○○主義という言葉を見かけない日はない。
辺境の町のスーパーで売っている魚の種類より、主義の種類のほうが多いかもしれない。
今年新しく生まれた主義があっただろうかと、「主義」で検索してみたら、「正解主義」というのが最初に現れた。
「日本をダメにした正解主義から脱出する方法」__藤原和博対談
前編: http://diamond.jp/articles/-/29630
後編: http://diamond.jp/articles/-/29916
正解主義は、呼び名が耳新しいだけの、日本の教育業界に巣食った古臭いやり方なのだが、興味のある対談ではある。
しかし、ここで中身を取り上げていると話題がずっこけそうなので、あったというだけにしておこう。
さて、主義さまざまを言い始めるときりがないので、ここで主義とは何だと総括してしまうことにする。
考えてみると、主義とは欲望の表現形式であったように思う。
こうありたい、あらねばならぬ、は欲望である。
近頃あまり聞かれなくなった主義主張の自由などという言葉もあるように、主義の持ち方は自由、つまり欲望の持ち方は自由というわけである。
中には、主張が用意されてない主義、店の看板だけ掲げて売るものがない、なんだそれと言いたくなるのもある。
主義とは欲望だと思い始めると、○○主義と名づけられたことどもに、品格を伴わないものが多いのに気づく。
それもそのはず、○○主義という呼び方は、その欲望を持った人々への揶揄、さげすみに用いられることしばしばなのである。
この世でいちばん上等と思われ続けてきた民主主義にしてからが、むやみに等しくありたいという欲望、面倒なことは数で審判という便法の代名詞であったり、それを唱える人のふてぶてしい顔を見せられたりするとき、やはり品格とは程遠いものを感じてしまう。
あなたの考えは○○主義だ、お前は○○主義者か、そう言われると、○○にどんな字を当てはめてもいい気持ちはしないものである。
ことによると、主義という名には、欲望への鉄槌のエネルギーが秘められているのかもしれない。
それも、欲望を持ったものが鉄槌を食らうという、自壊自爆のエネルギーとしてである。