◆3月2日
詩篇71:9「年老いた時も、私を見放さないで…」。若い頃は仕事等が重要に見えたが、中年になり病気して色々失うと、主だけが共にいらしたことを痛感。15節「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが」
◆3月5日
詩篇74:22「神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください」(新改訳)。「言い分を立てて」はNIVでは〈defend your cause主張を守って〉。神様は不要な自己弁護はなさらない。
◆3月10日
ルカ6:29「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」を読んで、大崎瀬都さんの短歌「他の頬を差し出すといふ救ひあり仕返しできぬ立場の人に」を思い巡らした。苦しめる者に報復せず却って彼らのためにとりなしの祈りをした主を思って、初めてできる業。
◆3月11日
ルカ7:37~。罪深い女が主の御足を髪で拭い香油を塗ったのを、ファリサイ派の人は「主に触れている」としか思わなかった。だがイエスは「涙で足をぬらし髪で拭い、足に接吻し香油を塗ってくれた」と語る。一連の行動にこめた私達の思いの一つ一つを主は見過ごされない。
◆3月13日
詩編86:11は新共同訳の「御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください」がしっくりくる。本来は〈一つの心〉の意だろうが、「一筋」には(山をも動かす)からし種一粒ほどの信仰、に通じる含みが。一条の心から主を崇める信仰へと導かれる私達。
◆3月14日
詩篇87:4「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として」(新改訳)。旧約の時代から、神様は分け隔てなさらなかった方であるのに今更気づく。通読って大事ですね。
◆3月15日
ルカ9:10~。伝道から帰った使徒達を連れイエスはベツサイダへ密かに退く。新改訳11節には「ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしに…」と。喜んで、に瞠目
◆3月16日
詩89:14「恵みとまことは、御前に先立ちます」(新改訳)この〈まこと〉は、faithfulness忠実さ。一方、ヨハネ福音書1:14のイエスの受肉のくだりの結びの「恵みとまことに満ちておられた」は、truth真実。主の誠実を表す英語の語彙の豊かさを思う
◆3月17日
詩編90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。今日は乳癌術後4年目の検査。乳癌になって生き方が見えてきた。代読ボランティアも教会トラクトのための一首鑑賞執筆も、張り合いになっている。悔いなく生きたい。
◆3月23日
詩篇98:4「全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え」。一見ああ讃歌か…と思ったが、NIV後半「burst into jubilant song with music」に瞠目。どっと堰を切ったように喜びの歌に溢れる、とイメージが膨らむ。
◆3月30日
詩編107:20「主は御言葉を遣わして彼らを癒し破滅から彼らを救い出された」。イエスはその口の言葉で、遠く離れたところにいる病人をも癒した(マタイ8:5~13)。いま私達の許には聖書がある。イエスは時空を超えて私達を助けることがおできになる。
◆3月31日
詩編108では「神よ、わたしの心は確かです」と前置きして賛美するが「曙を呼び覚まそう」 と、夜明けを待ちかねるほど賛美への希求がほとばしっている。新改訳13節には「神によって、私たちは力ある働きをします」と。私達の手の業は、神にあって初めて意味あるものに
※ NIV … New International Version
詩篇71:9「年老いた時も、私を見放さないで…」。若い頃は仕事等が重要に見えたが、中年になり病気して色々失うと、主だけが共にいらしたことを痛感。15節「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが」
◆3月5日
詩篇74:22「神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。愚か者が一日中あなたをそしっていることを心に留めてください」(新改訳)。「言い分を立てて」はNIVでは〈defend your cause主張を守って〉。神様は不要な自己弁護はなさらない。
◆3月10日
ルカ6:29「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」を読んで、大崎瀬都さんの短歌「他の頬を差し出すといふ救ひあり仕返しできぬ立場の人に」を思い巡らした。苦しめる者に報復せず却って彼らのためにとりなしの祈りをした主を思って、初めてできる業。
◆3月11日
ルカ7:37~。罪深い女が主の御足を髪で拭い香油を塗ったのを、ファリサイ派の人は「主に触れている」としか思わなかった。だがイエスは「涙で足をぬらし髪で拭い、足に接吻し香油を塗ってくれた」と語る。一連の行動にこめた私達の思いの一つ一つを主は見過ごされない。
◆3月13日
詩編86:11は新共同訳の「御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください」がしっくりくる。本来は〈一つの心〉の意だろうが、「一筋」には(山をも動かす)からし種一粒ほどの信仰、に通じる含みが。一条の心から主を崇める信仰へと導かれる私達。
◆3月14日
詩篇87:4「わたしはラハブとバビロンをわたしを知っている者の数に入れよう。見よ。ペリシテとツロ、それにクシュもともに。これらをもここで生まれた者として」(新改訳)。旧約の時代から、神様は分け隔てなさらなかった方であるのに今更気づく。通読って大事ですね。
◆3月15日
ルカ9:10~。伝道から帰った使徒達を連れイエスはベツサイダへ密かに退く。新改訳11節には「ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしに…」と。喜んで、に瞠目
◆3月16日
詩89:14「恵みとまことは、御前に先立ちます」(新改訳)この〈まこと〉は、faithfulness忠実さ。一方、ヨハネ福音書1:14のイエスの受肉のくだりの結びの「恵みとまことに満ちておられた」は、truth真実。主の誠実を表す英語の語彙の豊かさを思う
◆3月17日
詩編90:12「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。今日は乳癌術後4年目の検査。乳癌になって生き方が見えてきた。代読ボランティアも教会トラクトのための一首鑑賞執筆も、張り合いになっている。悔いなく生きたい。
◆3月23日
詩篇98:4「全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え」。一見ああ讃歌か…と思ったが、NIV後半「burst into jubilant song with music」に瞠目。どっと堰を切ったように喜びの歌に溢れる、とイメージが膨らむ。
◆3月30日
詩編107:20「主は御言葉を遣わして彼らを癒し破滅から彼らを救い出された」。イエスはその口の言葉で、遠く離れたところにいる病人をも癒した(マタイ8:5~13)。いま私達の許には聖書がある。イエスは時空を超えて私達を助けることがおできになる。
◆3月31日
詩編108では「神よ、わたしの心は確かです」と前置きして賛美するが「曙を呼び覚まそう」 と、夜明けを待ちかねるほど賛美への希求がほとばしっている。新改訳13節には「神によって、私たちは力ある働きをします」と。私達の手の業は、神にあって初めて意味あるものに
※ NIV … New International Version