・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

キーを抜いて降りたら走りだす車~そんなばかな:3

2014年06月30日 | つぶやきの壺焼

暴走の恐ろしさは、それが暴走であるという意識を超えたときに現れます。
意識の超越は、ほどよい快感にもの足らず、極限を求めたときに起きます。

ところが、全く意識していない暴走もあって、それが運命のいたずらなどと言っていられないことも起きるようです。
乗っていたくるまのキーを抜いて降りたら突然走りだし、壁に突っ込んだ場面の動画を見たという話を聞きました。
「神の領域」と自認する技術によってつくられた、スーパー・ミステリー・カーとして紹介したかったようです。

ヘー、と聞き過ごせば、動画作成者の意図を汲んだことになり話は終わりますが、そこから「なぜ」が徐行運転をはじめると興味の向う道は原っぱのように広がります。

運転席に人が乗っていなくても、くるまは走ります。
キーを抜いても、エンジンが止まらない状態に保つこともできます。
そうなると、動画の発表価値が、車と壁の修理代を超えたとき、ドキュメンタリー画像を創作することはできます。
その場合には、意識を超えていないので、動画に映った車の動きは暴走ではなかったのかもしれません。

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ほんものには居場所がある

2014年06月29日 | つぶやきの壺焼

久しぶりに素晴らしい本に出会いました。
豊かな心の持ち主でなければ作れない本です。

はじめに、ギラギラ、キラキラでなく明るく光る、オランダの景色が見られます。


今までに見つけられて残っているフェルメールの絵37点のうち、34点のほんものを、克明に観て歩いた4年がかりの旅の記録です。
この上ない贅沢な旅と言えるでしょう。

絵画も彫刻も、最適の居場所にあってこそほんものとして観ることができるので、どこかから運ばれてきたものは、にせものではなくても、似たものでしかありません。
画家があえて見せない意味を描いたところは、場所によって見えたり見えなかったりします。


一つ疑問がわきました。
修復を重ねられた絵は、その画家の作品と言えるのだろうか、ということです。
その疑問に至る一歩手前の不思議さは、東京に集められた何点かの、色の鮮やかさを見たときから、ずっと頭に引っ掛かっていました。


むすびには、こう書かれています。
「こんな本が作りたかった」

読んだ感想、「こんな本がほしかった」

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鍵のない手錠が犯罪抑止に役立つ~そんなばかな:2

2014年06月28日 | つぶやきの壺焼

作ったというだけの法律、したというだけの解釈、近頃「だけ」が目立ちます。
認めてもらおう気分での仕事のしかたが、とがめられずを通り越し、ほめそやされ、持ち上げられて増えていきます。

そうなると、メディアさんは、ほめてばかりもいられなくなります。
アメとムチのバランス計算で、どうでもよさそうなことを、ああ言ったこう言ったと、責め立てます。
天秤に載せるものは、比重の小さいものを選べば、嵩が大きく、実質よりも見栄えよくできます。

十手を持ったドロボウの集まりというたとえがありますが、自分で思うままに操作できる、鍵のない手錠を持って集まる不思議なクラブもあるようです。

どういう人が集まっているかは、「監」「査」「制」の文字が入った名のクラブを探して、会員名簿を見ればすぐわかります。

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罪を犯してなくても認めたほうが得になる~そんなばかな:1

2014年06月27日 | つぶやきの壺焼

司法取引という、計算人種にこそ馴染む奇珍手法を、日本でも犯罪捜査に使おうということになりそうだと報じられました。
チクって得するという、嫌なやりかたです。
本当のことを伝えているうちはまだよいのですが、「そういうことにしておこう」と、求刑効率さえ上がれば何でもということになりかねません。

実際にはやっていなくても、「やりました」と言ったほうがお互いのためというわけです。
それでなくても冤罪で何十年も放り込まれる人がいるというのに、これはもう、ハチャメチャというしかありません。
「新時代の刑事司法制度」というのは、なにか新しい制度を導入すれば仕事が済んだことになるのでしょうか。

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ほんとの顔とうその顔~いまさらながらの違い探し:8

2014年06月26日 | つぶやきの壺焼

姿かたちを変える「へんそう」には、変装と変相と、二つの相があります。

身に着けるものを変えて別の姿に見せる変装は、驚きよりも笑いの要素が含まれやすく、愛嬌もあります。
うその顔を見せて、人を騙す変相は、笑ってはいられないことも起こします。

変装をしたがる人は、一人ひとりの楽しみのほうが多く、脱げば変わるという自覚も持てます。
変相は、それとは見せないでいるうちに、ほんとの顔とうその顔の見分けが自分でもつかなくなり、心の持ちようも変わってきます。
自分で見分けがつかなくなれば、周囲の人もだんだん見分けがつかなくなります。

うその顔が普段の顔になり、人格までも変わったとき、不幸は訪れます。
その人の不幸だけではすみません。
周囲の人の不幸だけでもすみません。
だいじな職を預かっている場合、それは、とてつもない大きな不幸になります。


ところで、変相婚活は詐欺なのでしょうか。

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稼ぐことと騙すこと~いまさらながらの違い探し:7

2014年06月25日 | つぶやきの壺焼

勝てないサッカーは面白くありません。
負けないけれど勝てないサッカーも面白くありません。
見せ場づくりをやっているだけで、肝心なときに勝とうとしない勝負は面白くないのです。

第2戦のシュート成功率は、16分のゼロでした。
球技はボール遊びではありません。ボールをもてあそんでいても点は取れないのです。
ボールをどれだけもっていられたかと、出せば出せるというだけの数字は、負け惜しみの言葉にしても効き目はありません。

肩を引っ張られるとすぐボールを放す、すぐ転ぶ、そこからフリーキックのチャンスも生まれるというルールを利用して、あわよくばというのは、騙して何とかしようという裏ワザ頼みのゲーム進行です。
日本人は、こういうせこいルールに向いていないのです。

90分走り続けられないのはサッカー選手としては落第でしょう。
だいじな試合の前に、眠れない、寝る時間に寝る訓練が足りないことを自慢げに話すようでは、そこでもう負けています。

監督のせいにして、お茶を濁す報道や解説は聞く気がしません。
第一戦の後半から、すでに得点を稼ぐことを止めてしまった選手を責めても意味がありません。なぐさめ言葉もいらないでしょう。
偉そうな顔だけしてもらわなければよいのです。

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微分感覚と積分感覚~いまさらながらの違い探し:6

2014年06月24日 | つぶやきの壺焼

もっと積極的に、という言葉が余り聞かれなくなりました。
「的」が「動的」な意味から遠のいて使われるようになり、「・・・・の」と状態を決定づける使われ方や、「的な」とか、「・・・的には」という、ひねった、もっと言えばひねくれた、元来の意味から的の外れた使い方をされるようになっていることと、どこかつながっている気がします。

積極的と、微動だにしないという二つの言葉を並べて、どちらが能動的かと問えば、「そりゃぁ積極的だろう」と即答がありそうですが、おかしなことに、これが逆ではないかとも思えるのです。

積極的に気をとられ過ぎると、することが空回りになりがちです。効き目が薄いのでは積極的とは言えません。
微動だにしないという状態は、頃合いをはかって動き出しそうな気配を含んでいます。

せっせと積み上げてきたつもりの実績が、言わないほうがよいのについ口走ってしまう微かな口の動きから水泡に帰すことは、議会にもよく見られます。
積分感覚的熱中によって、微分感覚的注意力がおろそかになる例でしょう。


ボクサーが、拳の打撲症を起こすことがあるそうです。
パンチを利かすときの一瞬の躊躇から、筋力エネルギー集中の「とき」がずれてしまうのでしょう。
これも微分感覚の鈍化と言えるかもしれません。


票の積み上げや数ばかりを気にして、ひとびとの心の動きをとらえ損なえば、政治も失敗します。
通した法案の数で、政治活動の成績を評価することなど、愚の下のことですから、あとで困ったことが起きるような法律を、どさくさまぎれに一度にたくさん作ってしまうような積み上げ偏重は、固く戒められなければなりません。

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経済動物という生物分類~いまさらながらの違い探し:5

2014年06月23日 | つぶやきの壺焼

生物の分類にはいろいろ説があります。
人間が考えることですから多種多様は当たりまえで、二界説、五界説と、最初の分け方を数で呼ぶ方法もあります。
数だけの呼称では、分け方の中身がわかりません。仏教用語ではないかと勘違いしそうです。

これまで聞いたことはありませんが、経済動物と非経済動物という分類もできそうです。
非経済動物は、文化動物とでも呼んだほうがわかりやすいでしょう。
なんでもカネ、コスト・パフォーマンス、損得の計算を先に立てるのが経済動物です。

経済動物の強弱のあかしは、時の流れの節々にあらわれます。
概して芯の弱い経済動物チームが、どこまで強さを発揮できるか、いまから46時間後、6月25日の朝には、その一つの結果があらわれるでしょう。 

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適性と天性~いまさらながらの違い探し:4

2014年06月22日 | つぶやきの壺焼

プロと名乗る人の仕事をじっと見ていると、適性が気になり始めます。
その人なりに懸命にやっていることに、他人の余計な心配は無用なのですが、懸命であればあるほど、あのむだなエネルギー消費が別のところに向けられたらと思うことがあります。

仕事には、その成果を受け入れる別の人が必ずいます。自分のためだけにすることは、趣味であって、仕事ではありません。
仕事への適性は、受け入れる人の数が多ければ、適否の影響が大きくなります。
へぼな仕事でも、気の長い旦那がじっと待ってやって大成したという浜野矩随のような話もありますが、受け入れる人が一人だからこそ成立するのです。
受け入れる人の数が数えきれない、ラジオ放送のアナウンサーの場合は、適性への見極めを早くつけることが、その人のためでもあり、視聴者のためにもなるでしょう。

アナウンサーの中には、発声音程を操れない人もいます。
報道調、説明調、会話調、朗読調の区別ができずに、聞く耳に妙な感じを与えます。好きでない言葉なので使いたくはないのですが「違和感」です。

イントネーションの自律修正が下手で、言葉の音程自在化ができない人は、たぶん「なりきり」のできない人なのでしょう。
その場の空気次第で、「なりきり」が鳥やけものの領域にもすかさず及んでしまう、素晴らしい天性を持った人もいます。

音痴にもいろいろあるようですが、発言音痴というのもありそうです。
発言音痴の人にアナウンサーは向きません。

さて、適性というものは修正可能なのでしょうか。

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いまさらながらの違い探し~幸か不幸か

2014年06月21日 | つぶやきの壺焼

幸せはモノでもカネでもなく、身の回りの状況への感じ方でしょう。
これは集団的総括的な問題ではありません。
「みんなが幸せ」という言い方がありますが、この場合「みんな」というのは平均してということではなく、「ひとりひとりのすべての人」なのです。

だれか不幸な人がいれば、10人のうち9人が幸せでも、みんなが幸せとは言えません。
「みんなが幸せに」というのは呼び掛け言葉であって、完全な実現はできないことなのです。
もし、そんな結果を約束する人がいたら、それはおおよそうそ話です。
幸不幸の話に、GDPとか、景気指標とか、失業率とか、数値が出てきても、ほとんど空疎なことでしかありません。
一人ひとりのこととは、かかわりがごくごく薄いからです。


人間は、不満を持つことで、それを生きる力に利用することのできる生物です。
偉大な力を持った植物たちでも、不満には枯れて命を捨てる方法しか持っていないでしょう。

不満の持ち方も、ちょっと趣向を変えれば愉快になります。
この上ない贅沢を考えてみるのも、面白そうです。
何かをじっと待っている、誰かが何かをしてくれるのに期待だけをふくらませているよりも、自分から動いてみるほうが面白そうです。
イタイ、キタイ、シタイ、イ列とタイがつながって、自分からは何もしないとき、不幸が始りそうです。

ぶつぶつ言っていないで、とにかく何か、自分で手をつけてみましょう。
一歩でも歩き出せば、そう、いろはかるたにありました「イヌもあるけば・・・・・・」

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いまさらながらの違い探し~あくびとおくび

2014年06月20日 | つぶやきの壺焼

亀でもあくびをするそうです。
大勢集まった人の中で、あくびをする人が一人も出ないのは、緊迫の度合いが強すぎる場ではないかと思います。
ストレスをたがいにどんどん溜めあって、そこはストレスの泥沼のようになっていくかもしれません。

おくびは、からだの上のほうからのガス抜きですが、下のほうからのガス抜きより下品とされます。
気体の流れが正常と逆方向だからでしょう。

あくびは緊張の滞留を抜き去り、おくびは不要気体の滞留を抜き去ります。
緊張は動物の生活にはある程度欠かせないものですが、不要気体は必要があって作るものではなく、早食い大食い消化不全という自然に逆らった状態からできるものです。
わざわざ見せつけるようにするのはよくないという共通点はあっても、あくびとおくびとでは、発生要因も組成も違います。


さて、子供だましのような絵解きで、自衛権問題を得々と説明する議会人の姿を見て、あくびやおくびを抑えることを強いられながら、実は行儀の悪さなど気にしていられなくなっているのは誰でしょうか、あーぁ、うーぃ。

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いまさらながらの違い探し~テレビとラジオ

2014年06月19日 | つぶやきの壺焼

テレビは居眠りしていると見えません。
見えなくても、音声は聞こえています。
ラジオは居眠りしていても聞こえます。


議会で居眠りをしている議員も、教室で居眠りをしている学生も、耳だけは聞こえているのです。
居眠り議員を撮影してニュースにする人は、記者の知恵のなさ、腕も悪さをニュースにしているようなものでしょう。
目をあいていても、居眠り状態よりもっと頭の回転していない議員が何をしているかを、ニュースにする腕を持たないから、目で見える安易なことだけを取り上げているのです。

居眠りしていれば、耳が聞こえていないと思う人は、何でも外側しか見えない、目のあまりよくない人らしいです。

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ビュッフェがなくなっていた新幹線

2014年06月18日 | つぶやきの壺焼

いつの間にか、新幹線にビュッフェがなくなっていました。
いまでは、「ビュッフェ、なにそれ」という人もいるでしょう。

「食堂車」という古い呼び方ではない食事専用車、なくした理由は、ひとの物を平然と持ち去る乗客が現れるようになったからと、考えたくはありません。
速く走るようになったからということにしておきたいところです。
ほかの車両を、顔を見合せないようにいくつか素通りしてたどり着いても、ゆっくり食事をしている時間がなければ利用客は減ります。

ちょっと座りにくかったビュッフェでしたが、生ビールを飲みながらのローストビーフは、出張のときにも、旅行のときにも、誘った人の趣向も確かめずにすすめる逸品でした。


ところで、変貌を続ける新幹線、新設する路線がなくなったらどう呼ぶのでしょうか。

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マッジックのタネは観客が究めるものではない

2014年06月17日 | つぶやきの壺焼

マジックは、驚きを楽しむものでした。
同じことが繰り返されれば、できごとへの驚きは冷めていきます。
観客が冷めていったとき、頭も覚めて、タネを探るほうに興味が移ります。
そうなれば、マジックを楽しまずに究めたがる観客が増えていきます。

タネを撮ろうとするカメラマンもあらわれます。
カメラマンの撮る写真は見せるためのものですから、マジックのタネがもし撮れれば、カメラマンの鼻はひくひくうごめくでしょう。

人に知られていないことを私は知っているという、自慢ごとに悦びを感じるようになると、カメラマンも、スパイも、研究者も、リークやすっぱ抜きが自分の仕事の重要部分であるかのような錯覚を起こします。
そのときは、すでに職業神経が鈍化あるいは糜爛状態にあるのです。

マジックのタネも、スパイの情報も、研究者の論文も、ひとびとにまっすぐな感動、安心、喜びを与え続けられるようになったとき、その仕事は完成の域に近づくのでしょう。

バラす、漏らす、抜くという意地汚い競争に明け暮れ、自分のほうがひとびとの目より先にくらんでいるようでは、ちょいのま仕事の足かせは、いつまでたっても外れず、一生ついて回ることでしょう。

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ワールドカップに見た名前の力

2014年06月16日 | つぶやきの壺焼

モノを売る力、顔を売る力、勝ち点を得る力、名前にはさまざまな「ウルちから」があります。

FIFAワールドカップ2014ブラジル大会初戦で、逆転勝ちしたコートジボワールチームにも、名前の力が働きました。

 ドログバ、神のようなその名は、ピッチに立った2分後には同点に、そのまた2分後には逆転のゴールをもたらしました。
彼のポジションとは反対側からのその2ゴールは、もつれ合ったごちゃごちゃ得点ではなく、絵にかいたような正確なクロスと、確実なヘディングによって、防ぎようのない勢いでゴールネットに突き刺さりました。

前半、4度も5度もあったコートジボワールの得点チャンスのミスも、日本チームの闘志をそぐための誘いの隙ではなかったかと思えるほどの変わりようでした。

時と場合と名前がうまく重なるとき、TON単位の大きさにもなります。
名前の力は、まことに偉大です。

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