毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「沖縄県の新聞記事」2015年5月31日(日)No.1373

2015-05-31 12:35:08 | がんばろう沖縄

「海と風の宿」では新聞をとっていませんでした。

宿に到着して翌日、病院のオーナーから、

「あの、うちは赤字なので新聞代は今までお客さんが払ってくれていたんですけど、

ちゃんと届いていますか?」

と、意味不明な電話がかかってきました。

正直者の私は、

「私の長い長い人生において、お客が新聞代を払う宿屋に遭遇したのは、

生まれて初めてです。」

と、驚きを隠さず述べたところ、オーナーは宿屋が赤字だったから~、と繰り返し、

しかしながら、今後は自分が新聞代を負担すると明言したのです。

 

その翌日から毎朝、琉球新報が届くようになりました。

もちろん、お客さん方が、wifiが開通したことと新聞が届くようになったことを

大歓迎したのは言うまでもありません。

ほとんどのお客さんは辺野古の基地建設反対闘争に来ているのですから、

辺野古情勢や政府交渉などを日々チェックしたいのです。


紙の新聞を読む習慣が無くなって長い私ですが、

久しぶりに読むと、やはりいいものだと感じました。

WEBニュースは、一旦保存すると溜りに溜り、

その記事を探す気持ちすら萎えてしまいがちなのですが、

紙の新聞は切り抜いておくと、まるで本を読む感覚で再読できるのです。

紙に馴染んで生きてきたので、簡単には紙文化から離れることはできないなあ、と

再認識しました。

 

琉球新報も沖縄タイムスも、論調の違いは分かりませんが、

名護市からここに来るタクシーの中で、運転手さんから心に残る言葉を聞きました。

次のようなものです。

「沖縄の新聞は地方紙なのに、ずっと、政府を相手に舌鋒鋭く頑張っているけど、

本当は、それは本土の全国紙の仕事ですよ。

沖縄県の地方紙がこんなに連日頑張っていても、本土の新聞やテレビで

どれだけ沖縄の基地のことを取り上げてくれていますか。

ほとんど載せてくれていないでしょう。

もう、沖縄県民は辛抱し過ぎて、疲れて果てているんですよ。

地方紙には、地元のローカルな話題が欲しいのに、

沖縄タイムスも琉球新報も基地のことを載せるので精いっぱいで、

紙面の余裕がないですよ。

これだけ頑張っているのに、もし、今度日本政府に潰されたら、

沖縄県民は自棄を起こしますよ。

もう、何をやったってむださー、と絶望しますよ。

本土の人たちに、そんなギリギリの沖縄県民の心を知ってもらいたいです。

ぜひ、沖縄に来て、県民の声に耳を傾けてもらいたいですよ。」

 

 確かに、琉球新報を読むと、産経、読売は言外として、

毎日、朝日も頭が下がるような気迫が感じられます。

しかも、琉球新報の取材に対してノーム・チョムスキー氏がメッセージを寄せていたり、

実にインターナショナルな繋がりを持つ大記事が多いのです。

明日はその新聞記事から一つ、ダグラス・ラミスさんの文章を

ご紹介します。

なぜ明日かと言いますと、今からお風呂の掃除と庭の草ぬきをするからです。

では皆様、御機嫌よう~。

 

 

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「梅雨と言うよりスコール・・・」2015年5月30日(土)No.1372

2015-05-30 13:46:36 | がんばろう沖縄

連日降ったり止んだり、かっと照りつけたりと、目まぐるしく天気が変わる沖縄北部。

一昨日(28日)午後、滝のような雨がバケツをひっくり返したように

という表現がぴったりの降り方でドドドドドっと落ちてきました。

写真の手前の赤い木が「どうもすみません、いやいや、ほんとにどうも」

と、ペコペコ頭を下げているようでしたが、自主的にしているわけではありません。

オーナーは名護市内の病院から、

「強風の場合は非常用の木戸を閉めて、雷が頻繁に近くで鳴ったらブレーカー落として」

と電話で細かく指示してきました。

この時車に乗っている人は前方が見えず大変だったでしょう。

 

昨日は晴れのち曇り、一時雨でしたが、

雨の間隙を縫ってナオコさん母子に誘われ、古宇利島に行ってきました。

道中、ビーチで幼稚園の先生と園児たちがお弁当を食べていました。

他には誰もいません。

先生はカニの捕まえ方を伝授しています。

穴にまず、棒を挿し、そこから掘り進むとカニがいることが多いそうです。

ワガジ?ビーチだったかな。

民間の会社が管理しているそうです。

沖縄にはこんなビーチがあちこちにあるのです。

 

古宇利島に渡ります。車で8分で一周できるそうです。

 

まずは腹ごしらえ。「島の駅」という名前の食堂でした。

若いおしゃれなお兄さんが応対しました。アクセントで沖縄人だなと思いました。

地元古宇利島の若者かもしれません。

私が食べたのはキハダマグロのネギトロ、うに、海ぶどうの丼+うどん(1550円)。

ウニの名はイイウニだったかな。後で確かめます。

(今は晩ご飯の支度が迫っているので焦っている(^_^;))

 

♫今は~ 梅雨どき~ 誰もいない海~♫

手前の浅いところには写真には写らないたくさんの可愛い生物が動いています。

 

有料ビーチ「ハートロックビーチ」

あまりに大雑把な料金。

本土や台湾からもお客が来ていました。

古宇利島の名前も知らなかった私ですが、夏休みには観光客でごった返すそうです。

何度も言うようですが、こんなビーチがあっちにもこっちにもあるのが沖縄。

観光で十分潤うのではないでしょうか。

 

さて、今日の瀬嵩の浜です。

「海と風の宿」に今日泊まっているのは全員辺野古新基地建設反対闘争に

本州から駆けつけたか、関心があって現地を見に来た人です。

昨日は海保が「立ち退きなさい!」

と偉そうに放送していたので、グナアの散歩に行ってくれていたナオコさんが浜で、

「こらー!海保は帰れ!」

「子供が見ているぞ!」

「辺野古ブルー、頑張れ~!」

と叫ぶと、海保の放送が

「少し、下がってください」

に変化したそうです。浜辺からの声が聞こえるほど修羅場は近いのです。

数日前の夜中、クレーンを搭載した台船がこっそり湾に入り、

ボーリング工事を再開しているそうです。

下の写真は今朝の瀬嵩浜から撮ったもの。

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「辺野古ー大浦湾ーやんばる」2015年5月28日(木)No. 1371

2015-05-28 13:19:28 | 日本事情

「海と風の宿」5日目レポート。

この宿は沖縄本島北部東海岸沿いの村、瀬嵩(せだけ)にあります。

本州で聞き慣れた言葉で説明しますと、

辺野古が傍にあり、大浦湾の一角で、やんばる(山原)地域にあるところです。

今日の本島北部は朝から雨が降り続き、時折雷鳴が轟いています。

朝、一瞬雨が止んだ時に、ナオコさん親子がグナアの散歩に行ってくれて、

ほんとうに助かりました。

しかし、夕方の散歩はどうしたものか・・・・・・。(-_-;)

 

現在宿泊のお客さんは、ほとんどが辺野古反基地闘争をともに担わんとして

本土から駆け付けた人たちです。

辺野古ブルー(カヌー隊)の活動は雨のため今日は中止なので、

東京から来ているAさんは、タブレット型パソコンで情報収集しています。

昨日の天気でAさんの顔は一気に赤銅色に日焼けしました。

海と風の宿の部屋は薄暗いので、夕方電気を付けないと、歯しか見えません。

Bさんは山城ヒロジさんが入院したのを聞いて、座り込みに来ました。

雨でも座り込みは続いています。Bさんは早朝5時半に出発しました。

ネットなどで「反基地闘争に来ている人たちは、お金をもらって動員されている」

というキャンペーンがまかり通っているそうですが、

私を含め、全ての人たちは自腹(自分でお金を捻出)です。

組合で動員されている場合は、毎月組合費を払い、その貯めたお金を

組織として使っている場合もあるでしょう。

しかし、それは元々自分たちが貯めたお金であるので、

誰かにお金をもらってアルバイトで来ているのではありません。

 

私の前に1か月スタッフとしてがんばってくれたナオコさん母娘は、

辺野古闘争にちょっとでも力になれば・・・と、

ドーネーションおにぎりを作って提供しています。

早朝出発するカヌー隊・座り込み部隊双方人たちにとって、

とても嬉しいことでしょう。

 

帰ってきた人たちは、晴れていたら外のテラスでビールを飲みながら

お喋りして情報交換をしています。

自炊が基本なので、晩御飯の提供をしたりはしません。

 

ハンモックは一度近所の子どもたちが来て、キャーキャー言いながら

乗って遊んでいましたが、注意されてから二度と来ません(笑)。

後ろにはやんばるの森があります。

夏休みには観光客がたくさん訪れることでしょう。

できれば、辺野古反基地闘争の場所にも行ってみてほしいと思います。

 

近所に「じゅごんの里」という宿泊所らしいところもありました。

大浦湾には3頭のジュゴンの生息が確認されています。

 

 

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「グナアと散歩・これも仕事」2015年5月27日(水)No.1370

2015-05-27 22:25:02 | 自分事情

昨日・今日は梅雨の中休みで、布団を干しました。

人一倍カビ臭に敏感なのか、同じ部屋のお客が何ともないと言っても、

私はかなりかび臭く、くしゃみなど連発させていました。

今日は滅多にないチャンスです。

他の部屋の使っていない布団十人分は干したでしょう。

お風呂掃除もしたし、庭の草ぬきも続きをしました。

そんなことだけでグッタリ疲れるのに、犬の散歩まで肩にのしかかってくるのです。

(ああ、めんどくさ)と心で思います。

しかし、朝夕の時間が来るとグナア君は玄関前で待っているのです。

 

ヤンバルの森、あるいは大浦湾の海の2コースがあります。

昨日の夕方は犬がそっち方面にぐいぐい引っ張るので、ヤンバルの森の方に行きました。

いそいそ、いそいそ、そんな音が聞こえてきそうなグナアの歩き方。

 

瀬嵩のヤンバルの森とはこんな感じです。

草原が大好きなグナア。

随所にハイビスカスが咲いています。

犬にとってマーキングは欠かせません。

ひっくり返りそうになるほど後ろ足を上げるグナア。

 


今朝は瀬嵩の浜に向かいました。

途中の郵便局に瀬嵩子ども会が作成した看板があります。

うーん、「明るい末来」か・・・。

これは浜昼顔かなあ。

サンゴの死骸を踏みしだいて進みます。

痛くないか心配ですが、グナアはかまっちゃいません。

 

赤いフロートの外側を行くのはチョイさんのブログで有名な「ラブ子」船でしょうか。

宿に泊まっているカヌー隊のメンバーに聞くと、ボーリング調査のための台船が

出てくるのを偵察している状態とのこと。昨日、今日はたいへん静かだったそうです。

昨日はこの浜に数十人の年配の方がたが立ち、船に向かって、

「おおい、おおい!がんばれー。一緒にがんばろー!」

と叫んでいました。

本土からの年金者組合の方がたでした。

犬はそういうことに関心がありません。

私たちの散歩は続きます。

川が海に流れ込んでいるところ。魚がたくさん泳いでいます。

 

「海と風の宿」に戻りました。

昼過ぎまでいい天気の沖縄北部でした。

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「海と風の宿の2日間」2015年5月26日(火)No.1369

2015-05-26 14:59:54 | 自分事情

「海と風の宿」滞在3日目。

一昨日夕方、ここについてから今日まで、

現ボランティアスタッフのナオコさん親子から各種作業を伝授され、

ようやく今日になって、ちょっとは一日の流れが呑み込めたかと思える状態です。

なんと、ナオコさん親子はもう少しここに留まってくれるようなので、

天の助けとはまさにこのことなり。バンザーイ!!

 

朝、宿泊客は早朝から昼ごろにかけて出かけていき、

連泊の人は夕方から深夜にかけて戻ってきます。

人々が去るや否や私はフル回転で仕事に取り掛からなければなりません。

・出発した部屋の寝具(シーツ・枕カバー)をはがし、布団を部屋干しする。

・各部屋の掃除。泊り客のいない部屋も必ず掃除する。鼠が糞をするからである。

・枕カバー、台所の布巾等の洗濯。

・風呂場・トイレ・廊下・台所・ゆんたく(語り場)の掃除

・ぐなあ(宿の犬)の散歩

・庭の草ぬきe.t.c.

これらを終えて、パソコンに向かったのが2時45分。ふう~やれやれ。

夕方まで、ひと時休憩だ~い!

 

到着した日、次の日と雨続きでしたが

今日はほとんど晴れ、洗濯ものが乾きそうです

(しかし、たまにパラパラッと降ってくるので常に洗濯ものを監視せねばなりません)。

 

一昨日、昨日の様子を簡単に写真でご紹介します。

まず、一昨日、那覇空港から雨の中、高速バスで名護バスターミナルに向かいました。

下は琉大入口のバス停。停留所の屋根がいかにも沖縄風です。

 

「海と風の宿」のゆんたく(語り場・茶の間)

たくさんの蔵書や美術品に囲まれ、熱心に勉強するナオコさんのお嬢さん。

 

女性用ドミトリー(2段ベッド2つ付き6人部屋)

私は当分、この部屋の左下ベッドを使用します。3月に来た時もこのベッドだったので。

 

主人が留守の間、この宿を守るぐなあ。散歩が大大大好きで、

「さんぽ」という日本語を聞いただけで、パッと立ち上がり、ハアハア息を吐いて

興奮します。

 

昨日は、ハードな一か月のボランティアスタッフ期間を終え、

一息ついたナオコさん母子に誘われて、午後、遅い昼食とドライブに出かけました。

大浦湾を海沿いに北上し、東村地域の地元食材にこだわるレストランは、

たいへん評判がいいところです。

途中の景色を楽しみながら、ペチャクチャお喋りもしながら、

楽しいひと時でした。

↓ 何となく、北海道を想起させる家々。

 

橋の欄干はさすが沖縄(笑)。

 

パイナップル畑。

畑で働く「オジイ」。一体何歳ぐらいから「オジイ」「オバア」と言うのか、

詳しい人に聞いたら、年齢ではなく、孫ができたらそう言うのだそうです。

では、独身のまま、90歳をむかえた女性は「ネエネエ」のままかと言うと、

当然孫がいるぐらいの年齢では、やはり「オバア」だそうです。

心洗われる道端の草花。


これは畑に群生していました。

遠くに見えるはひまわり。

『少年の振る帽子のごとく』と比喩するには花は小さすぎて。

 

東村の湾を歩く少女エリカ。

 

素直で、深く感じる心を持つ子どもに、

沖縄の生活はどんな力をつけてくれるのでしょう。

出会ったばかりなのに、エリカちゃんのこれからがとても楽しみです。

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「久しぶりの沖縄から」2015年5月24日(日)No.1368

2015-05-24 21:39:06 | 自分事情

みなさん!私は嬉しいです。

今回は「海と風の宿」のオーナーがルーターとか買ってくれていたので、

すいすいインターネット接続できるのです。

那覇空港から名護バスターミナルまで高速バスで1時間45分、

バスの運転手さんはどうみても50代は超えているようでしたが、

いかにも本場の英語風な「O.K.~」「お金changeしますか」・・・。

そうか、これが沖縄なんだな、と感じました。

大雨の沖縄、もう、梅雨入りしたそうでしばらくは止みそうにありません。

「海と風の宿」の外では雨の中、蛙の声がします。

取りあえず、ネットがつながるというご報告まで~~

 

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「明日、沖縄に行く」2015年5月23日(土)No.1367

2015-05-23 20:17:22 | 自分事情

今週は、

日曜日:Muse EnglishのTerumiさんに会い、

水曜日:帰国者2世青木さんの講座、

木~金曜日:シアトルのチエコさん一行来訪と、

わたし的には大ごとがずらりと並び、たいへん慌ただしく過ぎていってしまいました。

従って、もう明日朝には沖縄辺野古に出発です。

「辺野古」といえば当然座り込みに行くと思うでしょう。

♪座り込め~ ここに  ここに 座り込め~♫ 

(ゲート前に座り込むときの歌(*^ω^*))

 

そのつもりでした、4月に「海と風の宿」に電話したときまでは。

今回は名護市辺野古瀬嵩(せだけ)にある安宿のスタッフとして赴任するんざんす。

と言うのも、その宿「海と風の宿」のオーナーはずっと入院中で、

ボランティア・スタッフが細々とその運営を担ってきました。

ですが明日5月24日でそれが途切れてしまうんだそうです。

オーナーは電話で、

「宿泊したいでしょうがスタッフがいないので無理なんです~」

みたいなことでした。

その話を聞くや否や、私の「ハッつあん・クマさん」スピリットに火がつきました

ちょうど今の私は端境期で、

無愛想で食いしん坊で泣き虫の孫の世話くらいしかやることがないのです。

(↓ただ眠いというだけで泣いている孫娘。そんなことでいちいち泣くのか!と初めは驚いた)

 

そういうわけで、6月いっぱいは辺野古暮らしです(*´∀`*)。

 

「海と風の宿」のある瀬嵩は辺野古浜まで散歩して行ける静かないいところです。

3月の夕刻に行った時には、ヤドカリがゴソゴソ歩いていました。

 でも、沖には張り巡らされたフロートがプカプカ浮き、

遠くの陸には解体中の米軍基地の建物が見えました。

 

 

 

 

 この宿にはwifiがなかったので、

今回はオーナーにお願いしてルーターを設置し、

インターネットが使えるようにしてもらえることになっています。

でも、名護市内ではないので、うまくいくかどうかわかりません。

本土のようにはスイスイ繋がらない可能性があります。

もし、インターネットに繋がらなければ、ブログに書くのは6月30日まで一休みして、

中国語のお稽古・読書・散歩・座り込みなどが、

私の自由時間の過ごし方になるでしょう。

そして、お客さんがあまり来なかったら、自由時間はかなりたくさんあるでしょう。

そういうわけで、宣伝もそんなに積極的にしたくないのですが、

下に「海と風の宿」のホームページサイトを貼っておきます。

ドミトリー(二段ベッド数人同室)、素泊まりは¥2000です。

個室、素泊まりは¥3500です。

ゲート前座り込みに行くには、レンタカーで行くのがベストですが、

自転車もあるそうです。

バスはたいへん本数が少なく不便ですが、ないよりマシです。

私は3月に行った時、ゲート前座り込み現場で「瀬嵩に行きたいんですけど」

とダメもとでお願いしたら、親切なドライバーに送ってもらえました

名護から本部町、伊江島に行くには近い場所です。

http://www.sea-wind.com/ 「海と風の宿」

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「シアトルの友人が来た」2015年5月22日(金)No.1366

2015-05-22 21:31:59 | 日記

昨日、今日と、

シアトルのチエコさんが娘Maddieとそのボーイフレンドを連れて大阪にやって来ました。

私が彼女の家にお世話になってカレッジに通ったのが、

2002年(あのWTCに飛行機が突っ込んだ9・11の翌年)から2003年のこと。

40代末期のおばちゃん留学でした。

一生に一回ぐらいしてみたかった留学ができ、私は楽しくて楽しくてたまりませんでした。

その後、シアトルも、英語も、ほぼ関係ない生活が続いていましたが、

こうして再会すると、当時のあれこれの出来事、

パイク・プレイス・マーケットや、フリーモントなどの場所も、

はっきり浮かんできます。

確かにシアトルの一年間は私の人生で最も楽しかった時の一つです。

当時中学生だったMaddieも、はや美しい女性に成長し、

IT関係で働くバリバリのキャリア女性になっていました。

小柄な体で一家を背負って立っていたチエコさんは、

今でも口はばっちり元気でしたが、年には勝てないもので、

庭の草むしりを立て続けにしたことでぎっくり腰になり、

何かにつけて「イテテ」とか言っていました。

ソファーのない我が部屋では大変だったろうと思います。

 

晩御飯はその3人と阪急園田駅近くの茶房「どるめん」で、娘夫婦、孫、元夫なども交え、

タイカリーやチキンカリー、チヂミ、焼きうどんといったバラバラのメニューに

ウィスキーグラスの赤ワイン、ビールと、全くカッコ付けない食事会と相成りました。

「どるめん」の御夫婦は古い友人です。

チエコさんは、大学時代、京都の古下宿で青春のビンボーをともに味わった同志です。

ずっと会ってはいなくても、30年、40年の時をともに生きてきた友人たちとのひと時は、

何を言っても言わなくても、気心が通じるふるさとのような感じです。

 

昨日印象に残った一言は、

「どるめん」のキョンジャさんが、Maddieに

「お父さんはアメリカ人、お母さんは日本人で、あなたは自分は何人だと思う?」

と聞いたとき、

「日本人、アメリカ人、どちらも私です。」

とMaddieが答えたことです。

その前日、中国帰国者2世の青木さんの話を聞いたばかりですが、

多くの帰国者2世も「どちらも私の国です」と言います。

やはりMaddieもそうなんだ、と納得しました。

 

Maddieのお父さんは、シアトルの家の地下室で留守番をしながら、

今日もブラジリアン・ミュージックの制作に勤しんでいることでしょう。

(チエコさんの評価は、「あのstupid music」というものです(^_^;))。

 

 

 

 

 

 

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「ある中国帰国者2世の人生」2015年5月20日(水)No.1365

2015-05-20 23:26:33 | 中国帰国者

大阪自由大学とアジアセンター(在淡路)の共催による

連続講座「東アジアを考える」の第3期「戦後70年・・アジアと日本の現実」

で帰国者が自分の人生を語るシリーズの2回目が今日、アジアセンターであった。

今日は、このブログに何度も登場している帰国者2世、吉林省長春出身の

青木雅子さんが話をした。

下は始まる前のスナップ。

4月の語り部、西井澄さんも参加して青木さんをバックアップしてくれた。

後ろの方に、「帰国者の友」のユミコさんの顔も見え、青木さん大感激!

 

青木さんのお父さんは戦後すぐに大連の病院で生まれ、

祖母(お父さんのお母さん)は子どもを産んですぐに亡くなった。

たまたま、お父さんの養母もそこで赤ん坊を産んだところだったが、その赤ん坊も

すぐに亡くなった。

養母は生まれたばかりの日本人の赤ん坊にお乳をあげ、

ついには引き取って育てることにした。

周りの誰にも、日本人の赤ん坊だとは口外しなかった。

青木さんが中学一年か二年生のとき、春節で親戚から楽しく帰ってくると、

部屋の隅のベッドの上で、お父さんがコートを抱きしめて泣いていた。

お母さんが部屋の外に青木さんを連れて行き、ひそひそ声で、

お父さんが日本人であることを養父母に告げられ、ショックで泣いていると語った。

家族はその話が嘘だと思い(たくて)、関係窓口に問い合わせたが、やはりそれは事実だった。

 

大人になって職場恋愛し、結婚の意思を固めたが、自分が日本人であると言えなかった。

母に急かされて、ついに、青木さんは相手の男性とその両親を前に、

それを告白せざるを得なくなった。

相手の男性は一人っ子で、そのお母さんは

「大切な一人息子を、日本人なんかと結婚させたくない」といい、

二人は、職場で毎日顔を合わせては泣き、もう別れるしかないと諦めかけたが、

そんなとき、相手のお父さんが、

「君は半分日本人だが、半分は中国人だ。

これからの人生は、二人で作って行きなさい。」

と結婚を認めてくれた(ここで青木さん、涙)。

子どもが生まれて4年経った頃、実家の父が母、弟と日本に帰国した。

言葉も分からず、どうやって暮らしているか心配でたまらず、

日本から呼び寄せられた時、自分と夫、長女(当時4歳)の3人で日本に渡った。

日本に来たくて来たのではない。

両親が心配で、子どもは親についていてあげなければ…という思いでやってきたのだった。

それは、中国で生まれ育ち、中国が全てだった2世の共通の想いだ。

それでも青木さんは、日本語の習得、就職、ホームヘルパー試験1級、

日本語能力試験N1など、一つひとつクリアしていった。

次女が生まれると、あれほど結婚に反対していた義母が日本に来て、

6か月間も一生懸命孫の世話をしてくれ、お蔭で自分は順調に仕事に復帰できた。

 

そんなとき、中国の義父が倒れた。

夫と相談して、ずっと中国で暮らそうと決意し、

海を渡って家族みんなで長春に戻った。

しかし、当時4年生の長女は中国の生活に馴染めなかった。

年を経るごとにストレスが溜まり、

ついには一人でも日本に戻ると主張し始め、行動も病的になった。

 

長女を病気にしないために、

中学1年の秋(中国では新学期)、

青木さん、長女、次女の3人で再び大阪に戻ってきた。

一度明け渡した市営住宅には、いくら帰国者でも優先権はなく、

安く、劣悪な環境のワンルームマンションを借りて暮らした。

長女は、日本の中学校の授業の日本語がさっぱり分からなかった。

生活言語とアカデミック言語は違う。

子どもはほんの少しで生活言語をマスターするが、学術用語などが頻出する授業は、

まるで別の言語のようなものだ。

長女はやみくもにがんばったが、目に見える効果は出なかった。

その頃の長女の言葉、

「私、IQのテスト受けたい。もし、私の頭が普通だったら、私は一生懸命頑張る。

でも、頭が悪かったら、どんなに頑張っても無理なんだから、もう頑張るのを

諦めるわ。」

を思い出すたびに、青木さんの目に涙が浮かぶ。

その後、次第に長女は荒れ、

「親の都合で中国だ、日本だ、と子どもを挽きずり廻して、

おかげで私の人生台無しだ!」

と何回も泣きながら怒鳴ったという。

 

この頃、青木さんの神経が摩り減ってしまった。

死ぬことも頭を過ぎった。

夫がまた日本に来てくれたら、どんなに心強いかと思ったが、

中国の両親は歳も歳だし、決して元気になることはない。

つまり、夫は日本には来れないんだと悟ったとき、

青木さんは、(自分で頑張るしかない。自分の可愛い子どもじゃないか)と、

覚悟を決めた。

 

今、長女は大学3年生、次女は5年生になった。

家ではほとんど中国語で話をする。次女は学校で、意味が分からないことで

先生に叱られたり、子ども同士の中に入っていけないことがあるという。

3世になっても、日本語の細かいニュアンスが分からないことは往々にしてある。

次女は、このまま地元の中学に進学して、同じ顔ぶれでやっていく自信がないと

青木さんに訴えている。

「次女が大学を出たら、私は長春に戻り、夫と一緒にずっと一緒に暮らします」

という青木さんの夢は、少なくともあと十数年叶うことはない。

・・・・・・・・・・・・

青木さんの話を聞いて、たとえ戦争は何年間かで終わっても、

その後遺症には終わりがないことを痛感した。

戦時中の中国侵略のお先棒担ぎに駆り出された日本の民衆は、

戦争が終わって後、中国残留孤児や残留婦人になり、

文化大革命では日本人であることで攻撃を受け、

帰国が実現しても、2世、3世まで、その禍根を残している。

 

青木さんの話を脇でずっと聞いていた帰国者1世の西井澄さんが、最後に、

「私らは、中途半端や。日本に来ても中国に行っても。」

と言った。その切なさ、悲しさが心に深く沁み込んでいく。

 

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「豆ごはん&コーヒー豆」2015年5月19日(火)No.1364

2015-05-19 23:50:26 | 日記

先々週、誰かの写真で豆ごはんを見て、そういう食べ物があったことを

すっかり忘れていた自分に気付いた。

先週、豆が安売りだったので買って帰って久しぶりに(多分5年ぶり)炊いて食べた。

それから今日で3回目の豆ごはんだ。

今日の豆はやや小ぶりだが新鮮。

 

私は土鍋でご飯を炊くので、たいていおこげができる。

今日もちょっと焦げた。それもおいしく食べた。

食べていると、心中もやもやしていることが浮かんでくる。

今日は「なぜ、人々は分かり合えないか」ということについて

あれこれ、及び、くよくよ考えていた。

その大きな原因は、あれだ。

情報が偏っているのだ。

みんな、仲間内の情報で満足してそれを判断の根拠にする。

それでは、蛸壺の世界だ。

昨日、ネットニュースで、

「大阪都構想」否決の結果の感想を町往く人たちに聞いていたが、

ある30代ぐらいの若者は、控えめに

「ええっと、僕の周りはみんな都構想賛成なので、とても意外です。

大阪市が発展するためには、必要かとちょっと思ったんですけど……。」

と述べていた。

ほらね。周りは固まっているのだ。

FBの「いいね」も、むやみやたらは気をつけなきゃね。

街の人々は分断されている、というか、蛸壺にはまっている。

町中、蛸壺だらけだ。

 

豆ご飯を食べた後、

去年、南昌で八木先生にもらった雲南省のコーヒー豆を煎った。

もう、残り少ない。

酸味を減らすため深煎りする。

生を冷蔵庫に入れているので、一年でも全く問題ない。

明後日、友人が来るので、その時に挽いて味わおう。ごっくん。

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「大阪都構想は否決されたが…」2015年5月18日(月)No.1363

2015-05-18 21:04:11 | 日本事情

昨日5月17日の住民投票の結果、大阪都構想は廃案になった。

目えつぶったまま、思いっきりアクセルふかせて訳わからず

「さあ、どっかにぶっ飛んで行くぞ、しっかりつかまっとけ!ぶぎゅーん」

というのが大阪都構想だった。

例えば、橋下さんたち維新の会の説明は数字をコロコロ変えたりして

全く信用ならなかった。

従って、大阪市民の一人としてこの結果には心底ほっとしている。

 

しかし、今回の投票に至るまで、また、その結果について嬉しくないことがある。

それは、まず、有権者の約3分の1が棄権したこと。

投票する権利があるのにそれを行使しない人がこんなにいるのか…。

投票しない人は、どんな結果になろうと身も心も従うというのだろうか。

投票したくてもできない人たちもたくさんいるのに。

大阪に定住する外国人はずっと税金は払い続けているのに、選挙権がない。

そしてその結果の影響だけはしっかり受けるのだ。

どうだろう、これは民主主義に反することではないか。

 

結果は賛成・反対がかなり拮抗していた。

ある統計では70歳以上のみが反対多数で、それ以外は賛成票が多いという

一見不思議な現象が提示されたが、それへの感想で、

「若者層の意見の方が重要だ。これからの大阪を担う世代なんだから」

「年寄りが大阪の発展・進化を阻止している。若者主体でものごとを進められるように

選挙制度を改革しなければならない」

という若者賛成派からの声が上っている。

反対することが「大阪の発展・進化を阻止」することだという思い込みが、

賛成派に多くみられる。

大阪を変えることに反対しているのではない、変え方に異議を唱えているのだ。

それが分からないとは何と知性の足りないことよ、と暗澹たる気持ちになる。

まるで、年寄りは社会の邪魔者のような言いぐさも、

楢山伏考、姥捨て山の世界だ。

これら若者の自己中心主義的尊大な発想はどうよ。

この狭く、エラそうな思考パターンが私の神経に触るのだ。

アニメ「年寄狩り」の気配まで漂う不気味さ・・・。

 

思えば維新の会のチラシに次のようなのがあった。

「都構想が実現すれば、住所に『西成』と書かなくてもよくなります」

これは、どうだろう。どこから見ても西成地域に対する差別だと思うのだが。

市民の低レベルな人権意識を最大限利用し、低レベルに甘んじさせることで

実現することが、ハイレベルのものになどなりようがない。

 (大阪市以外の人に説明しますと、「西成」には釜ヶ崎地域があり、

 日雇い労働者、野宿労働者が多く暮らしています)。


一方、反対派のチラシにも、

「少しでもわからなかったら『反対』と書きましょう」

というのがあって、それもどうかと思った。

「少しでも分からなかったら、一生懸命調べましょう。

そして、自分で考えて判断しましょう」

ではないのか。

時間がないとは言え、

「あんた、わかんなかったら『反対』と書いとき」って感じで、ちょっとね…。

 

取りあえず、橋下市長が12月で引退するのはとてもいいことだ。

彼がしているのは、住民・市民を尊重することでは決してなく、

単純ではないことも白・黒と単純化させて(つまり、正確さを切り捨てて)、

劇場型の見せ場を作り、聴衆を動員し、多数派を形成することだ。

彼は必ず攻撃対象を作るが、

その対象は下っ端公務員だったり、生活保護受給者だったり、

つまり、弱い者だ。簡単に潰せる者たちに限っている。

少し離れて冷静に見れば、そんなことが易々と見えるのに、

渦中にいる人たちは無我夢中で橋下教信者になる。

ものごとを客観的に見る目を摘むのが橋下政治のやり口だ。


彼の一貫したダーティー志向も気になるが、

それはもう少し考えてから言うことにする。

なんか、今回はかなり疲れたな……。

どうか橋下さんがいつものように、前言を翻したりしませんように。

政治家になるのも「2万%あり得ない!」と断言していたのだ。

どこまでも油断大敵である。

 

 

 

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「認知症を生きる大山のぶ代・砂川啓介カップル」2015年5月16日(土)No.1362

2015-05-16 14:16:05 | 日本事情

大山のぶ代さんと言えば、「ボク、ドラえもん」のあの声。

私もよく真似したものです。

中国では、ドラえもんものび太もたいへん流暢に中国語を話していますが(笑)、

中国のドラえもんの声優も、どことなく大山さんの影響を受けた話し方だと

私は感じていました。

その大山のぶ代さん(81歳)が認知症を患っているといいます。

連れ合いの砂川啓介さん(78歳)によれば大山さんは、

テレビ朝日のアニメ「ドラえもん」は見ているが、自分がドラえもんを演じていたことを

覚えているかどうか、定かではないとのことです。


自分が認知症になった場合を想像すると、どうしたらいいか途方にくれるしかないのですが、

家族の方がたはもっと途方に暮れることでしょう。

ずっと一緒にやってきて、よ~く知っていたパートナー(親、兄弟姉妹、子どもなど)が、

それまでとあまりにも大きく変わってしまうのですから。

 

認知症の夫がドライブ好きなために、日に何度もドライブに行かざるを得ないという

「なんじゃもんじゃ」さんのブログがあります(http://kinomi1208.blog.fc2.com/)。

私が日本村ブログのつれづれボタンをクリックするのは、主にそれを読むためですが、

ただ、読んで心で応援するだけ。実質的には何の応援にもなっていません。

でも、ブログの筆者はドライブしながら生活を切り盛りして、野菜を育て、

中国語教室に通ったり、可愛い愛犬への目配りも欠かしません。

(今日はどうかな、ブログを更新する時間はあったかな)と心配しながら、

いつも見てみます。

 

砂川啓介さんは、大山のぶ代さんのことを

「今、彼女は完全に子供になってる。やんちゃな娘ができたという感じでいとおしい」

と語っています。もちろん、そう思うようになるには時間が要ったでしょう。

でも、受け入れるしか仕方がなく、従って、受け入れたのでしょう。

そんなとき、人間は柔軟で、強い、と感じるのです。

泣いて、泣いて、諦めて、また、明日生きて行く。

(だって他にどうしようもないんだもの)と踏ん切りをつけて行く。

生きて行くために必要な力だと思います。

私の友人のフミちゃんは「それはそれ!」と、声に出して言うことを教えてくれました。


身近で誰かが一生懸命に、「それはそれ!」とがんばっている時、

せめて、傍で背中をさすってあげたいですよね。

 

認知症 闘病中 大山のぶ代 砂川啓介 胃がんに関連した画像-01

(大山さんと砂川さん)http://jin115.com/archives/52080466.htmlより拝借

 

大山のぶ代さんは、今でも台本を見ながら声優の仕事をこなしていますが、

でも、どの声も自然に「ドラえもん」になってしまい、砂川さんが

「ドラえもんの声じゃなくていいから」と言ってあげるそうです。


参考記事 http://news.livedoor.com/article/detail/10118059/

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「大阪・怒れる大女子会に行ってきた」2015年5月15日(金)No.1361

2015-05-15 21:34:54 | 政治

いやもう、今日は生まれて初めての体験をしました。

何がって、オール沖縄から学んだのでしょうかね、

自民党と共産党と民主党、緑の党ならびに全くの無党派が一緒に集会&デモをしたんですよ。

(すみません、ひょっとして社民党も?)

そう、今日は「ほぼオール大阪女子会」だったのです。

 

フェイス・ブックで何週間も前から呼びかけられていた今日の集会は、

大阪女子の、大阪女子による

(あ、他の地域の方&男性の手助けはもちろんあったでしょうが)、

全大阪市民のための、大阪都構想反対の意思表示と呼びかけでした。

夕方6時、10分ほどのミニ集会で挨拶したのが、

まず、自民党大阪市議会議員(淀川区選出)の北野たえこさん。

私は淀川区民なので、この方の顔は何度か見かけたことがあります。

「昨日、自民党本部もついに大阪都構想反対に統一方針を固めました。

これで思い切り都構想反対を訴えることができます。

との発言には(うーん、オール沖縄の自民党員は、党を脱退してでもがんばったのに)

と、ちょっぴり不甲斐なさを感じましたが、ま、、、ね。

このような市民グループの集会に、自民党員が個人で参加するだけでも立派ですよね。

次は、「1分程度で!」と言われていたのに、

北野さんが3分くらい喋ったのでその分遠慮して30秒で切り上げた、奥ゆかしい

共産党市議会議員(この方もまた淀川区選出、実は私がこの前一票入れた方です)

寺戸月見さん。直にお見かけしたのは初めてでした。

北野さんも寺戸さんも、党の旗は掲げず、個人として参加されたようです。

 

じゃーん、次は社民党を辞めて民主党とか行くし~、の辻本清美衆院議員です。

彼女の大阪弁は、見事でした。

私とて故郷を出てからもう40年以上関西暮らしなのに、

辻本さんの『全身これ大阪人』には到底太刀打ちできないな、と内心舌を巻きました。

 

下のバナーを持っている方がたが主催者なんでしょう、きっと。

今日は若者がたくさん参加しているのが嬉しいし、もちろん、年配者もたくさんいます。

車いすでの参加者も十人以上いました。

デモで気がついたのは、背中が丸まって、足を引きずりながら歩いている

お婆ちゃん参加者は、それだけでズシッと重鎮感溢れているということです。

よおし、私も杖付きながら、足引きずりながら、十年後も参加し続けよう、って・・・、

そんなに政情不安な世の中がいつまでも続いたら嫌ですわ。

 

歩いていたら、沿道に前大阪市長の平松邦夫さんが応援にいらっしゃっていました。

参加者は全部で300~500人くらい、大阪女子会としては多いです。

維新の会VSオール大阪の真剣且つ、切迫した雰囲気を感じました。

沿道の市民やドライバーから「がんばって!」などと応えられることもあり、

大阪都構想はまさに、「大阪と抗争」の様相を呈してきました。

私はもう期日前投票しましたが、皆さん、17日面倒くさいと言わず、投票に行ってくださいね。

 

最後に笑福亭仁勇さんのFBの写真を趙博さん経由でお借りします。

「ぼくのことは キライで 大阪がひとつになるんです。」

 笑福亭 仁勇さん・・・最近、文房具を散らかしすぎて。
笑福亭 仁勇さんの写真
文房具が散らかっていなかったら(笑)
↓   ↓   ↓
 
 「僕のことはキライでもいい。でも、大阪がひとつになるラストチャンスなんです」

このチラシ、新聞折り込みチラシで全戸に配られたといいます。
そのお金、どこから出ているかホント、心配でたまりません。
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「今夜の首相官邸前」2015年5月14日(木)No.1360

2015-05-14 22:30:05 | 反戦平和

今日、勝手に政府が閣議決定した戦争法案は、

日本が専守防衛からチェンジし、

アメリカのお供をして地球の裏側まで闘いに行けるという、

とんでもない内容だ。

今夜、首相官邸前には続々と人々が抗議に集まっているという。

中国の学生や若者たち、世界中の人々に見てもらいたい。

日本の平和と民主主義のために身体を張って闘っている人々の姿を。

国民は手をこまねいているわけではない、ということを。

 「この国は二度と戦争をしないと誓った」のだから。

三輪 綾子さんの写真
 
 
 
Nishio Noriakiさんの写真
Nishio Noriakiさんの写真
Nishio Noriakiさんの写真
Nishio Noriakiさんの写真
Nishio Noriakiさんの写真
首相官邸前で
「閣議決定絶対反対!
戦争仕掛ける法律いらねえ 
閣議決定絶対反対!
戦争したがる内閣いらねえ
閣議決定絶対反対!
戦争したがる総理はやめろ
安倍はやめろ
安倍はやめろ
さっさとやめろ
さっさとやめろ
憲法守れ
未来を守れ
自由を守れ
平和を守れ」
の大勢の市民たちの声、声、声!!
動画は次から。https://www.facebook.com/video.php?v=363549953843972&set=o.135185106623558&type=2&theater

 

下は日本の学生たちが立ち上げた団体SEALDs(シールズ)の声明文。

若い日本の学生たちも真正面から安倍政権と対峙している。

自分たちの未来をかけて。

SASPL - 特定秘密保護法に反対する学生有志の会さんの写真

SEALDsは、本日5/14(THU)に閣議決定される安保法制に反対し、抗議行動への結集を呼び掛けます。その主な理由は以下の三つです。

①これらの安保法制が実質的に「戦争法案」であり、戦後70年の日本の平和主義の伝統を骨抜きにして「戦争できる国」へと転換させるものであること
②これら安保法制が日本国民の安全を保障しない可能性が高いこと
③「積極的平和主義」の名のもとに立憲主義を崩壊させること

 今回の閣議決定は、10本の現行法の改正案を1本に束ねた「平和安全法制整備法案」と、新設の「国際平和支援法案」の2本の法律を政府案として決定するものです。これらは日本が武力行使できる機会と範囲をこれまで以上に拡大させるもので、大枠は、a. グレーゾーン事態への効果的な対応、b. 集団的自衛権の行使、c. 戦時中の外国軍への軍事支援、を可能にするものです。

  しかしこの安保法制は、これまで専守防衛を軸としてきた日本が海外での「他衛のための戦争ができる国」へとなるはじめの一歩と言えるものです。集団的自衛権を行使する条件として設定された「存立危機事態」は定義があまりにも曖昧であり、またアメリカをはじめとした欧米の戦争支援については地理的な制約がありません。こうした武力行使の機会・範囲拡大について政府への縛りは弱く、時の政権の暴走を招かないとは限りません。はっきり言って、今回閣議決定されるのは、世界のどこでどのような戦争が起こっても「切れ目のない」戦争参加を可能にする「戦争法案」であると言っても過言ではありません。 

 しかもこの安保法政は、専守防衛を基軸とした日本の安全保障体制を蔑ろにするものである上に、結果として日本国民の安全をより損ねるものです。東アジアとの緊張関係が続く中での軍備強化は双方の強硬政策を招きかねません。「テロとの戦い」への参加は日本国民をその脅威に晒すことになりますし、そもそも安保法制の前提条件であるアメリカの日本への協力も曖昧な想定のうえに成り立っています。

 こうした法案は言うまでもなく、日本国憲法の平和主義・立憲主義を骨抜きにするものです。安倍政権はこうした安保法制を「積極的平和主義」の名のもとに推進していますが、ここで言われる「平和」は実質的に欧米、特にアメリカにとっての平和を意味しています。極端に言えば、イラク戦争やアフガン戦争のような、明かに違法な武力行使であっても、平和という言葉で正当化されかねないということです。また今回の安保法制は、歴代内閣が違憲と判断してきた集団的自衛権を、内閣による憲法解釈の変更(解釈改憲)によって容認することで可能になったものです。本来国家権力を縛るはずの憲法を権力者自信が強引な解釈によってゆがめることができてしまえば、憲法は形骸化してしまいます。

 更に今回のキーポイントである集団的自衛権の行使の可否について最後まで議論が本格化したとは言えず、そもそも恒久法案を除く10本の改正法案は「平和安全法整備法」と一括されるなど、一つ一つのケース、法についての慎重な議論をする姿勢は一切見られません。「適度に恐怖煽ってややこしい内容の法律まとめて一気に出しときゃ改憲なんざしなくても大丈夫っしょ」みたいな態度丸出しで、ようは僕たちナメられてるってことです。こんな政治されちゃ立憲主義もあったもんじゃありません。今回の安保法制は、「なぜ集団的自衛権が必要なのか」について議論が深められていないままに、日本の専守防衛システム、および戦後日本の立憲主義の伝統が180度転換させられる内容のものであると言っても差し支えないでしょう。

 昨年の解釈改憲や秘密保護法の施行など、ここ最近の政権は戦後日本の立憲政治・平和主義を軽んじる政治を行っています。今夏までに法案成立が見込まれ、さらに来夏の参院選以降には改憲発議が目論まれていることを考えれば、ここらで大きな抗議行動を起こしておくことは、今後の法制定プロセスと改憲議論に少なからぬ影響を与えるはずです。

 良くも悪くも、私たち一人一人がこの国の自由と民主主義を守らなくてはならない時代になりました。日本では戦後から70年、毎年「今年は戦後〜年」と数えてき来ました。「もしかしたらその数え年も今年で最後かも・・・」なんて言っている場合ではありません。30年後、戦後から100年経った事を次の世代に誇れるように、今から動きだしましょう。
ま、平日の木曜なんで忙しい方も多いかと思いますが、せめて一瞬だけでも、官邸前に足を運んでください。声を出さなくても、そこに立つだけでも。「この国の歩んで行く道を決めるのも、進んでいく方向を決めるのも私であり、あなたです。」

ALL THE LIBERALs IN JAPAN, UNITE. WE ARE SEALDs.

----------◇----------◇----------

 

 

 

 

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「浅川マキの『オールド・レインコート』」2015年5月13日(水)No.1359

2015-05-13 20:53:50 | 

「えっと、 私が 夜明けに 一人で 歩いて行くようにね、

たくさん ここに集まった人も、 わたしの歌を聞いて、

そのあと夜明けになると 一人ひとり 歩いて行って ほしい」

浅川マキさんの分かったような分からないような、この喋りが懐かしい。

1970年第2回中津川フォークジャンボリーでの語りだ。

まだ私は高校生で、北海道でドローンと寝ぼけて暮らしていた頃。

 

8年間住んだ京都で、2回ほど生マキさんを聴いた。

マキさんのぼそぼそ喋りや猫背の歌い方が大好きだった。

黒い衣装、長い髪、魔法使いのようだった。

私の前を歩いていくカッコいい姐さん方の一人だった。

亡くなったと知ったときは、脱力した。

何年も経つが、どこか修復不可能な部分が心にある。

大切な人が亡くなると、自分の生きて行く元気も確実に減るのだ。

 

中国で、宿舎に遊びに来た学生に「夜が明けたら」を聞かせると

黄斯麗さんが気に入って、覚え、ぼそぼそ歌っていた。

今日もあれこれ聴いたが、「オールド・レインコート」をとどめにした。

 

オールド・レインコート(Rod Stewartの曲) 

おまえは かつて 荒れ狂う川の 激流に 身震いしただろうか

そそぐように 降る雨の中 旅をしたことが あっただろうか

旅をしたことが あっただろうか


おまえは おいらのような男と 連れだって 雪の積もった墓場を

見たことが あっただろうか 

そうさ 人生甘くはないさ   そうさ 人生甘くはないさ

 

だけど おいらは ここまで来たのさ  古いレインコートを 肩に

どんなときでも これさえあれば  何も恐れることは ないさ

何も恐れることは ないさ

 

古いレインコートは あるのさ  おいらの心の ずっと奥に

どんなときでも これさえあれば  何も恐れることは ないさ

何も恐れることは ないさ 

おまえは おいらのような男と  連れだって 雪の積もった墓場を

見たことが あっただろうか 

そうさ、人生甘くはないさ   そうさ、人生甘くはないさ

そうさ、人生甘くはないぜ  そうさ、人生甘くはないさ

https://www.youtube.com/watch?v=QwEJazDXKsk

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