・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

冷観・暖感ノート:19

2017年10月31日 | つぶやきの壺焼

頭のゴミ.2 ▼憲法は不滅の大典か
 どこかの国から変えなさいと要求されなければ、憲法は変えてはならないものと、信じ込んでしまっている人はいませんか。

いまの日本国憲法は、ある国の人からこう決めなさいと要求されて、その場しのぎにとりあえず書き上げられたものなのです。
全文をゆっくり読んでみれば、文字は日本の漢字とかなで書かれていますが、日本語で考えられたものではなく、まことに残念ながら、あまり上等でない翻訳文であることはすぐわかります。

出来の悪いかつらは、頭に載せていても恥ずかしいものです。
何十年か"愛用しているという認識もなく"被り続けていた歪なかつらは、まず"取り換える"という気持ちにならなければ、世界のどこに向けても大きな顔はできません。

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冷観・暖感ノート:18

2017年10月30日 | つぶやきの壺焼

考える宿題には、頭も心も、整理整頓されなければなりません。
まず始めは大掃除ということになります。
大掃除は、必要なものをわかりやすい置き場所に置き直し、必要ではないかと思いながら使われずに置きっぱなしになっていたものを捨て去る作業です。

頭の中には、ゴミは一つもありませんという、立派な人もいるかもしれません。
ところが、自分ではないつもりでも、気付かないところにもぐりこんでいるゴミもあります。

ゴミは、いつも見ている方法だけでは見つけられません。
見たくないものは見ない、見なければふだんは見えないというのは、ほぼ共通の状況でしょう。

どう考えても捨て去ったほうがよいゴミには、どんなものがありそうか、まずそこから考えていくことにしましょう。

頭のゴミ.1 ▼国が敵という狂信
 自分の住んでいる国が、どこかから攻め寄ってきた敵のようなものだと、信じ込んでしまっている人はいませんか。

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冷観・暖感ノート:17

2017年10月29日 | つぶやきの壺焼

考える宿題には、自分がそのことを考えなければ答えは出ません。
Web で検索して、どこかから言葉だけを寄せ集めたコピペ回答では、学校の先生に出される「憲法が変わったとき、そのことをどう教えるか」という問題の答えにはなりません。

低学年の頃から大学受験までに、さらに運の悪い人は大学に行くようになってもまだ続いた長い間に、頭の中に沁み込んだカスが、固まって洗い流せない人がいます。
そのカスには、"国が敵"という狂ったカスのようなものさえあります。

なにしろ大型の宿題ですから、軽い頭でちょっと考えただけでは、本当の答えは出ません。
頭も心も、まず大掃除から始めなければならないでしょう。

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冷観・暖感ノート:16

2017年10月28日 | つぶやきの壺焼

宿題は、学生生徒に出されるとは限りません。
学校の先生にも。大きな宿題が待っています。

憲法が変わったとき、そのことをどう教えるか、これは学校の先生方一人ひとりへの逃げられない大きな宿題です。
変えさせるつもりはないから、そんなことは考えないなどと言って、体をかわすわけにはいきません。
夏休みの宿題のように、誰かにやってもらうわけにもいきません。
宿題が嫌だから憲法を変えるのには反対とも言えません。

この宿題に向き合えない人は、先生の仕事を返上しなければならないでしょう。

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冷観・暖感ノート:15

2017年10月27日 | つぶやきの壺焼

低学年では、学校の先生の言うことに疑問を持つ生徒はほとんどいません。
生まれつきと、それまでの生育環境にも恵まれた、素直なよい子であればあるほど、学校の先生の教えを疑いなく吸収します。
疑いを持たれずに頭に入りこんで固まったことは、のちに頭の大掃除の機会がなければ、いつまでもそこにこびりつきます。
もし学校の先生が世のためにならない変なことを教え、だいじなことを教えなかったら、そういう壊れた頭が出来上がります。

相対で話をすれば、どうみても悪人はでない、しかし頭の壊れた善人がいます。
こういう人が数多くなれば、その社会はだんだん壊れていきます。


学校の先生がどういうことを教えているのかを監察する仕事は行われているのでしょうか。

文部科学省のホームページで「教育監察」の検索をしたら、10年前の民間研究所による状況調査が紹介されていました。
「平成 19 年度 教育改革の推進のための総合的調査研究 教育振興に係る計画等に対する評価手法に関する状況調査」
こういうものを作っている人たちの頭も壊れているのではないかと心細くなるような標題です。

総務省には、「H4.11.18 義務教育諸学校等に関する行政監察の結果に基づく勧告について」というものがありましたが、これがなんと大学を卒業して世の中に出ている人がまだ生まれてなかったときに行われ、それ以来知らん顔のようなのです。

10年も20年も、教育が監察を受けない野放し状態、これで「この国を、守り抜く」ことができるのでしょうか。

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冷観・暖感ノート:14

2017年10月26日 | つぶやきの壺焼

子供を善人に育てるか、悪人に育てるかと問われれば、悪人にしたいという人はごく稀でしょう。

子供が育つ場は、家庭、社会、学校という三つの環境です。
この三つの環境には、互いにちぐはぐなところがあって、子供はそのちぐはぐさの中で葛藤を引きづりながら育ちます。

子供を善人に育てるという大まかなところでは一致していても、やはりちぐはぐさは消えません。
育つ場の主要部分とも言える学校と、望ましい社会とでは、求められる善人の質に食い違いができてしまっているからです。

いま学校教育は、世のためになる善人を育てようとしているでしょうか。
学校教育の関係者は「もちろんそうだ」と答えるでしょう。

しかし、学校での成績が抜群で楽々上級の学校に進んだ人でも、世の中のためにならない善人になってしまうことがあります。
なんでそうなるのでしょうか?

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冷観・暖感ノート:13

2017年10月25日 | つぶやきの壺焼

夫は何も知らない。
これは、ブログ村でいまいちばん注目されている記事だそうです。
何も知らずに、夢中になって働いている善人の夫が多いのか、それとも・・・、このそれとものほうは、あまり考えたくありません。

善人は、自分のためにも家族のためにも世のためにもなると思うことを進んでします。
いや、何かをするときに、何のためともいちいち考えてはいないでしょう。

善人になるかどうかは、生まれ育ちの条件によります。
とりわけ育ち方の条件が大きく影響します。
貧富も、生活環境もあまり関係はありません。

生まれはどうにもならなくても、育ち方は生まれてからのことですから、変えることができます。
これによって、世のためになる善人と、そうでない善人ができあがります。

さて、いま私たち大人は、子や孫たちをどういう人に育てようとしているのでしょうか?

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冷観・暖感ノート:12

2017年10月24日 | つぶやきの壺焼

猫グッズが大流行したことがあります。
35年前のナメ猫です。

選挙に敗れ、「言葉を仕事にしてきただけに注意すべきだった」という感想を述べた人がいます。
発言がまずかったけれど、してきたことに誤りはなかったと、反省よりも言い訳け性の強い発言です。
裏返せば、言葉に気をつけさえすれば、これでいけそうということなのでしょう。

都民はなめられています。
また何かひっくり返されないよう、どうぞお気をつけください。

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冷観・暖感ノート:11

2017年10月23日 | つぶやきの壺焼

犬には癌を嗅ぎ分ける能力があるそうです。

国会議員の選挙結果に、どうやら有権者の嗅ぎ分け能力が現れたようです。

当選した後にどういう行動をするか、それを嗅ぎ分けて有権者は投票に臨みます。
候補者の未来の行動は、予告編ではわかりませんから、有権者には実際を見て判断するのではなく、「嗅ぎ分け」るしか手がありません。

有権者に嗅ぎ分けのできない人が増えたときには、何年か前に実態が現れたとおり、国民はひどい目にあいます。
犬の嗅ぎわけは鼻を近づけて行いますが、人には人の、先端技術を使う方法が何かありそうです。
特殊電磁波でスキャンして、被験者の未来行動をA I で予測する装置を開発してほしいと思います。

その装置にかけるには、被験者にはジンケンを一時棚上げしてもらわなくてはなりません。
そもそも自分自身のジンケンをまっ先に振りかざすような人は、国会議員にはなってもらいたくないのです。

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冷観・暖感ノート:10

2017年10月22日 | つぶやきの壺焼

主語が必要と言われます。
主語がないから言っていることが駄目という、奇妙な判定法もあります。
ある民族の言葉には、それがないと構文が成り立たないという"文法"が作られてしまっているからでしょう。

言葉の形を整えたいと思う人は、「私は」とまず主語をはっきり言うことに心掛けます。
新聞に載る機会があれば、翻訳されやすい形にしておきたいという計算をしているかどうかはわかりません。

ちょっとあらたまった話になると、とにかく「私は」で始めることを習慣にしている人がいます。
話すことの切れ目にも、「私は」が割り込みます。
ところが、「私は」のあとに続く言葉は、ひとの噂や受け売りばかりで、その人が何を考えているのか、何をしようとしているのかは、何もはっきりしません。

むかし、大臣という職にある人の国会での発言にも、そういうのがありました。
それを見てから、TVの国会中継録画は、見る気がしなくなりました。

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冷観・暖感ノート:9

2017年10月21日 | つぶやきの壺焼

政治信条はと問われて、借りものの言葉を並べるだけの人がいます。

これが大義と言われれば、それに従って信念を曲げますかと問われ、むにゃむにゃと答えない人がいます。

当選した後も考えは変えませんかと問われて、選挙の結果をみなければわからないという人がいます。


こういう人たちに、日本の未来を預けられますか

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冷観・暖感ノート:8

2017年10月20日 | つぶやきの壺焼

健康第一、明るさこの上なし、そういう人との付き合いは、相手への気遣いがいらないので楽です。


ただ、政治の場に立ったとき、明るく健康でも、何を考えているのか、何か考えているのか、そんな想像も受け付けないような人は、いかがなものでしょうか。


明るさも、健康も、周りを喜ばすことも、その人のもので一代限り、そのまま引き継がれることはありません。

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冷観・暖感ノート:7

2017年10月19日 | つぶやきの壺焼

選挙期日が迫ると、ニュースは票読みに明けくれます。
ただ議席を得たいというだけの、自分持ちの政策がまったくない候補者は、風向きを気にするしかなくなります。


比例でも何とかぶら下がれば、何年かは食いつなげる、頭の中を駆け巡る未来は風まかせ、風の神よお助けくださいと祈るばかりの幾日かが続きます。

気の毒だから一票進呈などと、こういう風読み人に、ゆめゆめ仏ごころをさし向けてはいけません。

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冷観・暖感ノート:6

2017年10月18日 | つぶやきの壺焼

敵対好きも、家の中であれば「しょうがないな」と言われるだけで済みます。
小さなグループの中では、またかと笑われる程度で済むでしょう。
これが、国のことともなれば、笑っては済まされません。

対立がなければ健全を保てないということをよく耳にしますが、その人は対立依存症なのではないかと思います。

喧嘩の繰り返しを日常にして育ってきた人は、対立、対抗を好む性格になるのでしょう。
侵略による建国の歴史をもつ国の人は、対立する国がないとおさまりがつかないかもしれません。

しかし、生まれ育った国を対抗の相手に見立て、自分の国を悪しざまにののしり、破壊に導く行動を続ける政党が、国会に議員を送り出す、そんなむちゃくちゃな現象が何十年も続いている国があって、そこに自分が住んでいることをあらためて思うと、窓の外で鳴くカラスの声にも、バカにされているような哀れな気持ちになります。

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冷観・暖感ノート:5

2017年10月17日 | つぶやきの壺焼

対抗する相手がいないと、何もものを言えない人がいます。

その人は、自分が何をするか、どうするかは、なかなか口にしません。

自分では何もできませんとは、言いにくいからです。


相手が悪人であるかのように言い募る人は、自分が善人として認められるだろうという錯覚に陥っているか、または自分がのし上がろうという下手な策略を弄しているか、あるいはひとにも周りにもまったく無頓着の蹴倒し癖があるかのいずれかでしょう。

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