水の門

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歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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書評(2):北村絢子『こころ 曇りのち青空〜Dr.あやこ 精神科医の処方箋』

2021年07月12日 12時31分23秒 | レヴュー(書評)
 北村先生は、私の通う精神科の医師である。一時期、【アフタークリニック】という会員制のネット心療相談室を主宰されていたこともあり(三年間)、私のことは日常生活・服薬状況・趣味・信仰心など、定期的な精神科通院だけでは知り得ない面までご存知なので、月一の受診の際は打てば響くような対応をしていただけており、こう言っては何だが《共闘関係》のような良い関係を築けている。
 この本は、山梨日日新聞に三年間連載されていた『Dr.あやこ 精神科医のしあわせ論』というコラムを纏めたものである。本が出版された当初、実は私は買わなかった。リアルタイムの連載で読んでいたし、まぁいいよな……と思ったのである。私は昨年秋から冬にかけて精神症状が激昂し、作業所・家・受診の各所において日々バトルが繰り広げられ、不眠・幻聴・睡眠中の静臥不能症・脈拍数の高騰・運転もままならぬ程のふらつき・薬の管理も覚束なくなるほどの前後不覚感などによって文字通りヘロヘロになっていた。そんな昨年末に母が、「北村先生が以前書いていたという〈疲労度の測り方〉の表を作ってみたらどうか」と言ってきた。母は日々テレビに齧り付いていて、ニュースバラエティ等でよく目にしていたコロナウイルスの感染拡大状況のステージの図を参考に、その提案を私に持ちかけたのである。そうか、なるほど……と素直に従い、最寄り図書館でこの本を借りてきて年末年始で読み、作成したのが下の写真の表だ。

 生活力のある方々には色々ツッコミどころ満載の表であろうがそれはまぁ措いておいて、先生のご著書の中でこの表作成の参考にした箇所は26ページからの[「得意が面倒」が過労の兆候]という章である。少し引用・抜粋する。

 さて、一日の暮らしは家事をはじめ、多数の作業の集まりで成り立っている。例えば朝起きてからの身支度に始まり、食事の支度、洗い物、洗濯、掃除、整理、運転、買い物、子どもの世話、世間付き合い、草むしり、花の手入れ、テレビや新聞で情報を得るなどである。
 この中から自分にとって「好きで得意なこと」は何だろうと考えてみてほしい。次に「苦手で不得意なこと」も同様に考えてみよう。つまりはそれらをものさしとして疲労度を測るやり方なのだ。
 この際、「やらねばならない」かどうかは横に置いといて。自分にとって、好きで得意で割合自然にやれてしまうことと、苦手で不得意なので無理してやっている家事や雑用を、自覚的にしっかり分けることだ。その自覚がまず大事である。


 そして先生は、好きなことは少々疲れていてもできる、それが億劫になるのは相当疲れている時なので、無理せず休むことが必要、と説く。私はこの表を作成したことにより自分自身の中で今の疲れ具合を客観的に判断できるようになったし、プリントアウトしたものを病院と作業所に提出したことで、作業所職員に不調による遅刻・欠席などを伝える際、また相談事をする際の話のベースとなってくれていて、大いに役立っている。
 今回この書評を書くに当たってまた本を捲ってみて、もう一点だけ書いておきたいポイントがあったので、その箇所を探すべく隈なく本を行きつ戻りつ三往復くらいしたのだが、そのものズバリの箇所は見当たらなかった。もしかしたらちゃんと書籍中に存在するけれど私がそのピンポイントを発見できていないだけかもしれないが、所々にその要素を含む箇所は見つかったので、それらを総合し私の頭の中に焼き付いていた文言をおおよそ再現してみたい。

 人はみなそれぞれに人生に何らかの課題を持って生まれてくる。私の仕事は、それを代わりに解決することではなく、それに気づかせてあげることではないか。その交通整理をお手伝いすることではないか。もし私自身が患者さんの課題を本人に成り代わって解決する役割を求められるなら、潔く精神科医の現役を降りたいと思います。

 マルコによる福音書10章46節〜52節に、物乞いとして道端に座っていたバルティマイという盲人がイエスに目を癒されるシーンがある。51節に〈イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉と書いてある。これを読んで「目が見えるようになりたいに決まってるじゃん!当たり前のこと訊くなっつーの!!」と内心お怒りになる方も多くいることだろう。でも、物乞いだったバルティマイはもしかしたら「金持ちになって、物乞いしなくて済むようになりたいです」と答えても良かったのかもしれない(イエスがそれを叶えてくださったかは別だが)。
 私は精神科を受診している方の話を聞いていて時々(自分の生きる意味がどこにあるか、先生に見定めてほしいと思ってるのかなぁ……)と感じてしまうことがある。精神科医は精神の病気の症状を和らげるのに手を貸してくださる、そのために必要な処方をしてくださる方である。未分化な問題を聞いてもらって、交通整理していただくのが必要な時もあろう。でもそれ以上の方ではないのである。イエス様でさえ、「何をしてほしいのか」とお聞きになるのである。人間である医師なら尚更のことである。 
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