出来上がりのイメージを描かずに作られた紋様は、下手な考えで作ったものより、そのでたらめさが面白い。
一つひとつの部分が、みな言い分を持っているようにも見える。
何か言いたそうだけれども、なんだかわからない。
わからないうちは、何だそんなことと思わないですむから面白い。
出来上がりのイメージを描かずに作られた紋様は、下手な考えで作ったものより、そのでたらめさが面白い。
一つひとつの部分が、みな言い分を持っているようにも見える。
何か言いたそうだけれども、なんだかわからない。
わからないうちは、何だそんなことと思わないですむから面白い。
花も恥らう。
もう昔の言葉になった。
何ごとにも恥らわない、恥らわないのが現代的、現代的はよいこと、という信奉。
娘ごたちは、その信奉と引き換えに、美しさを神に捧げてしまった。
書きなぐった文章は、そのままでは他人が読んでもわからないことが多い。
読み直しても、書いた直後では書くということの余韻に引きずられて読みにくさに気づかない。
しばらく時間を置くと、妙ちくりんなところが目立つようになる。
自分ではなく他人が書いたものを読むつもりで読んでみると、おかしなところがなおよくわかる。
そのときは、頭が再稼動した後だから、メモリーがチャラになって、書いてあることが読む順に整理されながら頭に入ってくるからだろう。
整理された文章が、自分の最初に考えていたことを言い表しているかどうか、そのあたりで折り合いをつけることになる。
折り合いをつけずに、いつまでもいじっていると、考えていたこととは別の文章に化けていき、他人が書いたもののようになってしまう。
朗読のつもりで読んでみると、読まれたときの都合のようなことが表に出てきて、まことにしらじらしいものになっている。
N町で朗読される文章の多くはしらじらしいものだが、それに似てくる。
メディアの記事も、入念に推敲されると、執筆者がはじめに書こうとしたこととは、まったく別のことに読み取られてしまう。
そんなものを、私たちは毎日読まされているのか。
♪ 春は名のみの風の寒さや
吹きさらしの駅のホームは寒い。
いったん上がってまた階段の途中まで引き返す。
向こう側の壁に目をやると、いくつもの直線の交錯が目に付く。
後から付けた手すりもあるから、作った人にこのことの意識はなかった。
何の変哲もないこういうものが、どこか面白い。
意味を持たせて見せてやろうと作ったものには、どこか嫌味が出るから、こんな感じは出ない。
こんなもの、どこが面白いのか。
説明すれば面白さはたちまち雲散霧消。
どこがが言えなければ、なぜそう思ったか。
追い討ちへの返事「そうでも思わなければ、こんな寒いところにじっと立ってはいられない」
駄目と言われると、してみたくなる。
しなさいといわれると、したくなくなる。
童心の赴くところはそういうもの。
学校にも、いつまでも童心を失わない教師がいるらしい。
国歌をみなで歌いましょうというと嫌がる。
あの歌はどうのこうのと意味のない理屈は言っても、実際の気持ちは、歌いましょう、歌いなさいと言われるから嫌だということでしかない。
何十年も前に、他国の占領政策上習慣付けられてしまったことは、桎梏になって、いつまでも自力で抜け出せない。
次世代の教育を受け持つ、いちばん上等の知識をもっていなければならない人々が、自分で考えることをしなくなっている。童心をいともだいじに抱えたままでいる。
そういう人を見分けて、面倒だからたたき出そうという馬鹿な考えも生まれる。
それもまた童心からなのだが、見分け方に、口の動きをよく見たらなどと下品な方法を、童心の持ち主の校長先生にすすめる童心保有グループがまたある。
童心もほどほどにしないと、世界中に見くびられ、こどもの国扱いされることになる。
もういい加減にしよう。
道具には、使えば使うほど、使う人の思いが込められていく。
使い込むということは、そういうことなのだろう。
むかし一緒に仕事をしていた人と連れ立って秋葉原の街を歩いていたとき、道具の話が出て、「たまにしか使わない道具は安いのでいいんじゃないか」と言ったら、「たまに使うものだからいいものを待ちたいのだ」との返事。
コスト-パフォーマンスのパフォーマンスの価値を高めていけば相対的に低コストになる。
安直ないい加減な道具ではパフォーマンスの価値を上げにくいから、相対コストは上がる勘定になる。
I 国製の小さいニッパーを買って気に入っていたが、使い込む以前に刃が飛んでしまった。
南の国製は形はよいが、使うには北の国製がよさそうだ。
あなたの医療費は去年これだけかかりましたよという通知が、毎年桜の花の頃に来る。
封筒の色は桜いろ、ちゃんと時季に合わせてある。
この通知をどう見るかは人それぞれだが、被保険者全員にこれを配ることにどれだけの意義とどれだけの効果があるのだろうか。
説明を聞けばいくらでも聞かせてくれそうだが、言いそうなことがわかっていては説明を聞いていることにならないから、それはむだ。
こういう見方もあるだろうというのを2例あげてみる。
▲こんなにかかっているのに、支払ったカネはこれだけだった。ありがたい。
▼これだけしか診てもらっていないのに、ずいぶん保険料が高い。もっと足しげく病院に行こう。
医療にかかる費用を節約していこうという気持ちは、この手紙を見ても起こりそうにない。
見た目に気味の悪い生物には、強いものが多い。
なくなったように見えて、いつかまた息を吹き返す。
こういう強いものに働いてもらうことを、もっと考えるとよいのではないか。
カッコよさはひとまずおいて。
桜には実を結ばない類があるという。
桜が、花粉症の元凶にされて嫌われることがないのは、実を結ぶための花粉を拡散しないからだろうか。
類と書いたのは、種としたのでは実を結ばないことに矛盾するではないかと、ふと気になったからである。
「しゅ」と「たね」とは、つながりはあっても違う言葉だから別にかまわないのだが、漢字にはひと目で意味のわかる便利さと、違うものを混同してしまう不便さもある。
花粉症は人類の生物機能退化の証だと思っているが、一方で創造機能も進化しているから、それで均衡が保たれている。
生物機能退化といえば、近ごろ転び方の下手な子供が増え、すぐ鼻の骨を折ってしまうという。
せっかく立って歩きはじめたのに、転ぶと危ないからといつも手を引いて歩く。車の来ない道や広場に出てもずっと手を引いている。転びかけると手を引っ張り上げて着地前に止めてしまう。だから転び方を覚えない。
転ぶと危ないのではなく、転ばないと危ないことが後に起こるのに親が気づかない。
危ないから歩かせないという阿保げた創造機能が働いて、小さいうちから車椅子、電車の中まで車椅子という珍現象を、みななんとも思わなくなる。
珍現象といえば、電車が止まっているのに、降りるときホームにしっかり足がつくまで車内の縦棒につかまっている人をときどき見かける。降りてしまえばさっさと歩き出すのがまたおかしい。
創造機能進化は、医薬産業には貢献する。
「皆さん毎年春が近付いたら、症状の出ないうちに、お医者様に診ていただきましょう。お薬も早く飲みましょう」
そのうちに無花粉花が広く植えられ、花粉症予防エステに予約待ちができ、また逆に、耐花粉性育成のための花粉園ができるかもしれない。
落し物は忘れ物とは少し違うが、親戚のような間柄で、忘れることの一族に含まれている。
つい落としてしまったのだ、忘れたのではないと言い張る人は、落したとき、落し物が誕生したとき、それを持っていることを忘れていた瞬間があったことに気づいていないのだ。
忘れることは、ほかのことを考えているからで、すべてが罪悪でもなく欠陥でもない。
「忘れたと気のつくうちは大丈夫」
もう一度同じように忘れたいか、忘れたくないか。それで忘れることの値打ちが分かれる。
早朝の熱海の街には、塵ひとつ落ちていなかった。
落し物だけが、はっきりわかるように、歩道に置いてあった。
どこかに動かしたりぶら下げたりしてしまうと、落とし主が探しに来たとき気づかずに通り過ぎてしまうからか。
思いやりはあっても余計なことはしない、街の人の心が、朝の空気を清々しくしていた。
もう一度、「今昔有情」のこと。
この本は、はるばる、は大げさだが、小田原からお越しくださった。
本1冊となると、なんでわざわざと人は思うだろう。
先日小田原駅まで送ってくださった方がこの記事をご覧になれば、時間調整に駅の三省堂に寄ったかと思われるかもしれないが、そうではない。
あのときはまったくの待ち時間なしに、始発の「特別快速」というのに乗れた。
この本は、わが町の図書館にリクエストをしておいたら、小田原の図書館から回してくださったもの。
蔵書の少ない図書館でも、こういう広域運営で読むことができるのはありがたい。
書店には販売冊数が減って気の毒だが、文化への貢献がなりわいの根幹だと思っていただこう。
あのときは車の中で、むかしお世話になった方の思い出話をしていた。
広域運営という言葉を持ち出したのは、会社にその名の部署があって、話題の主がその仕事をしておられたことを、ふと思い出したからである。
しばらく前に大宴席でお目にかかったが、お元気にしておられた。
広域参加の集まりだったので、お好みだった鍋ものは出なかったが。
外山滋比古の「今昔有情」という本がある。
地大・水大・火大・風大・空大・識をもって六大となす
巻頭にこう書いてある。
六大は衆生を構成する六種の大きなものだというが、識だけなぜ大を付けなかったのだろう。
他の五大ほど大きくはないとみたのか。
それぞれに15のエッセイ、計90が盛り込まれている。
単位をつけなかったのは、それを知らないからで、篇では重すぎ、章では教科書臭が出る。近ごろむやみに使われる個は論外である。
コラムも、大きな紙面の中でなければ、ちょっと単位にはなりにくい。元もとが新聞のコラムでも、本になれば囲みはなくなるからそうは呼べない。
やはり何もつけないのが無難、というよりも、数えることにそれほど意味はないのだ。
はじめにぱらぱらとめくったとき、おやと思った。
ページの左上に手書きのような字が書いてある。
小田原の図書館からわざわざお越しいただいたこの本、あちらには図書館の本に書き込みをなさる方がおられるのかと思ったが、違った。
中味の1枚ごとに六大の文字が印刷されているのだった。
この装丁、どなたの思いつきなのだろうか。
人が通り過ぎるだけのところに、見事な絵が掲げてある。
思いおもいの様をした鶴の列。
じっと見ていると、不思議な絵である。
鳥が列をなすときは、これほど勝手気ままに動くのだろうか。
この絵は12羽の列ではなく、もっと数少ない鳥が飛ぶ様子のコマ連ではないのか。
余計なことを考え、静かに観なかったのは、描いた方には失礼だが何か過ぎたものがありそうに見えたから。
海岸の遊歩道に「こぶし」と書いた石碑があった。
しばらく立って眺めていたが、それでわかるはずはない。
近くの人に尋ねて見ようにも、朝日が昇ったばかりの時刻ではそれもならず。
むかし早朝にお茶をご馳走になった土産屋もまだ開いてなかった。
こういうときに、解説のコメントをいただけるとありがたいのだが。
桜、見てきたよ、ほらこんな。
行ってきた、見てきたには、何か証拠が要るらしい。
何かといえば証拠証拠と言い立てるTVドラマの影響だろうか。
しかし、証拠は見れば興が褪める。
証拠土産も、証拠写真も、証拠の意味しかなければ、みな味気ない。