毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「オバマもアベも不戦とかよく言うよ(‐□‐;)」No.1840

2016-12-31 13:02:35 | 反戦平和

大晦日の夜、カレーを作りながらアベ首相の真珠湾でのスピーチを読んでいます。

驚きです。

安倍さんは兵士たちの人生や生活に思いをめぐらすことができる人だったんですね。

本当に詩的で美しい言葉ですよ。

しかし、アベさんの口からその言葉が出ると、

(どうしてこうも嘘八百並べ立てることができるんだろうな!)

という気持ちにしかならないのが残念です。

 

下にアベスピーチ全文を貼り付けましょうかね。

後年、証拠として役に立つかもしれませんからね。

 

 亡くなった兵士たちの人生を思うのは大切でしょう。

そして、二度とこのような犠牲者を出さないと決意し、誓い、実行することは、

最も重要です。

しかし、この不戦を誓う両者を見て、白々しい思いになるのは私だけでしょうか。

オバマさんが大統領になってからも、

アメリカはどれほど阿漕な戦争をやり続けていることか。

アベさん、あなたは同盟国アメリカのために血を流すことが必要だと言って、

ついこの間、集団的自衛権の行使容認を無理やりの強行採決でごり押しし、

PKO部隊などにはとても手に負えない状況にある南スーダンに

自衛隊員を派遣してしまいましたよね。

アベさん、「耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と波の音とともに」

自衛官の家族の泣き声が聞こえてきませんか。

一人ひとりの自衛官には、今も、

「その身を案じる母がいて、父がいる。愛する妻や恋人がいる。

成長を楽しみにしている子どもたちがいる」んですよ。

あなたは、そんなことはお構いなしに、アメリカから要請されたから、

国内で反対する全ての声を数の力で押し切って派遣しちゃったじゃないですか。

そして、犠牲者が出たら、「勇者」だと言って祭り上げるのですね。

そんなことする前に、本当に「不戦」と「和解」を実行してください。

最も緊張が高まっている国とこそ「和解」は必要なのです。

アメリカとなんか(と言っちゃ失礼ですけど)日米同盟という軍事同盟ががっつりできていて、

和解もへちまもないじゃないですか。軍事同盟で何が和解ですか。

戦争一直線じゃないですか。

オバマもアベも嘘ばっかついて、どうしようもないです。

そして、ドラクエじゃあるまいし、子供騙しに

戦争の時の兵士たちを「勇者」と持ち上げるのも止めた方がいいです。


昨年12月31日にこのブログに載せたのですが、

「勇者」の日本軍が山東省菏澤で何を したか、もう一度、ここに貼り付けます。

戦争に駆り立てられた人間の変化には、本当にぞっとします。

 

菏澤 馮庄 43.10.18 衆目注視の中で25歳の婦女を輪姦、陰部にコーリャン 殻を挿入、最後は刺殺

中国戦線における日本軍の性犯罪-山東省・湖北省の事例- 笠原十九司

 http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/06/kasahara_seihanzai.htm

 笠原十九司さんの業績を否定し、

「彼のやっていることは伝説を事実だと強弁することであり、彼の発言はファンタジーだ」

という主張もあるようです。⇒yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-186.html 

つまり、日本軍はそんなにひどいことをしていないと言いたいのでしょう。

下に実際に兵士として山東省に出兵した人(田村豊さん)のなま証言があります。

多くの元兵士は、あまりに酷いことをしたのでとても語れず、それをいいことに

日本軍の残虐行為はなかったと主張する傾向が強まっている日本ですが、

田村豊さんのように、人間の良心を振り絞って証言してくださる人が続くことを

心から願います。 

歴史の事実は政治の都合で捻じ曲げたり、なかったことにしてはならないのです。

ウソの歴史は学ぶ価値などありません。 

来年が少しでも良い年になりますように!

 〈付録〉

安倍首相の真珠湾での演説全文  http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS27H41_X21C16A2905E00/

 オバマ大統領、ハリス司令官、ご列席の皆さま、そして、すべての、アメリカ国民の皆さま。パールハーバー真珠湾に、いま私は日本国総理大臣として立っています。

 耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い静かな入り江。私のうしろ、海の上の白いアリゾナ・メモリアル。あの慰霊の場を、オバマ大統領とともに訪れました。そこは私に沈黙をうながす場所でした。亡くなった軍人たちの名がしるされています。

 祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを2つに切り裂いたとき、紅蓮(ぐれん)の炎の中で死んでいった。

 75年がたったいまも、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。

 あの日、日曜の朝の明るくくつろいだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の幸せを祈る声。

 1人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や恋人がいた。成長を楽しみにしている子どもたちがいたでしょう。それら、すべての思いが断たれてしまった。その厳粛な事実を思うとき、かみしめるとき、私は言葉を失います。

 そのみ霊よ、安らかなれ――。思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に花を投じました。

 オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界のさまざまな国の皆さん。私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪ったすべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった数知れぬ無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の哀悼の誠をささげます。

 戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを貫いてまいりました。

 戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針をこれからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固いその決意を日本国総理大臣として表明いたします。

 昨日、私はカネオヘの海兵隊基地に、1人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのをあきらめ、引き返し戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けていた側にいた、米軍の人々です。死者の勇気をたたえ、石碑を建ててくれた。

 碑には祖国のため命をささげた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉(だいい)」と、当時の階級を刻んであります。

 The brave respect the brave.

 「勇者は、勇者を敬う」

 アンブローズ・ビアスの詩は言います。戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。そこにあるのは、アメリカ国民の寛容の心です。

 戦争が終わり、日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は未来へと命をつなぐことができました。

 そして米国は、日本が戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは平和と繁栄を享受することができました。

 敵として熾烈(しれつ)に戦った、私たち日本人に差しのべられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。私たちも覚えています。子や孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。

 オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。その壁に刻まれた言葉が私の心に去来します。

 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。

 「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務をやりとげる」。

 エイブラハム・リンカーン大統領の言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めてここに、心からの感謝を申し上げます。

 あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く強く結ばれた同盟国となりました。それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。明日を拓く、「希望の同盟」です。

 私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、「和解の力」です。私がここパールハーバーで、オバマ大統領とともに、世界の人々に対して訴えたいもの。それは、この和解の力です。

 戦争の惨禍は、いまだ世界から消えない。憎悪が憎悪を招く連鎖は、なくなろうとしない。寛容の心、和解の力を、世界はいま、いまこそ必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と信頼を育てた日米は、いま、いまこそ寛容の大切さと、和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ「希望の同盟」なのです。

 私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。

 私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。

 そのための努力を、私たちはこれからも惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く誓います。ありがとうございました。

―――アベ演説ここまで

 

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「期末試験真っ只中の菏澤学院」No.1839

2016-12-30 23:17:27 | 中国事情

去年の12月30日も期末試験のことを書きました。

豪雪に見舞われた年でしたが、

旧三年生の教室は何年にもわたって暖房が壊れていて、

極寒の中での試験でした。

日頃、教師たちも(げ、今日はあの三年生の教室で授業か!とほほ)状態でした。

今年は、比較的穏やかな日が多くて助かります。

学生の親が市長に文句を言ったというあの旧三年のボロ教室は

さすがにもう誰も使っていないようです。

下は昨日29日の2年生の試験の様子です。

机上に眼鏡ケース、水筒、ティッシュがおいてありますが、

このうち、眼鏡ケース、水筒(またはペットボトルの水)は必需品です。

2010年、初めて中国の大学に来て、

殆ど全ての学生たちが眼鏡を持っていることに驚いたのですが、

それはここ菏澤学院でも同様です。

 

例によって試験中、私は4階の教室窓から外の様子を見ていました。

穏やかな晴れの天候のためか、向かいのメインビルディングがいつもよりカッコいい感じ。

試験を終えた学生たちでしょうか。

あるいは、試験なんかどうでもいい人たちかも。

勉強と距離を置く層の厚さが前任校とかなり違う点です(笑)。

 

ここからは試験後、宿舎に戻る道々撮った写真の解説です。


メインビルディングの前に大雑把な薔薇園があり、

その向こうに若人が踊っているみたいな〝う~ん”なモニュメント、

そのまた向こうに正門、そして、道を挟み大学前のお店が並んでいます。

屋台がズラリと並んでお祭りみたいな感じですが、

ある時突然、影も形もなくなります。

当局により強制退去させられるのです。

しかし、数か月で元通りの賑やかさです。

ゴミゴミしてはいますが、私はこの屋台(の存在)が大好きで、

みかん、バナナなど果物をよく買います。

 

いい天気の時は、必ずこのようなところにも洗濯ものが干されます。

キャンパスとは言え、生活圏なのですから。

こういうのも私は好きです。しかし、自分ではできません……。

 

旧グラウンド脇の粘土質の地面に張り付いた落ち葉。

「濡れ落ち葉」という言葉がありますが、これもいいじゃありませんか。

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「『新千歳空港で中国人大暴れ』の報道はヒドイヽ(`Д´)ノ」No.1838

2016-12-29 19:06:20 | 中日(日中)関係

過日(24日)、北海道の新千歳空港で

「飛行機が飛ばないことに腹を立てた中国人たちが大暴れ」した

という記事がネットで大々的に流れました。

その時はただ、100人以上が騒いだとか、ゲートを数人が越えて警官ともみ合ったとかいう

内容でしたので、きっかけは何だったんだろうと訝りながらも、

(ああ、これでまた中国人に対するマイナスイメージが増したなあ)

と残念に思いました。

私はここ通算6年間ほど中国で働いています。

その年月で分かったのは、日本国内によくある「中国人は×××」というイメージが、

一つの場面だけを切り取って、それが全てであるかのように流布していたり、

習慣の違いや、相手の事情も分からずに、

一面的に決めつけていることが非常に多いということです。

今回の「新千歳空港で中国人大暴れ」はどうでしょう。

 

まず、下にその時の報道3種類並べて見ましたが、

なんとまあ、3つともほとんど同じ内容で、

一体この記者たちはどこで誰に取材したのか不思議になるほどです。

報道記者とは自分の足でウラを取るとか、原因を探るとかするもんだ

と思っていたのですが、

どこの報道記事も、ただ一人の中国人の声も拾っていませんでした。

単なる大本営発表のコピーです。

それ、報道人として恥ずべきことではないでしょうか。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

①新千歳空港 中国人乗客ら大騒ぎ 大雪で搭乗便の欠航に怒り 産経新聞 12/26(月) 19:39配信

大雪で欠航が相次いだ北海道・新千歳空港で24日夜、国際線搭乗待合室で待つなどしていた中国人乗客らが腹を立て、大声で抗議するなど騒ぎになった。テレビや地元紙など複数のメディアが報じた。
報道などによると、24日午後8時ごろ、国際線の搭乗口前で乗る予定だった便が欠航し、中国人乗客ら100人余りが口々に大声で抗議。制止しようとして駆けつけた警察官に詰め寄った。トラブルで空港スタッフが押し倒されるなどしたという。

②「大雪欠航」でゲートに乱入、新千歳空港で中国人観光客大暴れ          2016年12月26日 14時00分 TBS  

大雪の混乱が続いた北海道の新千歳空港で、飛行機が欠航したことに腹を立てた中国人が、警察官に激しく詰め寄る騒動がありました。
 中国人観光客がゲートを勝手に越え、駆け付けた警察官に激しく詰め寄ります。撮影されたのは24日午後8時ごろ、新千歳空港の国際線ターミナルで、大雪のため飛行機が欠航したことに腹を立て、100人ほどの中国人が騒ぎ出しました。さらに、数人がゲートを勝手に越えたため、警察官と小競り合いになりました。この騒ぎによるけが人はいませんでしたが、2人が気分が悪くなり病院に運ばれました。新千歳空港では大雪の影響で、22日から24日の3日間で、1万1600人が空港で寝泊りしました。(26日13:49)

③欠航に立腹、中国人乗客ら新千歳職員ともみ合う2016年12月26日 12時53分読売新聞

 
千歳署によると、同日午後8時頃、搭乗便が欠航になったことで、100人を超える乗客が騒ぎだし、一部が搭乗ゲート内に入ろうとして空港職員や警察官ともみ合ったという。
同空港では22~24日、大雪のため欠航が相次ぎ、足止めされた延べ約1万1600人が空港泊を余儀なくされた。読売新聞 

―――――――――――――――――――――――――――

そろいもそろって「搭乗便が欠航になったことで」騒ぎ出したと書いてありますが、

しかし、中国人ならずとも、中国で暮らす者なら

飛行機の発着遅延など日常茶飯事であるのは誰だって知っています。

時刻通りに飛ばないから暴れたかのような記事の書き方は、

非常に意図的だと言わざるを得ません。

上の二紙+一テレビ局は、

「ほらね、だから中国人は困るんだよねえ。マナー悪い~」

みたいな風潮を煽っているのです。

結果、すぐに下のような書き込みがあるわけです。

中国人はものの道理がわからないかのような見下し感覚丸出しです。

私は中国人ではありませんが、

こうした愚かな記事に乗せられて、

深く考えないコメントを書く人の思考力のなさを残念に思います。

―――――――――――――――――――――――――――――

舐め犬飼いたいハルハラハル子@xxx_HH_xxx 新千歳空港での欠航で中国人が抗議…。雪なんだからしょうがないじゃんね。抗議してどうもなることじゃないのにそうしないと気が済まないなんて迷惑すぎ。

キヨママ@yasaguremittu26 新千歳空港。 飛ばないものは飛ばない。 なんでわかんないかな〜(~_~;) #中国人観光客

Uni_sh ARR@Uni_sh 新千歳空港で飛行機飛ばないからって中国人が搭乗口に積めよるってニュースでやってたけどヒドいな  2016.12.26 17:43

@itsuki4klfn 天候のことなんだから暴れてもどうしようもないのに… 「大雪欠航」でゲートに乱入、新千歳空港で中国人観光客大暴れ

――――――――――――――――――――――――――――――――

では、なぜ遅延に慣れているはずの中国人乗客が暴れだしたのでしょう。

その原因を書いた記事は27日になってようやくネット上に現れました。

当該乗客たちは一回の遅延どころか、前日、酷い場合は前々日から2日間、

空港内の国際線待合室に閉じ込められて外に出ることもできず、

食事も全員にきちんと配られていなかったり、

乳飲み子を床に寝かせて夜を明かさなければならなかったという事情が一つ。

もう一つは、前日から空港でひたすら待っていた自分たちをしり目に、

後から来た当日客がどんどん飛行機に乗って先に飛び立ってしまったということです。

(それに関する記事は下のサイトで読めます)。

なぜ、24日当日の記者たちはこうした事情を探りもせずに

センセーショナルな記事を書いたのでしょう。

まず、「中国人大暴れ」の情報が入った時点で自分が中国語が話せなかったら、

話せる人を現場に連れていくのが常識なんじゃないですか。

上の記事書いた人たち、本当に現場に行ったのかどうかも怪しいですよね。

無責任なウケネタ狙いをした下心が丸見えの非常に質の悪い記事なんですよ。

日本の人々が、報道記事を信頼する比率は世界でトップなのだそうです。

それだけに、報道する側はきちんと真実に近い記事を書かないとダメでしょ

今回の「中国人大暴れ」の記事は典型的な情報操作です。

報道した者たちは己を恥じて、

二度とこのような下品な記事を書かないようにしてください。ヽ(`Д´)ノプンプン


*なぜ中国人たちが怒ったのか事情が書いてある記事

  ↓      ↓      ↓

http://www.j-cast.com/tv/2016/12/27287020.html

http://sp.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=158914&ph=0

 




 

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「歴代首相で初めて!」No.1837

2016-12-29 13:07:16 | 日本事情

「のんきに介護」さんのブログで見つけて思わずプッと…。そっくりお借りします。

http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/f1fa76f627bf5ac410d36f53190ef2cf?st=0#comment-form のんきに介護

なすこさん・画 「歴代首相で初めて 」

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「中国の長距離寝台列車の葛藤」No.1837

2016-12-28 20:37:50 | 中国事情

マイナス3℃のキャンパス。この間まで樹々の葉が青々としていた気がしていたのに、もうどこもかしこも真冬の樹です。


中国で寝台列車を利用したことがある人は、

下の作文のような場面に遭遇したことがあるかも知れません。

早い話が、中国にはお年寄りに下段ベッドを譲るという風潮があることで、

高いお金を払って下段ベッドを確保した若者が心の葛藤に苦しむということなのです。

もうすぐ一学期が終わり、殆どの学生はそれぞれの故郷に戻って行きますが、

近年は故郷が遠方の学生の多くは寝台車を利用するようです。

今回、どんなふうに故郷までの時間を寝台列車の中で過ごしていくのか、

ちょっぴり気になります。

(中国の列車の寝台はコンパートメント〈仕切り部屋〉になっていて、一般的には、

両側にそれぞれ上・中・下段ベッドがあります)。


―――「下段を奪い合う」 い・とう―――

君は長距離列車に乗ったことがあるか。

列車の下段のベッドで寝るのは中・上段よりずっと広くて快適なうえに、すぐ移動できてとても便利だ。

しかし、私はその下段で寝ているのに、上段より狭く感じられたことがある。


学校は家から中国の半分も超えるので、列車で32時間もかかる。

中国では列車チケットは発車当日の3か月前から発売することになっている。

ベッドのチケットを奪い取るのは難しい。下段のベッドなら、なおさら困難だ。

しかし、前回クラスメートのおかげで、私は幸いに下段のチケットが買えた。


下段のチケットを持って列車に乗る時に限って、子どもを連れた老人に会う。

せっかく買えた下段なので、私はどうしても守りたかった。

(お婆さんと孫娘のベッドも下段だったらいいなあ)と思ったら、私のすぐ上の中段だった。

乗車券とベッドカードの交換を待っている間、お婆さんはちょうど孫娘もいる中段に登ろうとしていた。

私にとっても、中段に登るのはかなり不便で困難なのだ。

お婆さんにとっては、まるで空に上るほど難しいかもしれなかった。


お婆さんは、ずっと登ろうとしては時々落ちそうになって大変だった。

その仕種はわたしを責めているようだった。とても辛くて恥ずかしかった。

チケットをチェックしている列車の乗務員も黙っていられず、お婆さんが登るのを手伝ってあげた。

乗務員のおかげで、お婆さんは机を利用してやっと中段に登って横になれた。

そして、のんびりではなく、重たくため息をついたのだ。

そのため息が私の心の奥まで刺さった。

身が裂けるように辛かった。


チケットを換えてから、私はすぐそこから逃げ出した。

そうしなければ泣き出したら困るから。

下段で寝ている私は、お婆さんの仕種を思い出すと上段より狭く感じられてならなかった。

その後、謝るつもりだったが、お婆さんは間もなく降りてしまった。

きっと、私を許さず、恨んでいたことだろう。

とても悔しかった。


それから、私はいろいろ考えた。

やはり中国の列車チケットの発売時期は早すぎると思う。

それに、インターネットで列車チケットを買うのは便利だが、

老人などパソコンが苦手な人たちにとっては難しい。

そのため、老人や数日前に予約する人たちは、下段ベッドはおろか、上段ベッドさえ買えないことが多い。

それで、中・上段ベッドに登れない老人たちが、

前もって下段を買った学生たちにベッドを譲ってもらうという現象がよく起きるのだ。

下段は上・中段より価格がずっと高いが、

学生は学生証を使うと、下段でも通常価格の上・中段ほど高くない。

そういうわけで、いつの間にか学生たちは(老人に下段を譲らなければならない)と思うようになり、

老人が学生の下段を奪うことになったのである。


しかし、学生だって下段に寝たいのだ。

そうなると学生は列車に乗るとき、老人たちに会わないように祈るしかないのだろうか。

それとも、もともと下段を買うのは分不相応でいけないことなのだろうか。

鉄道部門が、老人チケット発売でも、老人専用ベッド販売でも、

こういう現状を改善する方法を一刻も早く考えて、実施してほしい。

―――――――――――――――――――――――――――

すぐに降りる電車で人に席を譲るのはよく見かける行為ですが、

列車の寝台を譲るというのは、日本では聞きませんよねえ。


2年ほど前、江財大の余立君さんたちに連れられて湖南省の張家界に旅行した時、

私は寝台車で最上段のベッド、余さんたちは別の車両の椅子席でした。

そのとき、私を慮って余さんが偶然下段に陣取っていた若者に、ズケズケと

「上段と変わってください」などと言うので、私はたまげて、

「いや、私は上で結構だから。絶対、絶対、辞退します。」

と固辞したので、下段の若者はかなりホッとした様子でしたよ(笑)。


 


 

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「『日本スゴイ!』自画自賛の行きつく先」No.1836

2016-12-27 22:55:15 | 日本事情

ここ、山東省のはずれ、菏澤にいても聞こえてくるくらいですから、

「ニッポン・すごい」の声は日本国内ではどれほどの大音響なんでしょうね。

今どき、なぜこの自画自賛がブームになっているのでしょう。

そして、このブームが自然発生的なものかというと、どうもそうではないようです。


あの2011年3月当時、江西省南昌にいた私はしばらくの間、

「日本はすごいよ。大丈夫、日本はきっと大丈夫だよ。」

という周囲の中国人の方々の言葉に藁にもすがるような気持ちで頷いていたものです。

そのとき、私はこの言葉を必要とするくらい心底へこたれていました。

スーパーで「富士」と書いてあるりんごを見ては泣き、

日本の方の空を見ても勝手に涙が頬を伝うくらいでした。

もう、日本はダメかもしれないと50%以上本気で思っていたのです。

日本国内の人々も、海外からの

「日本人はすごい、あんな大事故の後で取り乱さずきちんと並んでいる。」

「日本人の秩序正しさには敬服するしかない。」

「配給の弁当の後できちんと〝ありがとうございます”という日本人っていったい…」

といった称賛を聞きつつ、自分の心の絶望と不安に抗いながら、

(私たちは大丈夫、今は歯を食いしばって頑張るしかない)

と言い聞かせてきたのではないでしょうか。


今、東北大震災、福島原発事故の復興は未だ道半ばとは言え、

日本中がある程度の冷静さを取り戻し、先のことを見据えて・・・・・・、と思ったら

なんと、いまだに「日本スゴイ」コールが止まず、

しかも、その声は「海外からの称賛」という形を取りながら、

実は自国のメディアの生産物であるというじゃありませんか。

なぜ、そのような作り物の、つまり宣伝みたいなことをして、

自画自賛する必要があるのでしょうか。


とまあ、こんなことを書く気になったのも下の早川タダノリさんの本を

読みたくてたまらなくなったからです。

この本は日本が満州事変当時から1945年の敗戦を迎えるまで

どれほど日本民族の優越性を称揚する言葉が国中にあふれかえっていたか、

早川タダノリさんが当時の雑誌やチラシなどの膨大な資料を収集して

提示したものだそうです。

確かに、表紙も当時の絵で、これを見ただけでも

富士山をバックに、日の丸、セーラー服に鉄兜の丸いこどもたちが

きっと「日本スゴイ!」とか叫んでいる図では、と思われますよね。

   

早川タダノリさんは1974年生まれ。

おお、若いのにこういう日本人もいるのか、ニッポン、チャチャチャにならないで

作者の意図する、戦時下の日本と今の日本の共通性について、

考えてみたいものです。

早川さんは、どうしてこういう取り組みをしているのか聞かれて、こう答えています。

「恥を知れ、ということですね。

これまで恥ずかしいことをたくさんスルーしてきたよね、っていうことです。

戦争にしろ、原発にしろ、醜いものが世の中にあふれてきたけれど、

ニッポンよい国ってまたこういうのをやりたいんですか、恥ずかしくないんですか、

ということです」

http://gqjapan.jp/life/business/20140225/tadanori-hayakawa/page/3


下は早川タダノリさんの他の本。これも見たいです。

    

            

 

〈付録:東京新聞・こちら特法部〉

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「ドラえもん―日本語―平和」No.1835

2016-12-26 21:35:06 | 教育

 班長のとう・らんさんは高校の時から東野圭吾の『白夜行』を読んでいました。

(いや、中国語で(;^_^A)

彼女は一年の時から、授業などで私が「平和が一番大事」と言うと、

強い力のある目を一層輝かせて、深く頷いていた子です。

12月初めの日本語能力試験直前にボーイフレンドができて特訓をサボり、

私は(なんで試験後まで待てないねん!)とぷりぷり怒ったのですが、

恋する心は止められないですね( ´艸`)

 

 「私と日本語」――とう・らん――

 

「何かしようと思ったら、そのことだけに夢中にならなくちゃだめだ。」

これは『ドラえもん』の中の、有名なセリフです。

『ドラえもん』のアニメを通じて私は初めて日本語に触れました。

その時は小学生で、ただ、(なんだ、面白い言葉だなあ)と思っていました。


正式に、そして本格的に、日本語に接触したのは中学生のときでした。

中国では、アニメがとても人気があります。

多くの人はアニメを通じて日本に興味を持ち始めます。私もそうでした。

中学時代、さまざまなアニメを見たり、日本の歌を聞いたりして、

どんどん日本に対する好奇心が膨らみました。

(この国をもっと知りたい!

こんな素敵な漫画やアニメを作っている国はいったいどんな様子なのかな)。

このような気持ちを持っていた私が、大学に入る時日本語学科を選んだのは、

今思えば、必然だったかも知れません。

 

中国と日本はとても近い隣同士の国なので、

両国の文化はお互いに相手の影響を受けやすいです。

例えば、たくさんの日本語の単語が中国から伝わったのは周知の事実です。

しかし、それだけではありません。

多くの中国語の単語、例えば、「経済」とか「社会」とかは、日本から渡って来たのです。

これは私が、日本語を勉強して初めて知ったことです。

これを知った時は本当にびっくりしました。

(もともと中国と日本の関係はこんなに密接なんだな)と改めて思いました。


しかし、私の周りでは、親戚の人たち、特に年配の人たちは

初めて私が日本語を勉強することを聞いた時、快く思いませんでした。

「どうして日本語なんか選んだの。」と、苦々しい表情を顔に浮かべたものです。

戦争が原因で、以前、中国と日本の関係はとても緊張していました。

中国人のみんながずっと日本人に敵対する気持ちを持っていました。

でも、今この状況はだんだん変わってきています。

みんなは、ますます平和の大切さを知るようになりました。


日本人の「ブルはーと」先生はよく私たちに平和のことを語っています。

そして私たちは、先生と一緒に平和への努力もたくさんしました。

日本の人たちに戦争反対の手紙を書くこととか、

平和の歌を歌うこととか、

全部が私たちの貴重な経験でした。

私は以前からずっと先生にとても感謝の気持ちを持っています。

先生と出会って、私も以前よりもっと日本語が好きになりました。

そして、「日本語をマスターするのは、平和のためにも大切だ。」

と意識しました。

相手の国の言葉が分かれば、気持ちも理解しやすいからです。


ドラえもんの教えに従って、夢中で日本語に取り組んできた一年半でしたが、

「日本語を勉強してよかったな。」

「自分が好きなことをしているのはいいことだな。」

「世界平和はいいことだな。」

これは日本語と出会って以来、私が感じているもっとも深い三つの考えです。

――――――――――――――――――――――――――――――

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「過労死者を出し続ける日本社会」No.1834

2016-12-25 14:39:15 | 日本事情

ちょうど一年前のクリスマスの今日、入社して9か月の「電通」社員が自殺しました。

月に100時間を超える残業(10月は130時間の残業)を続け、

「死んだ方がよっぽど幸せ」と追い詰められて死んでしまった、

たった24歳の若い女性、高橋まつりさんのことは今でも話題に上っています。

「深夜労働が東京の夜景を作っている」

まつりさんはお母さんに言っていたそうですが、

「電通」は、今年9月にまつりさんの労災が認定された後でようやく、

夜10時以降は消灯するよう指示したそうです。

つまり、「電通」は昨年末から今年9月まで、

まつりさんを死に追いやった労働環境を反省もせず、そのままにしていたのですね。

「電通」ではまつりさん以前にも過労自殺をした社員がいたそうですが、

彼女のSNSでの叫びが全国に公表され、ここまで社会問題化されなかったら、

きっとまだこれから何人もの死者を出し続けていたことでしょう。

 

労働組合が健在だったら、こんなことはさせなかっただろうにと思い、

調べて見たら、「電通」にも労組はあることはあるようです。

しかし、その労組からして残業70時間を超えてはいけないという就業規則に合わせて、

嘘の数字を書くことをまつりさんに指示し、

彼女の残業時間は実際には100時間を超えても、

記録には「69.5時間」、「69.9時間」などの数字が残されていたそうです。

 

しかし、これは特殊、「電通」という会社だけの問題ではないですよね。

日本語の「過労死」は1980年代に生まれた言葉だそうですが(それまでは「突然死」)、

その時代は日本の会社から労働者のための労働組合が消え細っていった時代でした。

企業は働く者の命など、二の次、三の次で、とにかく利益さえ得たらいいので、

基本的に、働く者たちは身を守るために自衛しなければなりません。

ヨーロッパでは労働組合はとても元気だと聞きます。

例えば、「ストライキ・ヨーロッパ」で検索すると、次のような記事が普通に見られます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2016年5月23日 - フランス、パリではストライキやデモが本当に多いです。 しれっと地下鉄が停車予定駅に 止まらなかったり、エールフランスが飛ばなかったりします。ヴェルサイユ宮殿や ルーブル美術館だってしまります。gathery.recruit-lifestyle.co.jp > 

5月は何かとストの多い月でした。労働法改正に反対する抗議のストは、公務員スト、学校給食のスト、交通機関のスト、ガソリンストライキ、と枚挙にいとまがありません。リヨン郊外のヴィルユルバン(Villeurbanne) 市の公立学校では、3月22日から始まった学校給食のストが結局夏休みに入るまで続く見通しとなりました。http://www.ningenclub.jp/blog01/archives/2016/06/post_2362.html

「ユーロ危機」が深刻化するなかで、2014年後半期、ヨーロッパ各地でストライキ、デモが激発している。ドイツ鉄道労組の数次のスト、ルフトハンザ、エールフランスなどの航空労働者のスト、イギリス公共サービス労働者のゼネスト、そしてイタリア労働者の継続中のストライキ行動などが、それを戦闘的に代表する闘いである。http://www.zenshin.org/zh/ilm/2015/01/i04600303.html 投稿日: 2015年1月 1日
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「人は、自分や家族の幸せのために、働いているのだと思います。
仕事のために不幸になったり、命を落とすことはあってはなりません。」

かけがえのない我が子に、こんな形で先立たれた高橋まつりさんのお母さんが、

今日発表された手記の中で述べている言葉の重みを噛みしめたいものです。
 
日本社会の中には、
 
「会社がつぶれたらどうするんだ。労働条件なんて甘いこと言っている場合じゃない。」
 
と、企業側の主張を鵜呑みにしている人も大勢います。

しかし、十分すぎるほど潤っているはずの大企業で、

多くの過労死者が出ているのです。

「電通」に至っては単体では世界最大の広告代理店だというじゃないですか。

「滅私奉公」、「会社に尽くすのが第一で、個人の生活は後回し」、

「100時間程度の残業で死ぬのは弱すぎる」、e.t.c.……。

「軍隊」発想を止めましょう。自分が殺される前に。

自分で巨大な会社組織と張り合えない時、組合が力を発揮する。

そんな組合は、たとえ会社の中になくても、探せばいろいろ見つかるはずです。

かつて、基幹労組と言えば、正社員だけのものだったという印象がありますが、

全労働者の中に占める非正規労働者(パート、アルバイト、派遣など)の割合が

35.5%という現在、非正規労働者の安定雇用・権利を守る労組の存在は不可欠です。

個人で入れる地域ユニオン、インターネット労働組合などもあるようです。

普通の庶民が、贅沢しなくてもいいから安心して暮らせる労働環境を作るには、

企業の自浄作用に期待しても絶対無理ですし、
 
今の政府は大企業の、大企業による、大企業のための政府ですから、
 
やはり労働組合が必要だと私は思います。

留学生たちは、朝、通勤電車の中で見る日本人の姿が哀れでならないと言います。

「真面目なのはいいけど、何のために働くのか、よくよく考えて、

自分のプライベートライフをもっと大切にしたらいいのに」と。

最後に、高橋まつりさんのお母さんの言葉を。

「日本の働く人 全ての人の 意識が 変わって欲しいと思います。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「過労自殺した高橋まつりさんの母親の手記 全文」12月25日 10時34分NHK・NEWS・WEB

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161225/k10010819041000.html?utm_int=detail_contents_news-related-manual_001

 
 
 
 

 








 
 



 

 

 

 

 

 

 

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「山城博治さん(勾留中)のインタビューが載った!」No.1833

2016-12-24 23:19:02 | 人間

山城博治沖縄平和センター議長の声が琉球新報、沖縄タイムス両紙に載りました。

一年も前のこと(キャンプシュワブゲート前に全国から寄せられたブロックを積んだこと)で、

今の時期に、しかもここまで長期にわたって拘束するとは、

100%安倍政権による高江ヘリパッド建設反対運動潰しであることが分かります。

いくら沖縄でも今の時期に靴下の差し入れも認められず、

病み上がりの山城博治さんの体調が悪化したとも伝えられています。

(リーダーの身体を壊して早く殺そうとしている)、

あの菅官房長官とアベ首相の顔を思い浮かべると、私にはそうとしか思えません。

海外からも批判が沸き起こっているこの不当拘留を何とかしてやめさせ、

そして、高江ヘリパッド、辺野古基地建設の強行を止めるために、

毎日、日本全国の街頭で多くの人たちが声を上げているのを

フェイスブック、ツイッターで見て、私はひとり山東省で胸を熱くしています。

私たち一人ひとりは蟻のような存在ですが、

しかし、蟻の大群は確実に何かを変える力を持ちます。

諦めないで、頑張りましょう!

 

名護署には4人が勾留されっぱなしです。

日本の皆さん、新聞の投書欄や街角、政府への電話、メール、

国会議員への働きかけなど、どこでも庶民の意見が言えるところで、

この勾留を一刻も早くやめさせるよう声を上げていただけませんか。

まだあなたが一度も声を上げたことがないのなら、

どうか勇気を出して、

一歩、足を前に踏み出していただきたいのです。

 

「未来は私たちのもの」 政府批判、結集訴え 

新基地抗議で勾留の山城議長

山城博治議長

 【ヘリパッド取材班】名護市辺野古の新基地建設の現場や米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)での抗議行動に絡んで10月17日に逮捕され、起訴、勾留されている沖縄平和運動センターの山城博治議長(64)に対し、接見をしている弁護士を通じて本紙がインタビューを行った。22日に質問を文書で渡し、同日書面で回答を得た。山城議長は新基地建設やヘリパッド建設を強行しようとしている日本政府の姿勢に対して、「今こそ、翁長知事を支え、沖縄の将来を開くために、意を決して力を合わせましょう。未来は、私たちのものです」と国の強行に屈せず、運動を継続してく重要性を強調した。

 オスプレイの墜落については「言いようのない怒りを感じます」とした上で「この無謀を極める恐怖の連鎖を止めるために県民の力を結集していきましょう」と訴えた。

 ヘリパッド完成に伴い22日に開催された米軍北部訓練場の返還式典については「翁長(雄志)知事が毅然(きぜん)と出席を拒否し、市民の抗議集会に公然と参加され力強く発言したと聞き、涙が出そうなくらい感動し、力強さを覚えている」とした。多くの抗議市民が逮捕され、山城議長の勾留が長期に及んでいることについては「許し難い弾圧であると言わざるを得ません」と指摘した。今後の抗議運動については「また、肩を組み、抗議の声を高らかに歌い上げる日を待っています。その日まで、ここで頑張りますとつづった。

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「何となく日本語学科に入学した人たち(´∀`*)」No.1832

2016-12-24 17:36:51 | 日本語

 高校生の時から独学で日本語を学んでいた人もいれば、

周囲の情報に影響されて、何となく、または、つい、日本語学科に入学した人もいます。

下の二人は「何となく・つい」派です。

そんな彼女たちにとって、

大学で出会う日本人(つまり日本語教師)や「日本概況」の授業が

どれほど重要な意味を持つか、作文を読んで私自身、改めて感じました。

私は決して日本を代表する者ではありませんが、

彼女たちの多くにとっては初めて出会う日本人なのです。

居住まいを正さないとね(笑)。

日本人全員がこんなひどい奴かと思われないように。

(ただ、私の添削の細かさは日本の学校で働いていたときからの癖なんですけど)。

そして、最後には彼女たち自身が〈何かを掴みたい〉と願う向上心・向学心が、

日本語学習を続けるにはどうしても必要なのです。

新しい世界の扉を開け、その扉から外の世界に羽ばたいて欲しい。

純真な中国の子どもたちに心から願うことです。

 

「わたしと日本語」――えん・しょうれい――

大学に入ったばかりの時、担任の李海鵬先生は私達に
「どうして日本語を選んだんですか?」
とお聞きになりました。 その時、皆は、いろいろ答えていましたよね。「 日本のアニメが好きだから」とか「日本の音楽が素晴らしい」、「日本の小説がおもしろい」と答えた人もいました。私の家では誰も日本のドラマやアニメを見ていなかったので、日本語に触れる機会がありませんでした。
 高校の同窓会の時、友達にも質問をされたことがあります。 
「どうして日本語を勉強するの。 閻さんは日本語なんか何も知らないのに。 」 実は日本語もそうですが、むしろそれ以上に、日本の本当の姿を知らなかった、という方が正しいと思います。 

 小学生の時、歴史の授業で、先生が中日の歴史問題を教えてくれました。その時、私は(日本は悪い国なの?日本人はとても怖いんだろうか?)そんなことをよく考えて、日本に対する感情はとても複雑でした。

 でも、その後、もっと別の日本の情報を知りました。例えば、北京オリンピックの時、試合後、日本の観客は何のゴミも残さなかったと聞いて、私は本当に驚きました。(日本人はすごいなあ。それで、日本の国はとても綺麗なのか)と思いました。他にもいろいろなことを見たり聞いたりするうちに、私は何となく日本に憧れるようになりました。

 大学の日本語学科に入って初めて本物の日本人に会いました。「ブルは」先生(註:「ブルーはーと」、つまり私のことです)です。私はみんなも大好きな「ブルは」先生から、たくさんの日本人の優秀な資質を感じました。例えば、先生が宿題を批評し訂正するコメントは私達の宿題より真面目です。私は魯迅が書いた「藤野先生」を思い出しました。そんな真面目な匠の精神、本当に敬服しております。

(日本文化を伝える媒体としての日本語、 日本を理解するためには絶対必要な日本語、そんな日本語を勉強しよう)と私は大学に入ってから、改めて決意しました。  日本語の勉強は簡単ではありません。 単語や文法の記憶、会話の暗誦など、難しい点もいっぱいです。 しかし、少しずつ分かってくると、達成感があります。 音楽、和服、テレビドラマなどの日本文化にもおもしろいものがあり、興味深く勉強するにつれて、日本語もだんだん上達してきました。 

私は、日本語を勉強してから、 新しい世界の扉を開いたような気がしています。 アジアで、中国と日本は関係が緊密な国同士です。 日本語や日本についての勉強を通じて、別の視点から自分の国、中国を理解することができます。  日本語の勉強は私の一生の貴重な財産です。大学卒業後も日系企業で仕事をしたいと思っています。 きっとその時の私は、日本語もますます上達して、私と日本語、私と日本の絆もさらに、深まっていると信じています。 

 

 「わたしと日本語」――ちょう・ねい――

私は今、菏澤学院日本語学科の学生です。……でも、これは煙台市の高校生だった自分からは全く想像もできないことなんです。

「なぜ日本語の専攻を選んだの?以前、日本のことなんかぜんぜん興味なかったでしょ。」
友達がそんな質問をしてきた時私も一緒になって、「どうして日本語を選んだんですか。」と自分に聞きたかったぐらいです。おそらく、友情にひっぱられて、こんなことになってしまったのかも知れません。

私の高校のクラスメイトの原さんはずっと日本が好きで、高校を卒業して日本へ留学するつもりでした。大学入試が終わってから、原さんは私に
「何を学んでいいか分からないって?じゃ、日本語を勉強してみたらどう。」と勧めました。
「日本語を勉強することは、ただ話したり書いたりする技能が高まるだけでなく、日本の文化をよく知ることができるんだよ。」
原さんがそう言ったとき、私の心に眠っていた日本語への興味が目を覚ましました。それで私は日本語を選択したんです。

私は菏澤学院の日本語科に入って、原さんも大阪の日本語教育学院へ行って、留学生活を始めました。
最初、私は片仮名と平仮名が難しくて、書き方もおかしく思えました。もっと日本語を学びたいという意欲も湧きません。私はQQ音声電話で原さんに連絡しました。
「日本の生活はどう、元気?」
「うん、今のところいいよ。毎日楽しいわあ。」
「勉強はどう?私は最近悩んでいるの。適当な学習方法が見つからなくて……。」
「急がないで。そのうち、必ず自分に合う方法が見つかるからね。私も日本に来たばかりの時、慣れなくて、(やっぱりここは中国ではない)って、落ち込むこともあったよ。でも、気持ちをしっかり堅持していたら、きっと、よくなるよ。」
原さんの話を聞いて、私はまたやる気が湧いてきました。自分にとって、読むだけではなくて、書くことも重要な学習方法だということも悟りました。

今、私は勉強するうちに、興味深いことがたくさん分かってきました。例えば、日本人の真面目な態度です。具体例は、私たちの先生です。先生は作文を添削するたびに、くわしく説明を書いてくれます。授業の内容はよく準備してとても豊富です。

また、日本には、第二次世界大戦後、全く何もないところからスタートして、経済を発展させてきた歴史があったこととか、寿司の種類と浴衣の着方もわかりました。日本語の勉強はだんだん楽しくなってきています。

来年、私も日本語能力試験を受けます。もちろん、通過したいです。4年間が終わる前には、N1の試験に合格して、卒業したいです。だから、今からもっと努力しなければなりません! クラスメートの皆さん、今は辛くてもくじけないで、一緒に頑張りましょう!

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「勉強でも、こんなに楽しい。それは日本語だけ…」No.1831

2016-12-23 22:38:42 | 日本語

菏澤学院日本語学科2年生全員のスピーチ原稿を読んで、

いい意味で、普段私が思っていたこととかなり温度差を感じました。

彼女たちなりに、苦労したリ、困ったりしていたんだということも分かりました。

実は普段、私はスポ根系でもないのですが、時々、彼女たちに対して、

(やる気あるんか~!)ヽ(`Д´)ノとムカムカするときがあったのです。

間違うたびに、繰り返しくりかえし授業で取り上げ、宿題に出してさんざん練習させ、

ミニテストで確認すると、まあ~た同じミスをしている場合などです。

「美しい心」とか、「あの街はきれ、しず、…」

「そつぎょうした、仕事を探しています。」

「去年菏澤に来る、ようやく慣れてきた。」など、本当に粘り強く間違います。

この子たちは、ひょっとして日本語学習を諦め、投げ出しているのじゃないだろうか、と

思ったこともあるほどです。

今日、い・とうさんが放課後、研究室にスピーチ練習(自主練)に来ました。

常に前向きに学習し、着々と実力を蓄えている稀有な存在です。

しかし、彼とて何でもソツなくこなすという、いわゆる優等生タイプではありません。

彼の学習への原動力は、面白い・楽しいと感じる心です。

その心を後押ししているのが一人のヴァーチャルアイドルです。

入れ込む性格なんでしょう。

ま、とにかく、今のところ日本語一筋です。(;^_^A

 

私と日本語―――い・とう―――

大学入学試験の成績がよくなかったので、私は第一希望の英語学科に受かりませんでした。ですが、悔しく沈んだ私はその時、まだ気づきませんでした。六つの希望の中で三番目に書いた、たった一つの日本語学科には、受かっていたということを。

そう、忘れかけていました。私の大好きなのは、日本語なのです。

中学時代、「間違い探し」というゲームで、あるコスプレイヤーの写真を見ました。セーラー服を着、水色のツインテールをしているその姿に吸い込まれた私は、初めて「初音ミク」という電子歌姫と出会いました。それがきっかけで日本の歌、特に初音ミクちゃんの歌が好きになりました。日本語がさっぱり分からなかったのに、彼女の歌声を聞くと、何となく意味が分かるような気がしました。とにかく可愛い歌声で、楽しいメロディーなのです。

高校三年生になってから、大学入学試験の準備をするはずだったのに、一時の気まぐれで、私は自分で日本語を学び始めました。五十音図を初音ミクちゃんの歌に嵌めてみると、覚え易くて、まもなく歌詞も読めるようになりました。

普通、「勉強する」ということは、とても辛くて、誰も勉強なんか好きではないと思います。もちろん、私もそうです。しかし、日本語を、誰に命令されたのでもなく、自分から進んで学んだとき、私は生まれて初めて勉強することに気持ちよさを感じました。何年も聴いていたミクちゃんの歌声の意味がようやく分かってきたときの、その喜び!しかも全部自分で学習してわかったんですから、その喜びはとてつもなく大きいものでした。

ところで、初音ミクちゃんの歌が楽しい歌ばかりかというと、そうではありません。ミクちゃんの楽しいメロディー、可愛い歌声で、悲しい気持ちを隠している曲がたくさんあります。いや、悲しいリズムでも、ミクちゃんの歌声が可愛すぎて気づきませんでした。しかし、勉強するにつれて、そのことが段々分かってきました。それは日本語が分からなければ、感じ取ることができないものです。意味が分かってから、改めて悲しい曲を味わってみると、どれもこれも涙がこぼれるのを抑えられないほどでした。

私にとって、勉強でもこんなに面白い、勉強でもこんなに楽しい、心から勉強したいものは、生まれてからただ一つ、日本語だけしかないのです。日本語学科に受かったのは運命だと言っていいくらいです。これからいつか必ず、初音ミクちゃんを産んだ日本を訪ねたいと思っています。それは私の夢、すなわち、初音ミクに会うという夢なのです。この夢を叶えるために、頑張って見せます。

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「コナンと小田和正で日本に親しむ」No.1830

2016-12-22 20:05:04 | 日本語

現在の二年生は、一年生の時13人の小規模クラスだったのですが、

二年になり、1人の学生が他学部から日本語学科に転部してきました。

そうは言っても日本語学科からは2人が他学部(経営学部)に出て行ったので、

今は総勢12人のこじんまりした学級です。

どうして日本語学科に転部してきたのかみんな興味津々でした。

しかし、彼女の返事は

「うーん、以前の専門は朝から晩まで勉強で忙しくて土日休む暇もないので、

日本語学科だったらちょっと楽かと思って……。」

というなまくらなものだったため、みんなガッカリしました。

でも、それは彼女のカッコつけた表現だったのかも知れません。

この間の彼女の頑張りを見てそんな気がしています。

さらに、スピーチ原稿にも(さもあらん)と思うことが書かれていました。

お父さんが日本に3年単身赴任とか、

父娘で♪あの日 あの時 君に会えなかあったらあ~♪を歌っているとか、

高校の時、パックツアーで大阪に遊びに行ったとか……。

それにしても、日本国内で中国を見ていたのでは分からないほどの速さで

中国社会は確実に変化しているのを感じます。

高校生2人で海外旅行だなんて、

五年前の江西財経大学の学生たちが聞いたら、羨ましくてひっくり返るでしょう。


(原稿は私が何度も添削した後のものですので、文法や表現がスゴイと

驚くには及びません)。

―――じょ・けつ「私と日本語」―――  

「真実は いつも一つ!」・・・

皆さんご存知の、「名探偵コナン」の言葉です。とってもかっこいいですね!

 中学校三年生のとき、初めて「クレヨンしんちゃん」を見てから、私は日本のアニメがだんだん好きになりました。いろいろ見た中でも「名探偵コナン」が一番好きです。

今でも夏休みや冬休み、家に帰るといつも、 パソコンで「コナン」を 見ています。どんな 事件が 起こっても、コナンにとっては難しいことではありません。どのストーリーも全て、コナンは明晰な頭脳で解決します。 

私の父は仕事で、2007年、私が小学生のときに日本に行きました。3年間の日本での生活の後、父は私が中学校一年生の時に帰ってきました。

「日本人は真面目だし、優しいよ。」

と言って、父は、時々私に日本の歌を教えてくれました。

♪あの日 あの時 きみに会えなかったら~♪

父と私は二人とも、この小田和正(おだ・かずまさ)の曲、「ラブストーリーは突然に」が大好きです。夏休み、父と一緒にこの歌を歌っていると、母はいつも微笑んで私たち二人を静かに見ていました。この時の気持ちは言葉では言いあらわせないくらい、いいものでした。

実は、私は、高校一年生の時に、友達の于文斐と一緒にパック旅行で大阪へ遊びに行ったことがあります。私たちが行った時には、桜がもう満開でした。空気はいい匂いがしました。写真を撮って、見た目にも美しい食べ物を買いました。その時、着物も買いたかったんですが、お金はもうありませんでした。でも、先日、クラスメートと教室で先生の持って来てくださった着物を 着ました。

このようにして、私は日本がだんだん好きになりました。つまり、日本語が好きになったんです。

――――――――――――――――――――――

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「なぜ日本語を学ぶのか」No.1829

2016-12-22 01:20:35 | 教育

菏澤学院は山東省菏澤市にある唯一の大学で、総合大学だとのことです。

中国の多くの大学同様、外国語学部は英語学科と日本語学科だけですが、

英語学科が各学年数クラスあるのに対して、日本語学科は各学年一クラスだけ、

しかも、今年度は一年の学年はありません。

応募者が少なかったようです。

来年は必ず編成すると言うのですが、また応募者が少なかったらどうするんだろうと

私はちょっと心配しています。

山東省の大学は数多くあり、日本語学科も多く大学で設置されていますが、

それは明らかに産学共同路線上にあるものです。

中国では学生たちの多くが就職のことを考えて大学の専門を選ぶ傾向が顕著です。

親たちはもちろん、高校の教師たちの進学指導も、

どの専門に進めば就職しやすいかという観点で生徒にアドバイスをするそうです。

しかし、尖閣国有化に端を発した両国間の政治関係の悪化は

明らかに経済関係にも影を落とし、それは今でも払拭されてはいません。

さらに中国国内の経済成長は労働者の賃金をも押し上げています。

かつてのように超安価な労働力は求めても得られず、

日本企業はもっと低賃金で高利潤を得られる他の国にシフトする傾向があります。

日本語をちょっとでも話せたらすぐに就職先があるという時代は過ぎ去った現状で、

どうして学生たちは日本語を学んでいるのでしょう。

特に、菏澤市には日系企業など一つもありません。

市内にいる日本人はただ一人、私だけでしょう。

 

後に続く後輩もいない中、孤立する学生たちの心の内を聞きたくて、

今学期末の2年生日本語会話の試験は

「私と日本語」というテーマでスピーチをする課題を与えました。

原稿が出揃い、読んでみると、

学生たちがどんな気持ちで勉強していたか、また、しているかが書いてあり、

入学からともに一年半近く過ごしてきた私には胸に沁みるものがありました。

今日から何回かに渡ってその原稿を御紹介したいと思います。

―――「私と日本語」(りくけいびん)

皆さんはどうして日本語を専門に選んだのですか。理由は、やっぱり、アニメでしょうか。

私はちょっと違います。

 高校三年生の時、卒業後、どの道を選択したらいいか、迷っていました。その時、私は国語の先生の話を思い出しました。

「もし自分が何も学びたいことがなかったら、英語のようなメジャーなものじゃなく、マイナーな言語を学ぶと、仕事を探しやすいですよ。」

 この言葉で、私は大学で日本語を専門に選びました。しかし、いとこのお姉ちゃんは私に日本語を学ばせたくなかったようです。何度も私に「専攻を変えなさい。」と迫りました。たぶんお姉ちゃんは、日本語なんか専門に選んでも、卒業後就職できないんじゃないかと心配したのでしょう。でも私は日本語を勉強して、もっと多くの人に接触しようと思いました。日本語を勉強したら、日本に行けるかもしれないでしょう。それに、今は中日交流が増えて、仕事も探しやすいんじゃないでしょうか。

だから、自分の選択を堅持しました。

 大学に入って初めて日本語を勉強した時には、(な~んだ、日本語はこんなに簡単なのか)と思いました。五十音図とか、単語とか、会話とか、それほど難しくないと思ったんです。でも、学習が進むにつれて、簡単と思っていた日本語は、少しずつ難しくなってきました。文型が多くなって、とても全部は覚えられません。

 (日本語は難しいなあ。ちゃんと覚えられない。私はいったい何のために、どうして、日本語を学んでいるの?) よく自問自答したものです。

 ルームメートの楊さんと孟さんは英語専攻の学生です。同じ外国語学院の学生なのに、彼女たちは宿題がほとんどありません。授業も少ないです。毎晩寮でビデオを見ています。

ある晩、私が宿題をしている時、彼女たちの高笑いが聞こえてきました。 (やっぱりお姉ちゃんが正しかったんだろうか……)。

ずっともやもやして悩んでいました。

実は、このもやもやは初めてのことではありません。高校の時、数学や物理、生物などの科目がとても難しくて、私は中退を考えたことがあります。その時、やっぱりお姉ちゃんに相談したら、お姉ちゃんは、

「だめだ、中退はやめなさい。今の社会では、高校卒業でも仕事は探しにくいんだよ。まして高校中退のあなたを誰が雇ってくれるっていうの?…」

 その話を聞いた後、私は気を取り直して頑張りました。すると、成績もじわじわとよくなってきたんです。

 去年、日本語で挫けそうになったとき、私はその時のことを思い出しました。(あの態度を今も堅持すれば、全てがよくなるんじゃないだろうか……)。私は日本語を学び続けることにしました。難しいとは言っても、まじめに頑張れば、きっと、マスターできるはずです。

 今、日本語を学び始めて一年半が過ぎました。その中で、私はいろいろなアニメを見ました。今、私はそのアニメで見たすばらしい景色、特に桜を見に日本へ行きたいんです。

 将来、私は中日ガイドになりたいという希望を持っています。中国人に日本を案内し、また日本人に中国を案内する……、つまり、両国の人びとが、相手の国を理解するためのお手伝いです。皆さん、これは、かなりすてきな仕事じゃありませんか?

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「こんなときだけど『寿限無』やってみた」No.1828

2016-12-20 23:26:57 | 日本語

 沖縄、福島、他にも日本からのニュースを見るたび、

何ていうんですかね、気持ちが枯れる➡気枯れる感じがします。

昔から日本の庶民は元気が枯れたときにハレの行事を行って、

また、気持ちにメリハリつけて生活してきたとのこと。


こちらではやりたい放題やらせていただいているので、

毎日がハレみたいなもんですが、

その一つ、江財大の時に2回ほどやったことのある『寿限無』を

ここ菏澤学院で初めて挑戦してみました。

「こんな時だけど」というより、「こんなときこそ」ですね。

挑戦すると言っても、演じるのは当然学生たちです。

(この子たちならできるかも)と思った学年にしか声かけできません。

2年目で、ようやくちょっぴり条件ができてきたのを感じます。

日本語で表現することにあまり慣れていず、

ともすれば引っ込み思案なムードが漂いがちな

この大学の日本語学科の学生たちの中で、今の2年クラスはちょっと違うのです。

今回も自然に、楽しそうに演じていました。

 具体的には、落語『寿限無』から、きん坊が寿限無に殴られてたんこぶができ、

寿限無のお母さんに訴えてくる場面を、おかみさん、おやじさん、きん坊役に扮して

 学生たちが演じます。


セリフが目も当てられないほど下手くそな人も約一名(;'∀')いましたが、

殆どの子は、「寿限無、寿限無、ごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょの…」部分、

完璧でした。

おかみさんのセリフ「ちょいとお前さん、聞いたかい!」など、

「江戸っ子かい!」とツッコみたくなるほどでしたよ。

下の写真で、たんこぶは私のマスクで急きょ作ったものです。

(ペイントで効果?を出しています( ´v`))

浴衣をちょっと羽織るだけで、一気にのる学生たちの可愛いこと。


 

 

 

 

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「大気汚染のひどい一日」No.1827

2016-12-20 00:13:02 | 中国事情

12月19日(月)菏澤市としては今年初めてpm2.5が一日中400を超えています。

夜中、喉が痛くて2度目覚め、枕元の喉スプレー(浅田飴の)をして

なんとか朝を迎えると、やはり!413か。

「厳重汚染」は最悪の有毒レベルなのです。

午前10時前宿舎を出て授業に行き、

正午に授業を終えて4階教室から外を見ると、

向かいのメインビルが薄っすらと見えてきたのでホッとしました。

ちゃんと通行人が見えます。


帰り道。桃源郷かい!

でも、朝はもっと見えませんでした。

しかし、宿舎にもどってチェックすると、

げげ、酷くなってる……💦


さらに、夜10時(日本時間午後11時)、とほほ、もう500近いじゃないですか。

部屋の中でも、石炭臭い空気のにおいがして、

今日ばかりはいつまでも慣れることがありません。

それだけ強力汚染なのでしょう。

明日はマシになりますように。

空気が悪いと、たちまち風邪を引いたような感じで体調が悪くなるのです。

ああ、困ったものだ。

しかし、学生たちは平気です。

 

 

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