秋も終わる。
細く長く伸びる植物は、陽に当たるより、風に当たりたいのではないか。
曲がりっぱなしにならない。
風で折れてしまうこともない。
風当たりは、さし当たり苦にはなるが、種を遠くに飛ばすことができる。
風当たりを恐れて、いつも物陰に回っていては、そのうち陽も当たらなくなる。
秋も終わる。
細く長く伸びる植物は、陽に当たるより、風に当たりたいのではないか。
曲がりっぱなしにならない。
風で折れてしまうこともない。
風当たりは、さし当たり苦にはなるが、種を遠くに飛ばすことができる。
風当たりを恐れて、いつも物陰に回っていては、そのうち陽も当たらなくなる。
タンポポは春の花と思っていたら、冬間近にも咲いている。
これはタンポポではない、○○だ、と佳い名前を教えてもらえそうな人と話をしてみたい。
秋のタンポポは、さすがに群れては咲かない。
時節はずれに木に咲く花は、狂い咲きとも呼ばれるが、草花はそうは呼ばれない。
なぜか。それから先はまた爺ギャグになるから書かずにおくが身のため。
一つ残す、鳥たちへの心遣い。
毎年秋には、どこかで似た風景にお目にかかる。
海の向こうの人たちには、こういうことができるだろうか。
生きものを見れば獲って食うことしか考えない人たちは、多分思いつきもしないだろう。
リサイクルは、対象にはっきり形で見えるモノが多いので、アイデアの鉱脈に突き当たりやすい。
捨て場に困ると、捨てずにすませる方法を考える。
底に穴のあいた容器形のものには草花を植えたくなる。
大型になると見た目は立派だが、後の扱いが厄介になる。
いったん雑草を生やしてしまうと、土をそっくり入れ替えなければならなくなり、手を出しにくくなる。
そうなると、ひっくり返してやろうかと思いつく勇者も現れる。
酔った勢いで手はかかったが、そのときギクッときたのではないか。
花が絶えるとマッサージ師が儲かると、誰かが言っていたようだ。
会館の玄関前、拡張歩道の端に植木鉢がいくつか置いてある。
トラの模様テープが、あまり目立たないように巻いてある。
車両乗り上げ禁止標識の意図はこれで十分。
文字よりも感じのよい標識、こりすぎて変な日本語を書くより、ずっとこの方がよい。
風の日の駐輪場、利用者の仕事が増える。
さっと来てさっと乗っていこうと思っていても、倒れた下側になっているとそうはいかない。
数の少ないところはよいが、駅前のずらっと並んでいるところで将棋倒しになった列の最後のほうに自分の自転車があったら一苦労。
面倒がって誰かがごちゃごちゃにして行ったらあとならなお大変。
そういう場に臨んで微笑みながら片付けのできる人は、よほど心の広い人か、その日によほど佳いことがあった人だろう。
ふと思った。
外国には、国技館と駐輪場はないのではないか。
小分けして売っているヨーグルトの入れものにちょっと変わった形のものがある。
昔からあったヨーグルト瓶を縮めたような形をしている。
あのころは牛乳屋さんが事務所まで毎日やってきて、取り決めどおりの牛乳かヨーグルトかを、机の上に順に配ってくれた。
この部屋の誰は毎日何を飲むか、食べるか、みな頭に入っている。帳面やメモなど見ない。そんなものを見なければできないようではあの商売はやっていられなかったのだろう。
配っている途中で、あ、わたしにも牛乳一本などと臨時の注文が出る。それはそれで待っていてくださいなどとは言わない。臨時の注文の人からはその場で現金を受け取り、定期購入者は月払い。定期の人がもう一本と言ってもその場で金は受け取らない。
品物の扱いも、代金の扱いも、みな記憶と暗算で済ませていた。
それが普通だったから、感心もしなかったが、今考えるとあのおじさんたちはずいぶん頭がよかったのだと思う。
何か催しのときに、メモを読みながらでないと挨拶もできない人が増えたようだが、何でも外部記憶装置頼りの日常生活をしていると、記憶能力はますます衰えていくだろう。
ヨーグルトの瓶の頭の形が話の種のつもりだったのに、人間の頭の働きの話になってしまった。
駅の階段の下にあった売店が、あるときに撤退してしまった。
そこでものを買ったことも、覗いたこともなかったので、まったく不便を感じないが、その場所の近くに看板のついた傘立てが、いま置いてある。
電車を降りて雨が降っていたら使ったくださいという、近頃珍しい心遣い。
毎日外に出ていたころは、傘がたまって、壊れたものから捨てていたが、壊れてよいものはなかなか丈夫で困っていた。
こういうことなら、どの駅でもできそうだが、見たのは初めて。
いつだったか、箱根のホテルの入り口にビニール傘を立てておいたら、翌朝までに蒸発、まだ降り続いていた雨に、駐車場まで駆け足をさせられたことがあった。
新品同様でも、どこにもある安傘だから、ホテルの備え付けと思って持って行ったのかもしれないが、それでも返しておくのが面倒だからはずうずうしいではないか。
通りすがりに見つけたものは何でも自分のものにしてしまう親を見習ってか、小学生のころについてしまった習慣か。
こういうものの扱い方で形成される集団の特性が民度なのだろう。
物を捨てることは、自然を食いつぶすことになる。
作る過程で自然から掠奪し、捨てればそれが自然を破壊する、二重の罪、重罪を犯しながら人間は生きている。
始めの罪と終わりの罪の、その合間に、せめての罪滅ぼし、それがリサイクル。
動き出さないよう、放射状に縄を張る。
生き物でない場合は、そうしないとどちらかにずれていく。
西部劇で、馬を待たせておくのに、横に流した丸太にくるっと一回り縄をからげるだけの仕草が、なんとも不思議だった。
急いでその場を発つときに、がっちり縛り付けてあったのでは遅れをとるからだとは思うのだが、馬はそれを解こうとはせず、他の人が連れ去ることもなかったのか。
からげた縄を解いてどこかに行ってしまうような馬、主人と違う人間に見分けのつかない馬は使いものにならなかったのか。
傘立てからひとの傘をだまって抜き取ってさしていってしまういまの人間は、西部劇時代のカウボーイたちより倫理感覚が鈍ってしまっているのだ。
いや馬よりトロいのかもしれない。
駅のホームに置いてあったゴミ箱と灰皿が、いつの間にか消えてなくなった。
テロ対策という大義名分が用意されたので、乗客の便不便と、回収清掃の費用をはかりにかけ、ないほうがよいという判定を下したのだろう。
自動販売機の脇の容器回収箱は、利用者の購買意欲にかかわるので、駅のゴミ箱とは条件が違う。だからなくすわけにいかない。
入れ物はなければ不便だが、回収を怠ればすぐ一杯になる。
売るものを入れて売り上げを回収するついでに、箱も空にして掃除すれば、回収物品の運送コストはゼロになるのだが、思いついてもやめておく理由はすぐ見つかるから、そうしようという気にはなかなかならないらしい。
窓には内から外に向けて効用のある窓と、外から内に向けて効用のある窓とがある。
部屋の中から外を眺める窓、明かりを取り入れる窓が内から外、しゃれた窓だなと見せるためだけの窓が外から内。
開く窓と、開かない窓もあって、その両方に内から外、外から内がある。
同じ壁面に並んでついていながら、種類の違うのもある。
心の窓もそうだ。
それに心の窓は、TPOの関数であることが多い。
建物の壁の窓より、心の窓のほうが、えてして開閉操作に手間がかかる。
表示には合図用と告知用がある。
合図用は、それを見てわかる必要のある人だけにわかりやすく、間違いにくければよいので、一般人には意味がわからない。
だが、意味がわからいものは、やたら気になる。
ホーム下の線路にある表示も、連結車両数はわかるが、斜めの板に書かれた数字の意味は、じっと見ていてもわからない。
運転手の交代する駅なら、ホームで待っている間に聞いてみるなど、いろいろ手もあるが、どうしても知りたいわけではないから、そういう機会をわざわざ作ろうとはしない。
知ったところで、それをどうするということがなければ、あえて知る必要もない。
知らないほうが考える楽しみが減らなくてよいのだ。
積年という言葉は、そのあとに恨みごとを連想させるので、あまり気分のよいものではない。
だが、いったいなぜこれほどまでにという状況を目の前にすると、ついこの言葉を思い浮かべてしまう。
川べりの立ち木はだいじにしたい。しかし、人が飛び込むと厄介だから、岸に柵は作りたい。
何十年か前に、とりあえず双方の顔を立てておいたら、こうなってしまった。
もう何十年か先には、天然記念物ではなく、自然/人口記念物になりそうだ。
作ろうと思って簡単にできるものではないから、切らないでほしい。