ロイター通信のスミス記者の次に紹介するのは、
シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド=スティール記者の記事。
その場に居た者しか書けない内容で満ち、ロイターのスミスとの共通性もある。
南京市の当時の状況もテレビ画面を見ているように浮かんでくる。
世界に知られていた南京事件 事件当時の報道
2006.2.2 first upload 2006.2.9 revised
http://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htmhttp://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htm
A・T・スティール
●シカゴ・デイリー・ニューズ
1937年12月8日
南京12月8日発
~中略~ 連日の砲撃の激しさとその広がりに恐れを抱いて、
いわゆる安全区に流入する市民はどんどん増えている。
これはアメリカ人が中心となって設立したもので、
うち14名がこの危機の間も踏み留まる予定である。
この地区の道路、とりわけアメリカ大使館付近には中国人難民が雲集している。
市内には、少なくとも20万の市民が留まるであろうと見られている。
(アメリカ資料編P459)
1937年12月15日
南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、
”地獄の四日間”ということになるだろう。
首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、
私は米艦オアフ号に乗船したところである。
南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、
河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を
整然と処刑している光景であった。
そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、
その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。
後者では何千人もの生命が犠牲となったが、
多くは罪のない市民であった。
首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、
侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。
・同情の機会を失う
中国人との友好を主張しているにもかかわらず、
日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、
自らの蛮行により失おうとしている。
中国軍の士気の完全な崩壊と、
それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、
日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。
中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。
が、その幻想はたちまち破れてしまった。
罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、
日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。
ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。
しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。
・米公使宅襲撃さる
日本軍の略奪はすさまじく、
それに先立つ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。
日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、
日本軍は看護婦から金や時計を奪った。
また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。
日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。
以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。
1937年12月17日
日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。
これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、
その傍らで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている。
1937年12月18日
上海、12月18日発。
南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、
もし攻撃の間ずっと残留した少数のアメリカ人とドイツ人の
勇気ある活動が無かったなら、
状況は限りなく恐ろしいものになっていたであろう。
これらの外国人は、この攻撃下の町の10万の市民の福祉のためにのみ働き、
ほとんど自分の生命を代価とするくらいの危険を冒した。 (アメリカ資料編P471)
シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボールド=スティール記者の記事。
その場に居た者しか書けない内容で満ち、ロイターのスミスとの共通性もある。
南京市の当時の状況もテレビ画面を見ているように浮かんでくる。
世界に知られていた南京事件 事件当時の報道
2006.2.2 first upload 2006.2.9 revised
http://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htmhttp://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htm
A・T・スティール
●シカゴ・デイリー・ニューズ
1937年12月8日
南京12月8日発
~中略~ 連日の砲撃の激しさとその広がりに恐れを抱いて、
いわゆる安全区に流入する市民はどんどん増えている。
これはアメリカ人が中心となって設立したもので、
うち14名がこの危機の間も踏み留まる予定である。
この地区の道路、とりわけアメリカ大使館付近には中国人難民が雲集している。
市内には、少なくとも20万の市民が留まるであろうと見られている。
(アメリカ資料編P459)
1937年12月15日
南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、
”地獄の四日間”ということになるだろう。
首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、
私は米艦オアフ号に乗船したところである。
南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、
河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を
整然と処刑している光景であった。
そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、
その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。
後者では何千人もの生命が犠牲となったが、
多くは罪のない市民であった。
首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、
侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。
・同情の機会を失う
中国人との友好を主張しているにもかかわらず、
日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、
自らの蛮行により失おうとしている。
中国軍の士気の完全な崩壊と、
それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、
日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。
中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。
が、その幻想はたちまち破れてしまった。
罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、
日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。
ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。
しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。
・米公使宅襲撃さる
日本軍の略奪はすさまじく、
それに先立つ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。
日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、
日本軍は看護婦から金や時計を奪った。
また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。
日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。
以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。
1937年12月17日
日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。
これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、
その傍らで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている。
1937年12月18日
上海、12月18日発。
南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、
もし攻撃の間ずっと残留した少数のアメリカ人とドイツ人の
勇気ある活動が無かったなら、
状況は限りなく恐ろしいものになっていたであろう。
これらの外国人は、この攻撃下の町の10万の市民の福祉のためにのみ働き、
ほとんど自分の生命を代価とするくらいの危険を冒した。 (アメリカ資料編P471)