神様は幸せですか?正直に『はい/(か)いいえ』で答えてください。
物凄く率直な歌である。世界を見渡しても身廻りを見ても、痛ましい事件・つらい事柄ばかり起こっている。コロナウイルスに感染して苦しむ方や亡くなる方が跡を絶たず、長引くコロナ禍で立場の異なる人達の啀み合いが激化していることだけ見ても、神様は私達を苦しめようとされているのではないか?そんなことして神様は幸せなの?と、主体のように問いたくなるのは無理からぬことである。
以前の私は、そういう問いを自分に向けられたと思って、何とか答えなければならないと四苦八苦したものである。今の私が割と聖書に詳しいほうなのは、答えの簡単に見つからぬ事柄が眼前に突きつけられた時に(「聖書に答えがある」って言うなら神様、ここに出してきなさいよ!)と闇雲に聖書を捲りまくったからだ。お蔭で私自身の御言葉に対する信頼は深まったが、それで人を説得できたわけではなかった。
旧約聖書のヨブ記は、裕福だったヨブが急転直下、子どもも財産も健康も奪われ、苦悶のうちに神に掴みかかるように対話を試みていく物語である。ヨブに襲いかかった災難を聞きつけた友人三人がヨブを見舞うが、そのあまりの悲惨さに七日間はただ黙って共に座しているだけだった。だが、ヨブが神に窮状を訴え始めると、その毒々しさに友人達はこもごもに意見を言い出すようになる。ヨブは苛つきのあまりこう言う。
そんなことはみな、わたしもこの目で見 この耳で聞いて、よく分かっている。
あなたたちの知っていることぐらいは わたしも知っている。あなたたちに劣ってはいない。
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。
あなたたちは皆、偽りの薬を塗る 役に立たない医者だ。
どうか黙ってくれ 黙ることがあなたたちの知恵を示す。
わたしの議論を聞き この唇の訴えに耳を傾けてくれ。
神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り 欺いて語るのか。
神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか。
(ヨブ記13章1節〜8節)
クリスチャンの多くは普段は穏やかで、神様へのお祈りもきっと清らかなのではと世間には思われているフシもあると思う。でもその温和さは、独り神様と格闘して得られた結実としての立ち居なのだ。詩編79編5節には「主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。」という訴えがあるし、詩編89編47〜49節には「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください わたしがどれだけ続くものであるかを あなたが人の子らをすべて いかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものが ひとりでもあるでしょうか。」という嘆願も見出せる。
『信徒の友』2022年9月号・読者文芸「川柳」欄に、ぴっかるという方の
温暖化、コロナ禍、戦下、なぜですか
という句が載っていた。この方は当然クリスチャンなのだろうが、神様にこういう問いを投げかけている。このように大きく躓く時に、めいめいが神に「どうして!」と食ってかかっていってよいのである。
ノンクリスチャンにそのような問いをぶつけられた時、答えを代弁してはならないのだと最近の私は自戒している。その人に最終的に「私を」でなく「神様を」信頼してもらえるように願うなら、尚更である。非信者であっても、神様との直の関係を築いていける。その機会を奪ってはならない。
砂狐(さこ)(うたの日 2022年10月2日『はい/いいえ』)
物凄く率直な歌である。世界を見渡しても身廻りを見ても、痛ましい事件・つらい事柄ばかり起こっている。コロナウイルスに感染して苦しむ方や亡くなる方が跡を絶たず、長引くコロナ禍で立場の異なる人達の啀み合いが激化していることだけ見ても、神様は私達を苦しめようとされているのではないか?そんなことして神様は幸せなの?と、主体のように問いたくなるのは無理からぬことである。
以前の私は、そういう問いを自分に向けられたと思って、何とか答えなければならないと四苦八苦したものである。今の私が割と聖書に詳しいほうなのは、答えの簡単に見つからぬ事柄が眼前に突きつけられた時に(「聖書に答えがある」って言うなら神様、ここに出してきなさいよ!)と闇雲に聖書を捲りまくったからだ。お蔭で私自身の御言葉に対する信頼は深まったが、それで人を説得できたわけではなかった。
旧約聖書のヨブ記は、裕福だったヨブが急転直下、子どもも財産も健康も奪われ、苦悶のうちに神に掴みかかるように対話を試みていく物語である。ヨブに襲いかかった災難を聞きつけた友人三人がヨブを見舞うが、そのあまりの悲惨さに七日間はただ黙って共に座しているだけだった。だが、ヨブが神に窮状を訴え始めると、その毒々しさに友人達はこもごもに意見を言い出すようになる。ヨブは苛つきのあまりこう言う。
そんなことはみな、わたしもこの目で見 この耳で聞いて、よく分かっている。
あなたたちの知っていることぐらいは わたしも知っている。あなたたちに劣ってはいない。
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。
あなたたちは皆、偽りの薬を塗る 役に立たない医者だ。
どうか黙ってくれ 黙ることがあなたたちの知恵を示す。
わたしの議論を聞き この唇の訴えに耳を傾けてくれ。
神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り 欺いて語るのか。
神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか。
(ヨブ記13章1節〜8節)
クリスチャンの多くは普段は穏やかで、神様へのお祈りもきっと清らかなのではと世間には思われているフシもあると思う。でもその温和さは、独り神様と格闘して得られた結実としての立ち居なのだ。詩編79編5節には「主よ、いつまで続くのでしょう。あなたは永久に憤っておられるのでしょうか。あなたの激情は火と燃え続けるのでしょうか。」という訴えがあるし、詩編89編47〜49節には「いつまで、主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に火と燃え続けるのですか。心に留めてください わたしがどれだけ続くものであるかを あなたが人の子らをすべて いかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものが ひとりでもあるでしょうか。」という嘆願も見出せる。
『信徒の友』2022年9月号・読者文芸「川柳」欄に、ぴっかるという方の
温暖化、コロナ禍、戦下、なぜですか
という句が載っていた。この方は当然クリスチャンなのだろうが、神様にこういう問いを投げかけている。このように大きく躓く時に、めいめいが神に「どうして!」と食ってかかっていってよいのである。
ノンクリスチャンにそのような問いをぶつけられた時、答えを代弁してはならないのだと最近の私は自戒している。その人に最終的に「私を」でなく「神様を」信頼してもらえるように願うなら、尚更である。非信者であっても、神様との直の関係を築いていける。その機会を奪ってはならない。