・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

頂点を極めたつもり 有頂天

2014年01月31日 | つぶやきの壺焼

「職人に頂点なし」と、包丁鍛冶の名工が言っていました。
その人の作った、しならせても曲がりっぱなしにならない、あのまぐろ包丁を実物で見たくなります。
仕事振りをその場で見たい気もします。


俺が頂点にいる、できるだけ長くいると、ことあるごとにそぶりを見せる人には、どういうわけか会ってみたくもありません。

見せたい技、見てくれ技は見たいと思いません。
見せるためでない、見せなくてもよいと思っている技なら見たい気がする、おかしなものですね。

見せたい技は、ピーキングで整えられ、これが最上、ここが頂点、というところしか見えないからでしょうか。

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決まり文句 古びて聞こえる銀世界

2014年01月30日 | つぶやきの壺焼

小学校の国語の時間に、歌をつくる授業がありました。
歌題を出して作りやすく、気に入った作があればコンクールになどと、心のどこかで思っている成績栄誉大好き先生ではなかったので、何でもよいから歌にしろというものでした。

何でもよいといわれると、現代のネット・キッヅたちは、作り方がわからないから教えろと、すぐに質問をばらまきます。
考える前に聞くという怠習惰慣のしみ込んでしまった子らは、かっこいい歌はありませんかなどと書き込んで、それを恥ずかしいとも思っていません。


宿題提出の前日にちょうど雪が降ったので、窓一面の銀世界などという、どこかの雑誌の片隅で読んだような文句を入れたら、先生に一喝されました。「銀世界」などという借りものの言葉を使うな、とやられたのです。

そのときは、銀世界のいけない意味がよくわからずにいましたが、先生のその言葉は、半世紀を超えた後のいまでもまだ忘れません。

近ごろ歌われる新しぶったつもりの歌詞に「銀世界」が出てくると、急にその歌が古臭く聞こえます。
決まり文句は吸い込むだけのもので、吐き出せば空気を汚します。葉巻の煙と逆なのでした。

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ボールペンの部品 数で勝負

2014年01月29日 | つぶやきの壺焼

ボールペンのばねを作っている会社があって、1日1万本作るそうです。

そんなに作って売れるのかと思いましたが、世界人口70億のうちどのくらいの人が、ボールペンを年に1本ずつ使って捨てれば、などと勘定をしていたら、頭がおかしくなりました。

1年ぐらいでは腐ってなくならないそのばねの屑は、どこへ行っているのでしょうか。

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ボルサリーノの帽子 誇り高き男のパッピー姿

2014年01月28日 | つぶやきの壺焼

近ごろTV画面に帽子をかぶった男性がときどき現れます。
あの人たちは、脱いであたり前の場でなぜ帽子をかぶったままでいたいのか、それが理解できずにいました。
帽子をかぶった姿を見せたいなら、外で撮らせればよいのにと思っていました。

室内着帽癖というのもあるようです。
むかし、事務室内で作業帽を脱ぐのを嫌がる人がいたのを思い出します。
難しい検定試験などにも早いうちに合格した、頭のよい人でした。その人は帽子を脱ぐと調子がよくないと言うのです。
その人の頭は、冷やすとよくなかったのか、鉢巻き気分を帽子で出していたのか、よくわかりませんでした。
この話はどこかに書いたような気もしますが、いまは帽子をかぶっていないから、ではなくても思い出せません。


ボルサリーノの帽子は、「効率のために、いかなる品質を犠牲にすることもできない」という、自社工場での妥協のない作り方で、初めて手にする人を「まだ早いのでは?」と迷わせるほどのものだそうです。
着帽でTVに出る人が見せたいのは、誇り高く見せられる帽子をかぶった姿よりも、上等の帽子のうほうなのかもしれません。

よい帽子をかぶる、それでプライドが整う、と感じているのでしょう。
Pride holder ⇒ Prider ⇒ Hat prider ⇒ Happrider ⇒ Haper
ハッパーおじさん、という名前を進呈しましょう。
帽子を見せて愉しむ、パッピーなおじさんです。

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利権は権利の逆か

2014年01月28日 | つぶやきの壺焼

体つきも逆を目指せる権利と思えばと、昨日ふと思いついて書きましたが、権利の二文字をひっくり返すと利権になります。
対義語、反語というのがありますが、二文字をひっくり返すと、こうまで見事な逆転を見せる熟語は少ないようです。

憲法第二十五条 [生存権、国の社会的使命]
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

「健康利権」 「文化利権」 ・・・
法定の権利には、それぞれに利権が絡みついているような気がして、どこか嫌な思いがします。

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太っちょも痩せっぽちも権利と思えば

2014年01月27日 | つぶやきの壺焼

痩せている人には太る権利があり、太っている人には痩せる権利があります。
体重が欲しい人も、減らしたい人も、いろいろな理由でその願望をもちます。

競技の参加条件や、勝つため見せるためなら仕方がありませんが、体のことは、無理な矯正をすれば、どこかに良くない結果が出ます。

反対側にもっていく権利があるぐらいに考えて、ゆっくり構えているほうがよさそうです。

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個人情報はだるまの衣装

2014年01月26日 | つぶやきの壺焼

手も足も出ないたとえに「だるまさん」が持ち出されることがあります。
「にらめっこ」の前置き、「だるまさんがころんだ」遊び、「だるま落し」、とにかく動かない、それがだるまです。

窓口業務というものが、だるまさん方式でいくかそうでないかによって、ずいぶん世の中が変わりそうな気がふとしました。
いろいろな窓口では、個人情報を扱う機会が多くなります。というよりも、個人情報のやり取りこそが窓口業務の主な要素と言えるでしょう。

個人情報という呼び名は、窓口の動きを制限します。ときにはそれを盾にとってとも見えそうな、動きの鈍い窓口に、おやおやと思うこともあります。
そうなると、個人情報にまつわることが、手を出させない立ち上がろうとさせないだるまさんの衣装のように見えてきます。

あるとき、友人の見舞いに病院に行ったら、「入院患者にその方はいません」と、在否の否の部分しか教えてくれず、退院したかという問いにも返事をくれなかったことがありました。個人情報の保護もここまで徹底されると、相手の顔が、だんだんだるまさんに見えてきます。

市の広報に「新しい民生委員」の通知欄がありました。
田舎町なのでいくつかの地区に分かれていて、地区ごとに担当の委員さんがいらっしゃるのですが、さて、新しくこの町に住むことになった人には、自分の家の番地がどの地区に割り振られているのかがわかりません。
市役所のホームページを見ても、作れば簡単にできてしまう区割り表も見当たりません。
すぐに用事はないにしても、区割りぐらいは知っておかなければと、地区の行政センターへその広報を持って出かけて行き尋ねてみました。
「ちょっとお待ちください、問い合わせてみますから」と、窓口のおばさんは市役所に電話をかけはじめます。
役所にもそんな表がないのか、なかなか回答が返ってきません。2~3分かかったでしょうか、「この方が担当委員さんです、地区は第Xですね、ホームページには載せていません」と教えてくれました。
行政センターの仕事は、それで一件落着らしいのです。

市役所のホームページは、出向かなくても、電話をしなくても、簡単なことはすぐわかるようにできる、いちばん手近なものなのですが、ホームページは、編集者がいちばんよくわかるように作られるものらしいのです。

どうやら、だるまさんごっこは、いつまでも続きそうな気配です。

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群れたがりつながりたがるのは

2014年01月24日 | つぶやきの壺焼

絆、連帯感、多くの人が求めながらも、実に頼りない感覚表現です。
つながってさえいれば心が休まる、いつ何をされるかわからないのに街なかに出たがる人は、人ごみの中にいるだけで、つながりが保たれている気がするのでしょう。

生物は群れで生きるようにできているからでしょうか。
花でさえ、群れなければ勢いよく咲かないこともあります。

現代人は孤独を恐れすぎると思うこともありますが、群れているときの顔は、やはりどこか穏やかです。
独房と個室は、似たような場所、鍵が外からかかるか中からかかるかの違いしかなさそうです。

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清澄音と汚濁音

2014年01月23日 | つぶやきの壺焼

「XXです」と言うとき、「す」の母音を強く引っ張ると、汚い発音になります。

関西弁の「す」、京都弁の「どす」は、また違った味がありますが、首都圏弁に近い発音でひっぱられた「す」は、ときに「ず」「づ」「ぜ」と聞き苦しく耳に入ってきます。

「かつぜつ」は、言葉を滑らかに清澄に発音することで、グギグギと角を立て、汚濁音に近いざらついた発音をすることではないと思うのですが、放送界、演劇界のトレーナーの方々、いかがでしょうか。

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見ずに観るとよく見えてくる

2014年01月22日 | つぶやきの壺焼

♪ 見えた見えたよ 松原越しに
という歌があります。
あの歌は、何を見てそれがどうなのか、丸に十の字の帆が見えて、まさに「それが・・・」なのです。

見たところで何がわかるものでもないのに、見えれば気が済む、ということは多いものです。
♪ 見えて嬉しい花いちもんめ
こんな歌詞はなかったと思いますが。

「この眼で見た、だから間違いない」その見たことが、冤罪や、真犯人の微笑みのもとになる場合があります。

人間がいくら頑張っても、見ることのできる範囲は、宇宙のできごとの一割にも満たないと言う人もいます。

「見る」ということは、ものごとを「確定」できず、ほとんど「暫定」に過ぎないようです。
「見えた」と思ったとたん、その意識の壁に遮られる部分が観えなくなっているかもしれません。

百聞は一見にしかず、百見は一Xにしかず。
Xは、さて何でしょうか。

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負けて騒がれる力士はひとりだけ

2014年01月21日 | つぶやきの壺焼

負けたとき、ファンがっかりするうちは、まだ大力士ではありません。
負けたとき、ファンから拍手が来るぐらいになれば、強さは本ものと言えるでしょう。

相撲界は不思議な集団で、強さが何人かに吸収されて集まります。
全体が底上げされて水準が上がればよいのですが、なかなかそうはいかないようです。

強さが5~6人に集まると、俄然活気を増すはずですが、今のところは1人に吸収されてしまっています。
双葉山に次ぐ天才横綱白鵬を、12勝3敗ぐらいにまで追い込んで困惑させるようにならなければ、相撲らしくありません。
加齢を待っているのでは、水準は下がる一方です。

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何食わぬ顔が立派に見える

2014年01月20日 | つぶやきの壺焼

七連敗の後、貴重な一勝を得てもあたり前のような顔をしている力士もいれば、勝って次の力士に水をつけるまでの間、痛くてたまらないとしきりに顔をしかめる人もいます。
力士の性格は取り終わった後にあらわれます。

力士という名で呼ばれるならば、強さがいちばんの見せどころ、弱さチャラさは格を下げます。

相撲に限らず、カメラにつかまったとき、立派に見えるのは「何食わぬ顔」です。
どんな荒業を見せても、直後に歪みが出ればそこで見透かされます。

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味のそれらしさ

2014年01月19日 | つぶやきの壺焼

 「にくらしい」という言葉は、「にく」の字で意味ががらりと変わります。
「憎」と「肉」、「憎」の場合には「憎らしい」が一つの言葉になっていますが、「肉らしい」は一つになりきれていない、「肉」と「らしい」との合わせものであるようです。

食べものは、それぞれの味の「それらしさ」がだいじなところです。
素材の味や香りを消したり変えたりしてしまうことを「味付け」と思う人が増えていくと、むやみに味が濃くなっていきます。

臭い肉や、全く味のない肉は、スパイスを利かせて濃い味をつけなければ食べられないでしょう。
食肉は牛、豚、鶏の三種類とも「それらしい」味を持ったものと、そうでなく淡白という表現もあてはまらない、味も素っ気もないものに分類されるようです。
本当は分類ではなく分布と言ったほうが正確なのですが、人間の生活様式が二極化しているように、食肉の味質も普通の味のものと無味のものが、分類と言いたくなるほど二極化してしまっています。
普通の味には美味い不味いが言えても、無味のものにはそれ自体の評価のしようがありません。美味い不味いは、つけた味の評価になってしまいます。

無味の素材の割合は、調味料を味方につけて、どんどん増えます。
人間の味覚が衰え、調味料が発達すれば、食品の素材は販売量だけを維持する方向に傾いていきます。
手近な店では、ラップの外側から目を凝らすしか選別の方法を許されない購買者は、味はそれらしいものには程遠く、形だけがそれらしい肉を買って帰るしかありません。
キッチンでは味のない肉の合わせものになる「味付け」材料が、今日はどんな奴がくるかと並んで待っています。

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いちばん上を眺めてみると:12:肉:4

2014年01月18日 | つぶやきの壺焼

古い言葉に日本三けいというのがありました。風景の美しいところの三景ですが、もう一つの日本三けいに食用鶏の三鶏があります。
比内地鶏、薩摩地鶏、名古屋コーチンがそう呼ばれます。いや一つ違うと言う人もいますがそれには触れません。
一番がどれかは決められません。決められないから三鶏にしておくのでしょう。

薩摩、名古屋は聞けばすぐ産地がわかりますが、比内は知らなければわかりません。
Googleの地図でも、「比内」だけでは「比内地鶏」を食べさせる店が検出されてしまいます。
「比内町」でようやく「秋田県大館市比内町」がわかりました。

比内町(ひないまち)は、秋田県北秋田郡にあった町が、田代町と一緒に大館市に編入され、大館市比内町となったところです。

秋田にも三鶏があって、長鳴きの声良鶏(こえよしどり)、美味で美麗の比内鶏、短気で闘鶏向きの金八鶏(きんぱどり)がそう呼ばれ、国や県の天然記念物に指定されています。
声良鶏は、これがまた新潟の蜀丸(とうまる)、高知の東天紅と並んで日本三大長鳴鶏と呼ばれています。
「とうまる」に「蜀」の字をあてているのはなぜでしょうか。だんだん話がずれていくので戻ります。

緯度順に最北の比内鶏は、天然記念物なので食べてはいけません。いえ、うそです。
天然記念物の純正「比内鶏」は、育て方が難しく、大量食用販売には向かないのでした。
そこで、アメリカ原産の身体強健な、赤褐色の卵を産むロードアイランドレッドの一代交雑種として生まれたのが「比内地鶏」です。

秋田 最高級比内地鶏正肉(1羽)約1kg 6,300円  100g 630円相当

豚より安価のようです。大きいものほど加工が厄介なためでしょうか。

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いちばん上を眺めてみると:11:肉:3

2014年01月17日 | つぶやきの壺焼

牛肉だけでは片手落ち、豚も並べてみなければ。

やはりスペイン産イベリコ豚でしょう。
スペイン産純血イベリコ豚 肩ロースブロック 2kg 14,210円  100g 710円相当
これなら、牛の狂価と比べればおとなしいものです。猛牛というのはあっても、猛豚は聞きませんから。

ヨーロッパの西の鼻先、豚の頭にどこか形の似ているイベリア半島で放牧され、ドングリ、牧草、球根植物、植物の根を食べて育つ豚ですから、歩くことを知らずにぶくぶく太るだけの豚とは比べものにならないでしょう。

格付けは体重増加率、一定期間にどれだけ肉と脂が増えたかで決まります。
モンタネーラという肥育放牧期間に 60%以上体重が増えたものが、「デ・ベジョータ」(De Bellota) という称号で認定されます。
ベジョータはドングリで、コロコロ太った豚とイメージが合います。

広島にも「どんぐりコロコロ豚」というのもあります。これはドングリを集めてきて食べさせるので、食わせものと言ってはひどいですが、食わせ地豚の感じです。それでも、豚舎育ちよりはずっとよいでしょう。
 ⇒ http://p.tl/LcVw
野外穀物飼育の「デ・セボ・デ・カンポ」(De Cebo de Campo) に相当するのでしょうか。


街路樹のマテバシイも、ただ実が落ちて腐っての繰り返しより、豚を連れてきて食べさせたらとふと思いましたが、後始末が大変です。
なんでも後始末がうまくいけば、原発即ゼロなどという夢放言も、あまり効き目がなくなるでしょう。

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