壁は じっと黙っていても
上から 下から
さわさわというささやきが
聞こえてくるようです
ときには ざわめきに
変わることも ありそうですが
風まかせのことですから
いつどうなるのかは わかりません
マーマレード容器の上蓋に、アレルギー物質が含まれているという表示があります。
その物質の名はオレンジです。
オレンジが主材料のマーマレードに、それがアレルギー物質として含まれていると、わざわざ書かなければならない、これは奇妙なことです。
もしオレンジでひどい目にあっていれば、ちょっとなめたときに、これはだめだと気づくでしょう。
人々の舌は、こんな味分けがつかないほど鈍感になってしまっているのでしょうか。
味や匂い、口周りの感覚が鈍ってきている実感は、確かにあります。
街には街の匂い、路地裏には路地裏の匂い、海が近くなれば磯の匂い、それが感じられなくなりました。
消臭しょうしゅうと大騒ぎしながらその一方で、花に似た香りをわざわざ作って使い、「ありがとう」の匂いまで作ろうとします。
人間は変なことをする動物だと、付き合いの深い犬猫たちもあきれているでしょう。
この秋、小学校の同窓会で、久しぶりに母校を訪れたとき、履物を履き換えて出入りするあの場所に、学校の匂いがしないので、一緒に行った友人にそれを言ったら、「鼻が悪くなってんだよ」と言われました。
自分でもわからないこういう感覚衰弱は、他人がその程度を知ることができません。
マーマレードの表示の意義も、なんとなく匂ってきました。
「日本語と英語をつなぐ」というウェブサイトがあります。
記事の一つにこういうのがあります。
「押す」という日本語に相当する英語には press または push という言葉があって、それがどう違うかの説明です。
試みに Google の翻訳で「押す」という日本語を英語に訳すと、push, shove, jostle が示されます。
push に相当する日本語のなかから「圧す」を選んで英語に訳すと、press, push, dentが示されます。
日本語の仲間たちも15余りがずらっと並びます。
これを続けていくと、つながりがたちまち広がっていきます。
日本語と英語をつなぐことから、日本語どうしのつながりや、英語どうしのつながりも、あらためてわかってきます。
言葉に限らず、それぞれに特徴をもった日常生活のことでも、つながりを意識することによって、同じ形をした違う動物のように感じていた地球人どうしが、荒らし合いや争いより先にしなければならないことがあるのだと、思い当たるのではないでしょうか。
何かを突っ込んで調べてみようという気は、一人では起きにくいものです。
相方が人間でない場合もあります。
そのときは、欲と二人連れです。
探査欲と二人連れになれば、調べてわかったときに得られるものがどうなのか、そんなことには無頓着になれます。
探査には考察力や理解力がを強くなり腕前が上がる利得もありますが、それを量ってどうしようという、つまらないことも考えません。
過程だけが楽しみ、覗き趣味と多少かかわりがあるかもしれません。
もし100万人を超える都市の住民投票で、あることがらに賛成より反対が100票多かったら、そのことには住民全体が反対しているということになるのでしょうか。
反対者の割合が、1万分の1だけ多いこの状態を、総意で反対していると言えるでしょうか。
住民投票条例の多くは、「首長、議会は住民投票の結果を最大限尊重する」とされていて、意思決定が投票結果に拘束されることはありません。
しかし、反対者が100分の1%だけ多い投票結果を最大限尊重するとなれば、実際のところは住民はどちらでもよいと思っているとしか解釈できないでしょう。
この案件が、もし公約に掲げてきたことであったとしたら、決行するしかありません。
その場合、反対の意思をもっていた人は、住民が反対しているのにごり押しで決めてしまったと思うでしょう。
こういう住民投票制は、世論調査を大掛かりにしただけのものと、たいして変わりはなさそうです。
全員に投票権はあっても、投票率によっては、全体の意思かどうかも怪しくなります。
多数決が論理的に正しいとされるには、論理判定システムが必要でしょう。
賛成と反対の間に不定区間を定めて、賛成がある値以上であればおおかたが賛成、反対がある値以上であればおおかたが反対、そのどちらでもない投票は無判定とするシステムです。
賛否両方とも定めた値に達しなければ、その投票は、意思決定の根拠には使えないものと考えるのが正常ではないかと思います。
国の将来や、人の生死にかかわる問題は、どちらかの投票結果がわずかの差で多い場合、それを多数決と称して決定してしまうのは、あわてものの誤りをおかすことになりはしないかと思うのです。
いかがでしょうか。
何か事故が起きると、どうした、ああした、こうなったと、状況説明は細かく報道されます。
そんなことまで知らせなくてもと思うほど、どういう状態なのかがわかりやすく知らされます。
しかし、わかりやすいということが、核心が確実に知らされていることにはなりません。
知られると都合の悪いことには、ピタッと蓋が閉まっているからです。
状況説明ですら隠される部分があるならば、もっと報道しにくい原因のほうは、慣用語登録をしてある辞書から引き出してきたかのような文言でしか知らされません。
同じような事故を繰り返さないためには、原因が究めつくされなければなりませんが、ことごとに発表される原因をみると、「なぜ」のわからない、状況説明の言い換えのような報道が多いのです。
事故を起こしたとされる人は、罰せられるか処分を受けるかしますが、先に決めた処分の匙加減に釣り合った報告書の文面に適合するよう、原因が作られたのではないかと思うことさえあります。
原因⇒現象⇒結果⇒処分という「時の順序」をわざわざ逆転させているのではないかと、奇妙な見方もしたくなります。
再発や類発の防止には、処分の勘案とは次元を変えて、徹底した究明が法のもとに行われなければ、読みやすいよう、聞きやすいように作られた報告が慣例となって続出します。
事故原因究明法を制定し、原因を曲げたり創作したりすれば法に触れるという制度を作らなければ、肝心のところに究めの知恵も届かずに終わってしまうのではないかと思うのです。
いかがでしょうか。
気がきかない車の事故があります。
自分でそうする気は決してないのに、やってしまう自爆事故です。
気が狂ってする自爆テロは、意思の半分は自分でそうする気になっているので、たてこもりより始末が悪いものです。
いずれも、自分で抑制がきかない状態でそれが起きます。
テロが襲来するのでなく、自国内で育つとなると、これは大変です。
蒔いたつもりもないのに、ひょんなところで芽を吹かないようにするには、なまじの I Tシステムなどでは間に合いません。
とにかく、「自」という字と「テロ」が結びつくと、困ったものになります。
自爆テロ、自国テロ、その温床は、温床らしくないところにありそうなので、温か過ぎる目は危ないのかもしれません。
40代になったばかりで、歩いていてつまづくようになった、歳のせいかと嘆く人が出てきています。
何でも「XXのせい」は、いちばん考えやすい理由立てですが、実際は他に原因があって、それを認めるのに抵抗があるのでしょう。
こういう場合、「せい」族の理由は簡単に出来上がります。
成人に社会教育を行うために設けられる成人学校という講座がありますが、その終止過程として、防老大学院というのはいかがでしょう。
ストップ老眼乱視、幼稚遠耳対策、活舌咀嚼力維持、嗅覚保全、頭脳防錆、筋力維持、関節硬化対策、平衡感覚保全、情操保全、共通感覚再養成を、生活体験中心に実習によって修得させる学校です。
ただぞろぞろと、だらしない列を作って、誘導の旗を頼りに歩き回るより、はるかに効果があると思いますが。
スマホに必ずインストールされていて、使い始めれば自動起動するアプリを思いつきました。
過度の眼精疲労にならないよう、もうそろそろ休憩しなさいという警報システムです。
設定した時間を経過すると、使っている人の顔が画面に出てきます。
周りに迷惑にならない程度の警報音も出ます。
ねぼけ顔 映って気付く スマホかな