樹は育つ、普段は木陰などつくってくれて具合がよいが、その土地に別の用途を見出した途端に邪魔になる。
伐採は、その気になれば簡単だが、そのあとまた、普段はよいがの状態になる。
地震の時にどうか、大雨の後はどうか。
切られた樹の仕返しは、人間をそこに住めなくすること。これは強力だ。
樹は育つ、普段は木陰などつくってくれて具合がよいが、その土地に別の用途を見出した途端に邪魔になる。
伐採は、その気になれば簡単だが、そのあとまた、普段はよいがの状態になる。
地震の時にどうか、大雨の後はどうか。
切られた樹の仕返しは、人間をそこに住めなくすること。これは強力だ。
街には、デザインされないデザインがところどころに現れる。
別々に作られて、それぞれに置かれたものどうしが、組み合わされたように見えると、何か奇異な感覚におそわれることがある。
その前に立ち止まった通行人が、全体の風景を変えることもある。
実際のその場所では、すべてのものを一目で同時に見ることはできないが、写真になってしまうと、そのどこかに視点を定めたつもりでも、全面を一度に見ることができる。
見ていて頭がくらくらしてくるような錯覚に陥りかけることもある。
これが視覚の問題なのか、脳の歪みの問題なのか、そこまではわからない。
浜辺には古い木片がときどき落ちている。
雁は季節に合わせて海を渡る。木片をくわえて行って海の上でひと休みするとき、止まり木にするという話を聞いた。
もっとよい別の木を見つけたか、あるいはくわえる雁のほうがいなくなったか、止まり木が浜に残されることがある。
雁にお礼を言いながらそれを拾い集めて、風呂を沸かす。雁風呂と呼ぶらしい。
あまり大きくてはくわえるのに骨が折れるし、小さすぎては止まり木にできないし、ちょうど頃合のものを探すのも、雁さんにはひと仕事だと思う。
この木片もそうなのだろうか。
聞いても返事はもらえない。
にぎやかな、晴れやかな木端というものはあまりないが、浜の木片はとくに寂しい。
通用口にアーチが仕立ててある。
このバラは、毎年いまごろ、通る人の目を楽しませてくれているのだと思う。
心地よく思うだろうというのは、この通用口から出入りする人のことではない。
駐車場を挟んだ道からの眺め、きちっとした瓦葺と白壁の納屋、その手前の真紅のバラ、ゴテゴテと飾り立てていないから、空気も澄んで見える。
ここでやめておけばよいのに、余計なことを考える。
この通用口は、普段、人は出入りしないだろう。
通り抜けようとすればちょうど顔の前に花がある。
しかもその部分の花が目立って美しい。
こちら側の駐車場は、この家のものなのか、貸してあるのか。
○と□の看板を立てた民宿は、歩かずに調べたら、別のところにすぐ見つかった。
垣根に木が植わっている道すじは、通る人をほっとさせる。
同種2色の生垣がある。
1本置きに枯れていても、やはり生垣と呼ぶのだろうか。
なぜ1本置きなのか。
間引きの計算までして植えたとすれば、これは相当先の見えた植木屋さんだ。
首都心に集まって言い合っている先の見えない人達とはだいぶ違うようだ。
海岸の風は、街の中よりずっと強い。
しかし体を水平にして、構造物の平坦な部分に密着させておけば、鼻先を通り抜ける風は、今の時節ならたいそう心地よいものだ。
いまみんなに必要なことは、まずこの事態に引きずり込んだ責任を明らかにすること、ではない。
日々の生活を、普段の生活を、返してあげること。
あまりに落差の大きい、超大峡谷にはまりこんでしまった人たちを、引っ張り上げる手段は、交代で繰り返す寝言からは、芽を吹くきっかけさえつかめない。
この町はきれいだ。
道にごみが落ちていない。
吸い殻は持って歩きたくない。
うっかりポケットに入れれば服が燃え出す。
道に捨てないように、飛び散らない場所を見つけた。
忘れずにおことわり、私は無煙人。
こういうものを見かけると、忘れものと呼びたくなる。
通り道に帽子を忘れる人はあまりいないから、忘れものではないけれど。
では、落しものか。
風が強くなって飛ばされそうなのでポケットに入れたつもりが入っていなかった。
それなら落しものと呼んでよい。
風が強くなって飛ばされてしまったのならどうだろう。
反対側の歩道にいて、渡るのが面倒だからまあいいや、という場合は忘れものでもない、落しものでもない、捨てるつもりはなかった、これは何と呼ぶのだろうか。
「落ちていた帽子」
ブロック塀にかけてあれば、落ちていたとも言えない。
トマソンにまではなりきっていないものを、原平さんならどう呼ぶだろうか。
(注)トマソンをご覧になったことのない方は、「超芸術トマソン」で検索をどうぞ。
自分で書いたのに、読めないメモが出てきた。
安全、エレベーター、姿勢。
半数の文字は読めても、文章は読めない。
これは、理解力の問題ではない。
何を考えついて、あるいは見聞きして書いたか。
1日前のその状況を自分で思い出せない。
そんなばかな、とお思いだろうか。
書いてから時間が経ってなければ、読めたと思う。
書いたときのことを思い出せれば読める。
自筆メモの読解は、記憶力に依存する。
そして他筆メモの読解は、想像力次第だ。
何を書いたのかわからないメモは、何を言ったのかわからないコメントと同類である。
こういうのを不認知症とでもいうのだろうか。
対策はある。
ゆっくり書けばよいのだ。
畑の作物の収穫にも順序があるらしい。
先に図を描いておいたり、表を作っておいたり、そんなことをしなくても、いちばんよい順序は、畑に立てばきっとわかるのだろう。
「わたしから採って」と、キャベツの声を聞くのかもしれない。
発表や人気取りの材料だけにしか使えない、その通りできもしないことを書かれた、マニフェストやロードマップたちは、実践の場に置かれたとき、どんな気持がし、どんな悲鳴を上げているのだろうか。
夏が近づくと、日陰が心地よい。
日当たりの具合は、日に日に変わってくるが、こころなしか、日陰側の花のほうが元気に見える。
なぜだろか。
そう見たいから、そう見えるのかもしれない。
大根が花をつけて畑に残されている。タネを採るためかと想像する。
確かめるまでしなくても、それで気が済む。
だが、抜いて持ち帰らずに寝かせられているのは何のためなのだろう。
これは気になる。
何のためにがはっきりしないと、ムダな行為ではないかとむやみに気になる。
「あのことは、実はこうだった」「そうでしたか」
説明の意図がはっきりしていれば、聞くほうのあたまもすっきりする。
発表「何日の何時にこうなっていたと推定される」
「いつ」は聞けても「なぜ」は聞けない。
時刻まで聞かせれば確かな情報らしくはなる。だが、それだけを言わせられているような発表は、聞かせられるとまた疑念が交錯を始める。
サイケデリックは、アートの世界だけでたくさんだ。