58年前の1959年、
沖縄県石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍のジェット戦闘機が墜落して、
児童11名を含む18人が殺されました。
事件の酷さ、特異さを物語る多くの証言や記録があります。
今日は豊里友行さんのフェイスブック記事を転載させていただきます。
(写真は村上淳一さんのものです)
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今日6月30日は宮森小学校ジェット機墜落事件の慰霊祭。
基地があることの代償は、あり続けることで、私たちも加害者ではないかと。
『オキナワンブルー』豊里友行写真集のP22に「火傷」(うるま市宮森小学校内・2015年6月30日)があります。写真の声があります。
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当時6年生の担任だった比嘉静先生が事件にあったのはちょうどミルクの時間でした。
ミルク当番でもめごとが多いので先生が生徒に配る担当をすることになっていた。
四番目の席の男の子が手を挙げお代わりをもらう合図をしている。
その時に事故は起こった。
事故直後にとっさに先生は「伏せー」と叫んだことを覚えていないと言う。
毎年最初の授業で子供たちに机の下に伏せる訓練をしていたと言う。
比嘉先生はこの6年生の子供たちにもその訓練をしていた。
教室は天井だけでなく外の廊下まですっ飛んでいる。
教室の四分の一くらいの天井が吹っ飛んでないんです。
天井から青空が見えている。
そして机は全部、爆風で向こうに寄せられてました。
子どもたちは机と一緒に吹き付けられて、机の下に潜っているんですよ。
はっと気が付いた時には「せんせーい!」と私が起き上がれないくらい、みんなおっかぶさってきた。
大きな声で「待てー!!」と叫んだ。
「先生が様子を見てくるから待っとくんだよ」と言って聞かせ、自分は様子を見に教室から出ていくと、階段の下のほうがどうも不安定のようです。
それで教室に戻ってここは危ないから逃げなさいとみんなを追っ払うようにして逃がしました。
その中に逃げないのがいるんですね。
「どうしたの!早く逃げなさい!」と怒鳴って見たら、もうだめなんです。
だれだかわからないくらい、体が崩れていました。
これは自分一人で助けられるものじゃないと思い助けを呼びに行く。
私の教室のある校舎のもう一つの棟を周ると2年生の教室がある校舎ですが、そこがもうぼんぼん燃えています。
そこから助けを求めに周ってきたら、火の中から女の子が一人、ぼーぼー燃えながら出てきたんです。
洋服も髪も燃えて、炎になって出てきたんです。
はっと思って火を消すために、その子の背中をはたいたら、背中の皮がずるずると私の手にくっつきました。
あっと思って、私はその子を抱いて「誰かいませんかー!」と叫びながら人を探したけれど、校内はもうみんな逃げていない。
なおも助けを求めて職員室の前まで来たら、教頭先生がいる。
その日校長先生は、研修で留守だったんです。
大火傷した子を抱きかかえ、さらに助けを求めてさまよいながら職員室の傍まで行ったら、後ろから走ってきた年配の伊波タケ先生に傷ついた子を託しました。
自分のクラスの子を助けてくれる人は誰かいないかと思っていたら、父兄がぼつぼつ学校に向かって走ってきたんです。
初めに走ってきた人の胸に真正面から抱きついて、「お願いします!私のクラスにまだ子どもがいるんです!」と自分の教室を指差してすがったら、その人にぱっーと跳ね除けられてしまいました。
その人は火が燃え盛るほうに、子供の名前を呼ばわりながら走っていきました。
助けを求める人に2度振りほどかれた。
自分のクラスの子は自分でしか助けられないと思った。
(怪我のため)形が崩れて本人への返答確認や衣服などでしか(生徒の確認が)わからなかった。
ガソリンも火も降ってくる教室の中を捜し回っていた。
それから私は患者として軍病院に入った。
しかしそこの医者から学校の先生かと聞かれ、生徒たちに顔を見せてと頼まれる。
それで騒いでいる子供たちをなだめる。
子供たちは自分の(看護のため)洋服をばっさり切られたと話してくれた。
退院したら先生の姿が見えないことから周囲の人からは亡くなったものと思われていた。
学校の修理をしに来た軍の作業員は教室にやってきた時は監督をしていたという。
その作業員は初は血痕だけをはがし始めた。
その血痕の部分だけを補修するつもりなのだ。
血痕を含めて全て、私の教室の一教室全部をは塗り替えてもらい、血痕と区別のつかないようにしてもらう。
事故のことをなるべく子供たちに思い出させないための配慮だ。
(宮森小ジェット機堕落)事故後、生徒たちは先生より先に教室に入らず先生より先に帰るようになる。
無言のトラウマは生徒たちにもあるのだ。
比嘉先生自身も電話のベルを聞くと事故当時の生徒の叫び声を思い出すという。
そのトラウマに気づいた比嘉先生は、子供たちより先に教室に入り、最後の子供たちが帰るまで教室に残るようにしたという。
(うるま市の)お隣(沖縄市など)に基地がある限り、このような惨劇は起こり得る。
それを、基地を無くすことはできないわけではありません。
平和を願って止みません。
1959年の米軍ジェット機墜落事故から58年となった。
事故で犠牲となった児童、住民18人。
―――豊里友行さんのフェイスブック記事より
基地が集中する沖縄ではいつこうした事件が再発するか分からない恐怖と
隣り合わせで生活することを余儀なくされています。
加えて屈辱的なことは、こうした米軍による事故が起きるたびに、
日米地位協定により治外法権状態になり、
日本の土地にもかかわらず日本の警察が立ち入り捜査できないことです。
2004年8月沖縄国際大学に墜落した米軍ヘリコプター機事故しかり、
昨年12月名護市沿岸に墜落したオスプレイ機事故もしかり。
下の写真が全てを物語っています。
1965年4月宜野座村で、米軍のトラックに轢き殺された女の子です。
通園バッグを持ったまま。
突っ立っているだけのアメリカ軍人たち。
その時、手も足も出せず、ただ交通整理するしかなかったのが日本の警察です。
駆けつけた親は、殺された女の子を抱き上げることも許されなかったそうです。
アメリカの属国日本を位置付けている日米地位協定のせいで。
この写真は、当時25歳の嬉野京子さん(報道写真家)が
「撮ったら生きて帰れないぞ。」と言われながらも、
肩でかばってくれた男性の陰から決死の覚悟で撮ったものです。