選挙の票の数え直しは、無駄仕事の代表のように思っていました。
ところが、数え直しの結果、無効票が有効票に混ざって数えられていたのを見つけたことがあったそうです。
その無効票には、ハトのマークが1票、別の候補者の投票が1票混ざっていました。
2票の無効は、投票者の書き間違いが原因ではなかったのです。
自書式選挙がよくないという理屈もあるようですが、この選挙で起きた間違いは、書かせることではなく、判定の厳密性にあったのです。
選挙管理は、ホイしまった間違えた、人間のすることには間違いもあるさではすまされません。
管理不備を投票方法のせいにすり替えて報道させ、聞きとったままそれを伝えるという、立場安定至上主義の機構のままでは、電子投票などまだまだと言わなければなりません。
電子投票では、投票、集計が便利になっても、選挙管理そのものを管理できなくなってしまうからです。
自動車事故の原因の多くはBS-Aにありと見ました。
ボケかセッカチがアワテて引き起こすのです。
車両走行にも郷のならわしがあって、「茨城ダッシュ」「伊予の早曲がり」「松本走り」などと名前まで付いているそうです。
他の地からの訪問車は、あわてずに郷に従っていれば事故を起こさないのかもしれません。
ただ、それを感じ取るまでに経験と時間がかかるので、車列の先頭には出られないでしょう。
日本の車両ナンバープレートに地域名がなぜ必要なのか、なんとなくわかってきました。
通りすがりか、訪れたのか、他の郷の車を見たら、ならわしを知らないから気をつけようという目印かと思うのですが。
郷で困ることが一つあります。
よその国からやってきた人たちがとんでもない郷をつくって、もともとの郷が追い出されてしまうことです。
まだ着られるどころか、一度でも袖を通したのだろうかと思うような衣服が、リサイクル品に出されているという話を聞きます。
出した人は、手に入れたとき、それが欲しかったのではなく、買う楽しみを味わいたかったのでしょう。
買ったものがたまってくると、それが目障りになります。
詰め込まれたものがなくなれば、さっぱり感を味わえます。
ゴチャゴチャあったものが目の前から消える、これはまさに快感です。
羽のない扇風機、耳に差し込まないイヤホン、次はハンドルのない自動車でしょうか。
先の見通せないとき
暴走をはじめる狂気は別として
危険なのは 止まってしまうこと
走るのをやめれば 追突を避けらない
ゆっくり 走り続け
走りながら 霧の晴れるのを待つ
走り方を変えてみるなど
とんでもない
税制を変えてみるなど
とんでもない
「げんつき」という乗り物がありました。
原動機付き自転車の略称、原付ですが、ここはその話ではありません。
制限付き研究という、一見学術的な行為があります。
研究の意味が研究費獲得だけにありそうなケンキューです。
そのケンキューには、領域と理論の制限がついています。
制限を守らない人は、仲間に入れてもらえません。
この領域内でこういう方法でという制限付きのかたちがあって、目指す結果は合格のみ、自動車学校に似ています。
ある大学院では、軍事研究ではないかと疑われそうなことは、ケンキューの領域に入れられません。
防衛大学の卒業生は、受け入れを拒否されていたと聞きます。
法理論では、権威とされる大先生の理論を覚え込まされ、それに異を唱えない人だけが受け入れられるというところもあったと聞きます。
そのケンキュー機関は、老舗のしきたりがなくなる世代交代の時期が来なければ、本来の研究ができるところにはならないようです。
そこから巣立った人は、政治、行政の場に散らばって、重要な職に就きます。
学校教育に異様な限付きケンキュー思想が浸透していることを考えると、望ましい世代交代の効果があらわれる時期は、いつくるのかをかりません。
異端な国から覇権の波が押し寄せる時期と、どちらが先なのか、空恐ろしい思いが、表を走るバイクの音のように、背中を吹き抜けていきます。
ドローンは遊びごとを装った、最も危険なスパイ用具になりました。
基地上空の飛行禁止を、報道の自由阻害などとバカ丸出しのことを言う議員もいますが、そんなのは論外で、すべてのドローンには登録制が必要です。
未登録機、登録外機は無条件で回収し、飛行禁止処理が施されるようにしましょう。
これらの仕事に天下り役員はいりません。
すべて自衛隊で電子処理をすればよいのです。
北海道北端の東側猿払村の沖にある小島が浸食消失したのではないかと報じられています。
その島がなくなると、領海が約500メートル狭くなるから心配というのですが、ほかの場所では、領海侵犯があっても放置に近い状態監視しかできないようになっているのに、領海の狭まることが問題と、地図上のことだけを報ずるのには、どういう意味があるのでしょう。
もし漁業に影響があるなら、その実態が知らされなければなりません。
それが知らされれば、ほかの大きな実害を受けているところの漁師さんも、きっと黙ってはいません。
急いで打たなければならない手だてが、領海域減少の心配などより先にあると思うのですが、そちらのほうは黙って見ていろということなのでしょうか。
法を信ずることは、だいじなことです。
すべての人が法を信ずるには、法が信ずるに足るものでなければなりません。
もし、かりそめの世迷いごとのようなことが、かりそめにも法に書かれていたら、それを信ずることはできません。
法を信ずるとは、それに基づいた裁きを受け入れるということです。
法は受け入れるものであって、頼りにするものでも、おしいただくものでもありません。
法典は、信じながら頼りにしおしいただく経典とは違う、と思っています。
ニュース番組でこんなことがありました。
政治家にもなかなか目を覚まさない人がいるので、そういう人を訪ねて憲法改正の必要性を説いて回っているという投稿メールが紹介され、賞賛されていたのです。
投稿された方は立派です、行動も立派です。
賞賛する解説者も司会者も立派です。
ほかの解説者にも、政治家の事務所を訪ね歩いて考えを糺すのが、いま国民にできることだと力説する人がいます。
確かにそう、それでも、話は逆ではありませんか。
政治家の役目ってのは、いったい何でしょう。
ふと気付きました、逆説には、説き明かすことがらの反対のことや、真理に反する言説のなかの真理とは別に、言説の流れの方向が逆という奇種もあったようです。
公園には役割がいろいろあります。
遊ぶところの公園と、遊ばずに静かにしているところの公園は、役割が違います。
一つひとつの公園が、役割のすべてを受け持つことはできません。
遊ぶところでは、遊びに夢中になれる環境が必要です。
遊具など遊ぶことに直接かかわるものだけのことでは、遊ぶ人の安全を保つことはできません。
車の通る道路に近ければ、車道と公園との間のどこかに、暴走車を食い止める施設がなければなりません。
ここの公園の管理者は公園の施設だけ、道路の管理者は道路の施設だけにしか、安心して遊べる環境について、たぶん考えが及んでなかったのでしょう。
行政に縦割りの区分があると、そこで仕事をする人まで、区分に合わせて脳を縦割りにしたかのような頭の使い方になってしまいます。
くさり一本では、車道から公園の砂場へ乱入する車は防げないという、ごく当たり前のことにどちらの管理者も気づいてなかったようなのです。
都市公園法という法律があります。
その運用指針には、次のように住民一人当たりの都市公園面積の標準が示されています。
市町村の全区域及び市街地における住民一人当たりの都市公園面積の標準について、従来示していた標準のとおり、それぞれ「10㎡以上」、「5㎡以上」を参酌すべき基準として定めている。この住民一人当たりの都市公園の敷地面積の標準10㎡という値については、あくまでも現実性を踏まえた途中段階の目標値としての性格を有しており、10㎡を達成しても豊かさと潤いを実感できる国民生活を実現するためには、さらに整備を推進する必要があることから10㎡以上としているものである。
数値で表しやすいことがらは、基準も決めやすく、行政の業績も認められやすいでしょう。
住民一人当たりの都市公園面積なども、目標と達成率がすぐ計算に乗り、管理気分を満たしてくれます。
つい先日も、ボケ爺さんが道路近くの公園に車を乗り入れた事故が起きましたが、公園の面積総計が増えると、こういう事故の発生率が増えそうで、肝心なところに手落ちがあるような気がしてきました。
面積増加と一緒に考えなければならない何かがありそうです。