⤴授業で使った写真
友人のきんときさんがあるTV番組を紹介してくれたが
テレビを観なくなって幾星霜、番組の時間に合わせて自分の生活を調整する習慣は失われ、
せっかくのお勧め番組もたいがい気がついた時には既に終わっている。
番組予約の方法は忘れたし、思い出すのも億劫だ。
そういう訳で、今回紹介された番組も事程左様に見逃がしてしまった。
しかし、これは観ればよかったとつくづく後悔した。
ネットの有料アーカイブでも、もう観られない。
それは、福島原発事故後、トラックに福島の被爆牛を乗せて霞が関に横付けし、
生きている牛の命を殺処分するな、と訴えていたあの吉沢正巳さんのその後の話だった。
きんときさんの紹介文:
NHK『こころの時代』〜『185頭と1人 生きる意味を探して 吉沢正巳』
吉沢さんは福島県浪江町「希望の牧場」で国策に反して、一人で被爆した肉牛の世話を続けてはります。
「どんな命にも意味があって寿命まで生きるべきだ」と高齢になり衰弱していく牛たちに最期まで餌をやり続けてます。
元は肉牛を金儲けの手立てとして、二歳になれば屠殺場に出していたけど、原発事故を契機に無惨な死に方をさせてはいけないと。そこには、国策に翻弄された満蒙開拓団だったお父さんの姿と重なる思いがあるそうです。
吉沢さんのお父さんは満州で終戦、その後の悲惨な行程の中で歩けなくなった幼子二人、義理のお母さんを(ソ連兵に殺されるなら、自分の手で)と…。
お父さんはシベリア抑留を経て帰国後、一頭の牛を飼うところから始められたそうです。
「無惨な死に方をさせてはいけない」という吉沢さんの言葉が重く響きます。
原発事故から年月が経ち、人々の関心、意識も薄れてきたのを感じていらっしゃるそうです。
『希望の牧場』のボランティアの方も5人に減り、一人で1日も欠かさず、お世話をされてる姿が胸に迫ります。
いろいろ考えさせられる番組です。
『希望の牧場』についてはずっと以前、私もブログで書いたことがあった。
中国の大学の授業で日本の環境問題の一つとして福島原発事故を取り上げたとき
吉沢さんの希望の牧場も教材にした。
なぜ吉沢さんが「希望の牧場」と名付けたのか、学生たちに考えを聞くと
「どんな暗い夜でも必ず朝が来る。絶望的状況にあってもきっと希望は生まれる、と
困難に直面している自分を励ます気持ちだったと思う」
というように、被災者吉沢さんの心に寄り添おうとする気持ちは感じられたが、
「牛を殺すなと言っても、牛を殺して肉を売って商売していたのに」と指摘する子がいたり、
「中国の原発は日本と違うシステムだから事故は絶対に起きない」と自国の原発を礼賛したり、
まあ、いろいろな意見が出ていたのを思い出す。
←授業で使った写真↓
私だとて「希望の牧場」の「希望」の重みがそんなに分かっていたわけではないが、
霞が関や渋谷ハチ公前で軽トラに乗って都民に訴えたり、
沖縄辺野古の座り込み現場に牛とともに登場して連帯を表明したり、
といった行動も併せて考えると、
国策に翻弄されたままでは、人間の命も牛の命も終わらせないぞ、
という強い意志をひしひしと感じていた。
今回きんときさんの紹介文で、
吉沢さんのお父さんが満州動員-敗戦-死の彷徨-シベリア抑留と、国策に翻弄され、
自分にとって最も大切な命を自らの手で潰した体験を持つということを知り、
吉沢さんの行動の芯に触れた気がした。
私も、日中戦争に従軍し除隊後一旦北海道に戻って結婚して、すぐに再び中国山東省に渡り、
日本軍関係の会社で働いて敗戦から半年後、這這の体で日本に引き揚げてきた父と
それに付き添った母を持つ。
当時の引揚者に国が与えた北海道の厚生開拓村(と言っても道東の未開のただの山)で、
火入れをし、焼き畑から農業を始めた30代頃のやせこけた両親の顔、
その後、親戚同士が集まり平野部で共同農場を経営するようになってからも
死ぬ間際まで肉体労働が付いて回った両親の曲がった背中を思うと泣きそうになる。
もし、戦争がなく、安定した社会に生まれたら
賢かったあの二人はどんな人生を送っていただろうか。
もう一度、あの人たちを生き返らせて十代からやり直させてあげたい。
国は国民のためにある、日本は戦争を放棄する、と今の日本国憲法は保証してくれている。
その憲法に守られて、生まれてから死ぬまで平和な時代を過ごさせてやりたかったなあ。
日米安保の下、敵基地攻撃能力の保持-大軍拡ー戦争準備に突き進んでいるアホ国家日本、
国の「安全保障」とは、
原発事故のない、戦争の不安のない、安心できる暮らしを国民に保証することが第一だろう。
福島以上の原発事故や再び日中戦争がないと命を思い出さないのか、この国のアホどもは。
⤴父母の故郷でもあり、私の故郷でもある北海道斜里・以久科から見た斜里岳(しゃりだけ)
現地を訪れた第一印象は「そこだけ時間が止まっている」だったそうだ。
スーパーマーケットの棚にはまだ商品が残っている状態で、学校の黒板にはその日学生らが書き残していった文字が刻まれている。
道路に置き去りになった車は深い緑に包まれ、宴会場の座敷のテーブルには皿が並んだままだ。
世界各地にあるゴーストタウンと同様の光景の中、ただ1つ、異質だったのは、地面に規則正しく並んだ汚染土を入れた無数の黒い袋である。
⇓草に飲み込まれていった道路脇のバイク
⇓茂みの中に取り残された車両
⇓草木はゆっくりと車を飲みこんでいった
⇓第一原発から20キロメートル圏内にあった公園のゴーカートは、まさに今からスタートする状態のままだ。
⇓線量を計るガイガーカウンターのメーターは6.794uSV/hを示している
⇓地割れした大地に放牧された牛。
これらの牛はこの地に残った吉沢正巳さん(60歳)がお世話をしている。
取り残され、おなかをすかせた牛たちを見捨てることはどうしてもできなかったという吉沢さんは、
彼らが死ぬまで世話を続けるという。
⇓テレビは1箇所にまとめられて捨てられていた
⇓ドローンで撮影した航空写真からは汚染土を入れた袋の量に圧倒される
⇓スペースを節約するため袋の上には袋が積み重ねられている
⇓汚染土袋が置かれている土地の所有者には、いずれはこの土を撤去すると告げられているが、
それがいつになるのかはわからない。