① 午前中は、今日のFEBC、および7/24のFEBCの平野克己先生の「祈りのともしび〜ひとつごころで御前に立つ」(余命少なくなった時、的なテーマ)を聴けた。感謝。
② 昼前に日用品を買うなどしてこられた。感謝。
③ 午後一で、「老いるということ」をテーマにした一首鑑賞を書けた。感謝。
④ 私の死後、『カインの祈り』の残部の管理/謹呈発送をお任せできる方(or団体)が見つかりますように。また、そのための諸経費(発送などの)をお渡しするのに一番良い方法が何か、主よお示しください。
文房具のにほひなつかし交換も一つおまけもなし人生は
小島ゆかり『六六魚(りくりくぎょ)』
『六六魚』は、小島ゆかりの第十四歌集で、小島が59歳から61歳の頃に詠まれた歌を収めた歌集である。ちょうどそういうご年齢なのだろう、小島のご息女が子ども(孫)を産む前後の風景も数多く登場し、ふっと老いを自覚するような瞬間のことがしみじみとした情趣で詠われている。
先ごろ私は市の健康診断へ行った。ここ6,7年、私は健診のたびに戦々恐々としている。39歳で乳がんが見つかり、その治療でホルモン剤を長く服用したせいなのか、それともただ加齢であるのか、たいそう吐きやすい体質になってきたためである。四十代半ば頃からは、暑い最中に絶食状態で健診に備えるからか、健診の終了後5時間ほどして嘔吐してしまうことが増えた。私が三十代の頃は、健康診断の列で待ちつつ受付の声を聞きながら、何でお歳を召された方々が基本健診しか受けない人が多いのか理解できなかった。けれど今となってみれば、何となく察しがつく。病気——たとえば癌——の治療をして治癒したとしても、治療の後遺症で苦しむこともある。それにいずれは誰しも死ぬ——。多種類の検査を受けずにいて気づいた時には病状が進行していたとしても、それはそれで甘受する覚悟ができているなら、それも一つの生き方であろう、と今は思う。
くりかへし夏はめぐりて瓜を食むおかあさんおばあさんひいおばあさん
私の通っている作業所では雑談が認められている。つい先日、あるメンバーに「◯◯さんは果物では何がお好きですか?」と尋ねた。肉やパンなどの好きなメンバーだったので、果肉感たっぷりのものを挙げるかなぁと何となく予測していたのだが、その方は「西瓜が好き」と仰った。同意の声があちこちから洩れた。この夏はそのくらい暑い。
私の父は食道がんで2011年に没したが、最後のほうは梨をすり下ろしたのしか喉を通らなくなっていた。私も、最期の頃には、梨を食べたいな、と思う。
女ざかりとはいつなりき夏ごとにひとり歩きの涼しくなりぬ
今夏はあまりに暑すぎて、散歩は朝のゴミ出し時に余裕があればする程度である。でも昨年や一昨年、晩夏の夕刻に散歩に出かけると、今までと違って明らかに足元が冷えるのを感じた。歳を取るってこういうことなのかな……という感慨を持ちつつ、父が生前、冬に車の窓を開けつつ30℃設定で暖房していたことを冷ややかな目で見ていたことを、つくづくと悔いた。私もここ何年かは、家に居る時に身体が難儀で空気が動いていてほしくて、特に暑くなくても扇風機を弱で回していることが多い。
心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙 一 3章20節)
この聖句は、私が葬儀の時に読み上げてほしいと「N教会員の覚書」に記した御言葉である。私は非情だった。簡単に人を裁いていた。今、どれほど赦されてきたのかが分かる。
「我欲」のような拘りは捨てて、最期の日まで生きられれば幸いである。