛べば落とされる危険があるという、きわめて単純なことも、チェック・リスクの埒外にまっすぐ放り出されます。

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皮相と深層

2014年07月23日 | つぶやきの壺焼

懸賞幕を持った呼出しさんたちが、ずらっと立ち上がっただけで歓声が湧き起こる、人気力士がいます。
この人気力士が、それほどでもないと思っていた相手に、簡単に負けます。

その力士が、なぜ負けるのかをかを考えてみますと、二つのことが想像できます。
1.負け方の研究をしている。
2.早負けは、けが防止になる。

立ち会いの突っ込み方、隙を見せたときの相手の反応、あまり急激に上位にかけ上がらないための番付位置の確保、そんなことも研究材料になるでしょう。
思いどおりにはいかないのも承知の上で、確率計算をしています。

思い切って突っ込み、土俵を通り抜けて向こう側の検査役席まで飛んでいくつもりでというような、低頭脳を看板に掲げる立ち会いはしません。
どこかが骨折して後に差し支えるような、大けがをしないやられ方にも、稽古を積みます。

勝負の世界では、肝心なときに白星を獲なければ何にもなりません。
皮相の強さと深層の弱さ、またその逆、おのおのが力士の個性で、どちらが好きかは、それぞれにあやかることを望む谷町さんの勝手なのです。


アヤメとショウブのどちらが好きか、と聞いたら笑われました。
聞いてどうする、ではなく対比分類がおかしいというのです。

「アヤメやハナショウブではなく、サトイモ科のショウブである」という記事がありました。
そのあとに「サトイモ科のショウブの花は、アヤメやハナショウブのように華やかではない」と続きます。
ほかには、「古くは“あやめ”の名はサトイモ科のショウブ(アヤメグサ)を指した語で、現在のアヤメは“はなあやめ”と呼ばれた。アヤメ類の総称として、厳密なアヤメ以外の種別にあたるハナショウブやカキツバタを、アヤメと呼称する習慣が一般的に広まっている」という記事もあって、こうなると頭があやめ模様になってきます。


言葉のあやという、論理のあやふやになったときの逃げ言葉がありますが、あやだけの言葉では、あやしい解釈しかできません。
何の話だったのか、深層不明のままで、大相撲はいよいよ終盤に入ります。

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控えという審判席

2014年07月22日 | つぶやきの壺焼

相撲の勝敗判定は、あとから誰にも文句を言わせないすぐれた方式によって行われています。
まず行司が一次判定、どちらが勝ちとも言えないという、逃げ腰判定はできません。

一次判定が確かでなさそうなときには、物言いがつけられます。
物言いは、土俵に最も近い席にいる検査役と、並んで座っている控え力士が、それをつける権限を持っています。
勝敗判定の協議に加わらない、物言いをつけるだけの権限が、控え力士に、ただ没我の境地に沈むだけでは果たせない役目を負わせます。
控え力士は、土俵上の自分以外の取り組みにも注意を払わなければなりません。

控え力士が加わらないだけ、検査役に加わる協議の役割の重みは増します。
背中に、物言いをつけた力士の睨みがきいているからです。

議場と呼ばれるところにしばしば見られるような、理にかなわない判定が万一行われれば、巨躯怪力をもった男たちの怒りを抑えることはできないでしょう。

巨大な慣性エネルギーを蓄えた肉塊が、避ける間もなく目の前から降ってくるあの場所は、常に危機意識を脇に押しやれない、神聖な審判の実践場でもあるのです。

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ビーチと祭りの新装備

2014年07月21日 | つぶやきの壺焼

梅雨の名残の、もうひと降りと言いたげな雨の音が、急に聞こえてきました。

いよいよ今週には梅雨も明けるでしょう。
明ければ猛暑、夏休み、海岸がにぎわいます。

親子連れで海水浴に来て、両親が酔っ払って子どもはそっちのけという、バカ親も現れるようです。
むかしは親父が酔っ払って困ったという話ありましたが、いまは母親のほうも負けてはならないと、気が引き締まるのでしょう。
気が緩んでの酔っ払いはまだよいのですが、気を引き締めて酔っ払ったのは始末におえません。

そういう親を見かけたときのために、酔い覚ましの用具を思いつきました。
シャワーボトルです。

ボタンを押せばシャワーになる、簡単なものです。
海岸近くのコンビニで売りましょう。
海小屋にも用意しておきましょう。

海水浴場だけでなく、祭のときにも使えます。
ボトルには使い方が印刷されています。
「泥酔者に向けて発射する行為は、軽犯罪にはなりません」

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電車は全車両電動車がよい

2014年07月20日 | つぶやきの壺焼

電車に乗るときは、降りてから階段にいちばん近いところの扉から乗るようにしています。
ラッシュアワーでもまれるときは、モーターのついている車両を選ぶ、そんなことを考えていた時期がありました。

パンタグラフのついていない付随車は、自身に制御機能を持たず、始動や停止の都度、貨物列車に乗っているような衝撃を感じるからでした。

何でもお任せのツアーは、ついて歩いていればよいので気が楽だと、それを好む人もいます。
自分から乗るのであればまだよいのですが、それに付き合わされる同伴やグループ旅行では、始めから終いまで付随車に乗っっているようなもので、何度もガタコン・ショックに見舞われます。
旅行でなくても、制御意識を持たない人と連れ立って歩くのは、子供を連れ歩くのより疲れます。

電車にはむりでも、人になら、仮止めでもよいからパンタグラフをつける方法がありそうです。
何か妙案はないでしょうか。

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贈答品売り場でわかること

2014年07月19日 | つぶやきの壺焼

ウイスキーの値段は、5年で2倍、10年で4倍になることが、Tデパートの贈答品売り場を、時間つぶしに一周してみてわかりました。
味は計算できませんから、味と値段の関係が、相応なものかどうかはわかりません。
贈答品の値打ちは、もらったときの嬉しさで決まります。
15年もののウイスキーより、20年もののウイスキーが、もらったときに倍うれしいということもないでしょう。

毎年見て歩いているわけではないのですが、今夏の贈答品売り場には、こればっかりなのかと思うほど、ハムと酒がぎっしり並んでいます。
酒池肉林という糜爛熟語がすぐ頭に浮かぶほどです。
もらってうれしいものは、人それぞれなのに、選べるように用意されているものは酒と肉です。

贈答品というものは、もらった人を喜ばせるためでなく、ある時期に売りたいものをまとめて売るのが目的でつくられるのだということが、よくわかるのでした。

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発明とは奇妙なものを作り出すことだった

2014年07月18日 | つぶやきの壺焼

養蜂場のCMの直後に殺虫剤のCMが流れます。
あれっ、と思っても、画面がすぐ変われば一瞬に忘れます。
秒刻みのCM放送には、切れ目を作る余裕がないので、何を売りたいのかわからないのも混ぜこぜに放映されます。
見る人の記憶に残るのは、著名のアイドルや役者が出ていたということと、ときどきまとめて文字の出てくる社名だけです。

コンサートホールで、室内楽が終わった直後、動画が映写され、そこにピエロが踊り出てきたような、ハチャメチャ画面に、TVを見ているとつき合わされます。

なりふり構わずのCM合戦場、その画面が戦場ならば、どこかに命がけなところもあるはずですが、それはさすがに見えないように工夫されています。

そんなことのために、田舎芝居のようなドラマ、草野球のようなゲームをしばしば見せられます。
よせばよいのに、続けて見ないとどこかに置いていかれるような、奇妙な恐怖感に襲われます。
何百万年の歴史の1万分の1ぐらいの間に、とうとう人間は変なものを作り出してしまいました。

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中途半端なETCシステム

2014年07月17日 | つぶやきの壺焼

「ETCカードの挿入が完全にできているかを確認してください」というラジオ放送をときどき聞きます。
この言葉遣いが不完全なことはともかくとして、カードの入れ方が確実かどうかを確かめなければならないようなシステムは、まだまだ未完成と言えるでしょう。

駅の改札口では、カードを読み取り器の上にヒラッとさせただけで通過できます。
ETCカードも、運転席付近のポケットのようなところに投げ入れておけば、ゲート側の装置で読み取れるようになってこそ便利なシステムになったと言えます。

前に障害があればブレーキも踏まずに止まる時代です。
ETCカードがいらなくなれば、それが最上ですが、とりあえず車載器に確実に差し込まなければならないような中途半端なシステムは、早くなくしたいものです。
車載器メーカーの仕事がなくなるというのは、開発障害の理由にはなりません。

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