*今月から英語による聖書通読は、旧約聖書のみNLTで行っています。
◆1月3日
新改訳ヨブ36:5「見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い」。勢力が強まっている時、私だったらすぐ傲岸になる。だが神は違う。誰をも、というのに目を瞠る。その人一人を理解しようと傍らに下りてくるのが神。
◆1月4日
新改ヨブ37:6「神は…地に降れ、と命じ…激しい大雨に命じる」13節「神がこれを起こさせるのは、懲らしめのため、あるいは、ご自身の地のため…恵みを施すためである」。台風・大雨が猛威を振るった去年。神がこれらを起こしたのは其々理由が。まだ視えぬ恵みを見せて下さいと祈るのみ
◆1月5日
新改訳ヨブ39:1「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか」3節「それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す」。親が放り出す子をも神は見守って下さっている。動物に対してだけでなく人間の場合にもそうなさっている。
◆1月6日
新改訳ヨブ41:34で、神はレビヤタン(わに)のことを「それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である」と仰った。獣の王と言えば普通、凛々しく壮麗なライオンを思うもの。人間の目と神の目はここまで違う。
◆1月8日
新改訳ヨブ42:5「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」。神について人がどう言っているか聞くだけでは神に出会えない(解決しない)。不条理を悉く主に直接ぶつけていって初めて出会える。ヨブの義はほぼそこにのみ拠るとも言える。
◆1月9日
新改詩2:3「…彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」。話者は地の王達。NLTでは“Let us break their chains,” they cry, “and free ourselves from slavery to God.” 主の僕らを解放する風だが神への軛から己を放つ魂胆。非信者に甘くなる私は神の軛を重く感じているのか?
◆1月11日
新改訳詩篇5:8「主よ。…私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」。NLTでは〈…Make your way plain for me to follow.〉詩篇作者は、駄々っ子のように「あなたの道をまっすぐに」と求めたのでない。私があなたについて行けるよう道を平らかにして下さい、と願ったのだ。
◆1月15日
新改訳詩篇10:9「彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕らえようと待ち伏せる…」高齢化する教会が若者を得ようと必死なのを見てペテロ⑴5:8が浮かび内心否定しても拭い切れぬ自分が。私自身は捧げてもいいが友達は教会の餌食にしたくないというのは不遜?
◆1月19日
新改訳詩篇16:4「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません」 。聖徒らについての聖句。イエスを奉ずると公言する僚友が、様々な宗教に首を突っ込む男性に話を合わせていて正直不快に。私が言うべきことは何だろうか?
◆1月26日
詩編25:4は新共同訳では「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください」で、〈道〉は〈王道〉風な印象を与える。新改訳では「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください」。弱く揺らぎ易い私にも従える小道を主は備えて下さる、と安堵。
◆1月29日
新改訳マタイ20:12。葡萄園で1日働いた人達は雇主に、少ない働きの人に自らと同じだけ与えたのを詰り「1日中労苦したのに」と。伝道委員が代替わりする前は集会のチラシ配りに孤軍奮闘してたから、彼らの心情はよく解る。だが今は、主の下で早くから働けたのは恵みと思えるようになった
◆1月31日
新改訳詩篇30:2「…主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました」 。〈癒す〉は奇跡めいた語感があり、どこか非日常的な気がしてた。節の後半はNLTで〈you restored my health 健康を回復した〉。そうだ、もっと日々の生活で(寒暖差疲労で辛い時とかも)主に頼ろう
◆1月3日
新改訳ヨブ36:5「見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い」。勢力が強まっている時、私だったらすぐ傲岸になる。だが神は違う。誰をも、というのに目を瞠る。その人一人を理解しようと傍らに下りてくるのが神。
◆1月4日
新改ヨブ37:6「神は…地に降れ、と命じ…激しい大雨に命じる」13節「神がこれを起こさせるのは、懲らしめのため、あるいは、ご自身の地のため…恵みを施すためである」。台風・大雨が猛威を振るった去年。神がこれらを起こしたのは其々理由が。まだ視えぬ恵みを見せて下さいと祈るのみ
◆1月5日
新改訳ヨブ39:1「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか」3節「それらは身をかがめて子を産み落とし、その胎児を放り出す」。親が放り出す子をも神は見守って下さっている。動物に対してだけでなく人間の場合にもそうなさっている。
◆1月6日
新改訳ヨブ41:34で、神はレビヤタン(わに)のことを「それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である」と仰った。獣の王と言えば普通、凛々しく壮麗なライオンを思うもの。人間の目と神の目はここまで違う。
◆1月8日
新改訳ヨブ42:5「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」。神について人がどう言っているか聞くだけでは神に出会えない(解決しない)。不条理を悉く主に直接ぶつけていって初めて出会える。ヨブの義はほぼそこにのみ拠るとも言える。
◆1月9日
新改詩2:3「…彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう」。話者は地の王達。NLTでは“Let us break their chains,” they cry, “and free ourselves from slavery to God.” 主の僕らを解放する風だが神への軛から己を放つ魂胆。非信者に甘くなる私は神の軛を重く感じているのか?
◆1月11日
新改訳詩篇5:8「主よ。…私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」。NLTでは〈…Make your way plain for me to follow.〉詩篇作者は、駄々っ子のように「あなたの道をまっすぐに」と求めたのでない。私があなたについて行けるよう道を平らかにして下さい、と願ったのだ。
◆1月15日
新改訳詩篇10:9「彼は茂みの中の獅子のように隠れ場で待ち伏せている。彼は悩む人を捕らえようと待ち伏せる…」高齢化する教会が若者を得ようと必死なのを見てペテロ⑴5:8が浮かび内心否定しても拭い切れぬ自分が。私自身は捧げてもいいが友達は教会の餌食にしたくないというのは不遜?
◆1月19日
新改訳詩篇16:4「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません」 。聖徒らについての聖句。イエスを奉ずると公言する僚友が、様々な宗教に首を突っ込む男性に話を合わせていて正直不快に。私が言うべきことは何だろうか?
◆1月26日
詩編25:4は新共同訳では「主よ、あなたの道をわたしに示し あなたに従う道を教えてください」で、〈道〉は〈王道〉風な印象を与える。新改訳では「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください」。弱く揺らぎ易い私にも従える小道を主は備えて下さる、と安堵。
◆1月29日
新改訳マタイ20:12。葡萄園で1日働いた人達は雇主に、少ない働きの人に自らと同じだけ与えたのを詰り「1日中労苦したのに」と。伝道委員が代替わりする前は集会のチラシ配りに孤軍奮闘してたから、彼らの心情はよく解る。だが今は、主の下で早くから働けたのは恵みと思えるようになった
◆1月31日
新改訳詩篇30:2「…主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました」 。〈癒す〉は奇跡めいた語感があり、どこか非日常的な気がしてた。節の後半はNLTで〈you restored my health 健康を回復した〉。そうだ、もっと日々の生活で(寒暖差疲労で辛い時とかも)主に頼ろう