昨年暮に道で見かけた、別の光景を連想させるような吹き溜まり。
連想には勇気か暢気か、何かしらの思いがいる。
このあたりでは、椎の実が落ちているのも珍しくなく、拾い集める人もいないらしい。
これが土の上なら、一箇所にかたまってしまうこともなく、落ちたところに適当に散らばって、また次の役目を果たせる。
舗装道路のわずかなくぼみに集まったのでは、そこで朽ち果てるしかない。
今年は、もう少し早めに行ってみよう。
のれんにするほど拾えなくてもよいから。
昨年暮に道で見かけた、別の光景を連想させるような吹き溜まり。
連想には勇気か暢気か、何かしらの思いがいる。
このあたりでは、椎の実が落ちているのも珍しくなく、拾い集める人もいないらしい。
これが土の上なら、一箇所にかたまってしまうこともなく、落ちたところに適当に散らばって、また次の役目を果たせる。
舗装道路のわずかなくぼみに集まったのでは、そこで朽ち果てるしかない。
今年は、もう少し早めに行ってみよう。
のれんにするほど拾えなくてもよいから。
ものの形もそうだが、ものの色も似ているとついカメラを向けたくなる。
剥げかかった門扉の色も、赤褐色の車の色も、どちらか一方だけでは目に付かないが、同じような色の別のものが一度に視野に入ってくると、何かを感じる。
その何かに意味はない。
人間は、比べても意味のないものを比べてみたがる。
出自も、生活環境も、己のものは己のものとして受け入れるしかなく、比べることにほとんど意味はない。
この種の無意味な対比から生み出されるのは、とかく争いごとの種になるような嫉妬の感情がほとんどである。
だが、色を比べることは、罪のない遊びにはなる。
色比べが仕事だという人もいるが、ひとの遊びの手伝いだから、やはり遊びだろう。
そういうのは遊び仕事とでもいうのか。
形の似たものが一度に視野に入ってくると、似ているように見たくなる。
見る人によっては、ぜんぜん似て見えない。
そうは見たくない場合にも、似ているように見えることもある。
現実と無関係の、幽霊がその代表。
まったく無関係のことを結びつけた筋書きは、ドラマ作家の仕事や、ブログの種にはなっても、政治家や司法当局がそれを利用したりこだわり始めたりすると、社会に不幸の種を撒き散らす。
無関係の人を自転車泥棒に仕立てて話を作り上げ、微罪だからと罰には処さないことにし、それから何か生み出そうとするおかしな人間も出てくる。
そんなことからは何も生まれないではないかと思うと、そうでもない。
ある人々のために、ある場合にはだいじな、検挙の成績という数字になる。
悪の敵を任ずるはずだった人も、こういうことは悪とは無関係と思ってのことか。
せっかく頭を使うのなら、もう少しましな使い方があると思うのだが。
崖面には、土を支える働きをしない場所がある。
そこでは、小さな植物を迎え入れる別の仕事をしている。
生きものは、小さいものほどしたたかのようだ。
崖っぷちに追い詰められても、種がこぼれ落ちる途中で、どこかに綿毛が引っ掛かれば、そこで花を咲かせる。
ひ弱く見えるものほど、生き延びることには強そうである。
浮遊物は寄り集まる。
集まって、絡み合って、一つの物に見えるようになる。
群集のありさまと、どこか似ている。
集合物というだけでそれ自体に力はない。
浜辺に浮遊物がうち揚げられている。
そそっかしいのか鷹揚なのかわからない鯨などは、がぶっと飲み込んでしまうこともあるだろう。
ナガスクジラのような大きな図体をしていると、口に入るものなら何でもと、大食を続ける。泳ぎまわる海域に、人間のだらしなさをそのまま浮かべて寄り集まった浮遊物があれば、いつしか腹の中はゴミの埋立地と同じようになってしまう。
苦しくなって東京湾岸にたどり着いても、クジラには救急車は来ない。
本当にクジラ愛護しようというなら、捕鯨の妨げよりも海洋浮遊物の除去にでも力を入れたほうがよい。
騒ぎまわることが仕事のグループは、生簀の網を切り裂いたり、ひとの船に向かって威嚇弾を発射したり、そんな行為が海の浮遊物を増やすことになるとは考えないだろう。
海を汚しながら海洋生物愛護とは矛盾滅裂、脳みそも廃棄寸前ではないか。
持ち物には、その場限りの楽しみのお相手のようなものもあれば、永い年月にわたって付き合うものもある。
永く持つものにも、道具として使うものや、趣向品、装飾品として楽しむものがあるが、持ち物としての寿命は、やはり道具がいちばん長いだろう。
道具には、自分の一部としていとおしく思う持ち主の感情が染み付いてくる。
もし、人が自らの手で何もしなければ、道具という言葉すら忘れてしまうだろう。
現代人には、その言葉を知らずに育っている人もいる。
話をしたこともない人の名を覚え難いのと同様に、使わないものの名前は覚えない。
浜辺にやや大型の木が寝ている。近くを歩いても、足を止めて見るのは犬だけ。
何年か前までは、海に出て行く舟を送り出したり、帰ってきた舟を迎え入れたりする道具として働いた物だと思う。
こういう物にも名前はあったはずだが、使う人がいなくなれば、名前も一緒に消えていく。
変わり果てた姿は残っても、役目を終われば名前が先になくなる。
何かの間違いで大役についてしまった人が、そこで名前を残そうと躍起になっても、国の勢いを盛りたてるような仕事は容易ではない。
あちらがだめならこちらと突付きまわっているうちに、国の未来を損ねてしまうような大間違いを仕出かすこともある。
自分が国民の道具でなければならないことに気づかず、反対に国民を道具に使いたがる。
道具ならまだしも、そんな人のその場限りの趣向品や装飾品代わりにされてはたまったものではない。
古くなったから捨てる。
それは時間軸にとらわれた行為である。
そのとき、物の寿命は無視されている。
余寿命や残存機能の有無には関係なく、陳腐化という名目だけが付されて捨てられる。
陳腐化とは、陳腐になった物の態様ではなく、陳腐であるかのように見たてるということだった。
人間は気ままな動物である。
人間は、自分の力で、あるいは仲間と力をあわせても運ぶことのできないものを、自分の所有物にする。
自分の手に負えないものを所有したがるのが、人間以外の動物との違いである。
人間のその欲求は、生産や生活に必要なものから遊び道具まで、広い範囲にわたっている。
なかでも、遊び道具は専有期間つまり持ち物としての寿命が短く、それを使った遊びに飽きればもっぱら次のものを使い、それまでのものは遊び場に放置される。
遊んだあとは親が片付けるものと習慣づけられて育った放置人は、片付けということを知らずに大人のような体と顔をもった人間になっている。
この舟は、ひと冬の間だけでなく、次の夏にも海に浮かばなかったのではないだろうか。
もう現れることのない持ち主を待つでもなく待たぬでもなく、ただ雨水を溜めて砂浜に横たわっている。
こうなると、風情は消え去る。
ただそこにあるというだけで、物好きな雑写人の目にとまることしか、この世に役割を持たない。
人は物を捨てるときれいになったと思う。
さっぱりした感じを喜ぶ。
捨てられた場所が、捨てられた物が、その先どうなっていくかは、考えないことにして捨てられる。
大量になった場合には、廃棄物、あるいは瓦礫などと取り扱い上の命名をして、場所の選定、公表はしても、捨てる行為を思い通りに進めるために、知られたくない明らかにしないことがらがある。
捨てる前に何をしなければならないか、捨てるときに必ず起きる拡散をどう抑えるか、捨てられた物がどう変わりどう移動していくかという肝心なことは、捨てる工程の効率と対立するから、ごく浅くしか考えを及ぼさない。
挙句の果てに、場所と捨てる行為の正当性だけが力説され強行される。
反対されるのはあたりまえ。
物を捨てられて喜ばせる方法、それが考えられたら環境大賞に値するだろう。
それだけではどうにもならないと思っても、それがなければ何もうまくいかない。
それが、元気。
たとえ見せ掛けでも、元気だけは、ないよりはずっとましだろう。
砂浜への降り口にこれが置いてあるので、近くを通るとすぐ目に付く。
前にも撮ったが、またカメラが向いてしまう。
ぐるぐる巻にされた姿が何かの象徴のように見える。
金融と財政が、ともにデフレ信奉の呪縛から抜け切れず、この不景気に増税などという、どう考えてもばかげた政策しか繰り出せない政治の姿に見える。
人間の目は勝手気ままである。
見たいようにものを見る。
現場百遍などと言っても、それが新しい事実を発見をするためでく、自分の思い込みに状況を巻き込んでしまうように見ていることもある。
そうでないという証明は、誰にもできない。
大根畑に巨大な大根が立てかけられている。
そうでないことはわかっていても、そう見たいという気になると、見えないこともない。
だいぶ無理があっても、見たいと思うと眼球が変形するらしい。
これでも立っていられる。
生きていられる。
去年の3月11日にも倒れなかった。
葉が繁って、頭が重いときならどうだったか。
そんなことはわからない。
ゆさぶるなら、頭の軽いときにしてくれ。
自分の撮った写真でも、サムネイルで見ると、おやこんな写真を撮ったかなと思うときがある。
畑に集めた大根葉で、ピラミッドができている。
この農家の方の造型感覚に賛辞を呈そうと、あらためて画面を大きくして見たら、ピラミッド形に見えたのは錯覚だった。
視角を変えると視覚が変わる。
そこにあると思ったピラミッドが消えてなくなっている。
事実を知ると消えてしまうのは、偽性のイリュージョンだそうである。
畑の大根葉ぐらいならよいが、もう少しだいじなところでは、偽性でないかどうか、よく見定めなければならない。
今年中には必ずそういうときが来るから、気をつけよう。