ここにをらぬ人のためにも祈りゐるこゑを聴きをり小さき部屋に
『午後の蝶:短歌日記2014』は【ふらんす堂】のホームページに2014年の一年間に掲載された、一日一首の横山の短歌とそれに添えた一言二言の文をまとめた日記型の歌集である。掲出歌は10月9日付けの歌で、次の小文が付されている。
昨日は「三浦綾子読書会短歌部門」の日だった。参加者は私も含めて七人。テキストは、小説『ひつじが丘』。約二十年ぶりに読んだが、ストーリー展開がドラマチックで引き込まれた。
読書会には、クリスチャンが多く参加していただろう。会の初めに、今回欠席したメンバーのためとりなしの祈りをしたのではと思われる。あるいは、義の道に餓え乾き三浦綾子の本に手が伸びた、名前も顔も知らぬ誰かのためにも祈ったのかもしれない。私達が信仰へと導かれ、また守られていく陰には、実はそうした祈りの支えがある。
『ひつじが丘』では、牧師夫妻の娘である主人公が親の反対を押し切って、身持ちのあまり良くない画家の男の許へと駆け付け、その後どうなっていくかの顛末が綴られる。家出以来実家に何の音沙汰もなかった彼女がいつか帰ってくることもあろうと、両親は夜中も施錠せず娘の帰りを待ちわびた。その間おそらく毎夜、夫婦は娘のため、そして娘の夫となった男性のために祈り続けた筈だが、小説中に直接は描写されていない。
二年四ヶ月後、娘はあるきっかけで二人住まいを抜け出し、夜中に実家へ帰り着く。日頃の憔悴から泥のように眠った主人公が明くる日の昼近くに目覚めると、教会を忌避していた夫が彼女を追って家に来ていた。不摂生がたたって血を吐いた彼は、牧師夫妻のお世話を受けるようになる。そうして居候しながらも彼は一度も教会堂に足を踏み入れることはなかった。けれど、牧師夫婦の温かさに触れて暮らすうちに、アルコールも断ち、いつしか心の毒気も清められていく。クリスマスイヴの夜、以前の女性関係を清算するために出かけた彼は、帰り道に凍死という形で息絶える。イヴに主人公に贈ろうと彼がコツコツ制作していた絵は、十字架上のイエスと主を見上げる彼自身を描いたものだった――。
横山らが読書会の席で実際に祈ったことを私は先に想像した。だがこうして『ひつじが丘』の筋を辿ると、牧師夫婦が主人公の家出以降、またその夫君と思いがけず共に暮らすようになってからも、続けて彼のために祈ってきた声を、会の小部屋にありありと「聴いた」のだと取ることも可能だろう。
とりなしの祈りをしながら、私達は雲を摑むような思いに捕われることがある。そんな時でも「主は、従う人に目を注ぎ助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(詩編34編16節)という主の約束を覚えつつ歩んで行けたらと願う。
横山未来子『午後の蝶:短歌日記2014』
『午後の蝶:短歌日記2014』は【ふらんす堂】のホームページに2014年の一年間に掲載された、一日一首の横山の短歌とそれに添えた一言二言の文をまとめた日記型の歌集である。掲出歌は10月9日付けの歌で、次の小文が付されている。
昨日は「三浦綾子読書会短歌部門」の日だった。参加者は私も含めて七人。テキストは、小説『ひつじが丘』。約二十年ぶりに読んだが、ストーリー展開がドラマチックで引き込まれた。
読書会には、クリスチャンが多く参加していただろう。会の初めに、今回欠席したメンバーのためとりなしの祈りをしたのではと思われる。あるいは、義の道に餓え乾き三浦綾子の本に手が伸びた、名前も顔も知らぬ誰かのためにも祈ったのかもしれない。私達が信仰へと導かれ、また守られていく陰には、実はそうした祈りの支えがある。
『ひつじが丘』では、牧師夫妻の娘である主人公が親の反対を押し切って、身持ちのあまり良くない画家の男の許へと駆け付け、その後どうなっていくかの顛末が綴られる。家出以来実家に何の音沙汰もなかった彼女がいつか帰ってくることもあろうと、両親は夜中も施錠せず娘の帰りを待ちわびた。その間おそらく毎夜、夫婦は娘のため、そして娘の夫となった男性のために祈り続けた筈だが、小説中に直接は描写されていない。
二年四ヶ月後、娘はあるきっかけで二人住まいを抜け出し、夜中に実家へ帰り着く。日頃の憔悴から泥のように眠った主人公が明くる日の昼近くに目覚めると、教会を忌避していた夫が彼女を追って家に来ていた。不摂生がたたって血を吐いた彼は、牧師夫妻のお世話を受けるようになる。そうして居候しながらも彼は一度も教会堂に足を踏み入れることはなかった。けれど、牧師夫婦の温かさに触れて暮らすうちに、アルコールも断ち、いつしか心の毒気も清められていく。クリスマスイヴの夜、以前の女性関係を清算するために出かけた彼は、帰り道に凍死という形で息絶える。イヴに主人公に贈ろうと彼がコツコツ制作していた絵は、十字架上のイエスと主を見上げる彼自身を描いたものだった――。
横山らが読書会の席で実際に祈ったことを私は先に想像した。だがこうして『ひつじが丘』の筋を辿ると、牧師夫婦が主人公の家出以降、またその夫君と思いがけず共に暮らすようになってからも、続けて彼のために祈ってきた声を、会の小部屋にありありと「聴いた」のだと取ることも可能だろう。
とりなしの祈りをしながら、私達は雲を摑むような思いに捕われることがある。そんな時でも「主は、従う人に目を注ぎ助けを求める叫びに耳を傾けてくださる」(詩編34編16節)という主の約束を覚えつつ歩んで行けたらと願う。