秋は茸の季節。
見たこともないような、しかし触ってみたいようなのも出てくる。
カエンタケというやけどをしそうな名前のキノコがあるが、猛毒だというから、素手で触らないように。
食べてみようかなど、とんでもない。
秋は茸の季節。
見たこともないような、しかし触ってみたいようなのも出てくる。
カエンタケというやけどをしそうな名前のキノコがあるが、猛毒だというから、素手で触らないように。
食べてみようかなど、とんでもない。
森林カーボンオフセットの話を続けよう。
森林がわからない人は、なぜ少ない順に林森ではいけないのかなどと疑問を抱く解析症しかいないが、カーボンオフセットは直感ではわからない。
ここで言うカーボンとは、元素に近い炭素のことかと思うが、炭のことではなかった。
むかしの炭を思い浮かべる。火鉢の炭を金火箸であっちへやったりこっちへやったりしていた祖母の手を思い出す。
汎用燃料だった炭は、ビンチョータンという「焼き売り」商売の広告材に変わった。
カーボント呼ぶのは炭ではなく、炭に火がついてそこから出るガス、炭酸ガスだった。
そのガスが増え過ぎて困るので、出なかったかのように御破算にしようというのがカーボンオフセットらしい。
植物は炭酸ガスを成長に利用する。大きな植物集団である森林は、炭酸ガスを吸い込んでくれる。森林を育てよう。それを森林カーボンオフセットと呼ぼう、ということになったようである。
それなら「林業」「営林」という言葉が昔からあるではないか。そう考えておしまいでは、事業が育たない。
林業は衰退産業という敗北感が先に立って、その呼び名のままではだめなのだ。
例の仕分けという名のオフセットマジックを巧く使えば、資金がうまい具合にオフセットされる。
そこで考え出されたのが、『人間の経済活動や生活などを通して「ある場所」で排出された二酸化炭素などの温室効果ガスを、植林・森林保護事業などによって「他の場所」で直接的、間接的に吸収しようとする考え方や活動の総称』としての森林カーボンオフセットだった。
所変われば品変わり、名前変わればカネ動くということ、天下を回らなければカネの価値はない。
貯めて腐らせずに、どんどんオフセットしよう。
森林オフセットという商売があるという。
森林をオフセットするのか、ずいぶん大変な事業ではないかと思った。
森林を隣の山に移して、眺めのよい元の山をリゾート開発にでも向けるのだろうか。
また生態系がかき回され、水の流れも変わってしまうではないか。そんなことを考えたが、大違いだったようである。
オフセットというのは、もともとは差引勘定のことで、基準値との差がどれくらいかという意味だった。
ホイールオフセットとやらで、車体側の取り付け面とホイールの中心面のずれを表す用語もある。この寸法によって走行性や安全性にどう影響があるのかは知らないが、凝る人もいるらしい。
オフセット印刷は、インクの付いた版と紙面とを直接触れさせずに中間転写体を介して印刷する方法で、ここでは値の差の概念はどこかに行ってしまい、位置をずらせることだけになっている。
このあたりが思い違いのもとになった。オフセットとは、ちょっとずらせるだけのことなのに、森林が隣の山へお引越しなどと思ってしまった。感覚ずれのオフセットだ。
森林オフセットは、森林カーボンオフセットと言わなければ、何をするのかつかむことはできなかったのだ。
話の道筋がオフセットされて、1回ではすまなくなってしまった。
続きは明日に送る。これはオフセットとは言わないのだろう。
職を辞するに当たり「やるだけのことはやった」と会見で述べたことが報じられる。
ずいぶんいい加減なことを言うものだと人は思う。
あとで録音放送を聞いてみれば、「やるべきことはやった」と言っている。
こんどは、ずいぶんいい加減なことを報じるものだと思う。
「べき」という口語体は報道記事向きではないから言葉を換えて書こうと、余計なことに知恵を回したつもりの記事が不信を濃くしてしまう。
「やるだけのこと」と「やるべきこと」と、何が違うのかとわざわざ説明するつもりもないが、書いた人は違わないつもりでも、読んだ者は違って受け取る。
報道記事は、一文字の入れ替わりや言葉の前後顛倒、空白のありなしで受け取る意味が違ってくる。
人の言ったことは、そのまま正確に伝えなければ、真実の報道にはならない。
そういう当たり前のことを守らない、奇妙な脚色慣習が、報道業界に根付いてしまっている気がする。危ないことである。
何かの集まりの待ち合わせ場所の夢、小学校で同級にいた人を見つけた。
向こうから笑顔で近寄ってきて、「違う」と言う。
違うの意味がわからなかったが、何度か言葉を交わすうちに本人でないことに気付く。
息子さんだった。夢で生き写しと言うのも変だが、そっくりなのである。
親子でそっくりなのは、中学時代のKとI、それにこのIで3人目だ。
「Iではない」と首をわずかに振りながら言う。
級友は、はじめはKという姓だった。KからIだったか、IからKだったか、もう忘れている。
夢でもらった名刺を確かめることはできないが、KでもIでもなかった。野暮になるからいちいち事情を聞かなかったが、向こうからIではないと言ったからにはIの息子であることは間違いない。
知人でない人に会い、向こうが知っているというのが夢のいい加減なところだが、夢の楽しさは、こういういい加減なところにある。
今度はだれが出てくるか。JもLも、そう名乗る知人はいない。
ときどき立体的に見える夢に出会う。
裏側に回って見られるのが楽しい。
いまの三次元映像は、まだまだ未熟である。一方向からしか見ていないから。
対象物がぐっと近づいても、ぐるぐる回せても、所詮その都度一方向から見ているだけのこと。
立体夢では、一度にいろいろな方向から見るように、向こうを回すのでなく自分が回って見に行く。
周ってと言っても足を運んではいない。
ではどうやって向こう側に行くのか。見たいときに向こうにいるのだ。
夢の中だけハイゼンベルク先生が話しかけられる距離にいて、そうさせてくれる。
これ以上は説明できない。
だから面白いので、方法が説明できるようなら、それはもう夢ではない。
見ている夢の中で、その夢の意味がわからないことが、ときどきある。
自分の行動は、夢の中でも、どこかで納得しながら見ている。適否善悪には関係なくても、していることは自分のこととしてわかっているものである。
自分のことという意識は、起きているときよりもむしろ強いのではないかとさえ思う。
ところが、ふと半分目が覚めかけてかどうかもわからず、自分の見ている夢が、何なのか、さっぱりわからないことがある。
どのような、などと聞かれても、説明のしようがない。
痛くもかゆくも、嬉しくも悲しくも、快くも腹立たしくも、何ともないのである。
鬱か躁か、それなら言い表しようもあるが、そのどちらでもない。
頭の中が真っ白などというのではない。
あれは、何も考えられない状態ではなく、白い状態なのだ。
真っ白は一色、そういう潔白証明用の色で、塗りたくった自分がいるのだから、何もわからないのとは違う。
ことによると、情報になりそこなった電磁波が、脳に刺激だけを与えて消えてしまっているのかもしれない。
そういう難解な夢は、放射性夢とでもいうのだろうか。
あえて文字にすると、妙な連想にたどり着きそうだが、あることだけは確かにある。いや、不確かだがある。
人の好みはさまざま、タクシーに乗るにもクルマを選んで乗る人がいるという。
タクシーにも、そのうちに電気自動車が増えてくると思うが、原子力の嫌いな人は、電気をいやがっ、てガソリン車かガス車が来るのを待つのだろうか。
自家用車を選ばずに買う人はいないと思うが、こういうことには貧富の差が歴然と現れる。
ジャガーをぶっ飛ばして追い越して行った奴が、その先で石塀に突っ込んでいたのも見たから、うらやむつもりはない。
レースで賞をとったことが自慢の若い男ともだちに、姫様気取りで自分の車を運転をさせたところ、曲がり角で歩道の縁石に内側後輪を乗り上げたかと思ったら、車庫入れもできなかったという実話もある。
男いわく「サーキットではバックはいらないんだ」
選択ができるということは、恵まれていると思わなければならない。
ミンシュコッカなどと分類名だけはよいが、そのコッカの代表を選ぶことができないコクミンもいるのだから。
忘れてよい旅の苦い思い出が、ときどき頭に浮かぶ。
苦いのを選ぶわけでもないのに、旅の思い出は、常に苦味が強い。
思い出をつくるために旅に出かけると、人は言いながら、なぜ苦みを求めて歩き回るのだろうか。
楽しいということは、その場にいるから楽しいのであって、持っては帰れない。
旅で得た楽しさを超えた楽しさを、常日頃体験できるなら、わざわざそんな場を求めに行くこともない。
旅の宿に出てくる酢の物には、たいがい舌を刺すような、ひどくはないにしても何かむせ返るような刺激がある。
反対に、腐りかけていはしまいかと思わせる異臭に、弛みきった味がついたかつかないかのような、不可思議なものもある。そういうものが出てくると、酢はもともと腐りかけのものだからなどと、理屈をつけて喉を通さなければならない。
安宿を選ぶからと言われてしまえばそれまでなのだが。
旅でただ一度、これは、という酢の物に出会ったことがある。
奥湯河原のTという名、漢字三文字をなぜ仮名の三音に読むのか、文法だの字源だのをいくらこねまわしてみても解明できない名前のところだった。
河鹿の声を聴いているところに、その酢の物が出てきた。
その味がいくら佳かったからといって、日常の食卓には再現できない。「やさしい酢」などと名のついたものをスーパーの棚に見つけても、強弱の違いだけで、ツンツンの程度が、少しやわらかいだけでしかない。やはり化学製品なのだ。
気に入った味も、毎日続けば、いつかは厭きもくるだろう。
思い出が嫌だというこの偏屈人間が、旅に出なければならないときはどうすればよいのか。方法はある。
旅を無念に思えばよいのだ。
夏の高校野球も終わった。
N校の圧勝、二桁の得点は見事。
最終回の守備で、3アウトめはフライを打たせ、終わりに持って行ければもっと見事だった。
相撲でも、最後の仕切に入ってから、わざと太ももから膝にかけてのサポーターを直すそ振りをする力士がいて、ぐずぐずしているなと思って見ていると、立ちあがったとたんに早業で勝ちを制する。
勝ち方にもいろいろある。
気持ちよく負けさせる。それができるようになったとき、きっと一流の勝ち方と呼ばれるだろう。
人の口から発せられた声は、しゃべる、話をする、ものを言う、この三態だけをとらえても、みな違う効果をもたらす。
しゃべるは、声が出ているだけで意味をもっていない。TV放送にあらわれる声は、意味がありそうに思っても、ほとんどこれに属する。
話になると、いくらか意味を持ってくる。出すためだけの声でなく、何か伝えようとする力が、音波に乗せて意味を運んでくる。
ものを言うになると、意味から、聞く人の心を動かす強いエネルギーが出てくる。
もとマスコミと呼ばれ、コミュニケーション機能の集合体のように言われていたものも、いちばん肝心なコミュニケーションの役割を果たしてないと気づいたとき、怜悧な彼らはその名を放棄し、メディアという呼び名に切り換えた。
メディアなら、名前どおり中途半端であろうとどうであろうと、メディウムすなわち媒介するものの複数形だから、たとえ偽名であっても情報という名をつけたなにかが行き交ってさえいれば、その行為がウソではなくなる。看板どおりなのである。
一度に見せる人数が増えれば見る人は喜ぶ。
雑多な音でも一度に八方から聞こえる感じがすれば人びとは興奮する。内容は無関係、見る人は自分の涙より画面で見る涙をたたえる。大臣までが、泣き面を見せるどころか、泣く声ではなく鳴き声を出して聞かせる。
しゃべる、話をする、ものを言う、この割合がどのくらいなのかと、考えても仕方のないことであるのに、ふと思い出したのが正規分布のあの曲線だ。
無理に関係があると見る必要はないのだが、あの曲線が、「確からしさ」などという体裁のよい言葉を使いながら、不確かさの評価に使われるものであることを考えると、メディアの正体とどこか通じるものがありそうな気がするのである。
有言実行などと亜呆なことを、ことさらに宣言した要人もいたが、言ったこととしていることを、事あるごとに比べて、あれこれ言ってみても、世の中が急によくなるわけでもない。コトコト。
ここに引きずり出そうと考えているのは、そんなことではなく、著作物で知る限りの人が、どういう話をどんな声でするか、どんな字を書くか、また、もの書きが歌を歌うとどんな歌が聞こえてくるか、そんなこんなの意外さに気付くことがあるという話である。
はっきりは名前を上げにくいから書かないが、Kという著名人が、書いたものの割に甲高い声で叫ぶように話したり、Oという名作者の話が何を言っているのか聞き取れなかったり、聞かなきゃよかったその声を、というのがある。
ひょいとものを書いて名を知られかけた新進のK女史の、歌う姿を見る機会もあったが、あまり上等ではなかった。話し声も聞いたが、これがまたしゃべり方と書き方が同じ。言行一致の妙な見本のようで、やや気の毒になった。
何でも見え、何でも聞けるようになった、陽のさす向こう側には、影がつきもの。
もうひと月で秋が来るが、奥山に、のあの歌を思い出す。
声聞くときぞ秋は悲しき。
クロネコを見つけた。宅急便ではない、ブログにあった黒い猫の写真である。
http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yamato_onoko/52865389
猫のツラが何とも言えず、佳い。
眉間のあたりのザラザラ感がよい。
髭を1本1本はっきりさせないのがまたよい。髭が目立っては肝心の目玉に見る眼がいかない。
これを見ていて思い出した。
むかし黒白写真をあれこれ撮っていた。
黒白写真は、色がないかわりに味がある。
「白鳥の湖」の舞台稽古を撮る機会があって、そのときの印画が残っている。
猫の画面のザラザラ感が、この写真を思い出させてくれた。
f3.5 のカメラで図々しく乗り込んでいた。フィルムはトライX、現像にはあれを使った。現像液の名前が思い出せない。
ネコ⇒ニャン、違う。ネコでなければイヌか、キャンドールだ。
キャンドール、ロウソクの光でも写せるという洒落だろうか。
1度くらい高めの温度で、ぐいぐい時間を延ばす。カンが当たれば、ハイ・コントラストのほどほどに粒子の荒れたネガが出来上がる。
夏の座敷暗室では、気温より10度も液温を下げなければならず、冷蔵庫の氷のお世話になった。
その氷も、扉を開ければザクザク出てくるのではない。大きな塊を、縫い針と金槌を使って、細かく砕かなければならなかった。
針で氷を割ることなど、知っている人はまだいるだろうか。
構えにもいろいろある。身構え、気構え、門構え。
大震災の後、「寄付はフラッとできるのがよい、構えずに」と言った人がいる。田村敦のその言葉に感心した。
「身の引き締まる思い」などと定型句を口にし、そのときに構えは見せても、別段何もせずに、椅子の確保だけに精力を集中して終わる人もいる。
芸人の構えは、舞台高座で脱ぐときに見て取れる。
踊りながら脱ぐとき、噺しながら羽織を後ろに目立たないように置くとき、その仕草が芸の値打ちを左右する。
政治家の構えは議会壇上に立つときに際立つものだが、背をまるめ、目をしょぼつかせて、ぼそぼそと切り出す姿をしばしば見せられては、支える人々の気構えも萎え、それぞれに見えを切るすべさえ思い出せなくなってしまうだろう。
面白いブログ記事があった。
花火見物の話である。
「花火の開始は午後九時からだからゆっくり時間があったので晩酌やって、ごめん-奈半利線の列車に乗って。
来たのがちょうどタイガースの色に塗られたタイガース列車だった・・・」
このあとに、見事な花火の写真が載っている。
http://blog.livedoor.jp/yamato_onoko/archives/52865230.html
街の人がうるさいと、花火の終わりも早い。九時ではみな立ち上がって尻をはたくころだ。
そんな時間から始まるところもあったか、ところによっていろいろだなあと思いながら読み進む。
「晩酌やって、ごめん」とあるから、日が暮れてから九時まで飲めばだいぶきいていただろう、酔っ払ってごめんの意味かなどと想像する。
ご機嫌が目に浮かぶようだ。
記事の終わりにまた「ごめん-奈半利線」が出てきた。
花火が終わってもう酔いも醒めるころにまたごめん、さておかしいなともう一度よく読む。
「ごめん」は土佐くろしお鉄道「ごめん-なはり線」の終点駅名だったのだ。
酔っ払ってもカメラだけはしっかり構えるななどと、いらぬことを想像していて、ごめん。