毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「南京大虐殺の証拠?3」   2012年2月29日(水) No.299

2012-02-29 20:24:17 | 中国事情
 ロイター通信のスミス記者の次に紹介するのは、
シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド=スティール記者の記事。
その場に居た者しか書けない内容で満ち、ロイターのスミスとの共通性もある。
南京市の当時の状況もテレビ画面を見ているように浮かんでくる。




世界に知られていた南京事件  事件当時の報道                  
 2006.2.2 first upload 2006.2.9 revised
http://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htmhttp://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htm


A・T・スティール

●シカゴ・デイリー・ニューズ 


 1937年12月8日
南京12月8日発
~中略~ 連日の砲撃の激しさとその広がりに恐れを抱いて、
いわゆる安全区に流入する市民はどんどん増えている。
これはアメリカ人が中心となって設立したもので、
うち14名がこの危機の間も踏み留まる予定である。
この地区の道路、とりわけアメリカ大使館付近には中国人難民が雲集している。
市内には、少なくとも20万の市民が留まるであろうと見られている。
(アメリカ資料編P459)

1937年12月15日 
南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、
”地獄の四日間”ということになるだろう。

首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、
私は米艦オアフ号に乗船したところである。
南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、
河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を
整然と処刑している光景であった。
そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。

南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、
その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。
後者では何千人もの生命が犠牲となったが、
多くは罪のない市民であった。 
首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、
侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。

・同情の機会を失う 
中国人との友好を主張しているにもかかわらず、
日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、
自らの蛮行により失おうとしている。 
中国軍の士気の完全な崩壊と、
それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、
日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。
中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。
が、その幻想はたちまち破れてしまった。 
罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、
日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。
ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。
しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。

・米公使宅襲撃さる 
日本軍の略奪はすさまじく、
それに先立つ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。
日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、
日本軍は看護婦から金や時計を奪った。
また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。
日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。 
以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。


1937年12月17日
日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。
これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、
その傍らで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている。


1937年12月18日 
上海、12月18日発。
南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、
もし攻撃の間ずっと残留した少数のアメリカ人とドイツ人の
勇気ある活動が無かったなら、
状況は限りなく恐ろしいものになっていたであろう。
これらの外国人は、この攻撃下の町の10万の市民の福祉のためにのみ働き、
ほとんど自分の生命を代価とするくらいの危険を冒した。 (アメリカ資料編P471)
コメント (2)
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「南京大虐殺の証拠?2」  2012年2月29日(水) No.298

2012-02-29 11:17:07 | 中国事情
 タイトルに「?」をつけているのは、「証拠ではありませんか?」の意味。
出典等を更に吟味する余地はあるが、私はかなり信憑性が高い記事だと判断している。

 ロイター通信のスミス記者などによると、
南京で日本軍による略奪や虐殺が本格的に始まったのが、1937年12月15日。
しかし、その日に外国人記者達は南京から退去させられている。
従って、世界に報道される恐れがなくなった日本軍がその後、
さらに略奪、虐殺をエスカレートさせていったことが容易に推察できる。

 戦争だからといって何でもやっていいわけではない。
戦争のルールが国際条約(ハーグ陸戦条約;1899年、1907年改定)
で世界的に確認されている。
日本でも1912年に公布されているので、1937年当時は、
もちろん「知りませんでした」とは言えない。
 外国人記者たちの抗議に対して日本の兵士たちは、
「訴えても軍の上の者がまだ南京に来ていないから、むだだ。」
と答えたそうだ。日本軍のモラルは当時どうだったのだろう。
南京に来た師団だけこんなに酷い連中だったのだろうか。
もし日本軍全体のレベルがこうだったら、
他の国などでもこれに似たことがあったのではないだろうか。
歴史研究の資料を探さなければ、という気持ちになってきた。
ものすごく暗い気持ちではあるが・・・。

今日はこれから出勤なので、また夜に続く。
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「日本人の‘思い遣り精神’」  2012年2月28日(火) No.297

2012-02-28 09:05:08 | 中国事情
河村、石原といったヒトたちは、
地球には日本だけではなくすぐ側には朝鮮半島があり、中国大陸があり、台湾があり、・・・
ということを、どれほど実感しているのだろうか。
日本人の高邁な美意識に「他を思い遣る」ということがあると
世界中で褒めそやされているにもかかわらず
このあまりの鈍感さ。

ときどき感じるのだが、「日本人は他を思い遣る」といっても
それは往々にしてとても狭い「見える範囲」の中に留まっているのではないか。
自分が所属するところだけ、つまり身内だけでの温かい気配りや交流なのではないか、と。
(最近はそれすらない、という声も…

昨夏の休みに関西に戻った後、私は東北に行った。
そして再び関西に戻ったときに言われた言葉に
「なんで東北なんかに行ったの?」
「もう気が済んだ?」
「元気だね~。」
「我も我もとみんな東北へ行く風潮はいかがなものか。」
・・・・・・
(こんなに近いところに東北があるのに、関西からは見えていないのか)と感じた言葉だった。
私が会った東北の人たちは
「とにかく来て下さい。ボランティアの人たちの顔見たら、せめて昼間だけでも元気にしていようと思えます。東北を忘れないでください。」
と言っていたのだが。

今、自分だけではなく、他の人の存在を感じ続け、
他の人のためにできることは何か、と考え続けることが大切なのではないだろうか。
もちろん日々は忙しい。
自分の生活をキープすることが一番の基本だ。
その生活を保持しながら、自分が継続してできること、
あるいはときどきならできることをしていく。
これは日本人の美意識に合致するカッコイイことである(スコップ団の団長風言い方)。
そして、「他の人」の中には「外国人」もぜひ加えてほしい。
身内と外とに厚い壁を作らないでほしい。
大阪のおばちゃんも、ここ南昌のミズ劉も、中国の学生達も、
一生懸命生きている同じ人間なのだから。
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「名古屋市長発言2」   2012年2月27日(月) No.296

2012-02-27 20:48:28 | 中国事情
 腹立つから名古屋市長の名前を書きたくない。
キーボードで「名古屋市長」と打つだけでも苛つく。
一週間で修正するような薄っぺらな内容の発言を最初からするべきではない。
それになんなんだ。「30万人も殺していないという意味です」とは?
たとえ5万人だったとしても、民間人を殺傷したり略奪したりすることは
ハーグ条約で国際的に禁止されていたことだ。
石原都知事に至っては「あれだけの期間に40万人も殺せっこない。絶対にない。物理的に。」とか?(毎日新聞 2012年2月24日 21時40分(最終更新 2月25日 7時46分))

中国側の主張でも40万人も殺したとは誰も言っていない。
数に拘るなら正確に言いなさいね。
物忘れが激しくなったのなら公職から退くしかないですね。
言いたい放題の汚物をいつまでも公共の場で撒き散らかさないでもらいたいもんだ。
卑屈になる必要はないが、自分が何でも正しいと思い込む傾向は
あまりにも世間が狭く子どもっぽい。
こういう人が人気あるという今の日本…。
頼むから一人一人、自分の頭でモノを考えて欲しい。


今日は3年の授業日。
学生達は授業時に、政治的な質問をしたりはしない。
日本人であろうと、中国人であろうと、
老師は自分たちの知らないことを教えてくれる尊敬すべき存在なので、
老師を困らせたり失礼なことをしてはならない、と思っているのだ。
日本の学校の子ども達とずいぶん違う。

ただ、微妙な雰囲気は感じた。
何しろ今日は
「日中友好40周年に当たって交流を進めるためにも、この作文を書こう!」
と、『中国人の日本語作文コンクール』応募を呼びかけたのだ。
「南京大虐殺はウソだった。」なんて言われたら、友好交流なんかできるはずがない。
いくら日本語学科の学生だって、みんなそう思っている。

それは授業後、4年生の黄斯麗さんと昼ご飯を食べているとき話題になった。
彼女から
「『南京大虐殺はなかった』と言った人がいますね。理由がとても変ですね。」
と言い出したのだ。学生はみんなインターネットで何でも素早くキャッチしている。
斯麗さんは、
「あの市長は右翼の保守系なんですね。」
と何だか私に気を遣っている様子。
つまり、彼女は
「日本人の全員があんな考えの持ち主ではないことは、知っていますよ。ヨシヨシ。」
と、慰めてくれているのだ。トホホ。

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「南京大虐殺の証拠?」   2012年2月26日(日) No.295

2012-02-26 20:55:19 | その他情報
 「南京大虐殺があったと決定づける証拠は一つもない」
と言う人たちがいるが、
客観的に事象を調べて、分析し、判断することが、
どんな思想を持つ人にも問われている。
主観や願望で事実をねじ曲げてはならない。

昨日の亜細亜大学教授、東中野修道の主張が2009年の最高裁で退けられたという
根拠は以下。


南京事件研究書で賠償確定 2009.2.5 22:05http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090205/trl0902052206007-n1.htm 

南京事件の研究書で事件の被害者とは別人と指摘され、名誉を傷つけられたとして、
中国人の夏淑琴さんが、著者の東中野修道・亜細亜大学教授と出版元の展転社に
損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(涌井紀夫裁判長)は5日、
教授と同社の上告を退ける決定をした。
東中野教授と同社に計400万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。



 次に挙げるジャーナリストの文も事実なのかねつ造なのかは、
大使館名、新聞社名が記載されているので
問い合わせればすぐに分かることだ。
この記事は下のホームページからコピーさせてもらった。
とてもとても長いので、1937年12月14日と15日の記事のみに絞り、
毎日一人分ずつ5日間にわたり紹介したい。
今日は、「ロイター通信のスミス氏」という人の講演抜粋。


 http://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htmhttp://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htm



世界に知られていた南京事件  事件当時の報道 
 2006.2.2 first upload 2006.2.9 reviced


戦禍が南京におよんだ12月12日、多くの記者はパネー号に乗って南京を脱出した。
南京に残った記者は次の5人である。 
N・Yタイムズのダーディン、
AP通信のマクダニエル、
シカゴ・デイリーニュースのアーチボールドスチール、
ロイター通信とブリティッシュニュース・エージェンシーのスミス、
パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン。
 このほかに、ロンドン・タイムズのマクドナルド記者は、
パネー号が沈没したため一旦収容され、17日上海に戻るが、
その途中、15日南京にまた舞い戻って取材している。


1. ロイター通信社のスミス記者

『ドイツ外交官の見た南京事件』P44~P50

資料13添付書類
一九三八年ー月六日付駐華ドイツ大使館報告代十一号に添付
一九三八年一月一日ドイツ通信社(漢口)より入手
文書番号 二七二二/一一〇六/三八
内容  一九三七年一二月九日から一二月一五日にかけて
     南京で起こった戦闘中のできごとに関する
     スミス(ロイター通信)氏による講演の抜粋


 一二月一四日
朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。

だが正午ごろになり、六人から一〇人ぐらいの日本兵の小グループが

あちこちで組織された。

かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。

中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。

かれらは町を組織的かつ徹底的に略奪したのである。


私が南京を去る一二月一五日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、

中国人の家はすベて例外なく、またヨーロッパ人の家はその大部分が

日本兵に略奪しつくされた。

屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。

日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。

かれらはとくに壁掛け時計を好んでいるようだった。

まだ南京に残っていた外国の車も押収され、国旗はもぎとられた。

日本兵は安全区国際委員会の車二台とトラック数台を押収した。


私は、キースリンク&バーダーの店頭でラーベ氏に会った。

かれは、ドイツ国旗を下ろして店を略奪しようとしていた日本兵を、

店の支配人と力をあわせて追い払っているところだった。


国際赤十字の旗がはためく外交部には約六百人の中国人負傷者が収容されていた。

伝道団の二人の米国人医師はなかに入ることを拒否され、

負傷者に食料品を送ることも許されなかった。

外交部には何人かの負傷した中国兵も避難していた。

かれらは日本軍に連れ出され、射殺された。

鼓楼病院で働いていた看護婦たちは整列させられ、

所持品検査がおこなわれた。

そして、腕時計、万年筆、所持金などが没収された。


日本軍は四、五百名の中国人を縛り、下関へ連行した。

下関まで追跡しようとしたヨーロッパ人の試みは

日本軍に強硬に阻止された。



 一二月一五日
略奪が続けられた。

安全区では約五千人の中国人難民が整列させられ、

およそ一八〇ドルが奪われた。

こうしたふるまいを上位機関に訴えて止めさせることは不可能だった。

なぜなら、苦情を申し入れるべき日本軍上級将校は、

日本兵の主張によれば、まだ南京にいなかったからだ。


大勢の若い中国人女性と少女たちが自宅から連れ去られた。

その後、彼女たちを見かけた人はいないので、

彼女たちの身に何が起こったかはわからない。 


結局、城内での戦闘による被害は少なかった。

ドイツ人の家屋は、外見上はほとんどがもとのままだが、

大半は略奪にあったようである。 


明の孝陵と中山陵はとくに報告すべき損害を受けなかった。

メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、

その後日本兵によって根こそぎ略奪された。 

米国領事館の前では中国人市民が四名、

長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ二〇名が日本兵に射殺された。 

福呂ホテル(オーナーはカルロヴィッツ商会の買弁)の前に爆弾が落ち、

それで一二月一二日朝に一〇名の中国人が命を失った。

シュペアリンク氏は、榴弾の破片で手に軽傷を負った。 


一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って

南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。

その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。

われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。 


出発までに予想以上に時間がかかったので、

われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。


そこでわれわれが見たものは、

日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。

そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。

脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。

その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、

すぐに立ち去るように命じた。

それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。

他の中国人がどうなったのかはわからない。
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「尼崎市民から」   2012年2月26日(日) No.294

2012-02-26 13:43:16 | その他情報
 尼崎市は大阪の今の家に住む前、20年近くを過ごした庶民的ないい町だ。
市民があれこれ元気な声を発する活気のあるところだと思っていたが、
今日、尼崎に住む娘のフェイスブックをチェックしたところ、これを発見。
今は大阪も尼崎も、「なにそれ?!」状態だな。う~む。
以下、「あちこちでみんなに教えて~!」と書いてあったので、今ごろ遅いが(集会は今日の昼…)
3月1日まで寒いのに24時間座り込みを続けるそうなので、
元気ある人、行ってあげてね~。



 2/20に兵庫県の尼崎市議会に「日の丸条例」が、保守系会派「新政会」より提案されました。市民と何の議論もなしに、突然の提案です。
私たち「STOP日の丸条例・尼崎市民緊急行動」は、この事実を知ってすぐに緊急相談会を開催し、2/17に条例案の否決に向けて一緒に行動することを決めました。2/27の総務消防委員会を経て、3/1には採決がはかられます。緊急の行動が必要です。

このような、だまし討ちのような条例提案を許してはならないと思います。一緒の行動していただける方、ぜひ、連絡ください。






2/26(日)集会開催!
阪神尼崎駅前14:00~
内容:市民アピール・公開質問状の回答発表・決議文採択・行動提起

2/26(日)~3/1(木) 24H座り込み
尼崎市議会隣り橘公園にて
応援の方、お待ちしています。


ブログを通して、活動予定・情報をお送りします。
賛同・質問・お願い等は、コメントしていただくか、管理人(jimukyoku)にメッセージを送ったください。



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「名古屋市長発言」   2012年2月25日(土) No.293

2012-02-25 23:15:45 | 中国事情
 「南京大虐殺(1937年)がなかった」と
名古屋市長の河村さんが
よりも依って南京からの友好使節団を前にして発言した。
そんな爆弾発言をするのだからよっぽどの証拠があってのことかと思える。
普通の人は、証拠もないのにそんなこと言わんもんね。

河村市長が信ずる根拠は、何だろうと調べてみた。
それは次のようなことだった・・・。
彼のお父さんが1945年終戦直後に南京に入り、
当時の南京市民に手厚く世話になって、何とか日本に帰って来られた。
8年前に日本軍による大虐殺があったら、
そんなもてなしを受けるはずがない、というのだ。
そのあまりにも主観的で理由にならない理由にあきれた。
なんでも大声で言ったら今の日本では通用するようだ。
大声で高飛車に言いまくったら人気も出るのだろう。

 そもそも河村さんが「南京大虐殺はなかった」と主張する
理論的?根拠として上げたのが東中野修道と言う人の本だ。
東中野修道(亜細亜大教授らしい)は
「南京大虐殺はねつ造だった。写真も信用できない。
被害者と主張している女性は写真とは別人」
などと主張して最高裁で敗訴し(2009年)、その女性に400万円支払えと裁判官に決定を下され、さらに
「原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く,
学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない。」
とまで断罪された人物だ。

 今日もネットで右翼(ネトウヨって言うの?)が、
「南京大虐殺があったとほざくやつがまだおる」
などと汚い言葉を使っていたが、本当に客観的証拠をもとに
「南京大虐殺はなかった」と言っているのか見せてみろと言いたい。
そりゃ、日本人がそういう酷いことをしなかったなら、どんなにか良かっただろう。
日中関係だって、こんなに拗れ続けてはいないはずだ。

高校生の時、日本史の授業で先生が準備した南京大虐殺の写真集を見て、
正視できず、信じられず、頭の中が白くなった自分を思いだす。
中国に戦争に行った自分の父が何をしていたのか、聞くに聞けずただ情けなかった。
(みんなおじいさん達は優しい顔して孫をだっこしたりしているけど、
戦争で何やってきたんだ!外国人は殺しても自分の孫は可愛いのか!)
と一時疑心暗鬼になった。

その後、大岡昇平の文を読んだり、映画「ゆきゆきて神軍」とか見たりする度にモヤモヤした。
そうはいっても、普通の社会で暮らしているだけでも、
流れに逆らうことの難しさを感じる日本社会だ。
軍隊で命令に逆らうなんてできないわな、とも思った。
そして数年前大阪の十三の映画館でドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」を見た。
兵隊たちも、戦争が終わって兵隊じゃなくなってからも、
ずっと中国でしたことで苦しんで生きてきたんだと思い、
何かようやくホッとする気がした。

 南京大虐殺の証拠は世界中にあると書いてある記事がある。
当時南京に滞在していた欧米系ジャーナリスト5人が、
日本軍の虐殺が本格的にスタートした1937年12月15日前後について書いている記事だ。
これは明日にしよう。
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「腰痛肩こり☆でも花金だ!」  2012年2月24日(金)  No.292

2012-02-25 00:07:32 | 中国事情
 二学期が始まったばかりなのにもうかなりくたびれている。
初日というのは過度のサービス精神が働くのだろうか。
やたら元気のいい声で(部屋に独りでいるときの飾り無しの自分では全くない)、
各クラスで二学期の所信表明などをぶち上げるからだ。

 宿題もてんこ盛り返ってきた。
ああ、何考えてこんなに宿題を出してしまったのであろうか。
特に可愛い2年生には、鬼のように多くの作文課題を与えてあった。
それを抱えて宿舎に戻り、赤ペンでチェック開始。
土日で全部見られるとは到底思えないが
地道にコツコツやるしかない。
「私と日本語」というテーマの作文を読むと、
多くの子が、好きでもないのに日本語学科に入れられて、
嫌々勉強を始めたことを書いていた。正直でいい。
その中の一つ。
自分のこともホメられているので気をよくして紹介しよ~。


 「私と日本語」 雷国華
 
 昔の戦争のことで、私は日本人が嫌いで日本語も嫌いでした。
でも、大学に入って意外にも私は全く希望していない日本語学科の学生になりました。
最初、私はとてもがっかりしました。
(私の大学生活はどうなるんだろう)と思いました。
毎日、毎日、日本語の単語と文法の暗記、日本語のアクセント練習です。
そして、日本語の文章を暗唱します。
(高校時代、私は理科系学生だった。でも今は名実共に文科生。大学生活はつまらないなあ)

 しかし、時間が経つにつれて単語や文章の暗記は、そんなに難しくなくなってきました。
日本語で他の人と簡単な会話が作れたとき、私は本当に嬉しかったです。
さらに、日本のアニメやテレビドラマが面白いので、日本語も面白くなりました。
私は成績は良くないけど、日本語が好きになってきました。

 [ブルーはーと]先生に出会いました。先生は無私な日本人教師です。
先生は私たちと同じように戦争が嫌いです。日本人は冷淡ではないです。
[ブルーはーと]先生のために、いつの間にか私の日本人についての先入観が消えました。

 日本語を勉強中、私はいつも、知らず知らずのうちに日本語と中国語を比べています。
中国語に比べ、日本語は規則が多く、単語の選択も気をつけなければなりません。
また、地位身分によって敬語など、語態の転換が必要です。
さらに、日本語にはたくさん女性用語と男性用語がありますが、中国語では
性差による言葉の違いは少ないです。
 日本語は中国語から発展したとも言われますが、この二つには色々な違いがあります。
私は絶対一生懸命日本語を勉強します。


 「無私」とか言うのはちょっと言い過ぎだけどお~。
日本語や日本人と出会うことで「日本嫌い」のしこりが消えていくのなら、
いくらでも宿題出しましょ。
今は日本人がどんどん中国に来たり、中国人が日本に行ったりすることができる時代だ。
そうすることで、お互いに
「自分の国が何でも一番えらい」とは思わなくなるんじゃないか。
大昔の人々は、国なんか背負わずに気楽に行ったり来たりできていた。
今の人間たち、ちょっと凝り固まっている気がする。国を守るって何よ。
自分の国だけ守ればいいわけ?
その考えは『自分さえ好ければ他はどうでもいい』という思考回路の
カッコワルイ発想だよね。
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「南昌の郵便事情」   2012年2月22日(水) No.291

2012-02-22 21:52:43 | 中国事情
 一昨日、昨日、今日と立て続けに郵便物が届いた。
一昨日は日本のAmazon.comで注文した本3冊を日本の転送コムという転送サービス会社が、
EMSで送ってくれたもの。注文して10日ほどで着くし、本3冊程度だと宿舎横オフィスまで配達してくれる。
昨日のは、いつも高い郵送料を払って送って下さるので恐縮している
「草の根だより」(日本消費者連盟関西グループ)とナント!友人からのクリスマスカード。
このクリスマスカードは去年日本で投函されたものだ。
いったい今までどこで何していたんだろう。

そして今日、管理人室にプロパンガスが無くなったことを言いに行くと、
一枚のペラペラした紙を渡された。
中国語はサッパリ分からないが、漢字で書いてあるので類推できる。
北京から本を送付したので郵便局まで鳥に鯉じゃない、取りに来いというんだろうなと判断し、
念のためミズ劉に「我 郵便局に行くべきか?」と紙を見せると
「そう、そう。パスポートが要るよ。一人で大丈夫かい?」
と心配してくれた。
「わたしはできる。」
と答え、郵便局に行った。ミズ劉とはちゃんと会話になるのである。

郵便局は宿舎のある南部キャンパス門を出て道路を渡り徒歩3分のところにある。
入り口を入るとカウンターがある。いつもその入ったところは
物がゴチャゴチャおいてあるのに、今日は綺麗さっぱり何もない。
大掃除かな?工事かな?みたいな。
私の前に2人の若者が入っていき、カウンターの中にいた2人の女性に何か言った。
その女性は「今日はだめだ。明日、明日。」
みたいなことを言って、若者達を追い払った。
私が歩み寄ると、同様にシッシッと手を振るのだが、
どっこい私は中国語が分からないんだす。
「Aa~,I don't understand Chinese.」と英語大作戦で応じた。

すると、どうでしょう。
「ああ、この人は日本人だよ。中国語分からないからしょうがないね~。」
みたいなことを言って、
後は身分証明書を示すように身振り手振りで教えてくれ、
私の出したパスポートとペラペラの紙を持って奥へ行き、
ちゃんと小包を渡してくれるじゃないですか。
渡してくれるときも、にこやかなこと。
この前は、納得できない延滞料金を取られてぶつくさ言いながら帰ったのだが、
今日は特別扱いされた気分も嬉しく、
「今日、この部屋、とてもきれいです。」
と貧しい貧しい語彙を駆使して中国語で褒めちぎった。
二人の女性は、また一段とニコニコした。

このように、中国の江西省南昌の人達は、外国人に大変親切なのである。
たとえ歴史問題や尖閣諸島問題が山積みの日本人であっても
それは全く同じだ。

それは外国人として、ありがたい。
それはいい。
しかし、郵便局ははっきり言って超不便だ。
配達してくれるのは、手紙、通信物類と軽い小荷物(本3冊はO.K.だった)だけ。
今日取りに行った小包は、本6冊なのに配達してくれなかった。
重くなれば成る程配達してくれない。
そして、どうも時々、荷物が着いても郵便局にほったらかしにされている気配がある。
通知が来たので、急いで取りに行ったら延滞料を取られた経験がある。
学生達も、郵便局は信頼できない、民間の宅配の方が安心だと言う。

いつも自分で船便で大阪から3つも4つも送る大型小包は、
キャンパス掃除人さん達が使うゴミ収集リヤカーを借りて取りに行く。
詳しくは言えないが、とてもそのリヤカーは汚い。
しかし、そうも言っていられない。
自分で10kg以上の荷物を抱えて宿舎まで何往復もするなんて、この老体にはムリ過ぎる。

こういう苦労に鑑みれば
日本の郵便局サービスは半端じゃないことが、身にに沁みて分かる。
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「日本語能力試験1級(N1)結果出る」   2012年2月21日(火) No.290

2012-02-21 23:52:40 | 中国事情
昨年12月にあった日本語能力試験1級(N1)の結果がインターネット上で発表され、 
3人から速報で「合格!」とメールが入った。
教えてと頼んでいるわけではないが、知らせが来ると嬉しい。
不合格の子からは一度もメールをもらったことがない。
もらっても返事は「捲土重来を期せ」ぐらいしか言いようがないので
もらいたくもないが。

心から祝福したいのは、3度目の挑戦をした4年生2人が合格したことだ。
彼女たちはいつも真面目に授業に出席するものの、
なんかハングリー精神に欠けるところがあり、
ホンワカムードで穏やかに席に着いている子達だった。
そののんびり屋が12月のテストの直前は、まなじりを決した様子で
「先生、ちょっと分からないんですが。この問題とこの問題とこの・・・」
と、てんこ盛り、分からないところを聞きに来た。
(今ごろかよ!)と心であきれつつも、丁寧に教えてあげた。

100点以上が合格で、一人は127点、もう一人は101点だったそうだ。
ああ、卒業前に合格できてヨカッタ~!
今日はめでたい日になった。
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「中国人はなぜ声が大きいのか」   2012年2月20日(月)  No.289

2012-02-20 22:27:29 | 中国事情
 「中国人はなぜあんなに声がでかいのか?」という声をネットで拾った。
たくさん出て来たが、全部日本人が書いたものだ。
日本以外の国の人の意見も聞きたいところだが
それはまた今後の課題として、
日本人が中国人の声の大きいことをどのように受けとめているのか、
下品なもの、悪意に満ちている書き込みがたくさんある中で、
そうではないと思えるものを3つばかりピックアップしてみる。

 中国人はなぜ声が大きいの?
  2010年04月13日
日本人なら誰でも気になると思いますが、中国人の声は本当に大きいです。
特に携帯電話を使っている時は半端じゃない。
そんなに大声出さなくても通じると思うのですが。
以前気になって聞いてみたら、中国語は大声でないと意味が通じないと答えられました。
まあ確かに中国語は声調もあるし、同じ発音もたくさんありますので
一応理由としてあり得ると思いますが、実際のところどうなのでしょうか?


中国人はなぜ声がでかいのか。 2008.05.08 http://hitamegoto.jugem.jp/?eid=227
「東京のマックと大阪のマクドで一番違うのは、
店内の音量。大阪のマクドは、東京より倍近く音がでかいわ」
と友人が言っていた。
大阪人は声がでかい、という話はよく聞くのだが、その話で思い出したこと。 
以前、中国人女性とお仕事でご一緒する機会があった。
彼女は、中国の大学を卒業後に来日して、日本の大学院を卒業後、
そのまま日本で職を得て、日本人と結婚し、帰化された。 
ちょっとあやしげな文法だけど、十分理解できる日本語を駆使し、
そのうえ流ちょうではないとはいえ、英語も話される。
中国語は当然話せるので、トライリンガルなのである。
私と日本語で会話するときの彼女の声は、ごくごく普通の大きさである。
なのに、中国語で電話し始めると、ものすごく声が大きくなる。
興奮してくると、さらにボリュームが大きくなる。

 知人の会社にも、日本に帰化した中国人がおられるのだが、
その方も日本語でしゃべる時は普通なのに、
中国人と中国語でしゃべりはじめると声がでかくなり、
電話での会話だとさらにでっかくなるそうだ。
その電話の声があまりにも大きくて、周りでの通常会話は成り立たない。
その大きさは、大阪のマクドの店内のうるささとは比較にならない。
とにかく、本当に声が大きいのだ。
電話機の性能が悪いわけでもないのに、
なぜあんな大きな声でしゃべらなければならないのか。

 その知人と理由をいろいろと討議してみたのだが、
「言い負かした方が勝ち、という風土があるからではないか」
という結論になりました。本当はどうなんでしょうかね?



中国人はなぜ声がでかいのかa24afds4eさん
中国人はなぜ声がでかいのか? 
平均して、あそこまでうるさいのは中国人だけです。
イライラします。 
このモヤモヤした思いをどうすればいいですか?
バイト先の女子中国人留学生に ぶつけて良いですか?



 特に特に携帯電話のときの声の大きさを指摘する人は多い。
バスの中で「ウェイ?」(=もしもし?)
が聞こえると、私も(しかたないなあ、悪気は無いんだから…)
と諦めて外の風景に気を向けるように努める。
声の大きさには、ここ一年半でだいぶん慣れた。
中国人といっても、大学生ではそんなにわれ鐘のような声で電話している子は
多くない。いないわけではないが。
それでも、10人乗ったら満員のミニバスの中で、堂々たる声で電話されたときは
ため息が出た。心中いい気分ではない。正直、イライラした。

さて、
なぜこんなことを突然言いだしたかというと、
今年の『中国人の日本語作文コンクール』のテーマが、
「中国人はどうして声が大きいのか」
といういつにない課題なのだ。
作文も書かせるが、
ついでに授業でも便乗して、「国際感覚って何だろう」みたいなテーマで
ディスカッションやディベートをやってみよっかな?
と思いついた次第である。

まず「どうして大声?」に彼らがどう答えるか、
これが今週の宿題ってとこだね、こりゃ。
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「小鬱状態」  2012年2月19日(日) No.288

2012-02-19 22:51:05 | 中国事情
 長期の休み明けはいっつもこうだ。
(ああ、ずっと、ずっと休んでいたい~)と心が訴えている。
慣性の法則が働いているに違いない。

不安がムクムクと湧いてくる。
「学生の名前忘れた~」
「授業ってどんなことすればよかったんだったかな~」
「朝、ちゃんと起きられるやろか。8時起きに慣れてしまったこの体に~」
・・・・・・
夢も見る。必ず遅刻する夢。

これ、昔から変わらないなあ。
勤めをやめた友人たちは、よく、
「何もしていないことに罪悪感を感じる」
と言う。
なんでそんなもの感じなアカンのかな。
今、私は想像する。
全ての仕事をやめた後はどんなにか嬉しく、心がスッキリすることだろう、と。

日本での仕事を辞めたときは、明らかに解放されていた。
ここでの仕事の初めは新鮮だった。
既に1年を経た今、もうはや飽きてきたような…。

しかし、たぶん、きっと、
一週間後は、全く違う気分になっていると思う。
このパターン、何もかもいつもの悪あがき状態なのである。
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「眉間にしわでスタートか…。」  2012年2月18日(土) No.287

2012-02-18 23:10:54 | 中国事情
 いよいよ来週水曜日から二学期がスタートする。
のんびりと寒いの、洗濯物が乾かないのと言えるのも、そろそろ終わりだ。

 今日、助教(日本人教師の係の先生)の新平老師から電話あり。
2学期の時間割が決まったとのこと。
1学期のうちに主任の小紅老師と確認済の、4年の「ビジネス日本語」を3年2学期に繰り上げて授業するのはどうなったのか聞くと、
「それは無理だと思います。カリキュラム編成会議は6月からですから。」
といつものようにのんびりした返事。

 最初の1年間は(なにやってんねん!あれほど言ったのに!)と怒りたくてもぐっとこらえ、
『ここは中国。ここは中国。』
と呪文を唱えていた。
しかし、慣れてくると中国だろうと地球の果てだろうと地が出てしまうのがワタシの性格。
日本での自分と同じ態度丸出しで、
「だからあれほど、あれほど言うたやろ。3年の2学期に授業しないと4年になってから
また去年の二の舞だと。アンタたち、何遍言ったら分かんねん。」
の丁寧形を5分間言い続けた。電話は
 「申し訳ありません。主任と相談しまして、また連絡します。」
と切られたが、ほんまにもう、油断大敵なんだから~。

 何が問題かというと、
ブログをずっと読んで下さっている方はもうよくご存知のことだが、
4年生は1学期に2科目の授業が義務づけられている。
しかし、大学は同時に4年生になったら就活解禁であるとも通達している。
従って、学生は中国中に散っていき、授業を受ける学生はどんどん減る。

 私はその2科目のうちの1つ、「ビジネス日本語」を担当している。
はっきり言って、学生が来もしない授業をなんでやらなあかんねん。
これ、私に失礼でしょ。
私は事前に一生懸命準備をして、資料も自費で印刷していくのだ。
(だって学校が払ってくれないから~)
学生たちだって、何も喜んでサボっている訳じゃない。
もう実質的に就職している子も何人もいる。
深センや昆山や北京や杭州からどうやって授業に通えるというのだ。
こういう矛盾したカリキュラムを作ったのは大学のミスだから
速やかにこの矛盾を解決して下さい、
というのが私の訴えだ。

もう1科目「中日翻訳」を担当しているガオ先生は、
気の毒にも5人しか出席していない授業現場を
大学の見張り係(ときどき授業を巡視に来る)に咎められ、
職務怠慢の汚名を着せられて処分を受けそうになった。
その先生も、
「二度と4年生は受け持ちません。」
と怒っている。当たり前だ。

だいたいこの矛盾したカリキュラムを作ったのは小紅老師と新平老師なんだから、
二人がその2科目を受け持てばいいんじゃないの!

と、今日は忘れていた怒りが戻って来た。
寒さも戻って来た。
またカーテン閉めっぱなし…。
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「ようやく晴れた!」    2012年2月17日(金) No.286

2012-02-17 18:37:53 | 中国事情
 うう、南昌にもついに太陽が昇った。
4日の夜ここに戻ってからたぶん2回目の晴れの日。・・・長いながい時間だった。
天気予報ではずっと晴れのようなことが書いてある。
日本気象協会のを見てもそうだ。
考えたんだが、日本気象協会は世界の天気予報データを
それぞれの国から得て、そっくりそのまま発表しているに違いない。

南昌の天気予報に限って言えば、まずハズレばかり。
毎日曇りか雨か、どっちかだ。当然、ヒジョーに寒い!
斉藤和義風に言えば「ずっとウソだったんだぜ!」
最悪な日など、
予報で[最高気温9℃・最低気温4℃]と書いてあったのに、
実際には最高気温が3.9℃だった。

というわけで、私はこのパソコンがある書斎のカーテンを
昼間から閉めっぱなしにしていた。
開けたら足下から冷たい冷たい空気がジュワ~と入り込んでくるからだ。
(もちろん窓枠にはテーピングしてあるのだが…)

しかし、とうとう今日は朝からカーテンを開け放し、
明るい部屋でパソコンを使える。めちゃ解放的~。

足下には電気ストーブ。机の下に入れると効果的なのも今期の冬に悟った。


それにしても太陽一つでこんなに嬉しくなるとは。
気温も一気に上昇!今日の最高気温は本物の10℃だ。
朝から洗えるもの全ての洗濯、明るい部屋の掃除、
さらに去年の12月に落下したまま放置していた天井の蛍光灯カバー設置など、
バリバリこなした。

洗濯物はベランダの天井に吊すのだが、天井はとても高い。
なので、沙悟浄が持っているサスマタみたいなのを使って吊す。
こういう生活の知恵は全部現4年生の学生たちが教えてくれたものだ。



ベランダから外を眺めたら、低木に布団をかぶせて干していた。あの低木たちはいつも布団干しに使われている。


書斎の窓から見える外の景色。
南昌にももうすぐ春が来てくれるのかも~、と思える一日だった。
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「カッコイイ日本の子見つけた」     2012年2月16日(木) No.285

2012-02-16 22:24:02 | その他情報
 インターネットの画面上にお気に入りバーがある。
そこに保存しているものはだいたい毎日チェックするのだが、
その一つに「ほぼ日刊イトイ新聞」があって、この間から
「僕たちの花火の連絡見えますか」という記事を読んでいる。

 糸井重里さんと平了(たいら りょう)くんの対談だ。
この平了君がかっこいい。彼は東北大震災後仲間と共に
「スコップ団」というのをを立ち上げ、
約一年間、家々の土砂を掻き出し、きれいに掃除するという活動をしてきた。

そのスコップ団は、作業が終わるやいなや素早く引き上げていく。
なぜそんなに引き際がいいのかと尋ねられて、平君は
「お礼を言われないように。お礼を言ったら帰るよ」と。
なぜそうなのかと言うと、スコップ団を作る前のこと、
テレビのニュースを見ていて、誰かの言葉がひっかかったのだそうだ。

その人は、物資を運んで
「せっかく運んであげたのにお礼を言われなかった。」
と腹を立てていた。
それを見ていた平君は(こいつ、かっこ悪いな!)と思った。

そこで彼は、かっこ悪くならないためには、かっこつけるしかないという結論を導き、
それを仲間と共に実践したのだった。

 大震災前の2010年にも彼は似たことをしている。
地元(仙台?)の難病の子どもを救うため、
生業のアパレルショップで特製Tシャツを売り、150万円を稼いだ。
しかしそのお金を「募金 平」と書いて振り込むのはかっこ悪いからといって、
店員スタッフみんなに10万円ずつ持たせ、
街角のあちこちの募金箱にねじ込んだというのだ。

 私はそういう人が好きだ。
彼は今いろいろあって表舞台に出て来ているが、
有名になるためとか自分の地位を固めるためでないことが対談を読めばすぐ分かる。

 こういう子は日本のあちこちにたくさんいるんだろうな。
私が日本に帰ったときの地元関西にも何人もいる。
こういう子たちが、辛酸舐めて縮こまってしまった大人の精神をも
解放してくれる気がする。


 平了君たち「スコップ団」は最後の大仕事、
3月10日(11日じゃない)に亡くなった20000人の供養として、
20000発の花火を打ち上げるんだそうだ。
詳しくは「ほぼ日」の『僕たちの花火の連絡、見えますか』を是非読んでください。
(ワタシもスコップ団作ろかしら~)なんて思えてくるかも。



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