水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
詳細は、こちらの記事をご覧ください。

Amazon等で購入できます。 また、HonyaClub で注文すれば、ご指定の書店で受け取ることもできます。
また、読書にご不自由のある方には【サピエ図書館】より音声データ(デイジーデータ)をご利用いただけます。詳細は、こちらの記事をご覧ください。

#通読+α 2022年3月分まとめ

2022年03月31日 07時15分12秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆3月3日
<新共同訳 詩編119編71節>
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。
   ↓  ↓  ↓
しばらくこれが私のテーマになりそう。でも主の前に低められるのは、呪縛からの解放なんだ。懺悔って世間からは屈辱的なものと見られてるふしがあるけど、全くそうじゃない。

◆3月10日
小3の時、クラスで男子Y君と女子Oさんが喧嘩を始めた。最初は言い争いだったが、そのうち互いに殴り始めた。それで教室中が騒ぎになり、男子生徒達が「◯◯(私)は最初から見ていた」と私に証言を求めた。私も本当に最初から見ていたかは怪しかったが「喧嘩をどちらから始めたかは分からないけど、先に手を出したのはOさんだった」と言った(本当はそれすらも分からないのに偽証したのだ)。Oさんは「違う、私じゃない」と泣いた。私がOさんの肩を持てば、後で男子連から虐めを(下手すれば暴力を)受けるのを恐れ、私はY君を立てたのである(男性がいかに暴力的か、家でよく分かってたから。そういう男性は卑劣だが、保身に走った私も卑怯だった)。私ははっきり「分からない」と言えば良かったのかもしれない。でもそれはそれで男子達から卑怯者呼ばわりされたろう。紀元1世紀、祭司長らに扇動された群衆が囚徒バラバの釈放を求め、イエスを十字架につけるよう叫んだ時、暴動が起こりそうなのを見た総督ピラトが、水を取り寄せて手を洗い、私には責任がないと言いつつ、 イエスを十字架刑のため引き渡した(マタイ福音書27:15-26)のと、私は同じだ。マルコ福音書15:15では「ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した」と(新改訳第三版)。私がもしイエスの時代・地域に生きていれば、私はその日和見で確実にイエスを十字架につけたろう。

◆3月19日
所属教会の牧師先生が罪について説教する時、「我儘」に収斂させる傾向が。まぁ究極的にはそうかもしれぬが、聴き手にあまり良い影響をもたらしてないなと。日常で(これって我儘?)と思った気持ちを押し殺して無かったかのように振る舞ったり、他人や上の人への追従を推奨する結果に終わってる感が。
   ↓  ↓  ↓
<新改訳第三版 ルカ福音書9章23〜25節>
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
   *  *  *
この聖句が苦手な方は(信徒でも)多いと思う(かく言う私も長らくそうだった)。「自分を捨てる」は自分の感情・個性・趣味etc.を抹殺することではなく、我流を通すのを諦めること。その意味では「我儘」を捨て人の意見も聞くことにはなろう。だがルカ9:23を基に思考停止を促してるなら、私は抗議する。9:25「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」に注目。23節で「自分を捨て…なさい」と言いつつ、「自分自身を失」うな、と。神様は一人一人を慈しんで創造された。決して誰かの奴隷にするためじゃない。主が私に賜った特別なものを愛おしむことを神は喜んで下さるのだ。

◆3月27日
佐藤弓生さんのこの言葉(下記)には昔は反論できず。
   *  *  *
[祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。]
   *  *  *
祈ってるアピールして責任取ったかに思ってる信徒が多いのは事実かと。
   *  *  *
若い頃は、何したらいいか判らなかった。目標も無かったし、何かすればしたこと全てを頭ごなしに否定されてきたから。だから、受洗し、聖書を読み祈る日課ができたのは助かった。今は色々経験も重ね、単なる我欲に拠らない、すべきこと/したいことが生じて(膨れ上がり)収拾つかなくなり、身動き取れずぶっ倒れる場合が多々。そして臥しつつ祈る(どうしたらいいですか?何が優先ですか?それとも今は思い巡らす時ですか?と)でなければ、身動きできぬ己を責め続けてしまう筈。
   *  *  *
<新共同訳 テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節>
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする