毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「2011年3月11日から8年を経て思う」No.2861

2019-03-14 11:57:48 | 東日本大震災

2011年3月11日、東北を襲った地震と津波。

私は中国江西省南昌市の大学宿舎で中国人の同僚からその報を得ました。

翌3月12日は、

中国CCTVの英語チャンネルで

津波が市や町を飲み込み、福島原発が大爆発する映像を

何度も、何度も、何度も、見ました。

クリックすると新しいウィンドウで開きます


あれから8年経ちましたが、

この日本全体にとっての未曾有の大災害を

忘れないこと、風化させないことは

かなり難しいことだと自分を省みて感じます。

その原因は、私が日本で生活する時間の少なさや

目の前の日常に振り回されて

「意識低い系」に成り果てているということもありますが、

厚かましくそのことを横に置いて指摘したいのは、

ネットニュースやメディア情報で取り上げられることが

極端に減っていることです。

被害日本大震災・福島原発事故と言い、

沖縄米軍基地問題と言い、

日本全体にとっての大問題は毎日途切れることなく

私たちに知らせ、警鐘を鳴らすのが

テレビ・新聞・ネット等のマスメディアの使命でしょう。

私たちはその情報から、

ハッと気付くことがとても多いのですから。

ところが、その仕事をメディアはきちんと果たしているとは

到底言えません。

もはや政府にとって都合の悪いこと、政府不信につながることは、

伝えさせないように

当局が圧力をかけているとしか考えられないのです。

メディアは踏ん張って、自分の使命を果たして欲しいと思います。


今も5万人を超す避難生活者がいること。

福島で事故当時を生き延びながらも、

その後亡くなった震災関連死者が2267人に上ること。

・・・毎年3.11が来ると更新されて示される数字、

これを単なるデータとするか、

1つの数字から1人の生きた人間の姿を浮かび上がらせるか、

個人の想像力とメディアの伝える力、

その双方が問われている・・・・・・って、

こんなことも当たり前のことなんですが……。

ジレンマに陥る今日この頃です。

  

 

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「ありがとうの詩(うた)」 2013年3月12日(火) No.588

2013-03-12 22:31:44 | 東日本大震災
東日本大震災の被害にあった方々が書いた「ありがとうの詩(うた)」。
ありがとうと言って欲しくて支援したわけじゃない。
そんな言葉を言われると身が縮む。
でも、その言葉を言う被災者の心を思うと、
泣けてくる。

「ありがとう」
文房具ありがとう  
鉛筆、分度器、コンパス大切にします

花の苗ありがとう  
お母さんと鉢に植えました    花が咲くのが楽しみです

うちわ ありがとう 
暑い時うちわであおいでいます

靴をありがとう   
サッカーの時とっても蹴りやすくて  一生懸命走っています

クッキーありがとう 
家でおいしく食べました

参考書ありがとう  
勉強これからがんばります

図書カードありがとう  
本をたくさん買いました

焼きそば作ってくれてありがとう 
おいしくいっぱい食べました

教室に扇風機ありがとう  
これで勉強はかどります

応援の言葉ありがとう  
心が元気になりました

最後に
おじいちゃんを見つけてくれてありがとう  
さよならすることができました


菊田 心 (気仙沼市 11歳)
✩震災の後、学校に通えるようになると毎日のように支援物資を持って帰りました。お母さんは「感謝だね。ありがとうだね。」と言っていましたが、僕はきちんと感謝の気持ちを言えていなかった気がしました。おじいちゃんは夏はキャンプ、冬はスキー、アトピーの僕を温泉に連れて行ってくれたり、書ききれないくらい大好きでした。
3月11日から帰ってこないおじいちゃんを、2ヶ月経った時見つけてくれたのは、遠くから応援に来てくれた警察の人でした。涙がいっぱい出ましたが、きちんとお別れすることができました。
この詩を書く事で、今は元気に学校へ通っていることを名前も分からないけど応援してくれたたくさんの人に伝えたい。たくさんの「ありがとう」を書きました。


「ありがとがす」
だらだらの汗  日焼けした顔  泥まみれの作業服
おめえ様とすれ違うとき
おらは目頭が熱くなるちゃ
宿舎に戻っていくおめえ様の背中に向かい
おらは心の中で最敬礼するのしゃ
おめえ様は「仕事だから」と実に格好いい
おめえ様にも緑豊かな故里があり
心優しい家族が待ってるべ
ほんでも もうちょっとだけ
おらに力を貸してけねが
おらも精一杯努力すっから
必ず夜の次には朝が来て
泣いたあとには笑う時が来るちゃ
この前テレビでどこかのばあちゃんが
ありがとがすと何回も頭を下げていたのしゃ
おらも同じだ
ありがとがす  ありがとがす  ありがとがす
おらも精一杯努力するから
ありがとがす


✩連日支援に向かう多くの方々を見て、せめて詩を借りてお礼を申し上げたいと思いました。

                  ―河北新報社「ありがとうの詩」より―
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「twitter・ facebook・ブログやらの効用実感!」 2012年6月27日(水) No.381

2012-06-27 21:05:31 | 東日本大震災
今日は朝から何回もインターネットで日本のニュース(特に自分の地元・関電株主総会)をチェックした。

しかし、朝9時ぐらいでは関西電力株主総会について、
「反原発グループが会場前で怒号・占拠」「橋下市長大暴れ?」とか
日本のメディアの際立った特徴である興味本位の野次馬みたいな見出しばかりが目について、
反原発・脱原発グループの方からの発信は見つけられなかった。

午後にMBSの切れ切れニュースが動画で見られた(中国だからね~、すぐ切れちゃうんですよ。でも、見られるだけマシ)。
梅田芸術劇場前からの中継だった。
それで、気がついたことがある。
ニュースキャスター達は、会場の内部のことばかり話題にして、
自分の周りで太鼓叩いたり、ワーワー言っている原発反対グループについては
一切、見事に、何にも触れることはなかった、ということだ。
まるでスターの追っかけみたいに、
橋下市長の発言ばかり追い掛け回していて、
普通の市民が外で声を上げているのに、全く取材しようともしない。
日本のメディアの態度が非常によくわかった。
(ただしカメラはニュースキャスターの顔ばかり撮っているのもちょっと・・・と思ったのかして、
一回だけ誰かの背中のゼッケン《忌野清志郎の顔と‘いらねえ’という文字》をややアップにした)

さっき(午後8時頃)もう一度、ネットニュースを見たら、
なるほどね~、と思えるのが目に入った。
例えば下のようなもの。携帯でブログやtwitter、facebookにどんどん情報を書き込んだり、見たりして、
みんなチャッチャと行動しているのね~。
(中国政府が認めないわけだわ。強力だね、こりゃ)




2012年06月26日01:08に投稿 http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo

カテゴリオフ会原発

6月27日(水) 大阪・梅田で「脱関電オフ」第3回を開催するよっと。
関電株主総会の感想を語ったりします。

■企画内容

▼オフ会名称:脱関電オフ

▼開催日時 2012年6月27日(水)

▼集合時間 18時00分

(注)18時10分くらいに移動すると思われ。会場に到着したら場所をブログとツイッターで告知します

▼集合場所 大阪駅「時空の広場」
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「明日9電力会社株主総会を前に想う」 2012年6月26日(火) No.380

2012-06-26 13:20:12 | 東日本大震災
WEB版河北新報によると、
「いわき市小名浜港に上がったカツオが、風評被害により、東京築地市場で値がつかなかった」
とある。
私が思うに、選挙権がある大人はみんな福島産の食べ物を食べる義務がある。
これがちょっと過激なら、ぐっとトーンダウンして
「放射能の影響が出るころにはもう寿命尽きている元気な年寄りは」皆食べる義務がある、と言おう。
大人には原発を今まで止めることをしなかったという責任があるからだ。
特に、原発ムラの人々は朝・昼・晩、三度のご飯はきちんと福島の魚や野菜、米を食卓に乗せなければならない。
当たり前でしょ。
もし、検査で放射性物質が検出されたとしても、食べる義務がある。
私はそう思う。

放射能汚染されたがれきを全国に散らばらせるのには反対だ。
放射能被害は最小限度に留めるべきだからだ。
しかし、被害を受けた人に犠牲になってもらって
自分はのうのうと暮らすことにも反対だ。
何をするべきか?
放射能被害に遭った人たちが生活を立て直すために手を貸すべきだ、と思う。
それ以前に、申し訳ないという気持ちになって当たり前じゃないだろうか。
原発を推進してきた日本と日本人は、ずっと、原発立地県で暮らす人たちの危険リスクを省みてこなかったのだから。
「何言ってんだ、電力会社からもらった金でその県の人たちは潤ってきたじゃないか」
と言う人もいる。
しかし、福島県富岡町(福島第二原発の近く)から茨木県水戸市に避難している核災害避難者の木田節子さんは、
「町から毎年1万1196円、20年近くもらい続けてきた。でも、これっぽっちのお金で原発事故も我慢しなきゃいけないということか?」
「私たちは毎年、1万1196円もらってきた責任を取って、あの土地も家も諦める。だから政治家も、もっと良い給料もらっていたお前たち(原発事業関連者)も、責任を取って原発の後始末をしろ!」
と訴えている。

私はこの夏日本に帰ったら、福島に遊びに行こうと思う。
相馬市沖のタコとツブ貝を−−−福島で暮らしている人々の食べているのと同じものを食べ、少しでも気持ちを分かち合いたい。
元気なお年寄りの誰か、一緒にこの夏福島に行かない?

大阪では、明日(6/27)、朝8:00茶屋町梅田芸術劇場集合「茶屋町ジャック!」(関電株主総会包囲行動)があるそうです。


福島のニュース(河北新報web版)
『試験操業で漁獲の相馬沖魚介類、店頭へ「待ちわびた」敬遠も』

原発事故後、初めて販売された地物のタコを買い求める客
=25日、ヨークベニマル相馬黒木店



 福島第1原発事故で休漁し、試験操業で漁獲された福島県相馬市沖のタコとツブ貝が25日、相馬、福島両市のスーパーや魚店で販売された。原発事故で漁の全面自粛となった県沖の魚介類が店頭に並ぶのは1年3カ月ぶり。相馬市のスーパーでは地物の味を待ちかねた客が次々に買い求めてほぼ完売し、漁復活に向けて一歩を踏み出した。

 相馬市のヨークベニマル相馬黒木店には、ボイル加工されたタコ、ツブ貝がトレーに入れられて陳列された。タコの価格は100グラム当たり128~148円で、同店に並ぶ国産の半値。消費者の反応を見ようと、価格を抑えて売り出された。
 相馬市の主婦斎藤照子さん(77)は「待ちわびた味。これで浜も活気づけばいい」と話し、タコを試食して買い物かごに入れた。
 ヨークベニマルは同店と市内のもう1店でタコ78キログラム、ツブ貝35キログラムを仕入れた。夕方までにはほぼ売り切れ、「地物を望む人が多く、反応がいい。次回は宮城県南でも販売したい」と言う。
 タコはミズダコとヤナギダコ、ツブ貝はシライトマキバイで相馬双葉漁協(相馬市)が22日に相馬市の50キロ沖で漁獲した。検査で放射性物質が検出されなかったことを受け、加工して計680キログラムを出荷。相馬市の11店のほか、福島市で販売された。
 販売好調だった一方で敬遠する消費者も。2児の母で3人目を妊娠中という相馬市の主婦(28)は「原発事故前は国産や地元産の物を食べたが、今は逆。特に海の物は心配で買えない」と語る。
 水産卸のいわき魚類(いわき市)は「休漁で地物の水揚げがなく、いわきでも相馬産の引き合いはあるが、いわき市の小名浜港に揚がったカツオが風評被害で東京の築地市場で値が付かなかったこともあり、首都圏での販売は厳しいのではないか」とみる。
 相馬双葉漁協の南部房幸組合長(78)は「安全性には自信を持っている。浜の現状を理解してもらい、多くの消費者に買ってもらいたい」と話した。次の試験操業は27日で、検査で基準値を下回れば県外向けにも出荷される見通しだ。
2012年06月26日(火)
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「大船渡の漁師さん達」 2012年6月22日(金) No.377

2012-06-22 14:03:45 | 東日本大震災
「ほぼ日刊イトイ新聞」の「仕事!論」に岩手県大船渡の漁師さん3人へのインタビューが載っていた。
昨年3・11以降、私の涙腺は特に緩んでいるのだが、
話の中で「だからさ、俺たち今、わーくわくしてんの!」
のくだりで、堪えられない涙がまたまた・・・。
何百年もの間、過酷な自然と圧政に耐えて生きてきた東北人のふんばり力が全開の話だ。
あまりにも長いので、みんな「ほぼ日」の仕事論読んでと言いたいが、
やっぱり途中まででも紹介したい。
東北弁は北海道弁と共通するところがとても多い。
何しろ北海道は東北出身者が多いからね。
私が生まれる前に亡くなった父の母(つまり祖母)も岩手出身だそうだ。
熊谷さんの言葉、なんか懐かしい響きだと思った。





── 昨年の震災で、みなさんの船は‥‥?
熊谷 流されてしまったね。

── そうでしたか。
熊谷 だで、また新しく、つくるのさ。
いま、造船所の数が足りてないもんだから順番待ちしてんだけど。
── ご予定では?
熊谷 ことし9月着工の、12月完成予定。
── じゃあ、またみなさんで漁に出る、と。
熊谷 ただよ、俺たち「震災前の状態」には、戻りたくはないのさ
── ‥‥とおっしゃいますと?
熊谷 だってよ、思い返してみるとさ、津波の前は、海は痩せてしまってたしよ
獲れたら獲れたで価格が暴落して「大漁貧乏」になるしで漁師はみーんな、きゅきゅうとしてたんだもの
── ‥‥なるほど。
瀧澤 あの状態に戻るだけなら、「復興」ではない

熊谷 それもこれも、震災直前は、貧乏ヒマなしでよ、魚を食べる人のことなんてぜんぜんかまってられなかったのが原因なのさ。
── 食べる人‥‥というのは最終的な消費者のこと、でしょうか。
遠藤 ま、これまでの漁師というのはお客さんのことをあんまり、考えてこなかったんですよね。 獲るだけ獲って、市場に持ってくだけで。

── ええ。
熊谷 でもさ、津波にやられて気がついたのは、これからはそれじゃダメなんだっつうことでさ。
遠藤 やっぱり、震災で海に出られないようになると、お客さんのことをどうしたって考えるようになるんです。
── それは、具体的にはどういった‥‥。
熊谷 お客さん、何がうれしいかってことさ。 たとえばよ、サンマでも何でもいいんだけどさ、「魚がたくさん獲れました」と。
── ええ、ええ。
熊谷 今までみたいにそれをそのまんま市場に持ってくだけならお客にとっては珍しくもにゃあし、俺らにしたって値段が安くなって「大漁貧乏」になるのさ。

── はい、なるほど。
瀧澤 だからさ、それをよ、たとえばだけどね、すぐ出さないでちょっとプールかなんかに泳がせといてさ、日にち見てからいつもどおりの岩手県じゃなくて山形に出すとか、
ちょっと冒険して北海道に出しちゃうかとか、そういう工夫をすべぇと。

── 漁師さんたちが、魚の「流通」面にイニシアティブを取れるようにしよう‥‥と。
熊谷 だってそうすりゃあ、お客さんもうれしいし、俺らも値段が上がって、うれしいべ?
遠藤 ただね、漁師がそこに関わり出してしまうと、漁師じゃなくなってしまうんです。
── 日々、漁があるわけですものね。
瀧澤 だで、チーム組んでやろうやと。
── チーム。
遠藤 これまで、漁師というのは魚を獲る個人プレーヤーだったんだけれども、魚を貯蔵しておく設備を持っていたりインターネットの流通ルートを持っていたり、そういう他業種の人と組合をつくって協働するんです。

── それは「魚を獲って、うまく売る」集合体をつくる‥‥ということですか?
瀧澤 今、いっしょにやろうやって相談してる八木さんのところにCAS(キャス)って冷凍機があんのさ。
── はい、知ってます。 八木さん、というのはインターネットで鮮魚を直売してらっしゃる三陸とれたて市場の八木健一郎さんのことですね。

瀧澤 そう。
── 以前、取材させていただきました。 そのときに「CAS」のこともお聞きしていて、それはつまり、これまでの冷凍技術とはちがい瞬時に水分を凍結させることで冷凍による「食味の低下」を大幅に防ぐ「すごい冷凍庫」であると。
熊谷 そうそう、だから、そのCASを使ったらよ、まったく旬でない時期に味の落ちてない魚を出せるのさ。
── なるほど‥‥。
「漁師さんが魚を獲る」ということ自体は以前と変わらないけど、「獲った魚が、お客さんと接する面」をいろいろ、工夫していくと。
遠藤 そう、気心知れた仲間と連携してやるんです。おんなじ考えのもとでね。
── 「漁師さんが、市場とつながる」試みですね。
瀧澤 それもよ、被災してからのこの1年、俺たち漁師が、海に出られなくてヒマだったから考えられたことであってさ。
熊谷 被災前、きゅうきゅうとしてたころなら「そんなの、かまってられるかい!」ってでっかい声出して言ってしまうところよ。

瀧澤 そういう意味では、貴重な1年だったね
── あの震災を経験したあとに「貴重な1年だった」って言えることって、
なんというか、すごいと思いました。
瀧澤 ‥‥漁場が深いのよ、岩手県て。
── はい、水深が。
瀧澤 だからよ、毛ガニでもホタテでもなんでも、そのぶん「甘み」が違ってくるのさ

熊谷 そうそう。
── 「深い」と「甘い」んですか。
瀧澤 俺たち、水深200メーターで獲ってんだけど海洋深層水が「甘み」に作用してんだと思うんだ。
熊谷 カニミソの味も違うぞ。まーろやかだから
── つまり、岩手の魚介はうまいぞと。
熊谷 おーーう!
瀧澤 だから、俺たちのうんまい魚がさ、CASだとかインターネットだとかと組み合わさったら最強だべ?
遠藤 やはり、どこの漁師だって「自分たちの獲る魚がいちばん美味しい」と思ってなきゃあ、やっていけませんのでね(笑)。

瀧澤 あとさ、ほんとはね、ここで獲れた魚は、この浜で食べるのがいちばん、うまいの。
── そうなんでしょうね。
熊谷 人には「五感」つうのがあるっちゃ、目あって、鼻あって、何だ、肌で感じたり、そういうのがぜんぶ、のどをを通ったときの味になるんだな。
── ええ、ええ。
瀧澤 ならばさ、この大船渡の浜に漁師小屋つくって俺らの漁師料理を商品にして食べさせる店をつくったら、いいと思うのさ。
── 熊谷さんたちが、この調子で料理をしてくれたりしたら楽しそうですね! 何より食べてみたいですし、漁師料理。
熊谷 ウニを溶いた醤油で食うイカなんか、うんめぇんだぞー。なあ?

遠藤 商品としても、ネットで販売したりしてね。
熊谷 どうよ、おもしろくなりそうだべ?
── はい、ほんとに。
熊谷 さっき話した、俺たちの「よかった時代」な?
── ええ。
熊谷 あれ、昭和60年代なんだけども、あの頃は、ほーんと楽しかったの、毎日が。
瀧澤 いろいろ、めちゃくちゃでさ(笑)。
熊谷 昼間はゴルフ、夜は漁でガバーッと獲ってさ、3日くらい寝ないでも平気だったのさ。
── はー‥‥。
熊谷 赤字出たって一発逆転できる浜だったから、そういうギャンブル的な意味でも、楽しかったのよ。
── 聞くだに、スリリングな毎日です。
熊谷 でもよ、その時代が終わったあとは‥‥行政なんかとも、なんだか揉めたりしてさ、魚も捕れなくなったりで、俺らの暮らしは、ずーっとダメだったの。 貧乏でせつない漁師生活、しやったのさ。
── ‥‥ええ。
熊谷 それでも、どうにかこうにか生きてやったのが、今度の津波で、どん底まで落ったっちゃ。
── はい。
瀧澤 だから、津波から復興しよう復興しようってどんだけ言ってもよ、あの、おんなじところに戻るんじゃダメなの。

── 「以前の状態」に戻るだけでは。
熊谷 でも、ほれ、さっきのCASの話から何から、津波のあとにみんなでいろいろ考えて、話し合いをしてやろうって決めたことにさ、俺たち、いま、わーくわくしてんのさ
── そうみたいですよね!
瀧澤 CASで鮮度保持して、販売ルートを考えて。
遠藤 「季節をぶっ壊す」ようなことですから。
熊谷 半年後にサンマの刺身を食べられるだとかさ、そんなの、だーれも考えたことねえっちゃ。
── それがやれるぞ、と。
瀧澤 それを、やるぞーと。
熊谷 だからよ、これから俺らがはじめることを想像したときの、この「わーくわく感が」よ、むかし、めっちゃくちゃに「よかった時代」に味わったわーくわく感に、どっか似てんの。(後略:続きはほぼ日刊イトイ新聞『仕事!論』に)

2012-06-21-THU
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