毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「貧乏話には弱い」2015年4月30日(木)No.1348

2015-04-30 11:25:43 | がんばれ貧乏人

私は小さい頃から貧乏生活にはたいへん慣れ親しんできましたので、

下のような話は無条件に心に入ります。

街の古本屋さんが大金持ちのはずはないのですから……。

しかし、かつて苦学生だった大企業の相談役さんが、

生き馬の目を抜く経済界でどんな経営相談をしてはったのかも気になるところです。

 

―――http://amijuku.com/index.php?furuhonより

古本屋のおじさんの苦学生への思いやり

ある大企業の相談役の方が、苦学生だった頃のお話しです。

その方の生年から考えたら、昭和10年代かと思われます。

難波から新世界へ向かう中間に「日本橋」という地区があります。

その一角に、当時、大阪唯一の古本屋街がずらりと建ち並んでいました。



ここに教科書専門の古本屋もあり、少年時代、お金の無いKさんは、

一部の教科書をここで調達していました。

ただ、全ての教科書を買うには、お金が大幅に不足していました。

Kさんは、今思えば、とんでもない暴挙ですが、

買えない教科書は、この店で大学ノートに書き写すという荒技を

実行することにしました。



Kさんは、やってみて実に難しい作業であることが判りました。

声に出して咎めはしなかったけど、眼鏡ごしに、

座ったままの店主が奥からジロッと睨みつけているような気がします。

少しでも早く写し終えようと焦るのですが、

何分にも教科書が何冊もあるので、手はしびれ、足が棒のようになり、

こりゃ大変なことになったと先が案じられたそうです。



到底一日では無理で、次の日も、そしてその次の日も、日参を続けました。



もし、ここで止めたら、否応なく親に負担をかけることになるので、

それは一切考えませんでした。



ところが三日目にちょっとした変化が起こりました。

三日目にKさんが、いつもの書棚の下に行くと、

ちょこんと小さな椅子が一つ置いてあるのに気が付きました。

店主の方をそっと盗み見すると、知らん顔で、そっぽを向いていました。

Kさんは、厚かましくも、ままよとその椅子に座って、ノート書きを始めました。



店主は最後まで、こちらを見ようとしませんでした。



毎日のように、多くの苦学生を見慣れたはずの店主にも、

Kさんは、一層輪をかけたひどい苦学生に見えたのでしょう。

見るに見かねて、かわいそうにと同情してくれたのかもしれません。



翌日、全部写し終えたKさんは、初めて、店主のところへ行きました。

真っ赤な顔をしながら、

「すみませんでした」とペコンと頭を下げたら、

店主も初めて声をかけてくれました。



「これからも頑張りなさいよ」

そう言って、すでに用意してあったらしい真新しい英和辞典を一冊、

Kさんの手に持たせました。



はじめは怖い顔をしていた店主。

しかし、とうとう一度もとがめることなく見逃してくれたことに、

Kさんは、子供心に深く感謝していました。

それだけでも十分なのに、その上、かねがね欲しいと思っていた

最新の英和辞典をもらって、Kさんはただただ恐縮するばかりでした。

 

店を出て、帰りながらの道で、Kさんは押さえようのない涙を流し続けたそうです。

人の心のしみじみした温かさが、心から嬉しかったのです。



あとで、人伝にKさんは聞きました。

「写している教科書を、無料で、いっそあげようと思ったのだが、

 そんな施(ほどこ)しめいたことは、

 かえって将来ある少年のプライドを傷つけるだけ。

 せめて、書き終わるまで、じっと見守るだけにしようと思った。

 全部書き終えた時は、実のところ、私の方がほっとして嬉しかったね。

 英和辞典は、努力した褒美にあげたんだから、

 受け取ってくれて、ほんとによかった」

そう聞かされ、改めてKさんはまた泣いたそうです。

 

参考本:心に残るとっておきの話(潮文社編集部編)普及版第二集より

―――――――――――――――――――――――――――――

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「さようなら私の冬(その3)」2015年4月28日(火)No.1347

2015-04-28 22:07:55 | 自分事情

「さようなら冬」も何も、もうすぐ梅雨が来そうな(笑)。

写真は長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和祈念館の近くの花桃の里で、

ゴールデン・ウィークが見ごろだそうです。

この春のうちに行ってみたいなあ…。行けないだろうなあ…。

(満蒙開拓平和祈念館のブログから拝借しました)

                  http://www.manmoukinenkan.com/

 

さて、こんな春爛漫の候に、

なぜ「さようなら、私の冬」なのかと申しますと、

今日、私は冬じゅう愛用していた部屋履きを脱ぎ、

ついに靴下だけで過ごしたのです。

(と言っても昼間だけで、今はしっかり履いていますけどね)。

この部屋履きは南昌の江財大傍にある「全家百貨」で買ったものを、

もったいないので大阪まで持って帰ってきたものです。

南昌の外国人教師用宿舎はこんなもんじゃ全く寒さはしのげず、

私は部屋で中起毛の長靴を履いていました。

しかし、大阪の自宅(マンション)の部屋ではこれも結構暖かく、

この冬、エアコンはお客さんが来たとき以外はつけませんでした。

 

冬用靴下ももう仕舞わなければ…と、今日から繕い再開です。

今度の11月頃出したときに、すぐに履けるようにね。

どの靴下もかなり薄くなっているところがあるので、

これから毎日、少しずつ縫って補強しなければなりません。

この作業は、前にも書いたと思うけど、私は決して嫌ではありません。

まだ使える物を最大限活かすのですから、心休まる仕事です。

しかし、こんな節約して暮らしている庶民を尻目に、

次期政府専用機が前のより大きくなったとか聞くと、

(何やねん、政府はもっと節約せえ!)と、ちょっとイラつきます。

 

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「どっこい、それでも生きてきた」2015年4月27日(月)No.1346

2015-04-27 19:33:53 | 歴史

 

佐野洋子風の書き出しに引かれて一気に読んだ。

三重県戦争資料館の  体験文集 > 戦後の耐乏生活

のページで見つけたエッセイである。


戦後すぐの日本の人々はとても元気だったらしい。

映画『三丁目の夕日」での東京下町の画面にも、

(これから日本はよくなる!)といった希望が溢れていた。

もう、戦争をしなくてもいいこと、

何もかもなくなってしまい、

自分の本来持っている力の全てを出さざるを得ない環境だったこと、

個々の創意工夫による新たな経験が生きる道を切り開いたこと、

そんな状況が人々の顔に生気をみなぎらせたのかも知れない。

当時の元気な日本の庶民の顔が浮かんで、自分も元気になる。

そう言えば、去年までいた中国(江西省南昌)の街も、

そんな元気な人たちで満ち溢れていたなあ。


―――「櫓を漕ぐ“かいな”は甲種合格」

(1995年に書かれたもの;作者不詳)―――


終戦をタイ国で迎えた父が、抑留、残務整理と数々の任務を終え、 

帰ってきたのが昭和二十一年八月の事。

父の帰りをせつない程に待ちこがれていた母は、

「あんた遅かったやないか、いままで何しとったんや。

よその人は早うに帰ってきたのに。」

父は、母の傍にいた汗疹だらけの私を抱き上げて、

「女の子が生まれた言うてたが、汚い子やないか。」

これが無事再会できた夫婦の言葉だったそうです。

この時の私は二歳でした。


父は出征前に働いていた愛知県の工場が戦災で焼失したのを知りましたが、

途方に暮れることなく、

 故郷である志摩半島の先端である鳥羽で漁師をしようと決心をし、

再起に奮闘しました。

夏場は鯛などの一本釣り、冬はボラ、コノシロの揚繰り漁が盛んで

漁獲量のよいところです。

気の強い父は、早く立派な漁師になって家族が安楽に暮らせるようにと、

人一倍頑張りました。

さっそく知人から譲り受けた小舟を海に出し、

しばらくは鳥羽湾内で小物釣りをしていました。

装備など何もないちょろ舟を、海に向かって櫓一丁であやつり、力一杯漕ぎ、

自分で探りあてた漁場に夜明け前にはたどり着くのです。

舟が流されないように、左手で櫓を漕ぎながら、

右手には希望を託した釣り糸のテグスを海に垂れる。

釣り始めるころには空は白み、

他の漁師がエンヤエンヤと、櫓を漕いでるのが見える。

小さなちょろ舟で広い海を行くのは、根気のいる仕事、

そのうえ足腰の踏んばり、腕、肩の強さが必要です。
 

父のこの頃の口癖は、

「俺の体は甲種合格。

お国の折り紙付きじゃよって、ちょっこらちょっとではへこたれんわい。」

苦しい時、自分自身の体を励ましながら、

初めて挑戦する漁師の仕事に打ち込んでいきました。

三か月がまたたく間に過ぎ、漁師たちがボラ漁の準備に追われる頃、

漁業組合に入ることができました。

網を二隻の船に乗せて海にでる揚繰り漁は、一本釣りとは違い、

大勢の人数で一致団結をし、またそれぞれの役割があります。

漁見小屋では常に潮のようす、魚群の確認をしながら、漁に出るチャンスをみる。

父は先輩の漁師から、男らしく勇壮な揚繰り漁のありさまを聞くたびに、

胸を躍らせたそうです。

 

ゴム長靴にかっぱ姿で合図が町中を駆け巡ったのは、師走に入りすぐのこと、

「ヤーイ、みんな出てきてくれ-、ボラやぞ-、ボラ獲りや-、ヤーイ。」

父も身じたくを急ぎ、河岸まで叫びながら走った。

二隻の船にはそれぞれ八丁の櫓が据えられ、ベテランの漁師たちが役割についていた。

いまにも出漁というその時、櫓をかまえていた漁業組合長が、ひときわ大声で父を呼び、

「お-い、かわって櫓を漕いでくれ。」

父はそんな大役をと感激し、急いで船に飛び乗り、

初めての大きな櫓に″かいな”をまわした。

「若いおまえの力で頑張ってくれ、頼むぞ。」

組合長に背を押されたときに、何と答えたのか覚えがなく、とにかく必死で漕いだ。

やがて鳥羽の平穏だった海は、父たち男の豪快なかけ声と、歓喜に満ちた叫びが響き、

夜半に出漁したボラ獲りは、東の空が暁に輝くころまで続いた。

漁師だけでは人手不足なので、町中のおばあちゃん、子供まで河岸に集まり、

捕獲されたボラの整理に追われ、一段と活気溢れてどの顔も、どの顔も皆、笑っていた。


恐ろしく、忌まわしい戦争が終り、何もかも無くし、不安な生活の中での事でしたが、

父や母にとっては、かけがえのない幸せな時だったと申します。

あれから、幾たびも季節を越えて、歳月がすぎました。

赤ん坊だった私も五十一歳になりました。

今は亡き父の墓前に母と参り、母の語るつれづれ話に、

まぶしさを味わいながらゆっくりと相槌を打っています。

 

現在、文明文化の発展は、とどまることなく進みますが、

あの戦争を過去の一瞬の出来事ですませられません。

戦争で苦しみ、その後は復興に努力惜しまず頑張り続けてきた人々のことを忘れないで、

今の世に感謝したいと思います。

―――三重県戦争資料館

http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/bunsyuu_09.htm

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「写真『焼き場に立つ少年』を中国に送った」2015年4月26日(日)No.1345

2015-04-26 21:23:09 | 歴史

江西財経大学日本語学科4年施芳芳さんの卒論テーマ、

日本人の『もったいない』精神」

と関連して先日このブログでもアンケートをお願いした。

彼女は今、一生懸命に論文をまとめているところだが、その中に

〈戦争、災害のため失われた、命や環境の「もったいなさ」〉という項があり、

広島、長崎の原爆投下による子どもたちの死を具体例に挙げていた。

私は、その文に資料として添えたらどうかと思い、

あの有名な一枚の写真を施芳芳さんに送った。

「焼き場に立つ少年」である。

 

 背負われた弟は既に死んでいる。

弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。


 1945年当時、この写真を撮影したアメリカ海兵隊所属ジョー・オダネル軍曹

 

 自分がこの写真を初めて見たときから、もう15年は経つだろう。

今、改めてこの写真を見ると、最初に見た時の衝撃が何倍にも増幅して心を揺さぶる。

見ている自分の鈍感さを責める別の自分がいて、

(お前なんかに分からない、この子どものギリギリの痛みは)と言う。

この写真を撮影したアメリカ軍海兵隊所属ジョー・オダネル軍曹は、

軍が許可していない日本の人々の写真を何枚も撮り、

それを60歳過ぎるまで誰にも見せず秘密裡に保管していた。

あまりにも重いものが詰まっているこの写真を前に思いがつかえて、

今日は書こうとしていた言葉が出てこない。

この時の状況をオダネル氏自身は次のように説明している。

――――――――――――――――――――――――― 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。


夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。

(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]

―――――――――――――――――――――――――――

写真・インタビュー文は「ウィンザー通信」さんからお借りしました。

「ウィンザー通信」http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c45f9793732aa7e8116d123f503b3dd9?fm=entry_awp

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「大阪都構想・百害あって一利なし」2015年4月25日(土)No.1344

2015-04-25 21:24:36 | 政治

「大阪都構想」 

なんだってこんな要らんことすんねん、維新は(怒)。

「年間4000億円の効果あり!」

と当初、歌い文句だった「二重行政解消」が、

議論と批判の中で年々その額は減り続け、

今や年間1億円程度の効果しかないことが明らかになった。

 
   
 
 

 

 
  
埋め込み画像への固定リンク
 

 たった1億円ぽっちの効果を捻出するために、

なんでわざわざ大阪市を解体せなあかんねん!

大阪市を廃止するのも、新しい制度を作るのも全部お金がかかる。

初期費用600億円+毎年のコスト20億円が消えていく。

そして大阪市民の税金2200億円大阪府に吸い取られてしまう

何が悲しくてこんなのに賛成する大阪市民がいるんやろなあ。

こういうのを「馬鹿まるだし」とご先祖様方は言っておられたのであろう。

 

下は、大阪市が、具体的に失う莫大な資産をリストアップしている

〈細々と彫りつける〉さんのタメになるブログです。↓

「都構想で大阪市が解体されてしまった場合、大阪市が失う事業、資産を公式資料から抜き出すと驚くべき規模にhttp://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20150409/1428582404

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「金平茂紀さんの記事見っけ!」2015年4月24日(金)No.1343

2015-04-24 21:44:36 | 報道

最近、毎日新聞の見出しと記事内容に冴えが見られる。

今日も今日とて下のような記事を見つけて、私はたいへん嬉しかった。

金平茂紀さんの名前はテレビも見ないのに何故か知っていたが、

記事を読んだのはおそらく初めてだ。

彼の経歴は、

1977年、TBS入社。社会部、「ニュースコープ」副編集長、

モスクワ支局長、ワシントン支局長、ニュース23編集長を務め、

2005年から報道局長、2008年からアメリカ総局長として

アメリカを中心に取材を続ける。

2004年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。

 とある。

なるほど、この記事はモスクワ支局長時代のエピソードなのか。

『かつての強大な政権与党=ソビエト共産党は、

 気に入らない放送を流すような事態が起これば、

 容赦なくその関係者らを呼びつけ処分した。』の部分、

ソビエト共産党自由民主党に変えれば、全く今の日本の状況だ。

はやく、「かつての強大な政権与党」と言えるような日が来ますように。

お天道様に手を合わせて祈る日々です。

 

―――2015年04月24日 東京夕刊―――

週刊テレビ評:テレビに政権があられもなく介入した国の末

 「バック・イン・ザ・USSR!」=金平茂紀    

かつて僕がソ連末期のモスクワで勤務していた時代の話を書こう。

今から四半世紀近くも前のことである。

その当時の国営テレビ、ゴステレの夜の定時ニュースは「ブレーミャ」という名前で、

その御用報道ぶりでよく知られていた。

そんななかで、ゴルバチョフ大統領の登場と共に

「グラスノスチ」=情報公開の波が徐々にではあるが、

かのソ連においても広がりつつあるかにみえた時期があった。

けれども、ゴステレにおいては、

「言論の自由」を掲げて果敢に報道する姿勢をみせた記者、キャスターらには

直ちに容赦のない弾圧が加えられていた。

「ブレーミャ」は生放送ではなく数秒遅れの疑似生放送の形式がとられていたが、

それは政府に不都合なことをチェックする(=カットする)ためだと言われていた。

1991年8月19日、

ゴルバチョフが保守派の企てたクーデターで身柄を拘束された際に、

「ブレーミャ」では、アナウンサーが重々しい口調で、

ゴルバチョフ大統領が病気になったため、

ヤナーエフ副大統領が大統領の職務を代行すると報じた。

国民にうそをついていたのである。

ところが、この保守派クーデターに反対するエリツィン・ロシア大統領に呼応して

市民が蜂起し、クーデターが挫折し、

ついにはソ連が崩壊するに至る事態が起きるや、

ゴステレでは大変なことがおきた。

それまで政権の言う通りの放送を流していたクラフチェンコ・ゴステレ会長が

エリツィンによって解任された。

それを聞いた市民らの間から歓声がわき起こった。

ラフチェンコ会長はその後、ゴステレの放送に登場し、

公開の場でその責任を追及されていた。

僕はそれらの番組をリアルタイムでみていた。

御用放送人の末路は必ずこのようになると確信した。

かつての強大な政権与党=ソビエト共産党は、

気に入らない放送を流すような事態が起これば、

容赦なくその関係者らを呼びつけ処分した。

 

さて、僕らの国にも放送法があって、報道の自由、言論の自由が守られている(はずだ)。

それらの法律は、戦前・戦中の暗黒時代の反省の上に、

究極的には国民の知る権利を守るために作られた法律だ

その放送法を盾に、政権党が個別番組の内容に絡んで

テレビ局幹部を呼びつけ「事情聴取」した。

僕は、ああ僕らの国はあのソ連時代に向かっているのかと思った

来日中のポール・マッカートニーなら

「バック・イン・ザ・USSR!」と皮肉まじりにシャウトするだろう。

でも、笑えないな。

連は滅びた。(テレビ報道記者)

―――http://mainichi.jp/shimen/news/20150424dde018070046000c.html

 

 

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「西井澄さん、中国残留の体験を語る」2015年4月23日(木)No.1342

2015-04-23 22:49:32 | 中国帰国者

昨夜、大阪淡路のアジア図書館で中国帰国者1世の西井澄さん(79歳)が

中国残留の体験話をされた。

大阪自由大学主催(アジア図書館共催)の連続講座「東アジアを考える」

でのことである。

 

(左が西井澄さん:会場のアジア図書館で)

―――西井澄さんの話〈要旨〉

1942年、満州高知県開拓団に父、母、6歳の自分、妹の家族4人で入植しました。

1945年7月、父が日本軍に現地召集され、母が産後7日目だったので、

長女の自分だけが駅まで見送りに行きました。

泣いて別れましたが、その後、父に二度と会うことはありませんでした。

敗戦後、母子3人は他の人たちと共に、何とか日本に帰るために逃げました。

半年に及ぶ逃亡生活で毎日、目の前で人が死んでいくのを見、

1歳にもならない下の妹も母の腕の中で死んでいきました。

なぜ、自分たちはこんな目に遭わなければならないか考えました。

(戦争のせいだ。戦争が平和な家族の生活を滅茶苦茶にしてしまった)

と小さいながらも思いました。

 

その後、病気になった母とともに中国人養父に引き取られ、畑仕事に従事する傍ら、

雨の日と雪の日だけ学校に行かせてもらえました。

とぎれとぎれに3年半小学校に通ったのち、成績がよかったため、

師範学校に推薦されて4年間寮に入り、国費で勉強しました。

 

小学校の教師の職を得て2年後、

電話局に努める中国人男性と結婚し、家庭を持ちました。

子どもも4人生まれ、

与えられた教師の仕事と家事、政治活動を一生懸命こなしていました。

そんな平和な生活でしたが、

文化大革命の時、日本人であることで攻撃を受けました。

自分がやられるのはなんとか歯を食いしばって辛抱できましたが、

子どもが毎日泣いて帰ってくる姿に耐えきれず、帰国を決意しました。

帰国が実現したのは1981年8月のことです。

(日本に帰ったら、きっと何もかも良くなる)と信じて帰ってきましたが、

待ち受けていたのは、それまで以上に苦しい生活でした。

 

私は私費帰国だったため、国からの保証は一切受けず、

帰国後1週間で病院の付添として働き始めました。

言葉が分からないためにたいへんな辛酸を舐め、

(日本に帰ってきたのは間違いだったか)と思うときもあったのです。

「お母さん、中国に帰ろう」と子どもが訴えたこともありました。

 

それでも、子どもたちは何とか成長し、私も68歳までつきそいの仕事を続けました。

病魔に襲われたこともありましたが、今は毎日1時間半から2時間歩き、

ほとんど病院にかかることはありません。

この3月に、夜間高校を卒業し、

生まれて初めて校長先生から直に卒業証書をいただきました。

私は中国も日本も二つとも、自分の祖国だと思っています。

平和のために何かしたいのですが、

自分にできることは、これからも健康に気をつけて、

精一杯、生きている限り、勉強を続けることだと思います。

――――――

 

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「山城博治さんの歌ーケサラ」015年4月22日(水)No.1341

2015-04-22 13:08:53 | 

「負けるな博治!」

あの、両足を掴まれ基地に引きずりこまれた山城さんが、

「基地侵入の容疑」で逮捕されたときに、

名護警察署を囲んでシュプレヒコールが何時間も続いたそうだ。

 

今、またキャンプシュワブ第二ゲート前で、全沖縄で、

同じ掛け声が轟いていることだろう。

辺野古新基地建設反対に全沖縄のみならず、

全国、全世界からはせ参じた人たちを包み込んで、

ゲート前をみんなの元気な解放広場にしていた山城博治さん。

「さあ!今日も頑張ってデモにしゅっぱーつしよう!!」

と掛け声をかけていた山城さんが、病気で入院するという。

みんな、ものすごくガッカリしたに決まっているけど

(今は落ち込んでいる場合じゃない)と、気を引き締めてもいることだろう。

山城さんはいつもゲート前テントで皆にマイクを渡し、

歌を歌ってもらったり、話をしてもらっていたが、

昨日は自分で歌ったという。

「ケ・サラ」

62歳の山城さんが青年の頃からずっと自分を励ましてきた歌を。


昨日の夜中、私も、部屋でひっそり歌った。

 

♪ 押さえきれない怒り こらえきれない悲しみ

そんなことの繰り返しだけど

決して負けはしないさ

 

ケサラ ケサラ ケサラ

私たちの人生は

平和と自由を求めて 生きて行けばいいのさ

泣きはらした夜  迎える朝の眩しさ

涙の乾く時はないけど  決して倒れはしないさ

 

ケサラ ケサラ ケサラ

 

僕たちの人生は 平和と自由を求めて 生きて行けばいいのさ

広く 高く 大きく 明日に向かって 力強く

人間の優しさを 歌え 歌え     歌え 歌え 歌え

 

人間の優しさを 歌え 歌え

明日に向かって 力強く 広く 高く 大きく

 

―――下は昨日の沖縄タイムスより一部掲載

辺野古反対のリーダー、悪性リンパ腫で闘病へ

2015年4月21日 14:08
新基地建設に反対する市民らに、療養後に戻ってくると語る山城博治さん(右)=20日、名護市辺野古名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲートてきた0日、病院で検査結果の説明を受けた山城さん。家族と相談し、「黙っていなくなったらかえって心配を掛ける」と、その日のうちに公表した。

 今年に入り、沖縄防衛局の資材搬入を警戒する24時間態勢の行動が始まった。山城さんは真冬の仮設テントで1カ月以上寝泊まりしながら、健康不安とも闘っていた。一時、首は腫れ上がり、胃の痛みも自覚していた。

 いろいろ検査を受けても、病名ははっきりしなかった。「自分の体がどうのこうのじゃない。運動の今この時期だけはやめてほしい」と、祈るように話したことがあった。

 この日、山城さんは涙をにじませながら、マイクを握った。「厳しい闘いは続くが、県内、全国の仲間がいる。海に石一つ投下させては駄目だ」。若いころから自分を奮い立たせてきた「ケ・サラ」を歌った。

 突然の報告に、目を赤く腫らす人も多かった。激励の歌やあいさつ。「負けるな博治」と、シュプレヒコールも上がった。留守を預かる平和運動センターの大城悟事務局長、「博治さんが戻るまでゲートを守っていこう」と力を込めた。

 「本当に悔しい。こんな時にベッドの上なんて」と漏らした山城さん。振り払うように、「行動の基本はできている。資材のトラックが来ても、みんなが止めてくれる」と後を託した。握手を求める人の列は、なかなか途切れなかった。(比屋根麻里乃、阿部岳)

―――http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=112482

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「基地工事で沖縄は潤っているというが…」2015年4月21日(火)No.1140

2015-04-21 21:27:34 | がんばろう沖縄

この間も書いたが、「朝パラ」という関西ローカルの番組で勝谷誠彦が、

(彼は「たかじんのそこまで行って委員会」の司会もしていたらしい。

私はその番組を見たことがない)

沖縄県民の辺野古新基地建設反対の主張に対し、

「県と国とどっちが上や思てんねん!」

「基地建設で沖縄県民は潤ってる。基地要らんゆうなら金返せ」

等々、口角泡を飛ばして非難していた。

そのとき、勝谷某の横の男が

「そう言えば建築現場でよう沖縄風な名前(言葉)の人いますわ」みたいな

どうしようもない発言をしていた。

(私はこの場面をフェイスブックの動画で見た)。

たいへん声高で喧嘩腰、早口でまくし立てる勝谷某の口調は、

ヤクザ映画で演技している人を想起させた。

 

「沖縄は基地建設で潤っている」

これはもちろん沖縄県民の主張と真逆である。

昨日の沖縄タイムスに、基地建設を請け負うゼネコン会社の名前が出ていた。

勝谷何某がそう言うなら、さぞ、地元沖縄の会社名が並ぶだろう。

しかし、事実は以下の通りだ。


五洋建設日本の準大手総合建設(ゼネコン)会社の一つ。海外大型工事の先駆で、海洋土木(マリコン)最大手としても知られる。本社・東京都文京区。

東亜建設工業:日本のゼネコンでは中堅の規模を誇る。設立時の経緯もあり、海洋土木に強みを持つ。かつての浅野財閥の流れを汲む企業の1つ。本社・東京都新宿区

東洋建設東京都江東区に本社をおく総合建設会社中堅ゼネコン)。阪神地域発祥。海洋土木大手、陸上・建築へ展開。債務免除受け再建中、前田建設工業と資本提携契約締結。

前田建設工業東京都千代田区に本社を置く建設業者である。準大手ゼネコンの1社

大成建設:日本の大手総合建設会社。スーパーゼネコン5社(鹿島建設清水建設、大成建設、竹中工務店大林組)の一角。戦前大倉財閥の流れを汲む。本社・東京都新宿区

(解説wikipedia)

―――沖縄タイムス 2015年4月20日 09:20

辺野古埋め立て工事6件415億円契約「夏にも着手」

  • 沖縄防衛局は、辺野古埋め立て工事6件を415億円で契約した
  • 区域外周に沿った護岸新設など1300メートルを整備する
  • 最初の本体工事として、防衛相は夏にも着手する意向

名護市辺野古の新基地建設で、沖縄防衛局は埋め立て区域の外周に沿った護岸の新設など6件の工事を計415億3千万円で業者と契約し、19日までに公表した。中谷元防衛相は、海底ボーリング調査を6月末までに終え、実施設計に反映し「準備が整えば、夏にも埋め立て工事の過程に着手したい」との考えを示している。

現在の海上作業は、掘削を伴う海底地盤の強度や環境影響評価後の生態系の変化などの調査が目的で、防衛局が県に提出した埋め立て承認申請書に基づく工事には着手していない。今回の6件は、防衛局が埋め立て本体工事の最初の手続きとして入札公告し、業者との契約を結んだ。

今回契約した工事では傾斜堤護岸約320メートル、二重締切護岸約550メートル、ケーソン2工区で計430メートルの計1300メートルを整備する予定。埋め立て区域の外周全体約4900メートルのうち約27%を占める。

工事と契約額は、ケーソン新設の1工区が五洋建設など3社の共同企業体(JV)と約141億5千万円。2工区は東亜建設工業など3社のJVと約18億4千万円、傾斜堤護岸新設は東洋建設など3社のJVと約9億8千万円

ほか、二重締切護岸新設は前田建設工業など3社のJVと約79億6千万円、中仕切岸壁新設は大成建設など3社のJVと約157億6千万円、汚濁防止膜等工事は大成建設など2社のJVと約8億4千万円で2月20日までに開札し、業者と契約を結んだ。

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=112335

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「今日は谷雨:二十四節で学ぶ中国」2015年4月20日(月)No.1139

2015-04-20 13:48:10 | 自然

自分にとって未知のすてきな言葉に出くわす度に、

(ああ、私は今まで何をやって生きてきたんだろう)と思う。

特にご先祖様伝来とか東洋系とかの知識は、我が脳に僅かしか存在しない。

歴史が浅い北海道に生まれ育ったためと言い訳できないこともないかな?

いや、北海道の姉兄たちがそこそこ伝統的な作法など身に着けている様子を見れば、

単に自分が避けて通ってきたのだろう。

そんな私だが近年、特に原発事故以来、

とても新鮮でありがたく思えるのが中国伝来の二十四節のお知らせだ。

二十四節を頼りに日々の自然をもう一度見つめ直すと、

いちいち頷けることに驚く。

やはりお隣なので自然環境が似ているんだなあ、と今さらながら再認識する。

 今日は中国の農暦二十四節の「谷雨」。

 

漢字を見るだけで、柔らかに降る雨が谷間を潤す様子が頭に浮かび、

心までしっとりする。

谷雨は穀雨とも言うそうだ。

中国の南方では谷雨に飲むお茶は、逆上せや苛立ち、炎症を鎮め、

邪気を払い、目をスッキリ・はっきりさせる効果があるというので、

人々はその日の天気の良し悪しにかかわらず山へ茶摘みに行き、

帰ってきて新茶を飲む伝統があるとのこと。

ああ、なんてステキな暮らしなんでしょう。

(今でもしてはるんやろか)。

谷雨时节吃什么 谷雨活动 谷雨时节茶叶农事   

南方谷雨摘茶习俗,传说谷雨这天的茶喝了会清火,辟邪,明目等。所以谷雨这天不管是什么天气,人们都会去茶山摘一些新茶回来喝。 ―火车网http://www.huoche.net/jieqi-28635/

 

谷雨節にはこんなお粥を食べるそうだ。

①山芋粥…山芋が血管を柔らかくし、皮下脂肪を減らす。 

②クコ粥…クコが目まい・耳鳴り・腰や膝のだるさなどを減らす。肝炎患者も食べるとか。

谷雨节气喝什么粥好 ② 谷雨节气如何喝粥养生 


③胡麻粥…習慣性便秘に良いそうです。他に入っているのは胡桃かな?

谷雨節にぴったりのこのお粥、うっかり忘れないでねえ、とのこと。

今晩は②③合体で、クコと胡麻のお粥にしようかな。

  

 

 


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「11年間、筋金入りの辺野古座り込み」2015年4月19日(日)No.1138

2015-04-19 22:02:07 | がんばろう沖縄

「この安倍首相の顔!ほんとに卑しいな。」

-Everyone says I love you さんのブログより引用(写真も)

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/b65235fd48f51619478e924f6dd9f17b

 

「丁寧に説明し、理解を得るよう努力し続ける」と言っているくせに、

翁長知事の再三の会見要請を拒否した安倍首相、

アメリカに行く前に慌ててアリバイ的に会談をするなど、見え透いてたまりません。

「丁寧に」「沖縄県民の負担を軽減したい」

・・・これほどまで神経に触る言辞の首相も今だかつていないのでは?

言っていることとやっていることが真逆だからです。

 

チョイさんのブログによると辺野古浜の座り込みが11年を突破したとのこと。

たいへんな時間、たいへんな闘いです。

安倍首相、沖縄県民にこんな負担をいつまで続けさせるのですか。

みんな自分の生活を犠牲にしてずっと座り込んでいるのです。

安倍首相に言ってもむだなこととは知りながら、念のため。

 

↓3月末に伺ったときの辺野古浜テント。

 

 

 きっと今日も全国から訪れる人たちに、

座り込みメンバーが一生懸命説明していることでしょう。

一人ひとりが筋金入りの静かな闘士でした。

人生をかけて闘っていることが分かりました。

 

 ↓大浦湾でのカヌーの練習。

こうして新しいメンバーが次々とフロートを越えて、前へ前へ漕いでいきます。

海保にひっくりかえされ、暴力を振るわれても、

次の日には、お椀の船に箸の櫂みたいな小さいカヌーが、

ボーリング工事建設を1分でも、1秒でも遅らせるために、また漕ぎだしていくのです。

↑この写真はチョイさんのブログより。

http://blog.goo.ne.jp/chuy/e/a0fd736462bb9f84a33989f797742f49

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「格差社会を生きぬく清貧献立(その1)」2015年4月17日()No.1137

2015-04-17 15:47:39 | 自分事情

アベノミクスで地域間格差が最大6.5倍にもなったことが数値で裏付けられました。

地域別所得:安倍政権下で格差拡大 最大6.5倍 毎日新聞調査

http://mainichi.jp/shimen/news/20150417ddm001020172000c.html

しかし、都市部にいるものとて、株でもやっていなけりゃ

トリクル・ダウン(金持ちのおこぼれ)に与ることはできません。

生産するものが貧民化する社会は腐敗していると私は思います。

明治の思想家福沢諭吉の「痩せ我慢の説」を持ち出すまでもなく、

株式投資だのFXだの、ひっくり返ってもやりたくないです。

そういうわけで私は貧民コースの中心に存在するしかありません。

 

今日はそんな貧民の王道を行く私の清貧のメニューから2つご紹介しましょう。

上は、フライパンで薄揚げをカリッと焼き、

その上に、昨日娘の家でもらってきた新鮮ネギ、すり生姜、鰹節、醤油をかけた一品。

薄上げ(大判)はスーパーの安売りで58円(ふだんは98円)だったのを10枚買って、

冷凍しておき、一枚、また一枚と解凍して使っています。

(納豆、肉、魚、チーズ、食パンなども安売りのときに買って冷凍します)。

これは100円ぐらいしか材料費がかかっていません。

それなのに、本当に美味しいんですよ!

(UNGAROのお皿も当然もらい物です

 

上は清美オレンジティーです。
 
清美オレンジでなくても、はるみ・はるか・不知火・春峰など
 
甘い柑橘系果物ならなんでもかまいません。
 
皮をよく洗った後、細切りし、熱湯で1~2分茹でます。
 
 
鍋からポットに移し変え、
 
スペアミントの葉とレモン薄切りを加えると爽やかな美味しいお茶になります。
 
スペアミントはスーパーのハーブコーナーで買ってきたものを水に浸して発芽させ、
 
土に移し変えてどんどん増やしたものです。
 
ハーブはとても強い生命力があるものが多いですね。
 
 
 
というわけで、まだまだ清貧のメニューは工夫できますです。
 
日本経済がどうなろうと、私たちは生き延びなければなりません。
 
餓死したりしたら、毎晩安倍を呪い祟って出てくるしかありませんからねえ。
 
それは私の望むところではありません。
 
 
 
 

 

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「日本にいると疲れるのは何故?」2015年4月15日(水)No.1136

2015-04-16 00:59:11 | 日記

以前UKさんがコメントに

「日本にいると疲れます。南昌に行きたい」と書いていた。

なぜだろう?UKさんは決して左派的な考えの人ではない。

従って、昨今の日本の右傾化傾向のことを言っているのでは決してないだろう。

私にしても単に政治的傾向だけでなく、

それをも覆い尽くす広範なPM2.5的悪い空気を感じることがよくある。

例えば昨日のニュースに、

「自転車で帰宅中の40代男性が、足に矢を射られ貫通」とあった。

以前は猫や鳥が犠牲になっていたが、ついに人間が的になってきたのだ。

また、函館で見知らぬ親子を車ではねて殺そうとした事件では、犯人は、

「仲良くしている家族がうらやましかった」

と話したという。

先日、靖国裁判傍聴に行ったときに

「あいつら、汚い。消えろっちゅうねん。」

という言葉を吐いた人も全く理性的でなく、

憎悪の感情が顔ににじみ出ていたのを思い出す。

敵意、憎悪、ヘイトの感情、

こんなのが日本の空に蔓延しているとしたら(て言うか、蔓延しているので)、

そりゃ息苦しくなるはずだ。

50年前日本社会に、切り捨て、排他、排撃の言動はあったにしても

身の回りだけの小規模なもので、

社会全体を覆う風潮にはなっていなかったと思う。

1970年頃にも「日本の心が失われつつある」という言辞はあったが、

当時は表面だけは取り繕えていたのかも知れない。

今は、表面の取り繕いすらできず、

内面の膿がダダ漏れになっている状態ではないか。

いったいこの歯止めのきかない状態は何がどうしたというのだろう。

学校で愛国心を教えなかったからか?

今は、自称「愛国者」のほうが排外的で憎悪と敵意に満ち満ちているのだが。

 

 先日「もったいない」についてアンケートを依頼してきた中国の学生の施芳芳さんは、

「『もったいない』価値観を通じて日本から学ぶことは多いです」

と言う。

今の日本社会が、様々なものごと、人やいのちについて、

「もったいない」と心から大切にし、慈しみ、育て、最後まで全うする価値観を、

中国の学生に提示できるほど持ち合わせているのか、私は自信がない。

 

 

 

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「『科学的考察』がナンボのもんじゃ」2015年4月14日(火)No.1135

2015-04-14 22:24:55 | 原発事故

【高浜原発仮処分】再稼働阻む「司法の暴走」専門家批判 

「人格権」盾に科学的考察せず 

と、今日の産経新聞の見出しに書いてある。

 

この見出しを読んだだけで気持ちが悪くなる。

まず一つ目、

「専門家が言っている」と一専門家の責任にすり替えて、

実は自分が主張するこの責任逃れのセコイ語り口。

 

次、メインにイラッとするのが、

『科学的考察』をすれば高浜原発は再稼働しても全く安全であるという

バラ色の科学万能主義。

これはあの日に破たんしたのではなかったか。

2011年3月11日以前、

「原子力発電所は専門の科学技術の粋を結集したものであり、

絶対に事故はあり得ない。」

と何百回聞いたことか。

原発反対派を「感情的で非科学的でどうしようもない人々」

と鼻先で笑っていた科学者たちがたくさんいた。

 

4年前の事故があったとき、一つ覚えの「想定外」しか言えなかったのが

それら「世界一優れた」科学の専門家たちだった。

そして、あれから4年経っても、まだどうやって事故の収束をしていいのか、

科学の粋を集めた東電は途方に暮れているのが客観的事実なのだ。

福島第一原発原子炉格納容器内のロボットは走行不能、回収不能だ。

やることなすこと不能だらけの状態じゃないか。

 

原発事故の危険性が万が一にもあれば

差し止めが認められるのは当然だ

という福井地裁の樋口英明裁判長の判断は、

経済活動より人間の命が大切だ」という、

50年前の日本人なら90%が頷いたろう「人格権」を根拠にしている。

今でも、学校では

「いのち一番、にこにこ二番、三番何でもさっさとやろう」

と先生たちは教えているはずだ。

社会に出たとたんに真逆では、

子どもたちはこの社会をどう捉えたらいいのか困るだろう。

今から教科書検定の道徳には、

「おかねの価値に比べれば人の命などゴミみたいなものだ」

と政府の意向を十分に汲んできちんと書くべきだ。

 

きっとまだまだ生きられるはずの若者たちにアドバイスしたい。

命より金儲けが大切だと信じる人々が多数を占める国に

しがみついている必要はない。

世界は広い。

好きなところに行って暮らしたらいいんだよ。

大切な一個しかない自分の命を持って。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「雨に濡れた朝」2015年4月13日(月)No.1134

2015-04-13 19:53:05 | 

統一地方選前半が、予想通りの嬉しくない結果だ。

こんな朝もある、と気を取り直し日々のルーティンをする。

午後、あれこれ音楽を聴いて、

低調な気分をひっそり静かに、落ち着かせた。

「Morning Has Broken」(邦題『雨に濡れた朝』)、

これは中国でも何度も何度も聞いた曲だ。

いつも私に力を与えてくれる曲。静かで穏やかな力を……。

https://www.youtube.com/watch?v=e0TInLOJuUM&list=RDe0TInLOJuUM#t=0

Yusuf Islam

若い頃から聞いていたこの歌が、

キャット=スティーヴンスCat Stevens)こと

ユスフ=イスラム(Yusuf Islam)のオリジナルソングでなく、

古いゲール語民謡『ブネッサン Bunessan』をベースとした

賛美歌なのだと今日、初めて知った。

日本では、『世の始めさながらに』という讃美歌として

歌われているとのこと。

ブネッサン(Bunessan)とは、スコットランド西海岸、

ムル島の西はずれに存在する村なのだそうだ。

行ったこともない村の、信仰してもいない宗教の香り漂うこの歌が、

ずっと私の心の財産になっているのはちょっといいな。

--- "Morning Has Broken" 作詞Eleanor Farjeon/---

Morning has broken
Like the first morning
Blackbird has spoken
Like the first bird

朝の始まり
それは最初に生まれた朝のように
ブラックバードのさえずりさえも
まるで最初に生まれた鳥のように

Praise for the singing
Praise for the morning
Praise for the springing
fresh from the world

讃えよ その声を その朝を
新たに生まれしすべてのものを

―――――――――――――――――

歌詞は下のサイトからお借りしました。http://www.worldfolksong.com/songbook/scotland/morning-has-broken.html

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