信仰告白長きためらいに佇つかげを夢に見ていきみずからの影
1913年に生まれた近藤は、第二次大戦中に補充兵として中国に赴く。しかし訓練中の負傷と肺結核の罹患のために後方部隊へ送られた後、日本に帰国する。近藤が戦線を離脱した後ろめたさからくる悪夢に生涯苛まれ続けたことは、数多の歌より窺える。
生きて四囲にあかしてならぬことありと叫びはつづく吾が夢の際(きわ)『遠く夏めぐりて』
遠く負う戦場離脱の兵の記憶血を吐き逃れ来ぬ今日に生くるため『アカンサス月光』
近藤が病に臥せったのは紛れない事実であったが、自身には戦争を逃れて妻との生活を選んだかのような実感が纏わりついたようだ。近藤は、妻から生き延びてほしいと哀願された電報を懐に秘めていたという。
かかる時代に生きむと告ぐる電報を秘めて征きたりき妻はその日病む『樹々のしぐれ』
一枚の電報にして汗に汚る秘めて征き征きし生きよと呼べば『 〃 』
病床よりひとり逢いに来し磯の営舎原隊追求の日の吾のため『アカンサス月光』
自らも病床にあった妻は、広島宇品港で原隊復帰のために備えていた近藤を訪ねている。そのことが近藤の心に何の揺らぎももたらさなかったとは考えにくい。
死の偶然生の偶然逃れ生きし兵ゆえ怖れて妻と生きしゆえ『アカンサス月光』
ちなみに、近藤の所属していた船舶工兵の覆面兵団「暁部隊」は南方上陸作戦に出動し、そこで全滅したという。
さて掲出歌であるが、近藤が頻繁に襲われた明け方の悪夢の一つであろう。近藤はギリシアやイタリアなどキリスト教の影響の濃厚な地域を歴訪しその旅行詠も物しているが、この歌の頃はまだ受洗していない。種々の経緯があったにせよ、近藤には戦地から引き上げてきたことに心の咎めがあったのは間違いなさそうだ。掲出歌には次の歌が続く。
偽証者のひとり吾がうちに喚(よ)びさけぶ一生(ひとよ)の思いつねに目覚めに『樹々のしぐれ』
夢の中で近藤はイエスを主とする信仰告白を為そうとしたらしい。しかしその前に長い沈黙があった。おそらく「偽証者」は、その沈黙を破って近藤の罪責を告発したようである。――戦場に戻ろうと思えば戻れたものを!!――近藤の潜在意識には、これまで犯してきた全ての罪をイエス・キリストの前に差し出し、赦されることを望む気持ちがあっただろうことは想像に難くない。だが、潔癖な近藤の自我はその本心を締め出してしまう。
この現実を前に私は、『また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』という聖句(コリントの信徒への手紙 一 12章3節)を思い出す。そして、近藤の重荷をイエスがご存知で、後々まで導いてくださったことを思うのである。
近藤芳美『樹々のしぐれ』
1913年に生まれた近藤は、第二次大戦中に補充兵として中国に赴く。しかし訓練中の負傷と肺結核の罹患のために後方部隊へ送られた後、日本に帰国する。近藤が戦線を離脱した後ろめたさからくる悪夢に生涯苛まれ続けたことは、数多の歌より窺える。
生きて四囲にあかしてならぬことありと叫びはつづく吾が夢の際(きわ)『遠く夏めぐりて』
遠く負う戦場離脱の兵の記憶血を吐き逃れ来ぬ今日に生くるため『アカンサス月光』
近藤が病に臥せったのは紛れない事実であったが、自身には戦争を逃れて妻との生活を選んだかのような実感が纏わりついたようだ。近藤は、妻から生き延びてほしいと哀願された電報を懐に秘めていたという。
かかる時代に生きむと告ぐる電報を秘めて征きたりき妻はその日病む『樹々のしぐれ』
一枚の電報にして汗に汚る秘めて征き征きし生きよと呼べば『 〃 』
病床よりひとり逢いに来し磯の営舎原隊追求の日の吾のため『アカンサス月光』
自らも病床にあった妻は、広島宇品港で原隊復帰のために備えていた近藤を訪ねている。そのことが近藤の心に何の揺らぎももたらさなかったとは考えにくい。
死の偶然生の偶然逃れ生きし兵ゆえ怖れて妻と生きしゆえ『アカンサス月光』
ちなみに、近藤の所属していた船舶工兵の覆面兵団「暁部隊」は南方上陸作戦に出動し、そこで全滅したという。
さて掲出歌であるが、近藤が頻繁に襲われた明け方の悪夢の一つであろう。近藤はギリシアやイタリアなどキリスト教の影響の濃厚な地域を歴訪しその旅行詠も物しているが、この歌の頃はまだ受洗していない。種々の経緯があったにせよ、近藤には戦地から引き上げてきたことに心の咎めがあったのは間違いなさそうだ。掲出歌には次の歌が続く。
偽証者のひとり吾がうちに喚(よ)びさけぶ一生(ひとよ)の思いつねに目覚めに『樹々のしぐれ』
夢の中で近藤はイエスを主とする信仰告白を為そうとしたらしい。しかしその前に長い沈黙があった。おそらく「偽証者」は、その沈黙を破って近藤の罪責を告発したようである。――戦場に戻ろうと思えば戻れたものを!!――近藤の潜在意識には、これまで犯してきた全ての罪をイエス・キリストの前に差し出し、赦されることを望む気持ちがあっただろうことは想像に難くない。だが、潔癖な近藤の自我はその本心を締め出してしまう。
この現実を前に私は、『また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』という聖句(コリントの信徒への手紙 一 12章3節)を思い出す。そして、近藤の重荷をイエスがご存知で、後々まで導いてくださったことを思うのである。